・・・立冬(りっとう)は、二十四節気の第19。十月節(旧暦9月後半から10月前半)。 現在 広まっている定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日ごろ。恒気法では冬至から 7/8年(約319.59日)後で11月6日ごろ。2017年11月7日05:38・・・立冬=リットウ=栗東・立党・理通唐(問う)・・・8×9=72(漆拾貮・漆足仁)・・・
ーーーーー
立冬の期間の七十二候
初候
山茶始開・山茶花が咲き始める
水始氷・水が凍り始める
地始凍・大地が凍り始める
末候・金盞香(キンセンカ)・水仙が咲く
野鶏 入 水 為 蜃
雉 入大水 為 蜃
(きじ たいすいにいり おおはまぐりとなる)
雉(チ)が大水=海(カイ)に入って
大蛤(ダイコウ)になる
大蛤=蜃(シン)・蜃気楼を作り出す龍
大蛤(ダイコウ)=蜃蛤(シンコウ)
みずち(蛟)・想像上の動物・竜の一種
↓↑
(きじ たいすいにいり おおはまぐりとなる)
生地 大水=大海人 大蛤=ダイコウ=代行
蜃蛤=シンコウ=侵攻
(記事 内 隋 に入り、於補葉眞具理)
↓↑
霜降→立冬→小雪・・・
操行 立唐 背負う節・・・小説・章節?
ーー↓↑ーー
白雉(しろきじ・ハクチ)・・・新羅の記事?
大化(645年)の後、
650年~654年までの期間
大化六年二月十五日
(ユリウス暦650年3月22日)改元
~
白雉五年十月十日
(ユリウス暦654年11月24日)
孝徳天皇が崩御し
使用されず
686年に
「朱鳥」と定められるまで
元号はなかった・・・?
↓↑
孝徳天皇
諱は軽(かる)
和風諡号は
天万豊日天皇
(あめよろずとよひのすめらみこと)
↓↑
650年2月9日(ユリウス暦3月16日)
穴門国(あなとのくに・長門国)
の国司
「草壁醜経(くさかべ の しこぶ)」・・・
↓↑ 醜=酉+鬼=みにくい・シュウ
経=經(へる・たていと・たて・つね・たつ
ケイ・キョウ・キン)
織物の縦糸・縦・南北の方向
経緯・経線・経度・東経
気血の通路
↓↑ 「経絡」
姓は連・草壁連・日下部連
開化天皇・・・文明開化は明治・・・
の孫
彦坐王の子である
狭穂彦王(沙本毘古王)の子孫・・・「反逆者」の子孫?
日下部連・甲斐国造の祖
↓↑ ・・・久坂玄瑞(くさか ゲンズイ)
幕末の長州藩士・幼名は秀三郎・諱は通武
通称は実甫、誠、義助・・・玄随(元は隋?)
妻は吉田松陰の妹、文
久坂玄瑞が「蛤御門の変」で死亡後
「文」は「小田村伊之助(楫取素彦)」と再婚し
「楫取 美和子(かとり みわこ)」となった・・・?
狭穂彦王の母は
春日建国勝戸売の娘、
沙本之大闇見戸売・・・沙(水少)本(ホン)、之
↓↑ 「沙=すな=砂=順和」の本の之(これ・シ)
抄本=鈔本=原本のある一部分を
書き抜いたもの
差本之
大の
闇(やみ・アン
門の音)
見訳部
↓↑ 「門=もん=文・万・聞・問」の見録り売
同母の兄弟に
葛野別
近淡海蚊野別の祖、袁邪本王
若狭耳別の祖、室毘古王
垂仁天皇の皇后、
狭穂(沙本=佐波遲)比賣命
・・・「狭穂=沙本=佐波遲(サワジ=詐倭字・詐倭事)」
垂仁天皇五年
妹の狭穂姫命に天皇暗殺を示唆するが失敗
追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺
遺児は
「唖の品牟都和氣命(本牟智和氣御子・誉津別命)」
ーー↓↑ーー
「草壁醜経(くさかべ の しこぶ)」
が
「白い雉(きじ・チ)」を献上し
650年2月15日に改元した
↓↑
653年(白雉四年)
第二次遣唐使
吉士長丹らを唐へ派遣
孝徳天皇(軽皇子)
と
中大兄皇子=葛城皇子
との対立
中大兄皇子(葛城皇子)らが
皇極、間人皇后(王女)などを引き連れ
飛鳥河辺行宮へ移る・・・???孝徳天皇の権威失墜???
金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず
吾が飼ふ駒を 人見つらむか
・・・駒=こま=高麗・狛・独楽・木間・・・高句麗との関係?
↓↑
繫於金木
吾飼駒當無出兮
吾之駒至今何以為所獲
↓↑
皇后(皇女)が夫である天皇と離れ
中大兄(葛城)皇子と共に飛鳥に遷った・・・?
↓↑
654年(白雉五年)
第三次遣唐使
高向玄理・・・押使として唐に渡海
新羅道経由で
莱州に到着
長安で
三代目皇帝
高宗に謁見
後、病気で客死
高向王・・・高向玄理?
高向王=父は用明天皇
皇極天皇の前夫?・・・皇極天皇=斉明天皇の
和風諡号
天豊財重日足姫
父 舒明天皇の弟の茅渟王
母 吉備姫王
夫 高向王 舒明天皇
子 漢皇子(あやのおおきみ)
天智天皇(中大兄皇子)
間人皇女
天武天皇(大海人皇子)
渡来人の子孫
名は黒麻呂とも
高向古足の子
本姓は高向漢人(たかむこの あやひと)
後に「漢人(あやひと)」は「史(ふひと)」
冠位は大錦上
推古十六(608)年
第二次遣隋使の
小野妹子(蘇因高)に従って渡海
らを
唐へ派遣
孝徳天皇
難波宮で死没
白雉 元年 2年 3年 4年 5年
西暦 650年 651年 652年 653年 654年
干支 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅
ーー↓↑ーー
「冬至=トウジ・winter solstice」
二十四節気の第22・北半球ではこの日が
一年のうちで最も昼の時間が短い
十一月中(旧暦十一月内)
定気法では太陽黄経が270度のとき
12月22日頃(ごろ)
「頃(ころあい・しおどき・大凡の・・・時期・かたむく)=匕+頁」・・・食べ頃・・・「あるきまった時期の前後を含めて大まかにさす語・ころ・おおよその時をいう語」・・・「頃(ケイ)は中国の伝統的な面積の単位」・・・
「項(うなじ・うなずく)=工+頁」・・・同類項、項目・・・「あるまとまりをもつ事柄をさらに細かく分類したものの、一つ一つ・ 数学や数理論理学におけるある種の対象(式や文)の構成要素。 多項式に 加法因子として含まれる単項式 (term) のこと」・・・
ーーーーー
頁=α+一+ノ+目+八・・・「頁」は「本のページ」と理解して
↓↑
頃=匕+頁
頂=丁+頁
項=工+頁
順=川+頁
須=彡+頁
頑=元+頁
頏=亢+頁
頌=公+頁
頓=屯+頁
頒=分+頁
預=予+頁
頗=皮+頁
領=令+頁
頤=𦣝+頁
頡=吉+頁
頷=含+頁
頸=巠+頁
頽=禿+頁
頭=豆+頁
頻=歩+頁
頰=夾+頁
頼=束+頁
顆=果+頁
額=客+頁
顎=咢+頁
顔=彦+頁
顏=彥+頁=文厂彡+頁
顋=思+頁
題=是+頁
願=原+頁
顚=眞+頁
類=米犬+頁
類=米大+頁
顧=雇+頁
顫=亶+頁
顕=显+頁・・・顯 (日幺幺灬→日业)
顯=(日幺幺灬)+頁
顬=需+頁
顰=歩+頁+卑
顱=盧+頁
顴=雚+頁
顳=聶+頁
ーーーーー
「α+頁」
↓↑
頄=九+頁
頇=干+頁
頍=支+頁
頎=斤+頁
頊=王+頁
䪴=冘+頁
頚=圣+頁
頗=皮+頁
頙=疋+頁
䪼=出+頁
頔=由+頁
頖=判+頁
頬=夾+頁
頞=安+頁
頦=亥+頁
頠=危+頁
頟=各+頁
頜=合+頁
頫=兆+頁
頪=米+頁
頩=并+頁
䪿=囟+頁
頵=君+頁
頮=水廾+頁
頯=肉廾+頁
頣=臣+頁
䫇=彡冄+頁
頹=禿+頁
頺=秀+頁
頲=廷+頁
頳=赤+頁
䫉=豸+頁
頥=礀臣+頁
顊=阜+頁
顄=凾+頁
䫏=其+頁
顇=卒+頁
顀=隹+頁
顈=匕糸+頁
顉=金+頁
頾=彡+頁+此
顑=咸+頁
顒=禺+頁
顐=軍+頁
顓=耑+頁
䫙=耼+頁
邈=豈+頁
顖=恖+頁
顙=桑+頁
顣=戚+頁
顢=㒼+頁・・・面大貌
滿・満・㒼=帯紐から文様のついた膝掛けの
巾(布)が垂れさがっている象形
上部の廿は帯、下部は垂れ布の表面の文様
㒼=平らという意味の字
穴のないさま・当たる・平ら
満と通じて満ちる
「説文解字・巻七」に「平かなり」
「広韻」に「穿孔無き狀なり」
顧=雇+頁
邕=景+頁
顦=焦+頁
顫=亶+頁
顪=歳+頁
顩=僉+頁
顰=歩+頁+卑
顱=盧+頁
顴=雚+頁
龥=龠+頁
顳=聶+頁
ーーーーー
二十四節気の一つ・春分、夏至、秋分とともに
四季の中央におかれた中気
冬至は太陰太陽暦の
十一月中 (十一月後半)
太陽の黄経が270°に達した日
(太陽暦の12月21日、22日)頃に始り
小寒 (1月5日か6日) の前日までの
約15日間
・・・約(およそ・ヤク)=糸+勺(勹ヽ)
勺=大型の匙状(ヒ)のモノで物を掬い取る形象
勺(シャク)=尺貫法の体積の単位
合の10分の1、升の100分の1
日本の1升=約1.8039リットルで
1勺=約18.039ミリリットル
中国の1升=1リットル
1勺=10ミリリットル
ーー↓↑ーー
クリスマスの「X」は
ローマ文字ではなく
ギリシャ文字の「Χ(カイ)」
音価は[x]は
「有声音のハ行」
ギリシャ語の
「ハリスト(キリスト)」の「ハ」・・・葉理数訳
歯栗鼠訳
ドイツ語の「Ach Laut」=ach音(⇔ich-laut)
ドイツ語の軟口蓋(コウガイ)
無声摩擦音の「x」
「ルウト」→英語→route→道路・道順・経路・道
「ルート」→英語→root →平方根・根号(ルート√)」
→根っ子・累乗根
→溶接=Wrought iron
鉄(ロートアイアン)製品
錬鉄のエッフェル塔
熱する、叩く、曲げる、溶接する
↓↑
「ラウト」→英語→Lauth→日本語→羅臼(ラウス)
ラウス→ラウシ
アイヌ語の「ラウシ(獣の骨のある場所)」
・・・「アイヌ語のラウシがラウスに転訛」・・・
・・・意味は「獣や魚の骨臓物が沢山あったところ」・・・
・・・アイヌ語で「ラウシ」=動物(鹿・熊等)の
死骸があった所の意味
羅牛、良牛とも古文書にも記録
松浦武四郎の「知床日誌」にも
アイヌ達の説明として「ラウシ」とは
「昔鹿・熊獲り必ずここにきて屠りし故に
其臓腑は、骨等有との義也」と誌す・・・
羅臼(ラウス)岳=知床半島のほぼ中央にある火山
標高1660メートル・山頂は溶岩円頂丘
ーーーーー
1618年(元和元年)
メナシ(目梨)の酋長が・・・メナシ=東方
ラッコの皮を松前藩に献上
1701年(元禄十四年)
霧多布場所が開設
知床のアイヌと交易
1774年(安政三年)
飛騨屋久兵衛が
霧多布場所、他三場所の請負人となる
1789年(寛政元年)
クナシリ(国後)・メナシ(目梨)の戦い
アイヌと和人の戦い
1799年(寛政十一年)
江戸幕府
東蝦夷地を仮直轄地として上地
1858年(安政五年)
松浦武四郎
知床を探検・多くの記録を残す
1901年(明治三十四年)
標津外六ケ村戸長役場(標津町)から
分離・独立し
植別村戸長役場を設置
1923年(大正十二年)
二級町村制施行
植別村
1930年(昭和五年七月一日)
羅臼村と改称
ーーーーー
「ラウト」→英語→Rout→敗走・潰走・大敗北・完敗
「G-ROUT=ク-ラウト=特許庁」
↓↑
「カイ」=英語よみ「?」
日本語では「キー」とも
漢字では甲斐・蝦夷
・・・「蝦夷(カイ)=えぞ・えみし」
古典時代よりあとの発音で
古典時代の「?」は「ケー(ケイ)」
現代ギリシャ語では「ヒ」
=アルファベット式の数字として
「χʹ=600」、「͵χ=60万」
「Ϡʹ =900」、「͵Ϡ=90万」・・・「Ϡ」≒「犭」?
↓↑
「X」=ラテン文字(アルファベット)の
24番目の文字
ギリシア文字Χ(キー・ヒ・カイ)に由来
ラテン文字としての発音は
「ks」 が
ギリシア西方方言で「Χ」と書かれた
標準ギリシャ語の「Χ」の音写は「ch・kh」
ギリシア文字の「Ξ(クシー)」の音写に「X」
キリル文字の「Х(ハー)」と同系
↓↑
拉・伊・仏・独・蘭=イクス (ics, iks)
エス・イクソ (ikso)
英・印尼・瑞=エクス
西=エキス (equis)
葡=シース
日本=エックス
ギリシャ文字Χ(キー/ヒー)の代用
クリスマス (Christmas)=Xmas(X'mas)
ギリシャ語でキリスト (Χριστος) の頭字Χ
ーーーーー
・・・ハリスマス・・・貼り済ます・・・
・・・「電気クラゲ(カツオノエボシ=鰹の烏帽子・学名Physalia physalis・英名Portuguese Man O' War)」・・・「天敵は、革のような皮膚をもつマンボウや、固い突起がびっしり生えた口をもつアオウミガメ」・・・「二次方程式の解(カイ)の公式」・・・「一次方程式・二次方程式・三次方程式・四次方程式の解の公式」・・・「電気クラゲ=アンドンクラゲ(行灯水母、行灯海月)=立方型の傘を持ち、その下に長さ20cm程の鞭状をした触手を4本伸ばしている暖海性の立方クラゲ」・・・「電気クラゲ」は生物の分類上の呼称ではない・・・「電気クラゲ=カツオノエボシ=鰹の烏帽子」・・・
ーーーーー
「電気クラゲ(水母・海月・水月)」
「カツオノエボシ=鰹の烏帽子」
小さな「ヒドロ(hydro)虫」が・・・「火土呂・旱泥」
集合した群体
・群体(グンタイ)=cell colony
無性生殖によって増殖した
多数の個体がくっついたままで
一つの個体のような状態になっているもの
主として動物および藻類に対して使われる
動物の場合と藻類の場合では使われ方が
若干異なっている
藻類には定数群体というものもある・・・
↓↑
カツオノエボシ=鰹の烏帽子
猛毒の持ち主
陸に打ち上げられ
完全に死んでからも
細胞が自動的に動いて
触れたものを刺す
人が刺されると
みみず腫れになり
「電気ショック」のような
痺(しび)れ(?)を伴った
激痛をカンジ、
人によって
アレルギー反応での
呼吸困難に陥る
「電気クラゲ」
ーー↓↑ーー
「電気クラゲ」=カツオノエボシの生態
気胞体(浮き袋)
栄養体(栄養個虫)
生殖体
触手
などに分化した個虫が
集合して一つの群体を形成
気泡体が浮きとなって
水面を漂う
ーーーーー
群体(グンタイ)・・・グンタイ・・・
↓↑
分裂または出芽によって生じた
新たな個体が
互いに連結されてできた個体の集合
原生動物、海綿動物、刺胞(しほう)動物、
コケムシ類(外肛・ガイコウ)動物、
ホヤ類(原索・ゲンサク)動物
など、主として
海産無脊椎動物にみられる生態
群体を形成する個体を
個虫または個員とよぶ
群体は形態上から
線状群体、樹状群体、球状群体、
叢状(ソウジョウ)群体
などに区別され
固着性、浮遊性、匍匐(ホフク)性
のものがある
群体の統合の程度
個虫どうしが
単に殻などによって
連結されているだけのものから
個虫間に
神経系による
刺激の伝達がみられ
全体として
統合された動きをみせるものまである
クダクラゲ類(刺胞動物)
コケムシ類
ではもっとも高度に統合された群体
クダクラゲ類の
カツオノエボシでは
個虫が、
浮き・栄養体・生殖体・触手
などに
形態的・機能的
に分化し
これらが集合して
一つの群体を形成
それは高度に統合された動きによって
餌をとらえて消化し
あるいは
刺激に対して逆方向に逃避する
このような群体が
単一の受精卵から
分裂によって生じるという点から
一つの個体と考えることもできるが
海綿などでは
同種の隣接した
群体が合体して
一つの群体となることもあり
系統発生的にも
もともと単独生活を営んでいた個虫が
集合して群体を生じた・・・
↓↑
・・・「群体」の説明と、
「軍隊」、「協同体」の説明が重なるし、音も重なるが?
ーー↓↑ーー
コロニー=群体
語意は
植民地
同類集団の居住地
↓↑
第1次大戦後の
イギリスの結核対策で
転じて
一般地域で生活困難をきたす
結核回復者への
アフターケアと労働とを組み合わせた
共同生活施設の通称となった
日本では
結核回復者施設の流れをくむ
身体障害者施設で
コロニーと称する
社会福祉法人がある
↓↑
一方
親亡きあとの
重度精神遅滞者に
家庭に代わる施設の必要性を訴えた
親たちの運動にこたえて
国が設置し、特殊法人の
心身障害者福祉協会が運営する
精神遅滞者の大型施設が
1971年
群馬県高崎市に
国立コロニーとして設立された
ーー↓↑ーー
植民地=コロニー
ラテン語coloniaに起源
近代ヨーロッパ語の
colony(英語)
colonie(フランス語)
Kolonie(ドイツ語)
として広く用いられ
近代日本において
日本語訳・・・・・会津藩の若松コロニー
↓↑ (Wakamatsu Tea and Silk Colony)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州
エルドラド郡
ゴールド・ヒルの
↓↑ 日本人会津藩のコロニー
として定着した
この概念は
古典古代
近代ヨーロッパ
近代日本
と三重の歴史的位相をもち
それに応じて
意味する内容も拡大してきた
近代以前には
植民地という言葉は
ある集団か
その一部が従来の土地を離れて
新たな地域に移住し
そこで形成する社会を意味した・・・
ーー↓↑ーーー
(CNN)トランプ米政権
「ジョン・F・ケネディ元大統領」の
暗殺に関する文書
676点の中に
米公民権運動指導者
「マーチン・ルーサー・キング」
牧師に関する
連邦捜査局(FBI)の
秘密分析が含まれていた
キング牧師に関する
20ページの文書で
同氏をさまざまな共産主義者の
影響と結び付け
同氏の公民権団体
「南部キリスト教指導者会議」
での資金不正
キング牧師の不倫
他の性的に不適切な振る舞いなど
同氏の個人生活についての
臆測や主張も記されている
同文書の筆者らが
情報の裏付けを
取っていたのかどうかは不明・・・不可解なクラゲ・・・
ーー↓↑ーー
解の方程式・・・?
「カイ」の「方程式」=「同根」
「蝦夷=カイ=甲斐・歌意・下意・貝・櫂・隗・会・買い・魁・回・改・・・」の法則は「同音の維持、字形の異字」・・・
↓↑
Kai=カイ
日本人苗字
芥・階・貝
許斐・海井・花郁・加衣・開井
甲斐・賀井・改井
会・戒・開・亥・槐・會・海
↓↑
Kai=かい・カイ
日本人名前
佳生・佳以・佳泉・嘉威
花衣・華惟
香衣・香以・香斐
翔生・海生・可惟
歌衣・夏衣・夏斐・加衣・凱生
↓↑
甲斐(原田甲斐=原田宗輔)・・・伊達騒動
↓↑
海・櫂・介・階・芥・皆
槐・塊・魁・傀・巍・隗
↓↑ ・・・郭隗(カクカイ)より始めよ
「郭務悰」の名前より頗字メ与?
「悰=忄+宗=たのしむ・ソウ・ズ
感情・気持ち
enjoy・amuse・please・joy」
「悰子内親王=堀河天皇の第1皇女
康和元年(1099~1162)
母は仁子(にんし)女王
保安(ホウアン)四年
賀茂の斎院
大宮斎院と称され
応保二年十一月三日
死没・64歳」
「堀河天皇=白河天皇の第二皇子」
「堀河天皇は白河法皇に翻弄され
↓↑ 二十九歳で病没」
佳・帆・絵・緂・界
解・改
楫・快・開
会(會)・戒
壊・懐・楷・凱
↓↑
「カイ山=Cay (volcano)・スペイン語、Cay=南アメリカ大陸の西部を南北に連なる、アンデス山脈の南部を構成する山の1つ」
ーー↓↑ーー
x=-b+√b²-4ac
--------------
2a
&
x=-b-√b²-4ac
--------------
2a
2次方程式
ax²+bx+c=0 ( a≠0 ) の解
x= -b±√b²-4ac
------------
2a
3x²+5x+1=0
a=3, b=5, c=1 を解の公式に代入
X= -5±√5²-4×3×1
----------------
2×3
= -5±√13
---------
6
証明
ax²+bx+c=0
ax²+bx+c=0 の左辺を平方完成していく。
a(x²+(b/a)x)+c=0
a(x²+bax+b²4a²)-b²/4a+c=0
a(x+b/2a)²=b²/4a-c
右辺を通分して両辺を a で割る
(x+b/2a)²=b²-4ac/4a²
両辺のルートを取る:
x+b/2a=±√b²-4ac/2a
b/2a を移項する
x=(-b±√b²-4ac)/2a
注
D=b²-4ac<0 の場合は
√D=√-Di と解釈
ーーーーー
・・・???・・・
・・・「キリバス共和国」・・・「Kiribati(キリベチ=記理部置・紀理部地)?」・・・「キリバス=記理葉蘇」・・・「フェニックス(phoenix)=鳳凰=不死鳥=火の鳥」・・・「知る」と云うコトは妄想の情報量が増えるってコトだが・・・
ーーーーー
キリバス共和国
通称キリバス
太平洋上に位置する
ギルバート諸島
フェニックス諸島・・・鳳凰=不死鳥=火の鳥→付絵似椄句州?
ライン諸島・・・line(綱・紐・縄・糸・線)
line=ライン=Rhine(ライン河・下水路・溝)
の一部等を領土とする国家
イギリス連邦加盟国
キリバスは
33の環礁(カンショウ)・・・珊瑚礁(サンゴショウ)
からなり
赤道付近に散らばっている
首都
タラワ中心部キリバス政府付近
経度173度04分
バイリキ島
タラワ環礁内の小島
キリバス共和国
タラワ環礁
の政治の中心地
キリバス共和国議会は
アンボ島にある
行政官庁は
ベチオ島
ビケニベウ島
に分かれて設置
集中型の首都ではない
世界
第3位に相当する
排他的経済水域を有する
世界で最も早く日付が変わる国
キリバスは
北半球、南半球
東半球、西半球
にまたがる世界で唯一の国
経度180度の地点を結ぶ理論上の線
国際日付変更線を
西から東に跨ぐ場合は日付を1日戻し
東から西に跨ぐ場合は日付を1日増やす
↓↑
西側と東側の時差が24時間ちかくある
西側の島から
月曜日の朝に
東側の島に電話をすると
東側の島はまだ日曜日の朝
金曜日に東側から西側に電話すると
西側は既に土曜日
↓↑
1995年
日付変更線を
国の一番東端の島まで移動
太平洋のど真ん中で
日付変更線をコの字型に曲げた
経度で30度ほど、距離で3300kmほどズラした
↓↑
正式名称
Republic of Kiribati
通称
Kiribati
キリバス語での発音は
「キリバシ・・・・記理葉詞・切り端?
キリバス」・・・紀里場州(素)・霧葉州(蘇)?
日本語表記は
キリバス共和国
漢字を使った当て字は
「吉里巴斯」と表記・・・・吉里巴斯?
1788年
クルーゼンシュテルン
らが
島を発見したイギリスの水夫
トマス・ギルバート
にちなみ
フランス語で
ジルベール諸島 (îles Gilbert)・・・字留部重留?
と名づけたことに由来
英語読みの
「Gilbert」が転じて
「キリバス」となった
↓↑
先住民
約2000年前
西方からカヌーに乗ってやってきた
ミクロネシア系の人々・・・・見句賂音詞蛙(亞)?
最初のヨーロッパ人は
スペイン人航海家
1537年
クリスマス島(キリティマティ島)
を望見
1777年・・・・壱千七百七拾七・壱阡漆陌漆拾(足)漆
イギリス人
ジェイムズ・クック
・・・Cook(料理人・膳部=かしわで=柏手・拍手)
柏=十八白
拍=扌白
神前で掌(手の平)を併せ打って感謝の音を出す
Cock=雄鶏・蛇口・男性器の俗語
が来島
1892年
ギルバート諸島は
エリス諸島と共にイギリスの保護領
1916年
植民地
1971年
自治領
ーーーーー
第二次世界大戦
1941年12月
日米開戦
日本軍は
ブタリタリ・・・・・「ブ、タリ、タリ」
(マキン環礁)・・・「マ・キン」
タラワに侵攻・・・・「タラワ=汰等和=多等倭」?
12月10日
占領
1942年8月17日
アメリカ軍
ブタリタリ
に奇襲攻撃(マキン奇襲)
第2海兵襲撃大隊
約220名の海兵隊員が
潜水艦2隻に分乗、島に潜入
日本軍の第62警備隊
マキン派遣隊(約70名)と交戦
日本軍は半数が戦死
アメリカ軍は翌日に撤退
日本軍は
1942年9月
ギルバート諸島の守備隊を増強
1943年中
ベティオ(Betio)・・・「部手意嗚」?
を中心とした
タラワ環礁
ブタリタリ
に守備隊が置かれた
1943年11月20日
アメリカ第2海兵師団が
タラワ
ブタリタリ
に侵攻占領
(タラワの戦い、マキンの戦い)
ギルバート諸島は
1944年2月
米軍の
マーシャル諸島
への侵攻の拠点に使われた
ーーーーーー
1956~1962年
ライン諸島の
クリスマス島=キリスィマスィ島 (Kiritimati)
北緯1度53分
西経157度24分
が
イギリス・アメリカ両国の核実験場とされた
1995年1月1日
日付変更線をずらし
世界で最も早く日付が変わる島
北緯1度53分
西経157度24分
↓↑
世界各地の地方時は
経度15°ごとに1時間の差
太平洋を通る経度180°の線
を日付変更線とし
これを
東から西へ通るときは
日付を1日進め
逆の場合は1日遅らす
東から西へ越える場合は
日付を
1日進ませ
西から東へ越える場合は
1日遅らせる
経度15度→1時間
日本標準時(東経135度)が1月1日0時
東経150度では 1日1時
東経165度で 1日2時
↓↑
マーシャル諸島・・・「眞唖者留」?
北緯11度35分
東経165度23分
↓↑
1885年
ドイツが保護領とする
(独領ミクロネシア、ドイツ植民地帝国)
1914年
第一次世界大戦において日本が占領
1919年
国際連盟委任で
日本の委任統治領
1920年
国際連盟が日本の委任統治領として承認
1944年
「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」で
アメリカ軍が占領
1947年
国際連合
アメリカ合衆国の信託統治領
(太平洋諸島信託統治領)
として承認
↓↑
1954年3月1日
ビキニ環礁
水爆実験(キャッスル作戦)実施
第五福竜丸事件が発生
実験を行なった島は消え去り
深さ120m、直径1.8kmのクレーターが出来た
座標:北緯11度41分50秒 東経165度16分19秒
↓↑
キリ島(Kili Island)・・・キリ?・・・キリキリ?
1948年11月2日
アメリカ政府が
核実験のため
ビキニ環礁の島民を
移住させた無人島
↓↑
1978年
エリス諸島は
ツバル
としてイギリスから独立
1979年
キリバスが独立
独立の際
アメリカはほとんど無人の
フェニックス諸島および
3つの島を除く
ライン諸島すべての所有権を放棄
キリバスの領土となった
独立当初は領域内を
日付変更線が通過し
キリバスの
時間体系は島によって
日付が異なるという
行政上において
不便な設定になっていた
1995年
に日付変更線の位置を
領域の東端にずらして不便を解消
「世界一早く新しい一日を迎える」
国家になった
ーーーーー
・・・世界一早く新しい一日を迎える・・・???・・・
そりゃぁ、「月の朔望(サクボウ)」は生態系のナンにでも影響するさ、「ルナテッィク( lunatic)」ってコトバもある・・・モチロン、物理的、動的相互作用のバランス均衡、「+⇔-」のプロセスの連続での状態だが・・・
目に見えて確実に観察できるのは月の変化と「赤蟹」さんの移動である・・・TVやユウチューブだけれど・・・
この場所はオーストラリア連邦領の島、
「クリスマス島(Christmas Island)」・・・
↓↑
同名の
「クリスマス島(Christmas Island)」がアル・・・???
↓↑
キリバス共和国の島の
北緯1度53分00秒 西経157度24分00秒
クリスマス島(Christmas Island)
キリスィマスィ島 (Kiritimati) ・・・マサか「霧島」?
↓↑ 霧島山=噴火の新燃岳
霧島=大日本帝国海軍戦艦
金剛型4番艦戦艦
1942年11月15日
↓↑ 第三次ソロモン海戦で撃沈
名前の由来は
イギリスのジェームズ・クックが
1777年のクリスマスにこの島に到達したことによる
↓↑
核実験
1957年~1958年
イギリス
1962年
アメリカ
大気圏内核実験
合計で20回以上
島の南東側
もしくは島から離れた場所の高空
島民、
実験に立ち会った
イギリス人兵士の間に
放射能による疾病が広まり
実験期間中
キリスィマスィ島で
役務についていた部隊から訴訟・・・
↓↑
「Rec crab migration on Christmas Island, Australia
クリスマス島 (Christmas Island)
インド洋にある
オーストラリア連邦領の島
西オーストラリア州の
パースの北西2360km
インドネシアのジャカルタの
南500km
南緯10度30分、東経105度40分」
アカガニ(赤蟹)の産卵移動
クリスマス島 (Christmas Island)
↓↑
1666年の地図にモニ島と記録
燐(リン)鉱の発見で
1888年6月6日
イギリス領へ編入
↓↑
1942年3月31日
日本軍のクリスマス島占領
4月1日18時1分
軽巡(那珂)が
英国潜水艦「シーウルフ」の魚雷を右舷中央部に受け
一時航行不能となったが
20時30分、「シーウルフ」を発見、撃沈
↓↑
1942年4月1日・・・ナニ、コレ、不思議な海戦の顛末記・・・
21時30分
「那珂」は「名取」に曳航
「天津風、峯雲、夏雲」に護衛され
パンタム湾へ退避
主隊と輸送船も荷揚げを打ち切って退避
22時30分
「球磨川丸」・・・東洋汽船「日洋丸」を
↓↑ 東洋海運への現物出資で改名
船自体は「高栄丸」の船楼甲板を
1枚継ぎ足して内部容積を増した
海軍特設運送船となり
太平洋戦争開始以来
各地で上陸作戦に参加
後、改修され1943年から給油艦
↓↑
1945年1月12日
聖雀=サンジャック
(Cap Saint Jacques)
ベトナムバリア
ブンタウ省の
省都ブンタウの
旧名 (Cap Saint-Jacques)
サンチャゴ
↓↑ 泊地で米空母機の攻撃で沈没
は
第36号哨戒艇に護衛され
燐鉱袋詰42トンを積んだ
「君島丸」は
第34号哨戒艇に護衛され
それぞれ泊地を出発
↓↑
「那珂」は「名取」に曳航され途中で自力航行し
ジャワ島バンタム湾に到着
蘭印部隊指揮官
高橋伊望中将はバンタム湾に停泊の
救難船「静波丸」と
第22駆逐隊第2小隊
「長月・水無月」に
「那珂」救援を命じていたが
「那珂」自力航行可能により
「静波丸」の随伴は取りやめ
「長月」
「水無月」=「みなづき・六月」
↓↑ 「人体の急所の一・みずおち」
↓↑ 和名ミナヅキ(水無月)
科名アジサイ(紫陽花)科
旧名
ユキノシタ科
雪ノ下=コジソウ(虎耳草)
学名
Hydrangea paniculata f. grandiflora
「水無月(ミナヅキ)」
「ノリウツギ(糊空木・宇津木)」
雪の下(ゆきのした)科
Hydrangea=アジサイ属
paniculata=円錐花序
Hydrangea(ハイドランジア)
ギリシャ語
↓↑ 「hydro(水)」+「angeion(容器)」
園芸品種
和名は「水無月」
旧暦の6月の頃に開花
白くて大きな花穂は
母種の「ノリウツギ」と違って
「装飾花」に包まれている
アジサイ(紫陽花)に似ている
「円錐花序」・・・・・・・・・逆円錐形
「カシワバアジサイ」よりも
繊細で優美・・・
↓↑ ↓↑
↓↑ 「海月・水母・水月=くらげ=口等解」?
のみが合流
4月3日午後1時40分
「那珂」はパンタム湾に到着
クリスマス島攻略部隊は
4月3日午前9時30分
「名取」は
バンタム湾到着をもって解散
日本本土に回航された
「那珂」は
6月15日附で
第四水雷戦隊から除かれ
同戦隊
旗艦は
長良型軽巡四番艦
「由良」が務めた・・・???
・・・艦名由来、若狭湾に注ぐ由良川に因む
1943年
日本軍占領のクリスマス島は
潜水艦の攻撃に晒され12月に島を撤退
↓↑
クリスマス島 (Christmas Island)
現在
インド洋にあるオーストラリア連邦領の島・・・
核実験がされた・・・
人口は約2,000人。アカガニは約5,000万匹以上」
そして
「サンゴ(珊瑚)の産卵は
毎年10月~11月~12月の満月の夜から数日間の現象」
↓↑
「別天神五柱~神世七代・天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻(あま)。下效此(以下の文は此れに效=ならふ=効・効力)、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。・・・次、國稚-如-浮脂(あぶらうく)-而-久羅下(くらげ)-那州(なす)多陀用幣流(ただよえる)之時(流字以上十字以音)、如-葦牙(あしかび)、因-萌騰之物而成神、宇摩志(うまし)-阿斯(あし)-訶備(かび)-比古遲神(此神名以音)、次-天之常(とこ)立(たち)神。(訓常云、登許=とこ、訓立云、多知=たち)。此二柱神、亦、獨神成坐而、隱身也」・・・「久羅下=くらげ」・・・「六月乙未朔丁巳(二)」、「天皇-獨-與-皇子、手硏耳命(たぎしノみみノみこと)、帥軍-而-進、至-熊野荒坂津(くまのあらさかつ)-亦名-丹敷浦(にしきノうら)、因誅-丹敷戸畔(にしきとべ)者」・・・「高倉下=くらじ(熊野之-高倉下-此者-人名賷一横刀)=名を高-倉-下(たか-くら-ジ)命=手栗(てぐり・シュリツ・シュリ)彦(ひこ・びこ・ゲン)命(みこと・いのち・メイ)」・・・なぜ、「高-倉-下(たかくら-ゲ)」と訓まないのか?・・・別名が「手に栗」なら「手に毬栗(イガグリ)」の「棘(とげ)が刺さる手のイタミ」の意味を重ねた?・・・「辛い」は黥(入墨・刺青・文身)の鍼(はり・針)の痛さ・・・「幸=一+立+十」・・・
「くらげ=水母・海月・水月」・・・「水面に映る月の姿」・・・「海月は、ポルトガル語?・・・Alforreca・A'gua-viva=生き水」・・・「水母は漢名」・・・母(はは)・毋(ない・なかれ)・毌(つらぬく)・・・「海鏡・石鏡・海蛇=クラゲ」・・・「海折(カイセツ)」・・・「海が折れる」って?・・・
「栗=西+木(十八)=くり・おののく・きびしい・リツ・リ・ブナ(橅)科の落葉高木・栗子・おそれる(慄)・おののく・きびしい・栗烈(リツレツ)・栗毛(くりげ)・栗鼠(りす)」・・・「栗熊」・・・「山城国久世(くせ)郡の古代地名・ 京都府宇治市大久保・広野の一帯・仁徳天皇十二年十月条=大溝(おおうなで)を山背(やましろ)の栗隈(くりくま)の県(あがた)」・・・
ーーーーー
「熊野=球磨之=熊津=熊川」
「荒坂津(くまのあらさかつ)」
「丹敷=にしき=爾詞記=錦(にしき)=西来(あや)」
↓↑
韓国
「熊川(浦萕)→鎮海→泗川→昆陽→河東」
熊川=錦江の別名
熊川=百済の都・錦江(白村江)の畔
現在の忠清南道公州市⇒熊津
熊川県(熊川郡)=慶尚南道にかつてあった県(郡)
鎮海区 (昌原市)
熊川駅=忠清南道保寧市にある長項線の駅
熊川(こもがい)=高麗茶碗の一
韓国慶尚南道の熊川に由来
↓↑
日本はワンサカ・・・
「熊野=球磨之=熊津=熊川」
熊川 (宮城県)=宮城県栗原市
北上川水系の迫川支流
熊川 (福島県)=福島県双葉郡大熊町
本流
熊川 (栃木県)=栃木県大田原市・那須塩原市
那珂川水系の蛇尾川支流
熊川 (群馬県)=群馬県吾妻郡長野原町
利根川水系の吾妻川支流
熊川 (山口県)=山口県熊毛郡平生町
大内川水系
熊川 (香川県)=香川県木田郡三木町
新川水系
熊川=福島県双葉郡
大熊町熊川 (大熊町)
熊川=東京都福生市熊川 (福生市)
熊川駅=東京都福生市にある駅
熊川村=東京府(東京都)福生市にあった村
熊川=福井県三方上中郡若狭町熊川
熊川宿 – 福井県若狭町にある旧鯖街道の宿場
↓↑
ーーーーー
クラゲ(水母・海月・水月)
刺胞動物門
淡水または海水中に生息
浮遊生活をする種の総称
体がゼラチン質
触手を持って捕食生活
刺胞動物門
ヒドロ虫綱
十文字クラゲ綱
箱虫綱
鉢虫綱
広義には
有櫛動物門(クシクラゲ)
刺胞動物、有櫛動物以外にも
クラゲの名前を持つ生物が
複数の門にわたって存在
軟体動物門の
ゾウクラゲは刺胞動物と同様
ゼラチン質で浮遊生活
キクラゲ、ツチクラゲは菌類
イシクラゲは藻類
対になる動物はポリプ
ポリプ=刺胞動物の体の構造で
イソギンチャクのように
固着して触手を広げるもの
↓↑
クラゲ=浮遊生活をする刺胞動物
↓↑ 体はゼラチン質で柔らかく、透明
体全体は
多くのものでは
「傘(かさ・サン)・笠・暈・嵩」
のような形
傘の下面の中心部に口
ヒドロクラゲでは
傘から柄が伸びてその先に口がある
口の周囲に触手がある
クラゲの旗
口クラゲ類
口クラゲ類では
口の縁が長く伸びて
口腕
根口クラゲでは口腕が複雑化し
口は口腕の先端部に
小さな吸口として開口するだけで
中央の口は閉じてしまう
肛門はない
多くの種類では
「傘」の縁に触手がある
ヒドロクラゲ類では
触手の付け根に
眼点を持つものがある
「傘」の縁に平衡胞を持つものもある
箱虫類、「鉢クラゲ類」
「傘」の縁に感覚器がある
平衡胞のみの場合と
眼点を有する場合がある
箱虫類では非常に発達した眼を持つ
十文字クラゲ綱
口の反対側に短い柄があって
これによって海藻などに付着して生活
形態的に大きく異なるのが
管クラゲ類
多数の個体が群体を形成し
全体では「傘の形」には
似てもにつかないものが多い
↓↑ 長さが10mを越えるようなものもある
クラゲ
基本的に雌雄異体
卵から幼生(プラヌラ)が生まれると
幼生は基質上に定着し
ポリプという
イソギンチャク(磯巾着)
のようなモノになる
新しいクラゲは冬季になると
ポリプが御椀を重ねたような
「ストロビラ」になり出芽
エフィラ幼生・・・鉢(はち)クラゲ類の幼生
となって泳ぎ出す
変態、
ストロビレーション=ポリプの胴に括(くび)れができること
などによっても生じる
ポリプは無性生殖によって増殖
これを無性世代
クラゲを有性世代
世代交代をおこなうものという場合がある
カラカサ(唐傘)クラゲ
オキ(沖)クラゲ
は
プラヌラから
ポリプにならず
そのまま
エフィラとなる
↓↑
ヒドロ虫綱のクラゲ
ポリプがよく発達し
群体となるものがあり
その場合は
特に分化した
生殖個虫から作られるものもある
全くポリプを形成しないクラゲもある
クラゲ
プランクトンとして生活
多くのクラゲは
傘周囲に環状筋があって
傘を開いたり閉じたりすることで
口が開いているのと
反対方向に進行することができる
多くは時折泳いで水中を漂っている
ヒドロ虫綱の
カツオノエボシ(鰹の烏帽子)
ギンカ(銀貨)クラゲ
などは
気体を含んだ浮きを持っている
水面から若干上に出て浮かんでいる
沈んで生活するものに
サカサ(逆さ)クラゲ
傘面を下にして水底に沈んでいる
↓↑
十文字クラゲ綱
固着して生活
触手などにある刺胞には
獲物に注入する毒を持つ
一部に共生藻を持ち
藻類の光合成産物を
エネルギー源として利用するものがある
刺胞動物
クラゲの形であるもの
ヒドロ虫綱
十文字クラゲ綱
箱虫綱
鉢虫綱
↓↑
ヒドロ虫綱
Hydrozoa
↓↑
エチゼン(越前)クラゲ
ビゼン(備前)クラゲ
などを食用する
中華料理の
「海蜇」
傘の部位は海蜇皮(海折皮)
口腕部は海蜇頭(海折頭)
として加工され
細切りにして乾燥させ塩蔵したものを
水で戻して酢の物や
和え物などにする調理のほか
加工食品とする・・・
↓↑ ↓↑
「膳部=朝廷の食膳を調えることを職とした
専門集団の称
膳司に従って
朝廷・天皇の食事の調理を司どった官人
膳夫(かしわで)
膳部の統領(伴造(とものみやつこ))
を
膳臣(かしわでのおみ)といい
孝元天皇の皇子
大彦命(おおひこのみこと)
阿倍臣(あべのおみ)の祖の孫
「磐鹿六雁命」
(いわかむつかりのみこと)が
景行天皇に
堅魚(かつお)と
蛤(はまぐり)を調進して嘉賞され
膳部の統領に任命されたのが起源」・・・
「日本武尊の東国遠征や
景行天皇巡幸の記事に
七拳脛(ななつかはぎ)
磐鹿六鴈(いわかむつかり)
が膳夫として随行」・・・
「応神天皇の吉備行幸の際に
吉備氏の祖が
兄弟子孫を膳夫となして饗した
清寧天皇代に諸国に
白髪部舎人
白髪部靱負
とともに
白髪部膳夫を置いた(日本書紀)
景行天皇の東国巡幸の際に
東方諸国造12氏が子弟を
膳夫に進めたとの(高橋氏文)」の説話・・・
「膳部菩岐々美郎女
(かしわで の ほききみのいらつめ)
?~推古天皇三十年二月二十一日
(622 年4月7日)
聖徳太子
(上宮之厩戸豊聡耳命→厩=廏=廐
厂+既(日ム旡)
厂+旣(白匕旡)
厩戸=廏戸=馬宿
廐=广+旣
廏=广+殷
广+白+匕+殳
厩=厂+旣
厂+白+匕+旡
うえのみやのうまやどの
とよとみみのみこと)
の妃
膳大の娘(女)
高橋妃」・・・高橋=膳部(かしわで)
↓↑ ↓↑
「くらげ」の語源
目がないように見えることから
「暗気」
丸い入れ物の
「輪笥(くるげ)」の形
「海月・水月」は
海中、水中の月のように見える意味
「水母」の由来は不明・・・「瑞乃・水津乃」?
・・・見ずの母、垂母(すいぼ・すいも)・・・垂仁天皇の母?
垂仁天皇=活目入彦五十狭茅
(すいにんてんのう)
崇神天皇二十九年一月一日
~
垂仁天皇九十九年七月十四日
第十一代天皇
在位
垂仁天皇元年一月二日
~
垂仁天皇九十九年七月十四日
母は「御間城姫命=御真津比売」
↓↑
垂(た)れる母・・・葉々(はは)→推古天皇・・・
諱は額田部皇女
(ぬかたべのひめみこ)
和風諡号は豊御食炊屋姫尊・・・炊飯器=電気釜
(とよみけかしきやひめのみこと)
↓↑
「テティス(古希語 Thetis)=海女神
ネーレウスとドーリスの
娘たち(ネーレーイス)の一人で
ペレウスと結婚し
英雄アキレウスを産んだ母」
アキレスの弱点は踵(かかと)の腱
ーー↓↑ーー↓↑ーー
「垂(た)れる葉々(はは)」とは・・・
「聴衆に配るパンが足りない」の
「山上の垂訓」カモ?・・・
「さいわい・サイワイ」→「幸=一+辛(立十)」
「Mount of Beatitudes」
「新約聖書内マタイ・福音書第五章3節~10節~七章
ルカに・福音書第六章20節~38節
「求めよ、そうすれば、与えられ」・・・説教のコトバよりもパンと魚が喰えた・・・「ベトサイダという町で、イエスが2匹の魚と5個のパンを裂いて弟子たちに渡し群衆に配らせ5000人に食べさせた」・・・「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった(福音書9章10節~17節)」・・・腹がへっている者には・・・「サイワイ」は無理、むり、ムリ・・・
・・・「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか」・・・イエスは「座頭の市」を知らないのは当然だが・・・
クラゲは骨のないものの象徴
「枕草子」で
中納言隆家が見たことのない
扇の骨を異様にほめるのに対して
清少納言が
「それではクラゲの骨のよう」
と冷やかした・・・?
珍しいことやあり得ない物事のタトエ
「クラゲの骨」
13世紀・「承久記(下)」
上田刑部という武士が
「人の身には、命ほどの宝はなし。
命あればクラゲの骨にも申すたとえの候なり
(命があれば、クラゲの骨にも会うだろう)」
といった・・・
「乙姫の病気の際に
亀がサルの生き肝を取りに行く話で
クラゲが余計なことを言ったために
土壇場でサルに逃げられ
罰として骨を抜かれた」・・・
ーーーーー
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ)
1892年(明治25年)11月2日
~
1971年(昭和46年)1月23日
編集者・弁護士・社会運動家
孫文の盟友の
宮崎滔天の長男
母は
前田案山子
の三女・槌子
有夫であった歌人
柳原白蓮と駆け落ちした
白蓮事件で知られる
↓↑
前田 案山子・・・山田案山子=久延毘古=そほど
(まえだ かがし) 久延毘古(くえびこ)
↓↑ 大国主の元に海の向こうから
小さな神がやって来たが
名を尋ねても答えず
誰もこの神の名を知らなかった
ヒキガエルの
多邇具久が
久延毘古が知っていると云う
訊ねると
「神産巣日神の子の
少彦名神である」と答えた
「古事記」で「ヒキガエル=多邇具久」
を登場させる理由は
「纂他案簒詞」で
「引き換える」だからである・・・ ↓↑
文政十一年二月二十三日(1828年4月7日)
~
明治三十七年(1904年 )七月二十日
自由民権運動家・衆議院議員(1期)
夏目漱石の『草枕』に登場する
「志保田の隠居」のモデル
↓↑
熊本県
玉名郡
小天村(玉名市天水町)生まれ
父は小天村の広大な土地を所有する郷士
武芸で
熊本藩主
細川慶順(維新後、韶邦)
の護衛などをつとめた
↓↑
前田覚之助(維新後、案山子と改名)
「前田案山子」は
小天村に戻り、
改革に取り組んだ
2代藩知事
細川護久に共鳴し
村に学校を作り
衆望を集め
自由民権運動の
熊本における中心的人物となり
明治二十三年
第1回衆議院選挙で国会議員となった
↓↑
前田 卓(まえだ つな)
明治元年(1868年)六月十七日
~
昭和十三年(1938年)九月六日
卓は
男女同権論を唱える
岸田俊子などと知り合い
明治二十年(1887年)
玉名郡
高道村の
民権運動家で豪農の長男
植田耕太郎と結婚
だが
植田の封建的な考えと合わず
一年後離婚
後
民権運動家の
永塩亥太郎
と事実婚であったが
再度
別れ
明治二十九年(1896年)頃
に
小天村に戻った
↓↑
小天の湯の浦には
国会議員を一期で退いた
前田案山子の
温泉付きの別邸があり
それに部屋をつぎたして
旅館としており、そこで
前田 卓
は旅館を仕切った
明治三十年(1897年)頃
明治三十七年(1904年)
軍人の
加藤錬太郎
と結婚するが
また、一年で離婚
↓↑
明治三十八年(1905年)
上京
孫文
黄興
の
「中国同盟会」の機関紙
「民報」を発行する民報社に住み込み
革命家や中国人留学生の世話をする
明治四十一年(1908年)
「民報社」は
清国の要請をうけた日本政府から
発行禁止処分
明治四十三年(1910年)
東京市養育院で働きはじめる
明治四十四年(1911年)
辛亥革命
大正四年(1915年)
異母弟
利鎌を養子とし
翌年、
夏目漱石と再会
卓は
『草枕』の「那美のモデル」として扱われ
漱石没後
夏目鏡子や松岡譲とも交際
昭和十三年(1938年)
赤痢で病死・・・
ーーーーー
「古事記」では天地開闢で
「海月(クラゲ)如ス漂ヘル国」
と表現・・・
・・・「十三歳」の「和泉式部」と別れ、置き去りにされたネコ(そめ)が悲しんで病にかかり(罹)、そこの温泉に浸かって病を癒やした「猫啼温泉」が現存するらしい・・・温泉街はないものの、「今出川」の流域に二軒の旅館があるらしい・・・「磐城の國・福島県石川郡石川町」ですか・・・
「今出川=いまでがわ
=位倍出臥倭(話)」
「今出川=コンシュツセン
=今出撰=艮朮撰
=金戌(シュツ・卆・甩・述・朮)撰」
=錦舟津殱(戦)
殲=つくす・ほろぼす・殺しつくす
セン・殲滅
以上も、以下もウイッキペデアから添付・・・少々、改作・・・
「八色の姓において
上級の氏姓にもれた
下級の身分の者や、
これらの農民を主な対象としたもので
その順位は、無姓を下級とし、
造(みやっこ)
公(きみ)
史(ふひと)
勝(すぐり)
村主(すぐり)
拘登(ひと)・・・拘=扌+句=かかわりを持つ・関係する
拘泥・拘引・自由を奪う
拘置・拘禁・拘束
登=のぼる
連(むらじ)
と身分が上がっていく。これは、
天武朝において氏上に相当する氏が
八色の姓に改姓する前段階として、
まず連(むらじ)への改姓が行われ、
この
「連=小錦」位以上を基点として、
「忌寸」以上の4つの姓へ改められたことと
同様の対応である」・・・
「氏上である
忌寸以上についても、
補足的な氏姓の変更が行われている。
氏の名において
春日より大春日
中臣より大中臣
への変更、また
宿禰から大宿禰
への変更が行われるなどしたため、
氏姓の制は、全般的に、
より緻密に浸透することになった」・・・
「首位の昇叙があり、ついでそれに連なる
直系親族のみに対し氏姓の変更が行われる
といった順序により
同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。
この改賜姓を認可する権限は天皇にあった」・・・
「氏姓制度の基盤は、
血縁集団としての同族にあったが、
それが国家の政治制度として編成し直された。
その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。
同族のなかの特定の者が、
臣(おみ)・・・・目・見張る・監督
連(むらじ)・・・聨合=聯合=連合・・・
聨=耳+幺+幺+廾(丱)=連=車+辶
伴造(とものみやっこ)・・・創造・造形・造詣・物造・技術者
国造(くにのみやっこ)・・・
百八十部(ももあまりやそのとも)
県主(あがたぬし)・・・縣・懸・阿形・鼎・阿片
などの地位をあたえられ、
それに応ずる氏姓を賜った。
各姓は以下、
臣(おみ)
↓↑・・・使主(おみ・漢人系渡来人
阿知使主(あちのおみ)
東漢氏の祖・阿智使主・阿知王・阿知吉師
王仁の裔と称する
河内漢氏(かわちのあやうじ)
東漢、西漢と連称されるが氏は別
坂上苅田麻呂の上表文
応神天皇のとき
後漢の
霊帝の三世孫
阿知使主(あちのおみ)が
党類十七県をひきい来日
子の
都加使主(つかのおみ・掬使主)を
呉に遣わし
工女兄媛・弟媛・呉織・穴織
四婦女を連れてかえった
これは
雄略天皇のときに
倭漢氏の一族が呉に使し
手末才伎(たなすえのてひと)の
衣縫兄媛・弟媛・漢織・呉織
を連れかえった説話と共通・・・
↓↑ ↓↑
阿知使主
旧居の帯方郡の故地
高句麗と百済の間に
才芸に巧みなものが
多いので迎えたいと申請
村落をあげ連れかえったのが
「漢人(あやひと)」・・・
「東漢掬=都加使主」
都加使主(つかのおみ)
応神朝に父の
阿知使主(あちのおみ)
とともに朝鮮半島から渡来
同朝の末年に父とともに
呉(くれ・中国江南の地)の国に
遣わされて
縫織の工女を伴い帰った
雄略朝に
百済から貢上した
今来才伎(いまきのてひと)である
新来の手工業技術者の
陶部(すえつくり)
鞍部(くらつくり)
画部(えかき)
錦部(にしごり)
訳語(おさ)
↓↑ などの管理を命ぜられた・・・
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
圓(つぶら)氏=都夫羅使主
ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を
氏の名とし
王家と並ぶ立場にあり
ヤマト王権においても
最高の地位を占めた豪族
↓↑
連(むらじ)
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
ヤマト王権での
職務を氏の名とし
王家に従属する
官人としての立場にあり
ヤマト王権の成立に
重要な役割をはたした豪族
↓↑
伴造(とものみやつこ)
連(むらじ)とも重なり合うが、
おもにそのもとで
ヤマト王権の
各部司を分掌した豪族
弓削氏(ゆげ)
矢集氏(やずめ)
服部氏(はっとり)
犬養氏(いぬかい)
舂米氏(つきしね)
倭文氏(しとり)・・・ナゼ「倭文氏(しとり)」?
↓↑ 訓なら「やまとのあやし」だろう
倭文=シトオリという織布
倭文とは倭文(しず・旧事記)
という織物の名で
正しくは
「シズリ・シドリ(和訓栞)」
「シズオリ(天武記)」
等と読むべきで、
倭織りの文布ではなく
倭文の文字をシズオリと読ませた?
倭文=楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で
その横糸を赤青の原色で染めて
乱れ模様に織ったもので
横シマの
楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布・・・
ならば
「やまとのあやし」なら
「倭文氏」は「倭」とは
「日本以外」からの「帰化人」だろう?
しかも「倭と漢の文氏」とは
↓↑ 双方の「文字」の「翻訳係り」だろう・・・
などの氏や
秦氏(はた)
東漢氏(やまとのあや)・・・東=やまと
ひがし=比嘉詞-漢-氏
あつま・吾妻・我妻・阿妻
西文氏(かわちのふみ)・・・西=かわち=河内
にし=爾耳・似詞-文-氏
などの代表的な
帰化人達に与えられた氏
連(むらじ)
造(みやつこ)
直(あたい)・・・「直=なおす・ジキ・チョク
正直・直角・直線」
直衣(のうし)=タダの衣
公(きみ)
などの
姓を称した
↓↑
百八十部(ももあまりやそのとも)・・・陌捌拾(足)の部
さらにその下位にあり、
部(べ)を直接に指揮する・・・部=隷属する人々の集団、班
多くの
伴(とも)・・・現場監督・班長
をさす。
首(おびと)
史(ふひと)・・・・記録係
村主(すくり)・・・村長
勝(すくり)・・・・警察、軍事、秩序係り
などの
姓(カバネ)を称した。
↓↑
国造(くにのみやつこ)
代表的な
地方豪族をさし
一面では
ヤマト王権の地方官
また在地の
部民を率いる
地方的
伴造の地位にある者・・・
↓↑
国造には、
君(きみ)
直(あたい・あたえ)
の姓が多く、
中には
臣(おみ)・・・使主
を称するものもあった。
↓↑
県主(あがたぬし)
これより古く、
かつ小範囲の
族長
いずれも
地名を氏の名とする。
このように、
氏姓制度とは
連―伴造―伴(百八十部)という
王のもとで
ヤマト王権を構成し、
職務を分掌し世襲する、
「負名氏(なおいのうじ)」
を主体として生まれた
そののち、
臣(おみ)のように、
元々は王とならぶ
地位にあった豪族にも及んだ・・・
↓↑
「部民制」
「氏姓は元来はヤマト王権を構成する
臣・連・伴造・国造
などの
支配序列の階級別構成員を称したものである
(王とその一族を除く)
しかし、6世紀には一般の民にも及んだ
これらの一般の民は、
朝廷すなわち、
天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、
さらに
臣、連らの豪族に
領有・支配されていた
一般の民の中から、
朝廷に出仕して、
職務の名を負う
品部(しなべ)
王名、宮号を負う
名代・子代、屯倉
の耕作民である
田部
などが必然的に生まれた
彼らは
部民共同体の中で
戸を単位に編成され
6世紀に
籍帳に登載され
正式に氏姓をもった」・・・
↓↑
「地方豪族の
支配下にあった
民部(かきべ)は、
在地の族長を介して、
共同体・・・支配下に無い「協同体」は在ったか?
のまま
部(べ)に編入し
族長を経て
生産物を貢納させる形のものが多かった
↓↑
地方豪族の
支配下にあった・・・支配下に無い
「協同体」は在ったか?
支配序列の無い
「協同体」は在ったか?
一般の民にまで
6世紀の段階で
氏姓が及んでいたかどうかは定かではない」・・・
・・・定かではない・・・らしい・・・
ーーーーー
大化元年(645年)九月十二日
吉備笠垂
(きびのかさのしだる)=名は志太留とも表記
冠位は「大錦下」
が
「古人大兄皇子が
謀反を企てている」
と密告を受けた
「中大兄」皇子は
阿倍渠曽倍(あべのこそへ)・・・・九州、阿毎王朝
佐伯子麻呂(さえきのこまろ)・・・東北蝦夷、四国讃岐
以下兵四十名を
吉野へ派遣し・・・吉野は
↓↑ 神武天皇東遷の通過地で
高倉下(たかくらじ)に
剣、「布都御魂」をもたらした
「八咫烏」の熊野から橿原まで先導
高句麗の古墳の壁画には多くの
「八咫烏」が描かれているらしい
天武が隠遁し、
壬申の乱での挙兵の地
↓↑ 「役行者」が修験道を開いた地
弟子に典薬頭の「韓國連廣足」
「役行者=役君小角(えのきみおづぬ)」は
一言主に讒言され
「文武天皇」に
699年「伊豆」に流刑、701年に大赦
道昭が唐へ留学の途中
新羅の山中で五百の虎を相手に
法華経の講義を行っていると
聴衆(虎)の中に役行者がいて
道昭に質問した・・・
↓↑ 南朝、後醍醐天皇の拠点
古人大兄(大市)皇子・・・古人皇子・古人大市皇子
吉野太子とも呼称
を
殺害・・・?
「中大兄、即(すなは)ち
…古人大市皇子等を討たしむ」
・・・討たして殺害したか、どうかは「?」である・・・
生きていたとしたら
「古人大兄(大市)皇子=天武=大海人皇子=漢人皇子」?
「漢人」の大罪を天武は許した・・・
↓↑
大化元年(645年)九月三日
吉備笠垂は
↓↑
蘇我田口川掘・・・後、川堀の消息は不明
↓↑
物部
朴井連椎子・・えのいのむらじしいのみ・・・朴井=朴市?
↓↑ 連鮪(しび)=連椎子(しい)?
壬申の乱の天武側の武将
物部尾興(おこし)
倭漢文麻呂・・・・倭漢文直麻呂=倭漢文を直す麻呂
倭漢の文直麻呂
倭漢(やまとのあや)の
文(ふみ)の(直=あたえ)の麻呂(まろ)
↓↑ 「倭漢=東漢=やまとのあや」氏
祖は
応神大王の時代(3~4世紀初頭?)
百済(安羅国)から渡来した
阿智使主(あちのおみ)の末裔
明日香村の西部の
檜隈(ひのくま)に住み着いた
阿智使主を祀る
於美阿志(おみあし・御足?)神社
古人(古市)皇子=吉野皇子
↓↑
・・・・「ふる・布留・振る」比訳王爾・・・
・・・・・古「いち・位置・位地」往事・・・
↓↑
倭王-古人大兄皇子の娘、
倭姫(天智天皇の皇后)
は
「倭-漢-氏」に養育された・・・
「やまとのあや」氏
記録は
東漢=敏達紀頃まで
東漢直の姓
東漢掬(5世紀後半)
が賜ったもの
東漢直駒のあと
分家の坂上氏が宗家
坂上直駒子=東漢駒
↓↑
・・・「掬=扌+菊=すくう・キク
片手、両手を丸くして
その中へ水をすくいとる
手の平を丸めて
その中にナニかを載せる
両手一ぱいほどの量をすくう」
↓↑掬う=すくう=救う・巣食う
↓↑
倭漢=推古期以降
西漢=かわちのあや
河内を本拠地にしていた
河内漢、川内漢
倭漢氏より後に渡来
雄略天皇時代の
5世紀末~6世紀初頭
今来(いまき)の
今来漢人(新漢人)
(いまきのあやひと)
忍海漢人・漢部氏が
製鉄業に従事
遣隋使=新漢人氏
・・・「桓武天皇の母、
和新笠が田村後宮(今木)
にて祀っていた」・・・
・・・なぜ「和(倭)の新笠」なのか?
・・・「吉備笠垂」・・・
「笠=かさ=蓋(おほい)・傘(サン)・暈・嵩・量」
↓↑
後漢の霊帝の子孫・・・
霊帝
後漢の第十二代皇帝
解瀆亭侯劉萇の子
解瀆亭侯劉淑の孫
河間王劉開の曾孫
章帝の玄孫
184年(中平元年)
黄巾の乱
・・・「桓帝・霊帝の間(146年~189年)
光和年間」
・・・・光の和(倭・窪・話)
に倭国の大乱」・・・
↓↑
大化元年(645年)
古人大兄皇子襲撃に
倭漢文直麻呂
(やまとのあやのふみのあたえのまろ)
(倭の漢文を直す麻呂)
などが加わった
大化三年(647年)
倭漢直荒田井・・・倭漢の直す新たな意?
↓↑ ↓↑
「壬申の乱(天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
ユリウス暦672年7月24日~8月21日
グレゴリオ暦672年7月27日~8月24日
672年 壬 申(己・壬・庚)
007月 丁 未(丁・乙・己)
027日 甲 申(己・壬・庚)・大安・土曜日
~
028日 乙 酉(庚・ ・辛)
↓ ↑
申(猿・猨・猴・猱・沙流)
~
酉(鳥・隹・鶏・禽)
~
戌(犬・狗・獒・山犬=狼)
獒=十一方攵犬=敖(おごる・ゴウ)+犬
=マスチフ犬(Mastiff)・主に番犬・闘犬
獒犬(からいぬ・ごうけん)
大きくて強い犬
↓ ↑
天武一年六月二十九日
西暦672年7月29日ユリウス
西暦672年8月1日グレゴ
672年 壬申(己・壬・庚)
8月 丁未(丁・乙・己)
冲剋(己)
1日 己丑(癸・辛・己)・仏滅・木曜日
己(おのれ)丑(ぬし・うし)
↓ ↑
672年 壬 申(己・壬・庚)
008月 戊 申(己・壬・庚)
024日 壬 子(壬・ ・癸)・大安・土曜日」
↓↑ ↓↑
「天武紀・六年(677年)六月
天皇が
東漢直(やまとのあやのあたえ)
東漢直=父は東漢直磐井(いわい)か・・・?
↓↑ 「聖徳太子伝暦一本」に
駒の別名を「盤(いわお)」
↓↑ 又の別名を「駒子(こまこ)」
たちに対して
「六月壬辰朔乙巳、大震動。
・・・地震=天武6年6月14日
(677年7月19日ユリウス
7月22日グレゴり)
丁丑・丁未・乙巳→23日(丙午)
是月、
詔
東漢直等
曰
「汝等
黨族
之自
本犯七・・・本を犯し、七(漆・漆塗)
不可也。
是以、
從
小墾田御世
至于
近江朝、
常
以謀
汝等爲事。
今當朕世、
將責汝等
不可之狀
以
隨犯・・・「隨犯」?→「隨(王朝)」の「犯」?
應罪。
然頓
不欲絶
漢直之氏、
故
降大恩以原之。
從今以後、
若
有
犯者
必入
不赦之例」」
↓↑
↓↑ 「汝等党族は今までに
七つの悪逆を犯してきた。
小墾田の御世(推古大王の時代)から
近江朝まで常に
汝等(東漢直・やまとのあやのあたえ)が
謀り事を為してきた。
朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、
漢直の血筋を絶やさないために、
大恩を下す。
以後
罪を犯す者は赦(ゆる)さない」
と勅・・・
↓↑ ↓↑
七つの悪逆・・・?
・・・そんなコトより地震災害で大変だった・・・
・・・「漢直之氏」の知識も技術も必要だった・・・
↓↑ ↓↑
崇峻五年(592年)
東漢(やまとのあやの
直(あたえ)-駒(こま)が
・・・駒=馬+句=こま=高麗・独楽・狛
泊瀬部皇子を暗殺
東漢(やまとのあや)直-駒が
皇子の后、
河上娘(蘇我馬子の娘)を
馬子に返さずに自分のものにした
推古三十八年(628年)
舒明大王擁立のために
泊瀬王
(山背大兄皇子の異母弟)
を殺した?
境部摩理勢の襲撃に加わって絞殺した
皇極二年(643年)
倭(やまと)の
馬飼(うまかい)の
首(おびと)が
山背-大兄-皇子を襲撃・・・「大兄」は高句麗の官位?
↓↑ 高句麗の官職十三段階の七番目
「大兄」→「大江(おおえ)」
↓↑ 大江山=京都府丹後半島の付け根
に位置し与謝野町、福知山市、宮津市
にまたがる連山
別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽
三上ヶ嶽、御嶽
「大江山
いくのの道の遠ければ
まだ文もみず
天の橋立」
小式部内侍=和泉式部の娘
(こしきぶ の ないし)
父は陸奥守の橘道貞
長保元年(999年)頃
~
万寿二年(1025年)十一月)
掌侍・女房三十六歌仙の一人
「とどめおきて
誰をあはれと思ふらむ
子はまさるらむ 子はまさりけり
万寿二年(1025年)
娘の小式部内侍が死去の時の歌
和泉式部・・・越前守・大江雅致の娘
福島県石川郡石川町に
この地方の豪族、安田兵衛国康の
一子「玉世姫(たまよひめ)」が
「和泉式部」であるとの伝承
式部が産湯を浴びた湧水を
小和清水(こわしみず)
十三でこの地を離れた式部との
別れを悲しんだ
飼猫「そめ」が
啼きながら浸かり病を治した
といわれる
「猫啼温泉」が現存・・・
和泉式部の童女名は
「御許丸(おもとまる)」
「国許=故郷・生地・本国
許王朝=宇文化及(隋王朝末期)」
天寿二年(619年)
和泉式部
泉蓋蘇文=高句麗末期の宰相
↓↑ 淵蓋蘇文(?~665年・宝蔵王二十四年)
皇極四年(645年)
中-大兄-皇子に加担し・・・「大兄」は高句麗の官位?
高句麗の官職十三段階の七番目
「大兄」→「大江」
蘇我入鹿を殺害
高向国押
の甘言に乗り
警護していた
蘇我蝦夷の館の守りを解き
蝦夷を殺害
大化元年(645年)
古人大兄皇子の襲撃に
倭漢文直-麻呂→「倭漢の文直=訳文・翻訳文」の麻呂
などが加担
大化三年(647年)
倭漢直荒田井比羅夫が・・・倭漢
直
荒田井
比羅夫・・・役職名
用水路の工事で
難波に水を引き
百姓を疲労させた
斉明五年(659年)
↓↑・・・7月27日(斉明天皇5年7月3日)
坂合部石布
津守連吉祥
らを遣唐使に派遣
坂合部石布は遭難、漂着し
原住民に襲撃され死亡
津守連吉祥らは唐に到着
10月21日(斉明天皇5年9月30日)
遣唐使が唐の皇帝に謁見
12月19日(斉明天皇5年11月1日)
唐での冬至の儀式にて
日本からの
遣唐使の風采挙措が最も優れていた
との評価
誕生
藤原不比等(藤原鎌足の次男・~720年)
賀知章(詩人・書家・~744年)
死去
↓↑ 「長孫無忌」・・・唐建国の元老
遣唐使
西漢(いまき)大麻呂(おほまろ)が
皇帝、
高宗の客人を讒言し
客人らを流刑にしたこと
斉明七年(661年)
東漢草直足嶋が
耽羅(済州島)の王が
送ってきた使人を讒言し
使人が
唐から厚遇を得られなくしたこと
天武元年(672年)
即位前
樟磐手・・・樟(木章)の磐(般石)の手
(くすのいわて)が
近江側の刺客になり
吉備国主だった
当麻広嶋(たいまのひろしま)を殺害
広嶋は用明天皇の孫で
大海人皇子派の重鎮・・・
「壬申の乱」で
倭漢(やまとのあや)氏の
全員が天皇側にならず
一部が近江朝側について敵対した・・・
罪・・・
↓↑
天武天皇側の
倭漢(やまとのあや)氏に属する人々
書智徳(ふみのちとこ)
書根麻呂(ふみのねまろ)
荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)
民大火(たみのおおひ)
民小鮪(たみのおしび)
長尾真墨(ながおのますみ)
大蔵広隅(おおくらのひろすみ)
坂上老(さかのうえのおきな)
坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ)
坂上熊毛(さかのうえのくまけ)
路益人(みちのますひと)
調淡海(つきのおうみ)
倉墻麻呂(くらかきのまろ)
谷根麻呂(たにのねまろ)
など・・・
↓↑
大友皇子側
蘇我の重臣の他
書薬(ふみのくすり)
谷塩手(たにのしおて)
忍坂大摩呂(おしさかのおおまろ)
らが
倭漢(やまとのあや)氏の枝族・・・
↓↑
天武十一年(682年)五月
倭漢(やまとのあや)の直(あたい)
の個々人
十七名に
連(むらじ)の姓を
を与え、更に
一族全員、
川内漢直を含む
38氏に
連(むらじ)の姓(かばね)を与えた
684年
「八色の姓」
阿智使主の直系の子孫は
他の倭漢氏と区別され
書連氏、
河内漢氏
らと共に
第四位の姓
「忌寸(いみき)」が授けられた・・・
↓↑ ↓↑
朴市秦田来津
・・・天智天皇二年
八月二十七日~二十八日
↓↑
旧暦
年 癸亥
月 壬戌
日 戊申(さる)~己酉(とり)
↓↑ボシン ~キユウ
↓↑ ↓↑戊辰 ~杞憂・希有・喜勇
↓↑ 猿田比古の溺死
白村江の海戦で戦死
↓↑
朴市秦田来津は
斉明天皇七年百済の皇子
豊璋(ほうしょう)と
百済再興のため
狭井梹榔と
兵5000をひきいて
朝鮮半島へ渡海
後
鬼室福信
と対立
王位に就いた
豊璋は
都を
州柔(錦江下流域・白江村)から
避城(全羅北道金堤)に
遷すことを決定
朴市秦田来津は
遷都に反対した
遷都後、
二月
新羅に攻めこまれ
再び州柔(錦江下流域)へ遷都
↓↑ 白村江で唐水軍に惨敗戦死
らとともに
古人大兄皇子を擁して
謀反を企てるが
九月十二日
中大兄皇子に密告
古人大兄(大市)皇子
は攻められて殺害
笠垂・・・・・・・・笠の垂
はこの功で
功田20町を賜った
天平宝字元年(757年)
この功労は中功に当たるとして
二代に相続された
吉備笠垂の系譜・・・笠の垂
父は吉備笠羽鳥・・・笠の羽の鳥
母は不詳
生母不詳の子女
男子、笠麻呂・・・笠の麻呂
男子、笠御室・・・笠の御室
男子、笠金村・・・笠の金村
↓↑
「或本云。古人大兄。或本云。古人大兄。
此 皇子入吉野山。故或云吉野太子。
垂。此云之娜屡」
「垂(た)れる」・・・「ダル・ナル」?
「娜=しなやか・ダ・ナ」
「屡=たびたび・つねに・しばしば・ル」
「古人(古市)大兄皇子」・・・「倭の漢人()皇子」・・・
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・・・???・・・高向「玄理」・・・高向「原理」・・・鷹婿「原理」・・・「堯(多化)務拠」・・・「高句麗」・・・
高向 玄理(たかむこ の くろまろ)
?~白雉五年(654年)
しろきじ・・・詞賂(皎・代)・記字・語念
名は「黒麻呂」とも記録
高向古足の子
姓は「漢人」、のち「史」
冠位は「大錦上」
・・・用明天皇の孫の「高向王」
「高向玄理」は、
後の
「舒明天皇皇后=皇極・斉明天皇」
の元の夫・・・
・・・「高向王」は「皇極女帝」の最初の夫・・・
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第三十五代・第三十七代天皇
在位期間
皇極 642年2月19日~645年7月12日
斉明 655年2月14日~661年8月24日
先代
舒明天皇(第34代)
次代
孝徳天皇(第36代)
天智天皇(第38代)
誕生 594年
崩御 661年8月24日
陵所 越智崗上陵
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諱 寶女王
別称 天豊財重日足姫尊
(あめとよたからいかしひたらし
ひめのすめらみこと)
父親 茅渟王
母親 吉備姫王
皇配 高向王・・・「高向の王」
高向塩古→猪子→宇摩→国押 (国忍)
→麻呂(和銅従三位)
→人足
→跡見(越前大ジョウ)
高向氏は魏の曹操の末裔の
渡来人の子孫
高向玄理は
高向古足の子・・・
舒明天皇
子女
漢皇子
天智天皇
間人皇女
天武天皇
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皇居
皇極 飛鳥板蓋宮
斉明 飛鳥板蓋宮
↓↑ 朝倉橘広庭宮(661年8月24日)で死没
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↓↑ 泊瀬朝倉宮=第二十一代、雄略天皇の宮殿
安康天皇三年十一月十三日
丙申年 庚子月 甲子日
(西暦456年12月25日・ユリウス)
~
雄略天皇二十三年八月七日
(西暦479年9月8日・ユリウス)
己未年 癸酉月 丙子日
↓↑ 所在地は奈良県桜井市?
別称 大泊瀬幼武尊
大長谷若建命
大長谷王
父親 允恭天皇
母親 忍坂大中姫
皇后 草香(日下)幡梭姫皇女
子女
白髪皇子
栲幡姫皇女
磐城皇子
星川稚宮皇子
春日大娘皇女
御陵 丹比「高鷲」原陵
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善徳(ゼントコ)女王
647年2月17日(旧暦1月8日)
新羅の第27代の王
真徳(シントコ)女王
(?~654年)
新羅の第28代の王
(在位647年~654年)
姓は金
諱は勝曼
「新羅本紀」
父は第26代
真平王の母方の叔父である
真安葛文王-国飯
母は
朴氏の
満天葛文王の娘
月明夫人
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高向玄理
608年
遣隋使
小野妹子(蘇因高)
に従い留学生として
隋へ留学
640年
南淵請安とともに帰国
645年(大化元年)
後
僧の旻
とともに新政府の
国博士
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高向臣
武内宿禰の末裔氏族
河内国
錦部郡
高向村(大阪府河内長野市高向)
を本拠地とし
姓は初め
臣だったが
天武天皇十三年(684年)十一月
高向麻呂は
「八色の姓(カバネ)」で、
上から二番目の
朝臣(あそん、あそみ)の
姓の賜与を受けた
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孝元天皇段(古事記)で
武内宿禰の9人の子の一人
蘇賀石河宿禰を
高向氏の祖
石川氏と同氏で
武内宿禰
六世の孫・猪子臣(蘇我稲目の甥)
の後裔(新撰姓氏録・右京皇別・高向朝臣)
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舒明天皇即位前条
高向宇摩
が大夫(まえつきみ)を務め
奈良時代前期に
高向麻呂が参議・中納言を歴任
(日本書紀)
河内長野市では「高向=たこ」と呼ぶ。
高向家主(たかむこの‐やかぬし)
は、奈良時代の官吏
天平勝宝四年(752)
東大寺の
大仏
開眼会(かいげんえ)
で
唐散楽頭(とうさんがくのかみ)
開眼師施使
をつとめる
藤原仲麻呂
追討の功により
従五位下
南海道巡察使
治部少輔(ジブショウホ)
筑後守を歴任・・・
宝亀六年(775)
従五位上
伊勢神宮の北に
高向大社
三重県御園町に
高向(たかぶく)の地名
畠山氏の一族で
羽曳野市の御師についての
墨書に
明応四(1495)年
高向最大夫光貞
の銘・・・
(以上は「知恵袋」回答記事を参考添付)
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