・・・夏日の北海道に絨毯のように赤桃色を敷きつめている「芝桜」は花弁が7枚・・・熱中症ですか・・・「労働」すれば身体がコワバッて、両足、両肩、両腕、両手、頸もイタくなる。バランス感覚も益々危うくなるが・・・古代の人びとの「労働の産物」、道具が限られていたハズなのに巨大な建造物・・・「西洋(Europe)」と「東洋(China・Japan)」の一般的な「巨大建造物(王宮・神殿)」のチガイは素材が「石」か、「木」である・・・「中東(Mesopotamia)」は「日干し煉瓦」だが・・・いずれも、イズレは壊れて塵になって行くのは自然の法則性である・・・熊本地震では「お墓」が潰滅状態であるらしい・・・幕末戊辰戦争で会津藩は陸奥に移転し、藩士の墓も荒れ放題となっていたが・・・
「家屋」はモチロン、生活者の為、「お墓」も生き残っている人びとが亡くなった人びとの「追憶の為のモノ」であるだろう・・・
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明治三年(1870年)
会津の戊辰戦争戦後は
藩士とその家族
1万7,000余名に新政府から
陸奥国(岩手県の一部と下北半島)、
斗南藩(となみはん)3万石を与えられ移住
斗南藩は実収高は僅か7,000石ほど
冷涼で不毛な土地で
作物は殆ど実らず、その生活は悲惨を極め
多くは会津に帰ったが、
中には
東京・北海道などに移住するものもあり、
斗南に残ったものは
約300戸・・・
「鶴ヶ城」は
1874年(明治七年)に取り壊された
↓
東蝦夷地(根室国、開拓使直轄領に編入)
ネモロ場所(目梨郡)
ネモロ場所(標津郡)
西蝦夷地(北見国。開拓使直轄領に編入)
モンベツ場所(紋別郡)
モンベツ場所(常呂郡)
シャリ場所(斜里郡)
↓↑
斗南藩(廃藩時)
陸奥国
二戸郡 - 16村
三戸郡 - 67村
北郡 - 48村
後志国
太櫓郡
瀬棚郡
歌棄郡
胆振国
山越郡
幕末時点では陸奥国に所属、会津藩領
陸奥国(むつのくに)
東北戦争終結直後に旧・陸奥国から分立
東山道に位置
領域は現在の
青森県および岩手県
二戸郡にあたる
↓↑
旧・陸奥国
7世紀に設置された令制国の1
分割直前の範囲は
福島県・宮城県・岩手県・青森県、
および
秋田県鹿角郡
↓↑
会津藩士、家族約
1万3000人は
恐山山麓一帯(青森県下北半島のむつ市)に強制移住
明治三年(1870年)
旧南部領内
斗南藩に会津藩士族が移される
↓↑
「鶴ヶ城」は落城後、
松平容保は官軍に捕らえられ
市内妙国寺に謹慎後
和歌山藩に移され
明治5年に謹慎を解かれ、
13年より
東照宮宮司
職のかたわら
歌道に没頭し死亡
↓↑
斗南藩(廃藩時)
陸奥国
二戸郡 - 16村
三戸郡 - 67村
北郡 - 48村
後志国
太櫓郡
瀬棚郡
歌棄郡
胆振国
山越郡
↓↑
1869年1月19日(明治元年12月7日)
戊辰戦争後
奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分
同日、
陸奥国と出羽国は分割され、
陸奥国は、
陸奥国・陸中国・陸前国・岩代国・磐城国
の5国に分割
陸奥国(りくおう)は、
青森県に
岩手県西北の二戸郡を加えた範囲
初期の陸奥国(みちのく)から
300kmも離れた土地を指す
↓↑
陸奥国領域の藩
斗南藩
七戸藩(盛岡藩支藩)
弘前藩
黒石藩(弘前藩支藩)
八戸藩
↓↑
陸奥・陸中・陸前の三国
を総称した「三陸」の呼称は定着
↓↑
斗南藩(となみはん)は、
明治二年(1869年)11月3日
松平容保の嫡男
松平容大
に家名存続が許されて成立
七戸藩を挟む形で
現青森県の東部にあった藩
↓↑
会津藩を没収された会津松平家は、
改めて
元、盛岡藩(南部藩)領に設置された
旧三戸県5万2,339石の内、
北郡・三戸郡・二戸郡内に
3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)
東蝦夷地(根室国。いずれも開拓使直轄領に編入)
ネモロ場所(目梨郡)
ネモロ場所(標津郡)
西蝦夷地(北見国、開拓使直轄領に編入)
モンベツ場所(紋別郡)
モンベツ場所(常呂郡)
シャリ場所(斜里郡)
↓↑
石背国(いわせのくに)
日本の地方行政区分だった令制国の一つ
奈良時代に
陸奥国から分立したが、
短期間しか存続しなかった・・・
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・・・スベテは衣食住で「生きている人間の問題」・・・
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