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コジキジゲン

「平松武兵衛=ジョン・ヘンリー・スネル」・・・拗(す)ねる

2023-12-01 15:10:46 | 古事記字源

 昨日からのツヅキ・・・既に貼り付けたモノの添付・・・
 既読の方には申し訳ない・・・ゴメン・・・

ーー↓↑ーー
 古事記=こじき=乞食
 すねる=拗=こじれる=抉れる=古事例留・・・猿田彦
 2017-11-21 21:40:10
 古事記字源
 ・・・「カイの研究」・・・
 1976、7年頃にアメリカに滞在していた頃に暇つぶしに書き始めたボクの「小説・エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」だったけれど・・・「カイの研究」・・・随分と時間がたってしまった・・・人生、アソビとネテいる時間がオホイかも・・・相撲界は大きな問題なんだか?、「拗(こじ)れてしまっている」・・・
 アレッ、レレレッ・・・「徳」の漢字が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図・夷土)の犬=狗=戌=いぬ」・・・幕府のイヌめッ・・・「壬生侍=新撰組」・・・「新選組の前身集団・文久三年(1863年)清河八郎が京へ率いた浪士組を壬生にある新徳寺に代表を集め、尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を演説し、賛同した同志を新徴組として江戸に帰った」・・・「壬生(みぶ)寺(新徳寺)=相撲力士の稽古場」でもあった・・・
  ↓↑
 「1863年6月3日
  大阪北新地で
  壬生浪士組(新選組)と
  死傷事件を起こした
  大坂相撲の力士で
  死亡したのは
  中頭の
  熊川熊次郎(肥後出身)・・・「熊の川の熊の次郎」?
  大坂相撲
  小野川部屋に所属
  地位は
  中頭(関取)
  前頭七枚目
  事件後の場所の番付には名がある・・?
  事件の手打ちとして
  京都での興行では
  京都、大阪の両相撲が協力
  力士の中には
  後に勤皇の志士となった者もいた・・・」
  ↓↑
 「拗(こじ)れる」・・・関取、力士の手が小さいのか、どうなのか?・・・
 ビンタ・・・「頬を平手打ちすること・鬢(ビン・ひげ)の辺りのこと・鬢(ビン)=頭髪の左右側面、もみあげの根元の部分のこと・ビンタが平手打ちで用いられるようになったのは旧日本軍の部下への制裁、懲罰行為」・・・
ーーーーー
 拗=扌(手)+幼(幺+力)・・・
   「テ(シュ)はオサナイ(ヨウ)」・・・
      主要・腫瘍・主用・取葉
      主の小さい力
      幺=嬰児・糸玉・糸頭(いとがしら=伊都頭)
        幼=幺麼(ヨウマ)
          同じ部首「幾・幻・麼・幽」
      麼=こまかい・小さい・・・類字は「靡(なびく)」
       =麼虫
       =ちいさい・幺麼(ヨウマ)
       =麼虫(マチュウ)=微細な虫
        麼陋(マロウ)=姿が矮小で醜い(字通)
        姿のいやしいこと
        麼眇(ビビョウ)=極めて小さい
          (大漢和・字通ともに「ビ」音)
        麼事(モジ)=甚麼(ジンモ)
        恁麼(インモ)=什麼(ジュウモ、ソモ)
        作麼生・怎麼生・什麼生(ソモサン)
        =何事、いかに、なに、か、や
        ・・・等の疑問の助詞
        麼麼(モモ)=乳母
       =なに・どんな・か・や・疑問を表す語
        細かい・かすか・そうか・そう
        バ・ビ・マ・ミ・モ
ーーーーー
 「コロマ村」にある入植者名簿には
 「イトウ オケイ」
 「ニシカワ モトジ」
 「マスミズ クニノスケ」
 「サクライ マツノスケ」
 等の名が記載されてあった・・・
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
  ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図)の犬=狗」
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
        ↓↑
 ・・・甲斐の「独逸人=独り免れる人」
   シュネル(すねる)
   猿田彦(サルタビコ=猿多比拠
  =沙流他尾拠
  =申多比処・エンデンゲン)・・・円伝諺=π=パイ=葉意
        塩田の源・・・死海(The Dead Sea)
        ・・・塩湖・・・
 「さる、旅の処(處)」・・・「作留多諺」、「エンデンゲン=塩伝諺」
          ・・・「彦根=ひこね=比古音」
          ・・・「井伊直弼」・・・
  ↓↑
 「井伊直弼
  彦根藩
  第十三代藩主の
  井伊直中の十四男
  1815年10月10日
  彦根城の
  二の丸で生まれた
  母は側室・お富の方
  幼名は鉄之助、後に鉄三郎
  天保二年(1831年)
  井伊直中の逝去で
  槻御殿から
  尾末町御用屋敷に移り
  300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられ
  部屋住み生活
  天保五年(1834年)
  弟の
  直恭と共に他家への
  養子候補として江戸に赴いたが
  養子縁組が成立したのは直恭だけ
  自身は採用されず
  彦根に戻った
  住居の屋敷を
 「埋木舎」
  と名付けた・・・
  自分の渾名は
 「チャカポン(茶・歌・鼓)」
  弘化三年正月
  兄で世子の
  井伊直元の急死で
  藩主・井伊直亮(なおあき)の世子となる
  ↓↑
  会津藩主
  松平容敬とは同じ溜詰の大名として
  信頼関係を築いた
  嘉永3年(1850年)9月
  藩主、直亮が逝去
  嘉永四年(1851年)十一月二十一日
  井伊直弼、
  彦根藩主に就任」
  安政七年(1860年)三月三日午前九時頃
  桜田門外の変
  暗殺、絶命・・・
  居合い抜き、抜刀の達人が籠の中、
  ピストルで撃たれては・・・ドウしようもナイ・・・
ーーーーー
 「拗(す)ねる」、「拗(こじ)れる・抉(こじ)れる」・・・「執拗(シツヨウ)」・・・「平松武兵衛」・・・
 会津藩はプロシア(ドイツ)人の「ジョン・ヘンリー・スネル」を軍事顧問に招聘し、藩主、松平容保は彼に「日本名、平松武兵衛」を与えた・・・そして・・・「平松武兵衛」は・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・以下はスベテ、コンピュータでの関係記事を検索し、少々改作して添付したモノで、「原文」そのものではない。重複添付したモノは「諸説・若干異なる説」があるので、これも混乱なき様・・・「ヘンリー・スネル」を検索すれば原文そのものが閲覧できる・・・アシからず・・・
ーー↓↑ーー
 「平松武兵衛=ジョン・ヘンリー・スネル」
            ・・・拗(す)ねる・・・
 会津藩士と
 家族三十七名
 十七歳
 「おけい」・・・於恵(お恵み=於目具務)
  ↓↑     於計(涌意・尾ケ井→美景・美形)
         於圭・・・圭=十一十一=たま・ケイ・ケ
               =玉器・先端の尖った玉の板
         月桂樹=オリーブ
          佳字(かじ・ケイジ)=嘉字・好字
         =諸国郡郷名著好字令・好字二字令・好字令
          元明天皇
          和銅六年(713年)五月甲子の勅令
          桂小五郎=木戸孝允
 ↓↑  ↓↑    
 「おけい」は大工 (桶屋とも)の
       「伊藤文吉」と・・・文記知
       「お菊」の長女・・・嗚(ウ・オ・ああ)訊く
               素戔嗚・阿起句・・・
 ↓↑     文詰の於記句(規矩)の納(おさ)める音名
 藩士
 「桜井松之助」
 米国船
 「チャイナ号」で・・・「Chinese=中国語=漢字の號、合」?
 明治二(1869)年五月一日
 横浜港から米国へと向かった
 明治二(1869)年五月二十日
 米国、カルフォルニアに到着
 ゴールド・ヒルで農地を買い取り
 「若松 コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」
 日本人村を作った
 ↓↑
 兄・ヘンリー
 1869年(明治二年)
 カリフォルニア州に
 日本人妻の
 ジョウ
 を含む
 会津若松の人々
 約40人と共に移住
 カリフォルニア州エルドラド郡
 サンフランシスコの北東
 ゴールド・ヒルに
 に購入した
 600エーカーの土地に
 「若松コロニー」
 という名の開拓地を建設
 ↓↑
 「若松コロニー」の経営は行き詰り
 1871年4月
 ヘンリーは金策に日本へと向かった・・・が
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 明治三(1870)年
 「若松コロニー」は
 「ビーア・カンプ」
 の土地として「購入」された?・・・ダレが売却したんだか
 シャネル契約の借金の担保で没収された・・・?
 「シュネル亡き後、
  残されたコロニーのメンバーを救済した隣家
  ビア・カンプ家はプロシア系カトリック」
 ↓↑
 明治四(1871)年
 「おけい」
 十九歳で死亡
 桜井松之助が
 10数年後、あるいは15年後とも・・・
 桜井松之助など
 移民の生き残りの人たちによって
 「おけい」の墓碑が建てられた
 「桜井松之助」は
 帰国することなく
 大正四(1915)年
 現地で67歳で死没
 ↓↑
 「弟・シュネル」は
 新潟から東京へ移り
 商会を開き
 1882年(明治十九年)頃まで
 日本国内で活動
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 スネル兄弟・・・オランダの植民地、インドネシアで育った
 幕末期の商人
 兄はジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell)
 日本名、平松武兵衛
 (1843年?~1871年?)
ーー↓↑ーー
 『甘粕継成日記』
     ・・・「甘糟備後継成 遺文」
         甘(あま)い・・・廿+一
         糟(かす)を・・・米+曹
         粕(かす)を・・・米+白
         継(つぐ)・・・・糸+L+米
         成(なり)・・・・万+戈
  「シュネル兄弟にとって重要な男
   会津藩主「松平容保」以上に、
   米沢藩の
   色部久長
    ・・・家老
       新潟港の守備隊長
       慶応四年七月二十九日(1868/9/15)
       享年44歳、戊辰で戦死
       米沢藩、戦争首謀者扱いとされた
   甘粕継成
    ・・・米沢藩参謀・砲術者
       ご先祖は切支丹(キリシタン)
       甘粕右衛門信綱(=右衛門)
       洗礼名ルイス
       切支丹として死んだ親族
       甘粕右衛門信綱(甘糟景継)
       1550~1611年
       の次男
       米沢切支丹大弾圧と、殉教史実
       1629年1月12日(寛永五/十二/十八)
       処刑決行
       甘粕信綱(右衛門)処刑
       領内で藩士を含む多数の
       キリシタンを逮捕、死罪決行
       1639年(寛永十六年)
       吉利支丹横目を郷村に配置
       ↓↑
       甘粕継成は
      「新保勘左衛門」の変名で
       明治二年十一月二十九日、病死
   シュネル(兄)は
       会津の軍事顧問
       米沢藩軍事顧問兼務
 同年(明治二(1869)年)5月24日
 兄ヘンリー・スネルは
 鶴ケ城で藩主
 松平容保(かたもり)と会い
 髪を剃(そ)り、
 日本製の羽織を着て、
 袴(はかま)をはき、
 名を
 「平松武兵衛」と称し
 城下西(西若松駅南西隣・材木町一丁目)
 に屋敷を与えられた
 ↓↑
 弟はエドワルド・スネル(Edward Schnell)
 (1844年?~没年不詳)
 ↓↑
 オランダ出身ではなく
 オランダ国籍の
 プロイセン人
ーー↓↑ーー
 『会津藩武器購入に関する一問題』
 慶応四(1868)年三月二十三日
 会津藩は
 弟エドワルド・スネルから
 オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)
 七百八拾挺を
 七千二拾ドルで
 会津藩商人の
 鈴木多門が
 新潟港経由で買っている
ーーーーー
 「貍(たぬき)」は「徳川家康」・江戸幕府第一代将軍
 ↓↑       「江戸幕府第一代征夷大将軍」
 「貍(たぬき)」から漢字構成部分の
 「田を抜く」と
 「豸(むじな・チ・ジ・タイ)+土(十一)」
 「ネコやトラのような背が長い獣
  足のない虫
  伝説上の羊のような神獣」
 「獬」・・・
 「豸+α」は「爪(つめ・ソウ・ショウ)」の鋭い動物・・・
 ↓↑
 薶=艹(艸)+貍(狸・たぬき・リ・バイ)
   たぬき・リ・バイ
   薶=艹+豸+里=薶(うず)める
    =犠牲を埋めること
   イヌ科の哺乳類で山地に棲む
   人を化かす・・・うづめ=宇受女
   狸(たぬき)・貍(バイ)は
   薶に通ず
 ↓↑↓↑
 薶(うず)める=犠牲を埋めること
 ↓↑
 うづ=渦・疼・踞・堆・熅・煨・
    薶・瘞・鷃・鶉・
 ↓↑
 「リ」音の漢字=里・裏・裡・理・厘・俚・
         哩・狸・貍・鯉・薶(埋)
         埋(マイ)
 ↓↑
 「甲(きのえ・コウ)」を構成に含む漢字
 爅 㕅 䮵 疃 㢆 厴 粴 㾖 墥 䆹
 捚 䘃 榸 䡴 炠 鲤 䭚 玾 㙻 勭
 笚 㳌 噇 缠 䃥 徸 䖖 柙 鄽 䛅
 濹 闸 䧉 犝 㕓 䱳 癦 㦟 喱 緾
 䁼 娌 膧 䋥 曈 薶 䘥 氃 钾 䣑
 燑 鸭 䭪 瓼 㠉 厣 㼿 嚜 䆘 悝
 荲 䖬
 ↓↑
 常用漢字表内音訓
 リ=利 吏 履 理 璃 痢 裏 里 離
 常用漢字表外音訓
 リ=厘 梨 麗
 ↓↑
 表外漢字
 俐 俚 秔 剺 劙 哩 唎 喱 嚟 娌 嫠
 孋 孷 峛 峲 廲 悝 悧 悷 摛 攦 李
 柂 栗 梩 欐 氂 浬 浰 芮 漓 灕 犁
 犂 犛 狸 猍 瓈 盠 砅 离 籬 縭 纚
 罹 艃 茘 荔 莅 莉 莱 萊 蒞 薶 蘺
 蜊 蟸
 ↓↑
 藻貝=アマモ(甘藻)の生えている場所に多いので
    モガイ(藻貝)と呼ぶ
 甘藻(あまも・eelgrass)
 海草(うみくさ)
 生育場所は内湾の波静かな水深1~2mから10mまでの砂泥
 葉の長さは50cm~1mくらい
 葉状部(葉身、葉鞘)、地下茎、根の3つに区分でき
 葉条部は水中に、
 地下茎と根は海底に埋在
 多年生
 群落が形成されているところをアマモ場という
 陸から海へ入った海草
 種子植物で、種類が少なく、岩礁には生えない
 胞子植物の海藻とは区別
 和名「あまも・アマモ」は
 地下茎を噛むと甘みを感じることに由来
 植物名としては日本一長い別名
 「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」
 (龍  寓 の乙 姫 の元 結 の切り外し )
 を持つ
 アマモ(Zostera marina Linnaeus)
 オモダカ目アマモ科 (Helobiales Zosteraceae)
 ↓↑
 属名の「Zostera」は女性名詞で
 細長い葉形の特徴を表す
 ギリシャ語の
 「zoster(帯,ベルト)」に由来
 種小名「marina」は女性形で
 「海中生の・海の」の意味
ーーーーー
 有毒渦鞭毛藻
 (ゆうどくうずべんもうそう
  toxic dinoflagellate)
 毒素の産生能力を持った渦鞭毛藻
 毒を産生する藻類は
 珪藻・ラフィド藻・ハプト藻
 など
 渦鞭毛藻は特に種類が豊富で
 微量でも著しい生理活性を示すので
 他の有毒藻類とは別枠で扱われる
 渦鞭毛藻=海域・淡水域共に広く分布する
      植物プランクトン
      渦鞭毛藻の約半分は
      光合成を行う独立栄養生物で
      生態ピラミッドの最底辺に位置する
      残りの半分は
      バクテリアや他の藻類を捕食する
      従属栄養生物で
      より大型の生物に捕食される点は同じ
      有毒渦鞭毛藻にも
      独立栄養性のものと
      従属栄養性のものの
      双方が含まれる
 有毒渦鞭毛藻を
 魚類や貝類が捕食すると
 産生された毒素が分解されずに
 捕食者に蓄積され
 毒素を蓄積した魚介類は
 貝毒
 や
 シガテラ(ciguatera)
 ↓↑   ・・・熱帯の海洋に生息する
      プランクトンが産生する
      毒素に汚染された魚介類を
 ↓↑   摂取することで発生する食中毒
 といった食中毒の原因となる
 有毒渦鞭毛藻には
 水環境の富栄養化などにより
 赤潮を形成する種もあり
 大発生し問題視される
 船舶の航行増加と高速化に伴い
 バラスト水によって他水域から
 持ち込まれる(持ち出される)
 有毒渦鞭毛藻が増加し
 その為
 従来
 貝毒が発生していなかった水域で
 食中毒が発生・・・
 ↓↑
 有毒渦鞭毛藻
 産生する毒の種類や
 その作用対象によって
 4つのグループに分けられる
 1 魚介類に直接作用するもの
 2 麻痺性貝毒
 3 下痢性貝毒
 4 神経性貝毒・シガテラ毒
 1・・・・・・フィエステリアなど一部の渦鞭毛藻
 2~4・・・渦鞭毛藻を直接摂取した生物には無害
     だが
     食物連鎖による
     生物濃縮を介して
     ヒトなどの高次の捕食者に毒性を与える・・・
ーーーーー
 ・・・つまり、「あまも=アマを模す」が連鎖作用をすると
 所為物の濃縮を媒介してヒト(比徒・比訳)などの
 高次の捕初句者に毒性を与える・・・?

はえいろね・・・
2017-11-22 23:53:55 | 古事記字源
 ・・・2017年11月22日・水曜日・・・「都々逸・都都逸」=「都々逸(どどいつ)=江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年~1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う」
 「元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる」
 「七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある」
 「逢うて別れて 別れて逢うて(泣くも笑うもあとやさき) 末は野の風 秋の風 一期一会の 別れかな(井伊直弼 茶湯一会集)」
ーーーーー
 「ド・ト =ものさし・長さの基準・度量衡
       のり・きまり・さだめ・制度・法度
       ほどあい・限度・程度
       めもり・数・量
       大きさなどを表す単位・濃度・角度
       たび・回数・度数・頻度
       人がら・ようす・器量・度量・態度
       わたる・越える・類渡」
       仏教で、さとりの世界や仏の世界へ導き入れる
       すくう・済度・得度
       タク・はかる・おしはかる・みつもる
      「忖度(ソンタク)」
 緯度(イ ド)・温度(オン ド)・角度(カクド)・過度(カド)
 感度(カンド)・強度(キョウド)・極度(キョクド)
 経度(ケイド)・限度(ゲン ド)・高度(コウド)・済度(サイド)
 湿度(シツド)・尺度(シャクド)・純度(ジュンド)
 深度(シンド)・進度(シン ド)・震度(シンド)・制度(セイド)
 精度(セイド)・節度(セツ ド)・鮮度(センド)・速度(ソクド)
 態度(タイド)・丁度(チョウド)・調度(チョウド)
 程度(テイド)・適度(テキ ド)・得度(トクド)
 年度(ネンド)・濃度(ノウ ド)・頻度(ヒンド)
 法度(ホウド・ハット)
 密度(ミツド)
 用度(ヨウド)
 支度(したく)
 度徳量力(タクトクリョウリキ)
 度(たび)
 度重なる(たびかさ-なる)
 度外視(ドガイシ)
 度肝=度胆(ドぎも)
 度胸(ドキョウ)
 度数(ドスウ)
 度僧(ドソウ)
 度外れ(ドはずれ)・度忘れ(ドわすれ)
 度量(ドリョウ)
 度量衡(ドリョウコウ)
 度る(はかる)
 度度(よりより)
 「ド=鴑・蕽・胴・硇・瑙・潼・巎・峱・榒・蕺」
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
   ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
ーー↓↑ーー
 アレレレレッ、「白鵬(白い朋=たから・貨幣に用いた5個1組、or 2個1組の貝)の鳥」・・・朋友=同朋・・・山が載ると「崩(くず)れる」・・・「白鳳文化=645年(大化元年)~710年(和銅三年)」・・・「和銅元号は慶雲元号の後、霊亀元号の前・708年~715年までの期間・天皇は女帝元明天皇」・・・
 712年=壬子年=和銅五年は太安万侶が編纂した「古事記」を元明天皇に献上した年・・・「唐の年号は景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年」・・・養老四年(720年・庚申年)は「日本書紀」完成・・・
 執拗(しつこ)く、昨日の続きの重複・・・「弐千壱拾七年壱拾壱月弐拾弐日」だから・・・
ーー↓↑ーー
 興行相撲
江戸、京都、大坂に
 相撲の集団
 当初は朝廷の権威、大商人の財力によって
 看板力士を多く抱えた
 京都、大坂相撲が
 江戸相撲をしのぐ
 興行における
 力士の一覧と序列を定めた番付の
 木版刷りが始まった
 最古の木版刷りの江戸の番付は
 1757年のもの
 京都や大坂では
 それよりも古いものが残されている
 江戸相撲
 1789年11月
 司家の吉田追風から
 二代目
 谷風梶之助
 小野川喜三郎
 への横綱免許を実現
 征夷大将軍徳川家斉観戦の
 1791年
 上覧相撲を成功させる
 雷電爲右衞門
 江戸相撲が京都や大阪へ出向いて
 合併興行(大場所)も恒例化、毎年開催
 1827年
 江戸幕府が
 「江戸相撲方取締」役を
 江戸相撲の吉田司家に認めた
 ↓↑
 幕末に
 「相撲VSレスリング」
 「相撲VSボクシング」
 の異種試合が行われた
 アメリカ合衆国海軍
 マシュー・ペリー提督
 が黒船で来航した
 1853年6月11日に
 雷權太夫
 玉垣額之助
 ら年寄総代は文書により
 攘夷協力を番所に申し出
 翌年
 ペリーが再来日して条約を締結した際
 米国へ返礼として贈られた
 米200俵を
 江戸相撲の力士たちが軽々と運び
 米軍人を驚嘆させた。
 1863年6月3日
 大阪北新地で
 壬生浪士組(新選組)と
 死傷事件を起こした
 大坂相撲の力士で死亡したのは
 中頭の
 熊川熊次郎(肥後出身)
 事件の手打ちとして
 京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力
 力士の中には
 後に勤皇の志士となった者もいた
 ↓↑
 大坂相撲・小野川部屋に所属した元力士
 熊本県、肥後国出身
 地位は中頭(関取)、前頭七枚目
 ↓↑
 京都から淀川を下り
 大坂に遊ぼうとした
 往来において
 酔った力士に遭遇し
 道を譲る譲らないで悶着
 この時、
 芹沢が鉄扇で力士を打擲したとも、
 刀で浅傷を負わせた(または斬殺)ところ
 引き金になり乱闘に発展
 その後
 壬生浪士組の8人は
 北新地の住吉楼(吉田屋とも)に
 上がり楽しんでいたところ
 角材を持った
 熊川はじめ
 小野川部屋の力士たちが押しかけ乱闘
 この時、
 熊川は沖田に角材を受け止められ
 芹沢に脇腹を突き刺され
 それが元で翌日に出血多量で死亡
 熊川は
 沖田と永倉の両名に斬られた・・・
 乱闘での死者は熊川1人とも、5人とも・・・
 「新選組顛末記」、「島田魁日記」
 「京都守護職への届出」、「大坂東町奉行所への届出」
 「浪士文久報国記事」
 によって、
 経緯、新選組側、力士側、死傷者数
 熊川の死亡日が異なる
 その後、
 大坂西町奉行所の与力
 内山彦次郎と現場に居合わせなかった
 新選組の
 近藤勇の間で遺恨が生じた・・・
 熊川の経歴は全く不明
 事件後の場所の番付に名がある・・・
 ↓↑
 「壬生浪士=精忠浪士」は
 「新選組」の前身集団
 ↓↑
 近藤勇
 1834年 甲午(丙・ ・丁)
 0011月 乙亥(戊・甲・壬)
 0009日 庚子(壬・ ・癸)辰巳=空亡
  ↓↑
 1868年 戊辰(乙・癸・戊)
 0006月 丁巳(戊・庚・丙)
 0017日 癸卯(甲・ ・乙)
ーー↓↑ーー
 土方歳三
 1835年 乙未(丁・乙・己)
 0005月 辛巳(戊・庚・丙)
 0031日 癸亥(戊・甲・壬)子丑=空亡
  ↓↑
 1869年 己巳(戊・庚・丙)
 0006月 庚午(丙・ ・丁)
 0020日 壬午(丙・ ・丁)
 ↓↑
 鳥羽・伏見の戦いで敗れ
 幕府軍が大坂から江戸へ撤退後
 近藤勇は大久保大和・・・・大窪の大倭(やまと)
 土方歳三は内藤隼人・・・・名井等の隼人⇔熊襲
 と変名、
 甲斐国に向かう
     ・・・甲斐國=松平容保
        1836年2月15日~
        丙申(己・壬・庚)癸巳(戊・庚・丙)
        庚寅(己・丙・甲)癸亥(戊・甲・壬)
        癸未(丁・乙・己)丙子(壬・ ・癸)
        申酉=空亡
        ↓↑
        保科正之・・・第二代将軍
               徳川秀忠の落胤
               第三代将軍、家光の異母弟
        父は徳川秀忠
        母は浄光院
        養父は保科正光
        養母は見性院
        兄弟
        長丸、徳川家光、徳川忠長、保科正之
        義兄弟
        保科正貞、保科正重
        正室は菊姫(内藤政長の女)・・・?
        継室は於万(藤木弘之女・聖光院)
        側室は牛田氏、沖氏、沢井氏
        子
        幸松、正頼、将監、正経、正純、正容
        媛姫(上杉綱勝室)
        摩須(前田綱紀室)
        石姫(稲葉正往室)
        ↓↑
        信濃高遠藩主
        出羽山形藩主
        を経て
        1643年
        徳川秀忠の子
        保科正之が入封
        会津松平家の祖
        ↓↑   
        1876年(明治9年)8月21日
        若松県
        福島県(1876年以前)
        磐前県
        の3県が合併されて
        福島県
 三月六日
 甲州勝沼の戦いで敗戦
 歳三は戦争前に
 援軍要請へ向かったが成功しなかった
 その後
 流山で再起を図り
 四月三日
 新政府軍に包囲され
 近藤勇が投降
 このとき
 土方歳三が
 近藤の切腹を止めて
 投降を勧めたとも、
 投降に反対したとも・・・
 歳三は江戸へ向かい
 勝海舟らに直談判し
 近藤の助命を嘆願したが実現せず
 慶応四年(1868年)四月二十五日
 近藤は板橋刑場で処刑(斬首)
 ↓↑
 芹沢鴨
 らは
 新選組を結成
 新選組となる以前の
 壬生浪士たちは身なりの貧しさから
 「みぼろ(壬生浪=みぶろ・みぶろう)」
 と一部の京の人たちに揶揄
 女性隊士もいた・・・?
 ↓↑
 「天狗党の乱」・・・・天狗=猿田彦?
 元治元年(1864年)
 筑波山で挙兵した
 水戸藩内外の
 尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱
 「元治甲子の変」とも・・・
 ↓↑
 清河 八郎
 文政十三年十月十日
 (1830年11月24日)
   ~
 文久三年四月十三日
 (1863年5月30日)
 庄内藩(山形県)出身の志士
 田中河内介とともに
 九州遊説をし
 尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ
 一方で浪士組を結成し
 新選組・新徴組への流れを作り
 「虎尾の会」を率いて
 明治維新の火付け役となった・・・
 ↓↑
 1830年 庚寅(己・丙・甲)
 0011月 丁亥(戊・甲・壬)
 0024日 甲午(丙・ ・丁)辰巳=空亡
 ↓↑
 幼名は元司
 諱は正明
 号は旦起・木鶏
 本名は齋藤正明
 清川八郎と改名したのち
 清河八郎を名乗った
 山形県庄内町の
 清河神社に祭神として祀られている
 位階は贈正四位
  ↓↑
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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 メリキリの - YouTube
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 モモちゃん
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 モウ君の総合目次
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  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

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