田=㗊=伝字捜=でんじそう(田字草)
=四葉のクローバー🍀・・・田斎⇔田姜
↓↑
Sentimental Journey・・・「感傷・失恋・傷心」旅行Doris Day
https://www.youtube.com/watch?v=IpQCROAHoU4&ab_channel=DorisDay-Topic
Frank Sinatra - Sentimental Journey - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rKNE4JPN6pc&ab_channel=LauroFilho
四葉のクローバー🍀=four-leaf clover=lucky clover
でんじそう(田字草)=四葉のクローバー🍀に似た形の浮草
↓↑
佞・漢・・頗(よこしま)・欺・讒・謀・背
頗(よこしま)=皮+頁・・・
かわ(皮・skin)の
頁(page)=一ノカイ(貝・メのハ)
でんじそう(田字草)=「田=㗊=四」葉の苦労場=🍀
↓↑
ハ
すこぶる
かたよる・かたむく。
かたよる・不公平・公平でない
すこぶる・いささか・すこし
すこぶる・たいへん・かなり・非常に
↓↑
櫇=ハ・バ=㰋櫇=果実の名
名字
頗羅墮=はらだ
頗羅堕=はらだ
すこぶる・頗る(すこぶる)
偏頗(ヘンパ)
専断偏頗
贔屓偏頗(ヒイキヘンパ)
廉頗負荊(レンパフケイ)
↓↑
蘋果追分・・・蘋果(ヒンカ)=林檎(🍎)?
苹果树(Apple)
方宥心-蘋果花(2016-07-05最美的歌)
蘋=薲
ヒン
うきくさ
かたばみも=「方波見・片喰・方喰」藻
うきくさ・大きなうきくさ・水面にうかび生える草の総称
でんじそう(田字草)=四葉のクローバー🍀に似た形の水草
↓↑
田=㗊=品+口=雷字句叉・・・伝字句捜?
シダ植物・浮草の一種
田斎(デンセイ)=田齋
↓↑
中国戦国時代
紀元前386年
田氏が
姜姓呂氏の斉(姜斉or呂斉)を滅ぼし
新たに立てた国
国号は「斉」であるが
西周・春秋時代の
「姜斉」と区別する場合に
「嬀斉・田斉」とする
戦国時代中期
「湣王」の頃に
「東帝」を称し戦国七雄の一
首都は
「姜斉」の時と同じ
「臨淄」であった
↓↑
田斎(デンセイ)=田齋
・・・水稲
田圃の
斎王・・・
↓↑ ↓↑
斎王
斎王(さいおう)=斎皇女(いつきのみこ)
伊勢神宮or賀茂神社
に巫女として奉仕した未婚の
内親王
(親王宣下を受けた天皇の皇女)
女王
(親王宣下を受けていない天皇の皇女
親王の王女)
内親王の場合は「斎内親王」
女王の場合は「斎女王」
両者を総称して「斎王」と呼ぶ
伊勢神宮の斎王
斎宮(さいぐう)
賀茂神社の斎王は
斎院(さいいん)
とも呼ばれ
『日本書紀』によれば
崇神朝に
嚆矢が認められるが
制度的に整ったものは
天武朝から
↓↑ ↓↑
大来皇女(おおくのひめみこ)=大伯皇女
母は大田皇女(持統天皇の同母姉)
同母弟に大津皇子
伊勢斎宮
↓↑ ↓↑
天智天皇六年(667年)二月二十七日
斉明天皇・・・斉の明?
と
間人皇女
小市岡上陵に合葬
大田皇女をこの陵の前の墓に埋葬
大来皇女
天武天皇二年(673年)四月十四日
斎王制度確立後の
初代斎王(斎宮)として
泊瀬斎宮入斎院
天武天皇三年(674年)十月九日
伊勢国に下向
天武天皇四年(675年)二月十三日
↓↑ ↓↑
十市皇女
阿閇皇女(元明天皇)
が伊勢神宮に参詣
↓↑ ↓↑
朱鳥元年(686年)四月二十七日
多紀皇女・山背姫王・石川夫人
が伊勢神宮に遣わされた
十月三日
大津皇子
謀反で死亡
大来皇女
十一月十六日
帰都
大宝元年十二月二十七日(702年1月)
薨去
後
十市皇女は
天武天皇七年(678年)
天皇が倉橋河の
斎宮に出向こうとした当日
四月七日朝に急死・三十歳前後
「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」
天皇の行幸は中止
斎宮での祭りも中止
十市皇女は
四月十四日
大和の赤穂の地に埋葬
十市皇女の不審な急死に対しては
自殺説・暗殺説・・・
十市皇女に
高市皇子が挽歌を捧げている(『万葉集』卷2)
↓↑ ↓↑
斎宮
源平合戦(治承・寿永の乱)
で一時的に途絶
鎌倉時代を通じて徐々に衰退
建武新政の崩壊をもって断絶
↓↑ ↓↑
斎院は
平安時代初期の
嵯峨朝に始まり
鎌倉時代に入って継続
「承久の乱」後、断絶
伊勢では幕末に
津藩主
「藤堂高猷」
が再興を主張したが、成らなかった・・・
↓↑ ↓↑
新嘗祭
(にいなめさい
にいなめのまつり
シンジョウサイ)
天皇がその年に収穫された新穀などを
天神地祇(テンジンチギ)
に供えて感謝の奉告を行い
これらの供え物を神からの賜りものとして
自らも食する儀式
毎年11月23日
宮中三殿近くの神嘉殿にて執り行われ
同日に全国の神社でも行われる
↓↑
大嘗祭
(ダイジョウサイ
おおにえまつり
おおなめまつり)
天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀
新天皇が即位した後
新穀を神々に供え、自身もそれを食する
国家、国民のために
その安寧、五穀豊穣を
皇祖天照大神
天神地祇に感謝し祈念する
・・・「嘗める=甞める=舐める」なら
盃(杯=さかづき)に注がれた「酒」・・・
↓↑
田斎(デンセイ)=田齋
紀元前672年
陳から斉へ亡命してきた
陳(嬀姓)の
「利公嬀躍(キヤク)」の子の
「公子完」
は斉で代々
「呂尚(太公望)」の子孫の
斉公(姜斉氏)に仕えてきた
生姜(ショウ・ガン)=ショウが
姜(キョウ・カン)
羌(キョウ・コウ・えびす)・・・
↓↑
利公嬀躍(キヤク)の子の
「公子完」
斉の
「景公」の時
「田乞(田釐子)」
が税を徴収する時に小さな斗を使用し
粟を民に配給する時は大きな斗を使用して人望を得
景公が死亡し
公位継承争いで
「悼公」を立てた
「田釐子」が亡くなると
田恒
(田成子・前漢文帝劉恒を避諱して「田常」と表記)
が後を継ぎ父の
「田釐子」とともに
「悼公」を立てた
「鮑牧」
が仲違いを契機に「悼公」を殺害し
「簡公」が立てられ
「闞止」とともに大臣となったが
2人は勢力争いで
「闞止」の陰謀を知った
「田成子」が先手を取り
「闞止」に続いて
「簡公」を殺して
「平公」を立てた
↓↑
前391年
「姜斉」の最後の君主の
「康公」は
「田和」により海島の孤島に追放され
食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された
「田和」
は自立し君主(太公)となった
前386年
「田和」
は周の
「安王」により諸侯に列され
姜姓の斉から
田氏の斉に取って代わった
「田和」は正式に侯となり
国号を姜斉時代と同じく「斉」とし
「田斉」とした
前379年
「康公」が死し
姜斉は滅亡
↓↑
「太公」の2代後、子の
「桓公」
は臨淄に稷下学宮を開き賢人を招き入れた
威王や宣王の代にも続き
東方の学問の中心地となった
子の
「威王」が即位
「鄒忌」を相国に任命し政治改革
「田忌」
「孫臏」
を将軍とし、軍事力強大化
前353年
魏を桂陵で大敗させ
前341年
「馬陵の戦い」で大勝利
前334年
「威王」は
魏の
「恵王」とともに正式に王号を自称
「威王」
の晩年
国相の「鄒忌」
と
将軍の「田忌」
が対立し
前322年
「田忌」
は臨淄をも攻めたが落とせず
楚に亡命
子の
「宣王」即位後に
斉に戻った
↓↑
前314年
燕で
「子之の乱」が発生
孟子の献策により
5都の兵を率いて
燕へ侵攻することを
「匡章」に命じ
前301年
斉と韓・魏が
楚を攻め
「垂沙の戦い」で大勝
↓↑
前298年~前296年
斉・韓・魏が合従し
秦の函谷関に侵攻し
秦に和を求めた
前288年
秦の
「昭襄王」は西帝
「湣王」は東帝を名乗り
共同で「趙」を攻めた
「蘇代」
は帝号を名乗る不利益を説き
「湣王」は王号に復称
同年十二月
「呂礼」
が秦に派遣され
「昭襄王」の帝号を王号に復称
前286年
宋の内乱に応じて
宋を滅ぼし
南は楚
西は三晋(趙・魏・韓)に侵攻
「斉」は全盛期
↓↑
宋の滅亡に諸国は危機感を募らせ
秦は趙や楚と和を結び
前284年
燕の「昭王」は
「楽毅」を上将軍に任命し
燕・秦・韓・趙・魏
の5国「合従軍」は
「済西の戦い」で斉軍を大敗させ
合従軍は解散
燕は追撃を続け
国都の臨淄の他、七十余城を落とした
斉の領地は
莒と即墨のみとなった
国都の臨淄を落とされた湣王は
「莒」に逃亡したが
楚が救援のために派遣した
「淖歯」に殺された
「王孫賈」
や莒の人は「湣王」の仇の
「淖歯」を殺し
「湣王」の子の
「田法章」を
襄王とし
燕の攻撃に抵抗し
「莒」を守った
↓↑
「莒」・・・芋・里芋(さといも)
とともに
「即墨」も燕の攻撃に抵抗
「即墨」の大夫は
「楽毅」の策にかかり戦死し
城内の兵士や民衆は
公族である
「田単」を将にした
5年後
前279年
燕の「昭王」死亡し
「恵王」が燕王となった
「恵王」は
「楽毅(ガクキ)」
を恨んでいたため
「田単」は反間の計で
「楽毅」は将軍を罷免され
「恵王」は
「騎劫(キゴウ)」
を将軍とした
「楽毅」は趙に亡命
「田単」は
「火牛の陣」で燕軍を大敗させ
斉は70余城を取り戻し
「田単」
はこの功で相国に任命されたが
秦の統一に抵抗することはできなかった
↓↑
前265年
「襄王」死亡し子の
「田建」
が即位
母の
「君王后」・・・君の王の后・・・申の女の君?
が輔政
前249年
「君王后」死亡し一族の弟の
「后勝」・・・后の勝?
が執政
「后勝」
は秦から賄賂を受け取り
秦に懐柔され
「田建」・・・田(デン・た)の
建(ケン・たける)
は軍事の防衛強化の準備をせず
五国(韓・趙・魏・燕・楚)
の滅亡を傍観
「田建」
は秦が侵攻することを恐れ
軍隊は西部の辺境に集結させた
前221年
秦王
「政=始皇帝」
は斉の攻略を
「王賁」に命じ
秦軍は
斉軍の主力が集結した西部を避け
元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻
斉軍は
秦軍からの突然の北面からの侵攻で
瓦解し
「田建」
は降伏し
斉は滅亡
「田建」
は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが
食糧を絶たれ
餓死
秦は
斉の地に
斉郡
瑯琊郡・・・瑯(ロウ)=王+良+阝
琊(ヤ) =王+邪
を置き
秦は中華の
統一王朝
秦朝となった
↓↑
↓↑
頻=步+頁=頻=歩+頁
止+少+頁
ヒン・ビン
しきりに
しきる
しきりに・たびたび・しばしば
みぎわ・水辺・水ぎわ
せめる・さしせまる・切迫する
ならぶ・近づいてならぶ
ひそめる・しかめる・まゆをひそめる・顔をしかめる
しきる・たびたび・しばしば
↓↑
顰=ヒン・ビン・しかめる・ひそみ・ひそめる
顔をしかめる・眉間にしわを寄せる
異体字「颦」
顰=頻+卑
頻+卑
頻+卑
頻+卑
步+頁+甶+丿+十
步+頁+卑
歩+頁+甶+丿+十
歩+頁+卑
止+少+頁+丿+田+十
止+少+頁+卑
止+小+丿+頁+田+十
止+小+丿+頁+卑
卑+α・・・「卑弥呼」
卑俾婢陴郫萆捭啤埤崥
渒猈庳牌脾椑焷琕㪏稗
裨睥痺碑㗗㼰㽡䇑鹎禆
碑箄粺蜱綼聛諀豍貏䚜
䠋䡟頻錍頻鞞䫌髀䰦鵯
䱝䴽瀕蘋嚬㰋鼙朇颦
↓↑
顰面(しかめづら・しかめっつら・しかめつら)
顰(しか)める
顰(ひそみ)
顰める(ひそめる)
顰蹙(ヒンシュク)
一顰一笑(イッピンイッショウ)
顔を顰(しか)める
西施の顰(ひそ)みに倣(なら)う
顰みに倣う
顰みを学ぶ
顰蹙(ヒンシュク)を買う
眉を顰(ひそ)める
↓↑
(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・・・絵字符都・・・『埃及』(42)
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エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
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「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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干支歴
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追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
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モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
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モウ君の総合目次
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コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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古事記と虎関師錬
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鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
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