・・・「償い・賠償」・・・「死に値するモノ」は「生きているモノの死?」・・・「生に値するモノ」は「生きているモノの生?」・・・「律法・掟・法律・約束」・・・「生には生」の「目には目、歯には歯」、「傷には傷、暴には暴」、「死には死」の「殺には殺」・・・これは、加害者への「同等の法」ではなく、支配階級に属する者の「殺傷には生」、被支配に属する者の「殺傷には死傷」、そして「殺傷にはカネの多寡」での「罪の償いのランク落とし」の記録があるらしい・・・キリストのエラいトコロとは「私通、姦淫の婦人が石打ちの刑にされようとした時」に、「まず、罪無き者が打て」であった・・・ツミあるヒトは人を裁くなッ、・・・「生きているヒト」はスベテ、「原罪者アダム」の子孫であるから、「肉身のヒト」は元々が「原罪を背負っている存在」である・・・刑場からヒトビトは去った・・・これが事実ならヒトビトは「旧約聖書」を理解し、自覚していたらしい・・・本当なのか・・・ダレもパウロのオルグ(organizer)仕事をわかッちゃぁくれないか・・・神殿も教会もダレが建てたんだか・・・「罪」が何処にあるんだか・・・リンゴだって見たこともなかったカモ・・・
「眼には明暗、色調」、「耳には音調、音律、音波」、「口には音声」、「鼻には匂い」・・・「舌には味」・・・「虫歯には歯痛」・・・
「詩には詞」、「史には志」、「文には聞」、「示には字」・・・
「カンニング(cunning・cheating)にはカミ(cunning paper・cheat sheet)」、「トイレには toilet paper」・・・
「イクサには虎の巻」だが「六韜三略・太公望」・・・「愛には哀」、「怨恨には仇」、「合には相」、「目具合いには愛妾」、「哀傷には挽歌」・・・「増愛には憎厭」・・・
「殉教死」は「死に値するモノ」ではない。「生に値するモノ」でもない。「殉教」で処刑されるも、処刑するも「生きているモノの罪」である・・・
キリストの「磔刑での肉体の死」も「復活での霊体の生」も「罪」である・・・「磔刑」で「人類の原罪」は払拭されず、「裁き人と磔刑者」に罪を負わせ、更に又、「復活」で「人類の罪」を「十字軍」で拡大させた・・・
「カミの希求するアイ」でもなければ、「イエスの説いたアイ」でもない・・・部外者「パウロの愛」・・・「無知なる異邦人」には種を蒔ける・・・
「神の御名の下の愛」を称えながら「殉教死」するコトと、「律法の厳守」を実行しながら「非割礼者を排他、排外」し、「マサダで自決、玉砕死」するコトに異なるモノはない。確実に生きていた「肉体」は損傷、腐敗する・・・「魂魄」は「宿借での肉体」を失うのだからホームレスである。いや、サンヤがある・・・どこに逝くんだか、行くんだか・・・
いずれも、「ユダヤ人同士、ユダヤと異邦人」の争いにに見えるが、現実的な「敵対者」は「ローマ帝国の支配者階級」であった・・・「宗教戦争」は「階級対立の武力対立」で現状の「階級、階層」間の利害関係のトラブルである・・・「国家間戦争」も「国家内の階級、階層」間の利害関係の延長トラブルである・・・