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コジキジゲン

モウちゃんの命日も忘れ、気配をカンジて小声で呼ぶワタシかな

2017-11-13 19:56:35 | 古事記字源

 ・・・ウッカリしていた・・・「11月11日」で借りているサーバーの「HP」が打ち切りで、削除されてしまうなんてコト、知らなかった・・・まだ、遺(残)されているカナ、と思って開けてみたページ↓↑・・・まだ遺されていた・・・

http://web.archive.org/web/20090502181131/http://www1.odn.ne.jp:80/~haa98940/kkmokuji.htm
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp:80/~haa98940/hime/hime77.htm
 ・・・だが、書き込んだモノのスベテが順調に出てくるワケでもないらしい・・・肝心の「占いの命式」はダメ、アメリカを舞台にした物語はダメ・・・その他のモノもダメなモノが多々・・・

 「コジキ姫の「壱与」、・・・・モモ蘇姫・・・鳹=今+鳥
 カンジて赤い絨毯にのり、・・・姫=ひめ=鳹=ついばむ・ケン
 空をカケメグル        ゲン・キン・ゴン・カン・コン
 「古事記・字源」物語」    fabulous mythical bird=鶼
               ・・・a mythological bird called
                 a "mythical crow"・・・
           mythological=神話=禊=ミソギ
           ミソロジカル=見素賂字(時)化留?
           ミス=myth=神話・・・「み・・・そ」=禁止
           見素賂字意=ミソロジー=mythology
  ↓↑
 は完全ではないが、なんとか・・・最期のページに「あとがき」なるものが「2002・3・13・水曜日」の日付で書き込んでいたので・・・以下に添付・・・2017-2002=15・・・「十五年前」ですか・・・「1996年」は2017-1996=二十一年前・・・ですか・・・オッソロシくなるほど時間が流れたのか、まだ、昨日のコトだったんだか・・・
ーー↓↑ーー
 あとがき
 人生で一度ぐらいは「序文」とか、「あとがき」みたいなモノを「製本」され、「表装」された自分の本の中に書いてみたいと思っていた。貧乏人のワタシにはこの先も実現できそうもない。けれど、ワ-プロで書いて「CD-R」に記録するには簡単な作業で、取りあえず読んで貰いたい人の分だけは能率的に「製本」出来る。ワタシにとってはスゴイ高い値段の中古コンピュータを買って、この小説をワープロで書き出し、「5インチ」のフロッピーデスクに記録していったのは「1991年の湾岸戦争」勃発の時であった。それでもフロッピーデスクに記録したモノは「カミの本」になってから読まれるのだ、と考えていた。個人で簡単に「CD-R」を出版と同じような感覚で造れるなんて、当時はまだ思いも寄らなかったことである。小学校五、六年生の頃から鉄筆とガリ版、そして謄写版とロラーが大好きであった。そして、この歳になっても内容と言うよりは「文字」そのものを書いて、「コピー」したカミを閉じて、開いてみたいのだ。学生時代は毎日が大した内容のない「ビラの生産」であったような気がする。文章も文法もかなりいい加減であったし、今もそうなのだが・・・
 一応、この「本」が完成したのはイマヤ、三児の母親で、主婦、当時一八歳の乙女であった「蟹江ゆかり(旧姓橋本)」さんとの出会いであった。「昭和一二年発行・(株)誠文堂新光社」、「非売品」と記されていた「古事記」の漢字ルビ振り付、原文、解釈付の古本を読んでいたワタシに高校を卒業して商事会社に務め始めた彼女がワタシに「志望は出来れば、大学に行きたかった。そして、まだ使いたかったけれど、もう、その必要もなくなったから、この漢和辞典と古語辞典、使って。プレゼントだから」と言うことがきっかけであった。辞典はワタシも持ってはいたが開いて調べるのが億劫であった。「漢字」と言ったって「日本語」だろう。それにルビも振ってある。「古語」って言ったって、「日本語」だろう。何となく判るようになるのでは・・・と。高校時代に使用したワタシの「辞典類」の頻度はほとんどが「英和辞典」だった。だが、あらためて彼女のくれた「漢和辞典」をみると、「漢字そのものの説明」は「日本語の意味」ではなっかったし、「古語辞典」にいたっては「意味不明」のヶ所がかなり目に付いた。「日本人」が「日本語」を「理解出来ていない」のだ・・・。理解できていない「日本語」で「英語」や「仏語」、「独語」等を「理解」しようとしている。しかも、そのほとんどが「漢字の意味」で理解しようとしているのだ。
 「日本語、ワッカラナイッ・・・ワッカリマセン」・・・マァ、ワタシの「日本語」の日常会話には「誤解」も多いけれど、それほど支障がないか・・・ナントナクワカレバさっ。
 彼女が丁寧に使用していたこれらの辞典はいまやボロボロである。それで、ワタシの頭が詰まった、か、と言えば全然カラッポである。何度も何度も同じ漢字や単語、熟語のページを開くのが日課である。
 彼女に感謝、感謝である。
 それで、ワタシは「古事記」なるモノを、彼女のプレゼントの「漢和辞典」と「古語辞典」を片手に「研究」しだしたのだ。「古事記の漢字」を・・・
 もう一つ更にこのきっかけを「加速」させてくれた人物は名古屋の「大須」に代々居住してきた「鬼頭吉子」さんであった。おふくろさんの代までは手芸店の老舗であったそうだ。現在、彼女は「喫茶店・ローズセラヴィ」の女主人である。ワタシの故郷は「蝦夷・北海道」であったから、彼女の仕事のお手伝で「大須」に住むようになってからも、モチロンのこと「大須」のことは「大須観音」と織田信長のオヤジの菩提寺の「万松寺」ぐらいしか知らなかった。そして、「大須商店街」のラーメン屋や、食堂、パチンコ屋、質屋ぐらい。彼女はワタシにとっては「大須の歴史知識の信玄袋」そのもので、「江戸時代」からの諸々の「お祭り」、「儀式」、「しきたり」、おまけに日常生活には欠かせない「暦の意味」や、「仏教行事」、サラには「ウイロ・ウイロウ(外郎)」の由来や「黄八丈」等の織物に関する知識を教えてくれた人であった。人生に於ける縁とかユカリとかは、不思議である。しかも、彼女は「大須」に存在する「ナコヤ古墳」、「浅間神社」、おまけに「大須観音神社の一部分」なっている「大須文庫」の存在を教えてくれたヒトなのである・・・まさに、そこには「日本最古の写本(?)」と言われている「古事記」が存在したのだ。ワタシは「古事記」を研究しだしてからも、彼女が教えてくれるまではその存在には無知であった。
 ついでにワタシの「ハナシ」を熱心に聴いて下さった三洋工業の「吉田重一」さんと、西洋アンチック店を営んでいる「福本志朗」さん、それに、ここ「大須」に直接的にワタシを「存在」させしめてくれた女優の「高部シゲコ」さんに感謝、感謝である。
 そして、「那古耶古墳」の大樹の下で眠っている、いつもワタシのそばで寄り添ってくれた二代目「モウ」、一代目「モウ」、「コロッケ」、「マリー」、「ミヤオ」、「ミヤ太郎」、君たちには「ありがとう」と「不思議」の回数を唱えても足りないくらい「ありがとう」です。
 「古事記」に関してこの「小説」にした理由は単純で、明解・・・それは「理論・学問」としていまだのワタシにとっては「ムリ」があった、と言うことに尽きる。
 一応「小説」で、「稗文」だから・・・「アソビ程度」に読んで下さることを願います。
    K・K
 2002・3・13・水曜日
 (壬午年癸卯月庚辰日)
 ・・・モウちゃんの命日も忘れ、気配をカンジて小声で呼ぶワタシかな・・・
http://web.archive.org/web/20090502181131/http://www1.odn.ne.jp:80/~haa98940/kkmokuji.htm

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奝(大周)然(チョウネン)を「トウ=問う・唐・訪う・答・当」・・・

2017-11-13 12:12:59 | 古事記字源

 ・・・「皮膚(ヒフ)」・・・「膚=人のからだの表皮・皮膚・はだえ・物の表面・きめ・性質・気質・気性・肌が合う・ 肌で感じる・肌に粟を生ずる・肌を合わせる」・・・「うわっつら・うわべ・うすい・あさい・あさはか・おおきい・うつくしい・四本の指を並べた長さ」・・・「完膚無きまでに叩きのめす・完膚無きまでの敗戦」は負けた側のコトバ・・・「完璧な勝利(敗北)」・・・「傷のない、完全な皮膚・また、傷のない箇所」・・・多く打消しの語(ない・なき)を伴って用いる・・・「完膚無きまで=無傷なところが一箇所もないほど、傷だらけ」・・・
 「完膚=カンプ=還付・乾布・姦婦・姦夫
     劉迺・・・迺(の・すなわち・ダイ・ナイ)
     火刑の拷問でも忠儀を守って
     裏切ることをしなかった
    (新唐書・劉迺)
     ↓↑
 中国二十四史の一
 唐代の歴史を記した書・二二五巻
 北宋の
 欧陽脩(オウヨウシュウ)らの撰
 1060年完成
 仁宗の詔により
 「旧唐書(クトウジョ)」
 を改修・補正
 本紀十巻、志五十巻、表十五巻、列伝百五十巻・唐書
 ↓↑
 「新唐書(唐書)
  劉迺伝」
  ↓↑
 「完膚無きまで=身体中、火傷の箇所がないほどに
         ひどく、徹底的に
         火刑で皮膚に焼き鏝(ごて)をあてられた
         お灸された・・・劉迺
ーー↓↑ーー
 弄ぶ(もてあそぶ・ロウ)=いじくる・いじる
 ↓↑ 
 詰=詰(つ)まる・つめる・つ-まる・つむ
   詰(なじ)る・なじる・づ・つめ・づめ・ずめ
   キツ・キチ
   難詰=手きびしく非難すること・厳しく問いつめること
   面詰=問いつめる・なじる
      詰責・詰問・難詰・面詰・論詰
   詰屈=かがまる
   詰屈
   詰め切る
   その場を離れず、 絶えず待機、または出仕すること
   ある空間に物が隙間(すきま)なくいっぱいつめる
   時間や抽象的な心的な余裕の無い状態
 なじる=詰る
     相手を問いつめて責める・詰問する
 詰(なじ)る=過失や悪い点などを責め非難する
        to blame
        責める・不心得な行いを責める
        容疑者を責める
        咎(とが)める
        不注意を咎められる
        良心が咎める(詰る)
        違約をなじる
 詰(なじ)る=相手を質問の形で非難すること
        詰る・叱る・罵る・非難する・咎める
 叱責する=blame・rebuke・reprove・reproach
      とがめる・なじる
 暱=日+匿(匚若)=なじる・トク=慝(匿+心)
   暱に作る(或字)=昵
   親しい・親近・昵称・愛称
   ちかずく・ニチ・ネ・ネイ・ジツ(ヂツ)・デイ
   暱名=匿名・・・隠匿
 詰=言+士+口=なじる
 詰所=決まった場所に出向き、用事に備えて待機する
    もち場に詰める
ーー↓↑ーー
 ・・・
 「新唐書(シントウジョ)」
 唐代の正史
 五代の
 後晋の
 劉昫・・・迺(の・すなわち・ダイ・ナイ)=廼
         迺=西+辶(すすむ・シンニュウ)
         廼=西+廴(ひく・イン)
 の手になる
 「旧唐書(クトウジョ)」と区別するために
 「新唐書」、「唐書」と呼ばれる
 出典は示されてい ないが
 「宋史日本伝」の記事から
 「東大寺の僧侶
  奝(大周)然」・・・・奝(大周)=大(一人)+周(冂吉)
           奝(大周)=おおきい・チョウ
  が宋の太宗に献上した
 「王年代紀」を参照・・・
ーー↓↑ーーー
   奝(大周)然(チョウネン)
  (承平八(938)年一月二十四日?
   ~
   長和五(1016)年三月十六日
   京都生まれ
   平安時代中期の東大寺の僧
   藤原真連の子
   幼くして東大寺に入り
   東南院で三論その他を学ぶ
   永観一(983)年
   東大寺と延暦寺の信書をたずさえ
   宋商船に便乗して入宋
   翌年太宗に謁し
   紫衣を賜わり
   法済大師の号を受けた・・・
   五台山その他を巡拝し
   寛和二(986)年
   「釈迦如来像」
   「大蔵経・5048巻」
   「十六羅漢画像」
   清涼寺に安置されている
   「釈迦如来像」は
   その将来仏
   もって帰朝
   永祚一(989) 年
   東大寺に住した
   (京都嵯峨の
    清涼寺は弟子が建立)
 ↓↑
 奝(大周)然(チョウネン)
 が宋の太宗に献上した
 「王年代紀」
ーー↓↑ーー
 ・・・「其王姓 阿毎」・・・
 ↓↑
 日本について
 「旧唐書」では
 「倭」
 と
 「日本」
 が並立して書かれている
 「新唐書」では
 「日本伝」としてまとめられ
 隋の開皇末に
 天皇家の
 「目多利思比孤」が
 初めて中国と通じたと記録
 日本の王の姓は
 「阿毎」氏であること
 「筑紫城」にいた
 「神武」
 が大和を統治し天皇となったことなどが記載
 出典は示されていないが、
 宋史日本伝の記事から
 ↓↑
 東大寺の僧侶
 「奝(大周)然」
  ・・・奝(大周)然(チョウネン)
     天慶元年一月二十四日(938年2月25日)
       ~
     長和五年三月十六日(1016年4月 25日)
     東大寺の僧
     俗姓は
     秦氏・・・秦氏=陽侯氏?
     京都の出身
     号は法済大師
     東大寺の
     観理に三論教学を
     近江国石山寺の
 ↓↑  元杲(ゲンゴウ)に真言密教を学ぶ
     元杲(延喜十四年(914年)・・・元杲(日十八)
         ~
        長徳元年二月二十七日(995年3月30日)
     真言宗の僧・藤原京家の出身
     父は雅楽助藤原晨省
 ↓↑  房号は真言房・延命院僧都とも称される
 が宋の
 太宗に献上した
 「王年代紀」を参照した・・・
 ↓↑
 其王姓
 阿毎氏
 自言
 初主號
 天御中主
 至
 彥(彦)瀲
 凡三十二世
 皆以
 尊爲號
 居
 築紫城
 彥(彦)瀲
 子
 神武立
 更以
 天皇
 爲號
 徙治
 大和州
 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元
 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀
 仲哀死
 以
 開化
 曾孫女
 神功爲王
 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略
 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化
 次欽明
 欽明之十一年
 直梁承聖元年
 次海達 次用明
 亦曰
 目多利思比孤
 直隋開皇末
 始與中國通
 次崇峻 崇峻死
 欽明之孫女
 雄古立
 次舒明 次皇極
 (新唐書卷二百二十 列傳第百四十五・東夷一
ーーーーー
 ・・・

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