・・・何を書き込めばイイのやら・・・ボクは、タダ、タダ、TVの地震情報を朝から観ているだけだが・・・こいつら、何をお喋りしてんだか、「9;00・NHK日曜討論・人口減少時代の地方創生・九州で相次ぐ地震への対応」のお喋り。「400万円援助金」の「餌」で地方回帰させるとは浅ハカである。人数制限があるんだか、無いんだか?、モチロン「職種」は限ってのコトだろうが、「介護職」だけの「城下町」ではないだろう・・・「400万円」、何処から捻出しているんだか?、それに「タックス・ヘイブン(Tax haven)地方、地域形成で企業を誘致」とはね。「地方とは農産地」だけではない「第一産業地のスベテ(林業・漁業・鉱山)」だとは思うが、「北海道移民」も、カッテの植民地の「満州移民」も、その「基盤」は貧困、困窮の「農民層」が「生産地の私有化で生活が出来る」と云う「国策」にのせられた「ユメ」だったのだ。貧困、困窮の人びとは北海道、満州などの移民地で開墾し、農業地にすればタダ同然のカネで自分自身の「農業が出来る自分自身の土地を私有できる=自作農になれる」と云うコトだった・・・
基本的には「食糧生産地=農業地=私有地」で、他はそれ(食糧)を支える「緒産業」である。
だが、戦前は北海道で開墾に脱落、没落していった者は「大地主(不在地主)」の小作農民(農業賃金労働者)として吸収され、搾取された。かっての「満州移民」も結果は「大地主(不在地主)」に吸収される「小作農」運命だったハズだが、敗戦で頓挫したのだ・・・
元々、戦前の「特権階級(高級官僚・貴族)」は、「御用商人」とツルんでその「カネ」を「農地・漁業地・山林地・鉱山」は元より、「産業、港湾」などへ「資本」として注ぎこんで、農村労働者(百姓)の余りモノである次男、三男などを「低賃金労働者」として扱き使ったのである。
戦後「農地解放」で「小作農(農業賃金労働者)」は「解放」された?・・・北海道では「大規模農業」、「酪農王国」と云われるが、賢く「資本」を動かした者だけが生き残った。戦後、解放された「小作農民」は、今現在は、成功した農家と、借金で没落した農家に二極化し、没落農家は富農となった者に吸収されるか、農業を諦めて他産業の「賃金労働者」になっていった・・・スナワチ、「農業地の個人私有(所有)」を断念したのである・・・
そして、「農村の過疎化」とは「小規模農業」の担い手が居ない、と云うコトだ。「自作農としての自分自身の土地で食糧生産するコト」は「ユメ」であったハズだが・・・「農業労働者=百姓」は「士農工商」であっても、「四民平等」であっても、「3ちゃん農業」は今や「死語」で、若者には厭われる「3Kの重労働」なのである・・・ワカモノはサラリーマンを目指す・・・そして、「ふるさと納税」ですか・・・これは「過疎化の解決策」ではない・・・
「農地法」は改正されてきたが、原則「農地としてしか転売」できないのである・・・転売された「農地」は、その使用目的が「農地としてのみ使用されなければならない」・・・現在的に「農地改正法」は農地産業を企業組織として「農業賃金労働者」として吸収しようとしているが・・・
ーーーーー
農地または採草放牧地について、使用及び収益を目的とする権利を設定したり移転することについて、本法では規定を置いている。「使用及び収益を目的とする権利」とは、所有権、地上権、永小作権、質権、使用貸借による権利、賃借権等が対象となる。一方抵当権はここにいう権利に含まれない。これらの権利の設定、移転をしようとするときは、原則として農業委員会の許可を得なければならない。許可を得ずになされた契約は無効となる。違反者は3年以下の懲役または300万円以下の罰金に処せられる。
なお、個人がその住所地以外で農地または採草放牧地について権利を取得する場合は都道府県知事の許可が必要とする規定があったが、改正法によりこの規定の部分は削除されたため、この場合も農業委員会の許可が必要となる。
ーーーーー
↓↑
以上も、以下も、「ウイッキペデア」を参考、参照にし、少々改作して添付した・・・
↓↑
ーーーーー
「農地改革」
1945年(昭和20年)12月9日
GHQの最高司令官マッカーサーの
「農地改革に関する覚書(SCAPIN-411)」で
「日本農民を奴隷化してきた
経済的桎梏を打破する」
ことを指示
日本政府により国会に提案されていた
第一次農地改革法はGHQに拒否され、
GHQの指示により、
第二次農地改革法を作成、
同法は1946年(昭和21年)10月に成立
法律は
大地主の農地は
政府が強制的に安値で買い上げ、
耕作していた小作人に売り渡された
不在地主の小作地の全て
在村地主の小作地のうち、
北海道では4町歩、
都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が
北海道で12町歩、
都府県で3町歩を超える場合の小作地等
↓↑
小作料の物納が禁止(金納化)され、
農地の移動には
農地委員会の承認が必要とされた
農地の買収・譲渡は
1947年(昭和22年)~1950年(昭和25年)までに行われ、
最終的に
193万町歩の農地が、
延237万人の地主から買収され、
延475万人の小作人に売り渡された
↓↑
当時の急激な
インフレーションで
元小作人が支払う土地代金
と
元地主に支払われる買上金は
その価値が大幅に下落し、
タダ同然で譲渡されたに等しかった
譲渡された小作地は、
1945年(昭和20年)11月
現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、
農地に占める小作地の割合は、
46%から10%に激減し、
耕地の半分以上が
小作地である農家の割合も
約半数から1割程度まで減少した
結果、
戦前日本の農村を特徴づけていた
地主制度は崩壊し、
戦後日本の農村は
自作農がほとんどとなった
農地改革は
GHQ(マッカーサー)による
戦後改革のうち最も成功した改革・・・らしい・・・
↓↑
・・・「私有財産」である限り、「土地」は「売買」されるのが原則である・・・
ーーーーー
↓↑
大規模な自然災害での人間社会の生活空間の破壊は「復興目的の大規模な土木建築」が必要となるだろう・・・「若い賃金労働者」は「所得が低い農業に回帰」をするだろうか・・・「年寄の農業者」は「原発で汚染された農地」を耕すであろうか・・・TPPで農業は食糧生産を確保できるだろうか・・・兎に角「食い物」が問題である・・・「農業ロボット」で解決出来るのか・・・
・・・ブログで「崩落した黒川第1発電所・時事通信4月16日(土)19時8分」の添付写真を見て、コレが「原発の姿」だったら、と思うと・・・
連動、連鎖震源が南西方向へ移動しているらしい。今夜のニュースでは「薩摩」の震度がTVでは表示されていたが・・・
それに「16日、南米エクアドルで、観測史上最大のマグニチュード7.8」・・・
そして「復興予算はどこかおかしい…会計検査院の指摘で透けて見えた無駄遣いの数々・産経新聞4月17日(日)18時45分」とは「産経」も「マットウでアタリマエな記事」も載せているが、立場が「何処」にあるんだか・・・
「TV映像が信じられない(SNS)」って、「風呂入浴の画像」のコト?・・・個人的な「不満?」はワカルが、「熊本地震で、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上では支援物資の不足を訴え(産経4月17日(日)15時58分)」は当然で、この「状況」に於いて、配給での順番も「全員平等」と云うワケにはイカナイのも当然である・・・
ーーーーー
腹が減っても「飢饉」のイメージを抱いて、炊き出しの「おにぎり」を喰っている人はいないらしい・・・断水で風呂に入れないって・・・キッと、ナントカなる、と思っているんだったら、ナントカなるんだろう・・・「一揆」を起こす程でもないんだろう・・・コンビニもス-パーも開店しているらしいし・・・ニホンジンは「規律厳守、遵守の人びと」であるらしいが・・・「空き巣」はダレがやっていんだか・・・
で、ボクの言葉も、亡くなった方には申し訳ない・・・残念です・・・
で、「カネ(弗)を持って難民」になるつもりもないらしい・・・
アメリカ軍(アメリカ政府)が「オスプレイ」で救助、援助してくれるらしいし・・・アリガタイことではアルな・・・人道国家なんだか、友だち国家なんだか、拝金国家なんだか・・・中国、韓国、ロシア政府の「軍隊」よりもマシである・・・
東北地震、津波、原発事故で「意識の何が変化」したのか?・・・基本的には「おかわりナイ」らしい・・・今回は?・・・
・・・ヨシン、1週間を堪(こら)えればイイと云う問題でもない・・・危険への注意、警戒は、個々人が生きている間は自戒でもあり、他戎でもあり、ヅゥ~とでもある・・・地震、津波、噴火、洪水に遭遇したムカシの人びとは、その警告を多数の「神社の石碑」に刻んだし、地名にもつけた・・・
きっと、「銅鐸」にも絵文字として・・・
・・・連動地震・・・「丙申年」の「壬辰月」の「丁卯日」、「戊辰日」、「己巳日」・・・「地震」被災地のミナサン、なんとか、コラエテッ!・・・アメが優しく、カゼが穏やかに、大地が寝がえりをしない様に・・・祈りたい・・・
ーーーーー
↓↑
「丙申年」???
2016年4月14日
16年丙申・比肩
04月壬辰・偏官―印綬・正官・食神
15日丙寅
支合
22時己亥・傷官
↓↑
2016年4月15日
16年丙申・劫財
04月壬辰・正官―偏印・偏官・傷官
害
15日丁卯
三合乙
22時辛亥
↓↑
2016年4月16日
16年丙申・・・
04月壬辰 |
刑 |
16日戊辰 |
三合壬
00時壬子 |
ーーーーー
↓↑
1956年(昭和31年)
丙申年
↓↑
1896年(明治29年)
丙申年
6月15日明治三陸大津波(死者2万名)
7月22日信濃川の堤防各所が決壊
被災面積18000haに及ぶ(横田切れ)
8月31日陸羽地震発生(209名の死者)
山崩れ9899箇所
↓↑
1836年(天保7年)
申年がしん(さるどしがしん)
鳥取藩における
「天保の大飢饉」の呼称
「がしん」とは、各地の方言で
「餓死」が転訛した飢饉を表す言葉
鳥取藩内における飢饉が
本格化した
1836年(天保7年)
が申年であったことから、この名で呼ばれた
↓↑
天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)
1833年(天保4年)に始まり、
1835年~1837年にかけて最大規模化した飢饉
1839年(天保10年)まで続いた
1836年(天保7年)までと定義する説も・・・
「天保の大飢饉」は
寛永・享保・天明
に続く江戸四大飢饉の一つ
で、
寛永の飢饉を除いた
江戸三大飢饉の一つ
↓↑ ↓↑
天保4年(1833年)
大雨による洪水や冷害による大凶作
東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最大
仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、
実高で100万石を超える石高を有していたが、
米作に偏った政策を行っていたため被害甚大
50年前の天明の飢饉と比較して、
凶作対策が行われたため死者の数は少なかった
商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大
貧困の百姓が多く餓死
各地で餓死者を多数出し、
徳川幕府は救済のため、
江戸で
市中21ヶ所に
御救小屋(5800人収容)を設置
救済者は70万人を超えた
米価急騰
各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発
天保7年6月
幕府直轄領である
甲斐国一国規模の百姓一揆となった
天保騒動や、
天保8年2月に大坂で起こった
大塩平八郎の乱の原因・・・
大阪では毎日約150人~200人を超える餓死者を出した・・・
↓↑ ↓↑
犠牲者を出さなかった藩
田原藩では、
家老の
渡辺崋山が
師であった
佐藤信淵の思想を基にした「
凶荒心得書」を著して藩主に提出し、
役人の綱紀粛正と倹約、
民衆の救済を最優先すべきと説き、
給与改革や
義倉の整備を実行して成果
米沢藩でも、
天明の大飢饉の教訓を生かして
義倉の整備や
「かてもの」
という救荒食の手引書を作成配布し事前対策・・・
↓↑
東北から北陸や山陰の日本海側や、
近畿から四国などまで広い地域で、
「てんぽな」または「てんぽ」という
形容動詞・形容詞が用いられる
大変な、とんでもない、とてつもない、途方もない
などの広い意味を表し
天保の飢饉に由来・・・
更に強調した意味で
「天明天保な」とも・・・
↓↑
天保騒動(てんぽうそうどう)
天保7年(1836年)8月
甲斐国で起こった百姓一揆
甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生
国中地方へ波及し
一国規模の騒動となった
別称に
郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動
↓↑ ↓↑
1776年(安永4年12月10日~安永5年11月21日)
丙申年
『画図百鬼夜行』(がずひゃっきやこう)
安永5年(1776年)に刊行
鳥山石燕の妖怪画集・・・
1777年
アメリカ独立戦争(1775年4月19日~1783年9月3日)
↓↑
1700年代
1769年:イギリスのアークライトが水力紡績機を発明する
1770(明和7)年後桃園天皇即位。
1771(明和8)年前野良沢・杉田玄白らが、
千住・小塚原で死刑囚の解剖を見て、
『ターヘルアナトミア』の翻訳をはじめる
1771(明和8)年伊勢神宮へのおかげまいりが流行
1771(明和8)年唐津藩で虹の松原一揆がおこる
1772(安永1)年田沼意次が老中になる
1772(安永1)年江戸で大火がおこる(行人坂火事)。
1774(安永3)年前野良沢・杉田玄白らが『解体新書』を出版
1774年フランスでルイ十六世が即位する
1775(安永4)年スウェーデンの
植物学者ツンベルグが来日
1775年アメリカで独立戦争が始まる(~83年)
↓↑
1776年(安永4年12月10日~安永5年11月21日)年
平賀源内がエレキテルの器械を完成させる
1776年アメリカが独立宣言をする
1776年イギリスのアダム・スミスが『国富論』を著す
↓↑ ↓↑
1779(安永8)年光格天皇即位
1783(天明3)年浅間山の大爆発。
1783(天明3)年東北地方を中心に
全国的な大飢饉が起こる
(天明の大飢饉)
1786(天明6)年田沼意次が老中から失脚
1786(天明6)年最上徳内が千島地方を探検する
1786(天明6)年林子平が『海国兵談』を著す
1787(天明7)年米価が上がり、
江戸・大阪などで打ち壊し
1787(天明7)年松平定信が老中になり
寛政の改革が始まる
1789(寛政1)年クナシリ島でアイヌの大規模な反乱
1789(寛政1)年幕府が旗本・御家人の
借金に棄損令
1789(寛政1)年幕府が諸大名に
囲米を命じる
↓↑ ↓↑
1716年(正徳6年、享保元年6月22日)
丙申年
九州南部の霧島山中央部
新燃岳で
享保噴火が始まる
↓↑
1656年(明暦2年)
丙申年
↓↑ ↓↑
1596年(文禄5年、慶長元年(10月27日~)
丙申年
9月1日~5日(文禄5年閏7月9日~13日)
慶長伊予地震(けいちょういよじしん)
1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に発生
↓↑
慶長豊後地震、
文禄5年7月から地震が頻発、翌閏7月まで続き、
閏7月12日申刻(午後4時)に本震が発生、津波も発生
津波による流出家屋数千戸、死者708名
高崎山と由布岳の山崩れ
↓↑
相前後して、
閏7月9日に慶長伊予地震、
閏7月13日に慶長伏見地震(共に規模はM7.0と推定)発生
10月27日、文禄から慶長へ改元
慶長伏見地震
↓↑
慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、
1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に発生
地震規模はマグニチュード7前後
死者800余人
別府湾にあった
瓜生島
久光島
の
2島が沈んだ
↓↑
1596年9月4日
豊予海峡を挟んで対岸の
大分で発生した慶長豊後地震
と、
4日後の
1596年9月5日に発生した
慶長伏見地震(ともにM7.0規模)を
合わせて、
中央構造線上
及び、
その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つ
板島城(宇和島城郭)で破損
豊後奥浜(沖の浜)が海没、人畜二千余死亡
豊後府中で寺社倒壊、津波
↓↑
1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜
豊後地震を9月1日とするものもある・・・
薩摩で大地震・・・
↓↑
『言経卿記』や『孝亮宿禰日次記』には
閏七月九日亥刻に地震があったと記され、
京都でも有感であったとされる
しかし
『由原宮年代略記』や『大般若波羅密多経奥書』など
豊後の地震を
閏7月9日とする史料も存在し、
かつては伊予被害記録も豊後地震の一部とされていた
↓↑
10月19日サン=フェリペ号が
四国土佐沖に漂着
(サン=フェリペ号事件)
↓↑
12月16日(文禄5年10月27日)
地震などの災異のため改元
慶長元年=丙申年
↓↑ ↓↑
慶長伊予地震
1596年9月1日、
伊予国をおそった地震
M 7.0、寺社倒壊等
中央構造線沿いと推定される地震
慶長豊後地震(大分地震)
1596年9月4日、
豊後国をおそった地震
M 7.0~7.8、死者710人
中央構造線と連続している可能性がある
別府湾~日出生断層帯で発生した
上記地震との連動型地震
↓↑
慶長伏見地震
1596年9月5日、
近畿地方をおそった地震
M 7.0~7.1
京都や堺で死者合計1,000人以上
伏見城の天守や石垣が損壊、
余震が翌年春まで続く
有馬~高槻断層帯、
あるいは
六甲~淡路島断層帯における地震
上記二つの地震に誘発されて発生
↓↑ ↓↑
慶長地震
1605年2月3日、
南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、
伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論・・・
M 7.9~8.0
紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説も
M 8.4~8.5ともされ
津波地震と考えられており、
地震動による被害は少なかったが、
現在の千葉県から九州に至る広範囲の
太平洋岸に
津波が襲来し、
死者1~2万人
↓↑
会津地震(慶長会津地震)
1611年9月27日、
会津地方をおそった直下型地震
M 6.9。寺社損壊、死者3,700人
↓↑
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)
1611年12月2日
三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)
津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、
千島・色丹沖の震源と連動した
大地震・津波だったとする説も
大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大
地震被害の記録はほとんど無い・・・
↓↑
1614年11月26日
慶長十九年十月二十五日の地震
従来
高田領大地震とされ
会津から松山に至る
日本各地に被害記録があり、震源不明
↓↑ ↓↑
1536年(天文5年)
丙申年
1476年(文明8年)
1416年(応永23年)
1356年(正平11年)(北朝=文和5年、延文元年3月28日)
1296年(永仁4年)
↓↑
869年貞観地震
599年5月26日(5月28日)(推古7年4月27日) 推古地震
ーーーーー
・・・「416年8月22日(8月23日)・允恭5年7月14日・允恭地震」は記録上、最初の地震・・・
丙辰年
丙申月
戊子日(22日)
↓
己丑日(23日)
ーーーーー
・・・
丙申年の60年周期
↓↑
36年+60+60+60+60・・・・
↓↑
036・096・156・216・276
336・396・456・516・576
636・696・756・816・876
936・996・1056・1116・1176
1236・1296・1356・1416・1476
1536・1596・1656・1716・1776
1836・1896・1956
2016
2076・・・・?・・・「年の干支」だけでは理解は不可能であるカナ・・・「允恭地震」の記録は「丙辰年」だけれども・・・「年解通似知字(事)=ねんげつにちじ=年月日」・・・?
・・・大きな自然の変動は人間社会に災害を与えるのは必須である・・・震度7ともなれば確実に甚大な害を被(こうむ)る・・・問題は事後の対策と処理である。稼働している「川内原発」、休止中の各地の原発に「影響は無かった」とのコトだが、あの揺れで何らかの影響があったったコトは想像に難くない。そして、その「影響の度合い」を、現在、我々は自分自身の目で確認するコトは出来ない・・・原発事故後の避難対策はアルのか、ナイのか、それともムイミなのか・・・原発一基の事故は地球規模である・・・「戦争の準備態勢」には膨大な税金を注ぎこんでいるが、「自国防衛」とはいっても目的は「敵国侵入」の人命の消耗と破壊である。難攻不落の「熊本城の城壁」は戦禍ではなく自然災害で崩れた・・・
「自然災害」への対策には、ホトンドが「事の後」である。戦争も都会での市民(国民)の「避難、防御対策」はマンガなみで、「東京大空襲」は死者数10万人(1945年3月10日、3月13日夜~14日)の空襲の焼夷弾で焼け野原・・・1発の原爆投下には「避難も防御対策」も無意味・・・それでも、避難対策があったのは「児童疎開(1943年・昭和18年~1944年・昭和19年8月)」くらい・・・いずれも「後の祭りも出来ない」である・・・しかも、戦争中の大地震の被害は闇の中である・・・戦時中の1943年~戦後の1946年にかけての巨大地震・・・
↓↑
1943年(昭和18年)9月10日17時36分54秒
鳥取地震
震源地
鳥取県気高郡豊実村野坂川中流域
M7.2(Mw7.0)鳥取市震度6
死者 1,083人
↓
1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分
昭和東南海地震=遠州沖大地震=東南海地震・・・諏訪地震
震源地
「熊野灘」M7.9
紀伊半島東部の
熊野灘、三重県尾鷲市沖約20km~浜名湖沖まで破壊
死者 1330人・・・1223人
↓
1945年1月13日午前3時38分23秒
三河地震
愛知県の三河湾M6.8(Mw6.6)
直下型地震
南海地震の一
死者 2,306人
行方不明者 1,126人
負傷者 3,866人
↓
戦後の
1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分
昭和南海地震=南海地震
潮岬南方沖78km、深さ24km震源
大津波被害
死者 1330人
ーーーーー
・・・「国家」は「国民の生命と財産を守る国家安全保障」と云いながら、戦争災害でも、自然災害でも、最期(最後)は「個々人の自己責任」らしい。しかも、「政治屋」はその「自己責任」すらとらない・・・「国家」は基本的には「法人格」の「徴税機関で税金配分機関」であるから、「倒産後」には「個々人」には「責任」は負わないし、モチロン、「私的蓄財」した「政治屋」は意図的な「国家の計画倒産」もする・・・
「自由」と「民主」は「主義」としては「矛盾」するコトバである。「矛盾」していないと思っているのは、「民主公平」が「選択の自由=博打蓄財」にあると錯覚しているか、「プチブル幻想(階級社会の特殊利害)=出世上昇・給与、俸給拝金」に汚染されているか、である・・・貰ったカネの目的使用は「自由」である。「私有蓄財」も、「消費使用選択」も「自由」である。だが問題は「エンゲル係数」の枠内でのコトであり、「衣食住の民主的な公平」ではないのアタリマエである・・・ダレでも出世、儲けるコトが出来るが、「選択の自由」は「市場の需要と供給」の相対的な「アンバランスの中」にある・・・「選択は自由」だが、相手次第である・・・
「ニホンジン」なら、毎度の「自然災害」は諦めるコトは出来るカモ、だが、「戦争災害」は許さないとしたのが「人間天皇」を象徴とする「日本国憲法下のニホン人」である・・・「人間同士の責任」としたのだ・・・
すべてではないだろうが、西洋人、中東人なら「カミ」に責任転嫁するだろう・・・中国人は「テン」である・・・
何があっても「自然」と共に生きていると「自覚?」しているのは・・・「秘境の人びと」かもだが・・・「自覚」も無いカモ、自覚以前に「自覚」のしようも無いカモ・・・
・・・「霑体塗足(テンタイトソク)の野良仕事・国語斉語」=「辛い労働の様子・身体を濡らし、足に泥を塗る様に田畑で仕事をする様子」らしい・・・「田畑の野良仕事」ではないが、家の周りと庭に融け始めている雪の除雪と松の木の折れた枝々の掃除で、たいした「霑体塗足=つらい仕事」ではないが、汗は掻いた・・・これって「転貸訳素句=貫意試語訳」であるかな・・・現在21時8分、東京で地震の情報、今日は地震が多い
4月14日20時58分頃東京都23区M3.6震度2
4月14日17時25分頃栃木県南部 M2.7震度1
4月14日15時39分頃栃木県南部 M3.5震度3
4月14日12時26分頃十勝沖 M4.3震度2
4月14日01時24分頃千葉県北西部M3.2震度1
・・・アレッ?!、今現在!!
緊急地震速報、九州・・・21時26分、震度7・・・熊本県・・・
地震・・・九州、熊本震度7・・・落ち着いて・・・落下物に注意!!
↓↑
丙申(己・壬・庚)
壬辰(乙・癸・戊)
丙寅(己・丙・甲)
支合・甲乙・破
己亥(戊・甲・壬)
↓↑
川内原発は大丈夫か!?
NHKの解説者(東大地震研究会?)がナンか、呑気な説明をしているが・・・
・・・昨日は「アメデオ・モディリアーニ」の作品、「杖をついて座る男(1918年作)・2500万ドル(27億5千万円)」に触れたが、この「タイトル」の「杖と男」とはダレなんだか・・・で、今日は「カラバッジョ=ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、 1571年9月28日~1610年7月18日)」の絵(繪)のニュース。「トゥールーズ近郊の民家で天井の雨漏りを点検していたこの家の持ち主が発見。聖書上のヒロインであるユディトがアッシリアの将軍の首を切断する場面が描かれている絵。カラバッジョが1604~05年にローマで描いたと考えられ、1億2000万ユーロ(約150億円)の価値」がある・・・らしい・・・描かれた結果としての「繪=絵」には「価値」があっても、彼らの「社会的人間」としての「価値=使用価値」は「技術的才能」を利用されるだけであったらしい・・・その点に於いてはナチス空爆に対して「怒りのゲルニカ」を描き、更には手直しして「平穏で動きのない平面的なゲルニカ」を描き、そしてジャーナリズムを利用し、自分自身の絵をカネ持ちに売り付け、極秘に「共産党(本人も共産党員自認?)」に寄付し、そして人生を「金満家(?)」で生きたらしい「パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)1881年10月25日~1973年4月8日)」は「政治家?」でもあったカモ・・・で、名画蒐集癖で、掠奪実行命令者の「アドルフ・ヒトラー(ヒットレル・Adolf Hitler・1889年4月20日~1945年4月30日)」は「ピカソ」の絵を欲しがったであろうか?・・・多分、「青の時代」の絵は欲しかったカモ・・・?・・・
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ピカソ
辛 巳(戊・庚・丙)印綬
戊 戌(辛・丁・戊)偏官―印綬・正財・偏官
沖
壬 辰(乙・癸・戊)
午未=空亡
↓↑
1973年4月8日
癸 丑(癸・辛・己)劫財
丙 辰(乙・癸・戊)偏財・月月沖・日月刑
沖
甲 戌(辛・丁・戊)食神・日日沖
ーー↓↑ーー
モディリアーニ
戊 戌(辛・丁・戊)劫財
沖
丙 辰(乙・癸・戊)印綬―偏官・偏財・劫財
己 亥(戊・甲・壬)
辰巳=空亡
↓↑
1920年1月25日
己 未(丁・乙・己)比肩・年年破
沖
丁 丑(癸・辛・己)偏印
沖
癸 未(丁・乙・己)偏財・年日破
ーー↓↑ーー
カラバッジョ
辛 未(丁・乙・己)印綬
丁 酉(庚・ ・辛)正財―偏印・印綬
干合
壬 申(己・壬・庚)
戌亥=空亡
↓↑
1610年7月18日
庚 戌(辛・丁・戊)偏印・年年破・月年害・空亡
癸 未(丁・乙・己)劫財
壬 申(己・壬・庚)比肩・同干支併臨
↓
ーー↓↑ーー
アルドフ
己 丑(癸・辛・己)傷官
戊 辰(乙・癸・戊)食神―印綬・正財・食神
丙 寅(己・丙・甲)
戌亥=空亡
↓↑
1945年4月30日
乙 酉(庚・ ・辛)印綬・三合辛・月年支合辛
干合支合辛
庚 辰(乙・癸・戊)偏財・月月刑
己 巳(戊・庚・丙)傷官・日日刑・害
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S
辛 丑(癸・辛・己)偏財
破
壬 辰(乙・癸・戊)正官―偏印・偏財・傷官
干合破
丁 丑(癸・辛・己)
申酉=空亡
↓↑
戊 辰(乙・癸・戊)年年破・月年刑
乙 丑(癸・辛・己)月月破
丁 卯(甲・ ・乙)月日害
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・・・???・・・ボクにとっては「彼らのナマエ」の「ニホン語」的な音符によるカタカナの意味であるが・・・
アメデオ・モディリアーニ
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
(ミケルアンジェル・メリージ・ダ・カラバアツジョ)
パブロ・ピカソ
アドルフ・ヒトラー
↓↑
編め出尾・摸出意理蛙亜似
視懸覧字得賂・目利意字・拿・化等葉蛙通字与
頗部(伏・悔・分)賂・比掛素
蛙怒留附・比訳等蛙
↓↑
・・・???・・・