・・・イヤァ~ッ、書き込んだモノには「誤り」で、「謝り」が多いわッ・・・編集者や校正者の「原文・文章・文字・原稿」等の修正の苦労のチェックがヨク、ワカル・・・ボクの「ブログ日記」も、そのつもりで「ヨン」でホシイ・・・だが、過去の権力に追従するように観える「小官僚の舎人(とねり)の細(ささ)やかな抵抗」が「記録した文字や文章の中にある」としたら大したもんだ。「現在の官僚」の記録した文字も、文章も、文章解釈も出世のための「おべっか」で「太鼓持ち・幇間(ホウカン)」の「官僚作文」とはチョッと違うかも。いや、雲泥の差があるカモ・・・?・・・「葛飾柴又の寅さん」・・・「帝釈天(タイシャクテン→替舎句転?)=東京都葛飾区柴又七丁目、日蓮宗の寺院の通称。正式名称は「経栄山、題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)」であるらしく、結構、「葛飾」の漢字の「葛」に疑問を抱いている人が多いらしい・・・
その疑問点は
「葛=艸(草冠)+曷(日+勹+人+L)」の
「人+L」の字が
「ヒ」ではないか?、と云うモノだが、
↓↑
勹部首の類字
「勹+人+L=匃」か?・・・勹=包・・・勹+己
↓ 句=ク・・・勹+口
文句
↓ =ソウ・・・匆の異字
あわただしい
いそがしい
夕暮れ時を勹(包む)
↓ 甸=デン
かる(狩)
魯甸県
樺甸市
羅甸県
↓ 匑=キュウ・ク・キク・コク
うやまう(敬・畏敬)
↓ 包=ホウ・ヒョウ
つつむ
匁=もんめ・・・勹+メ=ホウメ
ヒョウメ
句目・粂
匆=
旬=ジュン
↓ 匋=トウ
やく・・・ 匋=陶磁器
匐=フク・ブク
はう=腹這う=匍匐
匍匐(ホフク)前進
↓ 匓=キョウ・ク
きらう
倦厭(厭う・嫌う・あきる)
↓ 匍=ホ
葡萄牙(ポルトガル)
匈=キョウ・むね(胸)
おそれる
匈牙利(ハンガリー)
匈奴
↓ 貫匈国・貫匈人
「勹+ヒ=匂」か?
↓↑
「曷(なんぞ・いずくに・カツ・ガチ)」
はその音訓の意味自体で、更には
「曷」は、
「水分がない、乾ききっている」
の意であるらしいが「渇水」の「渇」だろう。
「蠍座のオンナ」である・・・
「ムシ(虫)」の「歇」は「やめる・つきる・ケツ・コチ」である・・・蠍(さそり)はナニをヤメルのか・・・渇いた欠伸(あくび)って、ナニ・・・?
検索したこの字には「匂→ヒ」が使用されている。
類字の「遏(とめり・とどめる・アツ・アチ)」が解答の回答で、「掛意訳得」である・・・
「人(ひと・びと・ジン・ニン)」
が
「ヒ(匙・匕首・牝・七)=比」
となる事情はこの漢字を使用した記録者の遺志であったかも・・・ちなみに「柴又帝釈天」は本尊ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅(中央に南無妙法蓮華経の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)」であるらしい。そして「寺が柴又七福神のうちの毘沙門天であることから、帝釈天=毘沙門天と解説するのは誤りであり、双方の起源が異なる。柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)である」らしいが・・・「帝釈天(たいシャクテン)=テイシャクテン=綴写句転」で、「毘沙門天=ビシャモンテン=尾(備)写文典」である・・・時代に現存した信者にとって「元々の神仏の能書き」はどうでもイイのである。その時点での「御利益の有無」が問題である・・・後利益がアレば、なんでも「習合」されたモノはその意味でアリガタイのであるから・・・
「パナマ(巴奈馬)文書=(Panama Papers)=租税回避地(タックスヘブン)への法人設立=闇の金融取引」ですか、「アイスランドのグンロイグソン首相は、4月5日に退陣」、英国キャメロンの親族、露西亜プーチンの関係者、大陸中国習近平、李鵬らの家族・親族に関する記載・・・
中国外務省の洪磊・副報道局長は5日の記者会見で「われわれは雲をつかむようなことにはコメントしない」ですか、「クモ」を掴んだらナニが出てくるんだか・・・
習近平、「大漢帝国民族主義者?」であるらしい「習近平(シュキンペイ・シージンピン、キンペー)」は自国歴史と自国漢字の勉強不足でもあるらしいが。もっとも、簡易(官意)文字化の「習金兵」であっても同じ輩(やから)であるかな・・・
そして明治帝国日本を引き摺る「日本人」は記載されていたのか?独逸(ドイツ)も仏蘭西(フランス)も国内の「タクッスヘブン」を利用した脱税者を調べているらしい・・・
釈迦である「ほとけ=佛=人+弗(ドル・フツ・ホチ・ホツ・もとる・はらう・あらず)」は「仏=人+ム(シ・よこしま・私)」になったのである。「腐乱す」ですか・・・いまや、「フッ素=弗素」は北極のオゾン層破壊の元凶である・・・
「弗」は「撟(もと)るなり、丿(へつ)に從ひ乀(ふつ)に從ひ、韋省の從ふ・たわみを直す意の会意(説文解字)・丿乀は左右に戻る形。ほかに棒状のものを紐で結びまとめる象形説」があるらしい・・・
だが、ブログ辞典を検索すると、その漢字意味の使用法は「払いさる・取り去る・去る・もとる・祓う・(弼と通じて)助ける・(怫と通じて)憂える・不・勿と通じ否定詞として使用」とある。一漢字文字の意味幅は「矛と盾」であるが・・・源(旧)漢字使用の「日本人官僚」も大変だが、生活が掛かっちゃているから「狡さ」では大陸中国の高級官僚にも劣らない・・・
で、本日も朝からお天気・・・ボロ屋敷の外でヤルコトがワンサカあるが、御天気次第・・・玄関横の花壇の雪を除けて、コンクリートブロックで囲んで造り直したが、腰痛・・・それに切り取った大量の「蔦(つた)≒葛(かつら・くづ)」の置き場がない・・・燃やしてしまえばイイのだが、「火災」が怖ろしい・・・如何したものか、桂小五郎君・・・「葛=くず・つる・かずら・つづら・カツ=艸(草冠)+日+曷(勹+人+L)→「人+L」→「ヒ+L」」・・・「かづら=葛・蔓」の絡みつく混乱記録・・・
「葛王=加豆良王」は
「平安時代前期の三嶋王の王女
父の三嶋王が淳仁天皇の弟で
天平宝字(テンピョウホウジ)八年 (764)
天皇廃位に連座し、
伊豆に流刑
宝亀(ホウキ)二年に
皇籍回復」
した女性・・・
あいャァ、アイヤァァ~ッ・・・「葛野王」や「葛城王」に訊いてみたい・・・
以下は「ウイッキペデア」を参照にしたモノ・・・
ーーーーー
↓↑
葛城王 (敏達天皇の子)は 、
敏達天皇と推古天皇の息子
同名の
葛城王 (天武朝の人)は 、七世紀の皇族で
「葛城王」は
橘諸兄の臣籍降下以前の名
↓↑
橘 諸兄(たちばな もろえ)
天武天皇十三年(684年)
~
天平勝宝九歳一月六日(757年1月30日)死亡?
天平勝宝八歳二月二日(756年)死亡?
・・・どっちが、本当なんだか、シボウネン・・・
↓↑
官位は正一位・左大臣
号は
井手左大臣・・・・・意出差拿意訊?
西院大臣・・・・・・差異隠拿意訊?
奈良時代の皇族・公卿
初名は
葛城王(葛木王)
臣籍降下して
橘宿禰
のち
橘朝臣姓
敏達天皇の後裔で、
大宰帥
「美努王」の子?・・・句理句間尾生(呉・奥生)?
弥努王・美奴王・美弩王・三野王などで記録
敏達天皇の後裔で、
四位
「栗隈王」の子・・・
↓↑
和銅三年(710年)
無位から従五位下
和銅四年(711年)
馬寮監
↓
元正(女帝)朝
霊亀三年(717年)
従五位上
養老五年(721年)
正五位下
養老七年(723年)
正五位上
↓
神亀元年(724年)
聖武天皇の即位後
従四位下
神亀六年(729年)
正四位下
左大弁に叙任
天平三年(731年)
藤原宇合
藤原麻呂
兄弟や
多治比県守らとともに
参議、公卿
天平四年(732年)
従三位
天平八年(736年)
弟の
佐為王と共に
母・橘三千代の
氏姓である
橘宿禰姓を継ぎ
橘諸兄と名乗る
天平九年(737年)四月~八月
天然痘の流行
太政官の首班
右大臣
藤原武智麻呂
ら
藤原四兄弟、
中納言
多治比県守
ら
議政官が次々に死亡
公卿、参議は
生き残った
鈴鹿王
橘諸兄
のみ
鈴鹿王を知太政官事
橘諸兄を大納言に任命
↓
天平十年(738年)
正三位・右大臣
国政を橘諸兄が担当
下道真備(吉備真備)
玄
を抜擢して、
聖武天皇を補佐
↓
天平十二年(740年)八月
大宰少弐の
藤原広嗣が、政権批判し
僧正・玄
右衛士督・下道真備を追放する上表
九月
藤原広嗣が
九州で反乱(藤原広嗣の乱)
十月末
聖武天皇は伊勢国に行幸
平定後も天皇は平城京に戻らず、
十二月
橘諸兄の本拠地
(山城国・・・・葛城
綴喜郡・・・・綴る喜びの訓
井手)・・・・意出
に近い
恭仁郷に整備した
恭仁宮に遷都
↓
天平十五年(743年)
従一位・左大臣
天平感宝元年(749年)
正一位
生前に
正一位に叙された人物は
六人
↓
孝謙天皇
(女帝・阿部皇女・重祚、稱天皇)
即位
藤原仲麻呂が
国母
光明皇后の威光を背景に、
大納言
兼
紫微令
として発言力を増し
天平勝宝七歳(755年)
聖武上皇の病気に際して
橘諸兄が
酒の席で不敬の言があったと讒言
翌
天平勝宝八歳(756年)
辞職、引退
↓
天平勝宝九歳(757年)一月六日薨去
享年74
最終官位
前左大臣正一位
同年5月
子息の
奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)
獄死
↓
「大伴家持」と親交
「万葉集」の撰者の1人とする説・・・
「栄花物語・月の宴の巻」に、
「むかし
高野の女帝の御代、
天平勝宝五年には
左大臣
橘卿
諸兄
諸卿大夫等集りて
万葉集をえらび給」
と記録・・・・・・?
後に
仙覚は
橘諸兄・大伴家持の
2人の
共撰説を唱えた
「万葉集」に
七首の歌がある・・・
↓↑
ーーーーー
葛城王(かずらきのおおきみ)
生年不明
~
天武天皇八年(679年)七月十七日
四位で死亡(日本書紀)
父母、子孫とも不明
敏達天皇の子で
同名の葛城王の子孫・・・?
ーーーーー
↓↑
葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)・・・?
天智天皇八年(669年)
~
慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
弘文天皇(大友皇子)の
第一皇子
孫に
淡海三船
官位は
正四位上・式部卿
↓
持統朝で
浄大肆
治部卿
持統天皇十年(696年)
太政大臣・高市皇子が薨去後
持統天皇が皇族・公卿・官人を宮中に召して
皇太子の擁立について議論
葛野王が
直系による皇位継承を主張し
兄弟間での継承は
争いの元と主張
天武天皇の皇子である
弓削皇子が・・・・・・「弓削の道鏡」は
稱(阿部)女帝の側近
葛野王に問いかけたが
葛野王は
弓削皇子を一喝
天武天皇の皇子達は
スベテ皇位継承から退けられ、
草壁皇子の子で
持統天皇の孫の
軽皇子
(珂瑠皇子・文武天皇)・・・珂瑠=軽(キン)
が
皇太子になった
↓
文武朝で
正四位上
式部卿に叙任
慶雲二年(706年)
十二月二十日卒去・・・・拾似解通-似拾似知
二十=念
享年三十七・・・・・・・参(纂)拾七(漆)
37=みそ、ななつ
↓
「懐風藻」に・・・・・・開封叢(装)?
二首の漢詩採録
↓↑
「懐風藻」に
「王子者、淡海帝之孫、
大友太子之長子也、
母-
淨御原之帝長女
-
十市內親王。
懷風撰述、未詳其人。
或有
淡海三船、
石上宅嗣、・・・・・・石の上の宅の嗣→ペテロ?
石の上に教会を築く?
葛井廣成之說。
書成於皇紀一千四百一十一年、
納
近江朝
以至
奈良朝間
漢詩、
起
大友皇子以下,
迄
葛井廣成
以上、
六十四名之作、
共一百二十首錄之。
文風
受
中國詩集
影響至大、
乃為
現存
最古
日本漢詩集」・・・?・・・ナゼかカンシである?
↓↑
持統天皇の統治期間
高市皇子が・・・・・・武市半平太=号は瑞山・茗澗
茗=艸+名・・・くさかむむりな
久坂(日下)務無理納?
メイ・ミョウ(ミャウ)
茶の木・茶
太政大臣
高市は母の身分が低かったが、
壬申の乱
での功績が著しく、
政務にあたった・・・
持統天皇十年七月十日に
高市皇子が薨去
「懐風藻」に
持統天皇の後継者決定で
皇族・臣下が集り
「葛野王」・・・・かどのおう
鹿渡の王・過度の尾生(横・奥州)?
の発言で
697年2月
「軽皇子」が皇太子になった
↓↑
8月1日
持統天皇は
十五才の
軽皇子に譲位
存命中の天皇が譲位したのは
皇極天皇に次ぐ
二番目
持統女帝・・・・地名の佳字政策
ジトウジョテイ
字問(とう・訳得)序綴?
は
初の
太上天皇(上皇)になった・・・
ーーーーー
ジトウテンノウ・・・字訳得転之得は・・・オンナ(音納)?