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コジキジゲン

「ツバ」=鍔・鐔・対馬・啡・唾・・・「クラ」=蔵・倉・暗・黒・黔・黯・黭・玄

2020-06-14 19:05:40 | 古事記字源
 ツバメ=つばめ=鳦・燕・鷰・乙鳥・玄鳥

 ツバクラメ=ツバクロ=Barn swallow
       津波目・津波玄目
 「~メ」=小鳥の名前の語尾
 「~め」=小さ目・篠目・笹目
      細(ささめ)・・・鈿=かんざし=簪
      愛(め)
     「彼奴目=きゃつめ」
          相手を卑しめていう
      ~+「ま・み・む・め・も」
      つまみ・つまむ・つまめ・つまも
      抓む・摘む
      啄(ついば)む・嗆・噣・乨・嘴
      乨=台+乚(乙)=始=女+台
        はじまる・はじめる・ㇱ
        通仮字「台・佁=イ+台(臺)
        異体字「嬯・乨・𠃭・兘・𠙉」
 「ツバ」=鍔・鐔・対馬・啡・唾
 「クラ」=蔵・倉・暗・黒・黔・黯・黭・玄
      くろ=句+呂
      黔=黑+今
        くろい・ くろむ・ケン
        浅黒い
        黔首・黔突
        黔(くろ)い
        黔驢の技(ケンロのわざ)
      黯=黑+音
        くろい・くらい・いたましい
        アン
        黯然
        いたましい・心がふさぐ
      黭=黑+合+廾
        あおぐろい
        ヱン・アン・オン
      黭黮是=是指云 黑貌
          昏黑貌・昏黑・黑暗
          昏暗・夜色昏黑・昏黑的小屋
 ↓↑
 卑弥呼(火女・日女・比売)
 の使者、帯方郡へ
 ↓↑
 238年6月15日12時・・・?
 戊午(丙丁)食神・比肩・帝旺
 戊午(丙丁)食神・比肩・帝旺
 丙午(丙丁) ・比肩・帝旺
 甲午(丙丁)偏印・比肩・帝旺
  寅卯空亡
  ???・・・?
  ↓↑
  午=馬・・・宇・合・・・厩
  虎・兎・・・空・亡 
  ↓ ↑
 「虎と兎(兔・菟・莵・宇佐義・鵜鷺
      うさぎ=鸕詐欺)」
      宇佐神宮=大分
           豊国=豊前・豊後(ぶんご)
  虎=天武天皇=大海人皇子
   =翼の付いた虎
  鸕=持統天皇=鸕野讃良
   =大倭-根子-天之廣野-日女-尊
   =高-天原-廣野-姫-天皇
 ↓↑
 継体持統=継=糸+乚+米
      体=イ+木(十八)=體
      持=扌+寺(十一寸)
      統=糸+充(云儿・亠ム儿・二ム儿)
 ↓↑
 午=うま=馬・宇摩・旨・甘・巧・匠
 ↓↑
 馬=司馬=シマ=志摩・縞・揣摩・死魔
    馬太(マタイ)=マチュウ
    馬可(マルコ)=Marcus
       マーカス・マークス・マルクス
    ↓↑
    馬太福音(太)傳・傅・伝
    馬可福音(可)傳・傅・伝
    路加福音(路)傳・傅・伝
    約翰福音(約)傳・傅・伝
    教会歴史:
   ↓↑
   使徒行伝(徒)
   書信
   ↓↑
   羅馬 書(羅)
  哥林多前書(林前)
  哥林多後書(林後)
  加拉太 書(加)
  以弗所 書(弗)
  腓立比 書(腓)
  歌羅西 書(西)
  ↓↑
 帖撒羅尼迦前書(帖前)
 帖撒羅尼迦後書(帖後)
 提摩太  前書(提前)
 提摩太  後書(提後)
 提多    書(多)
 腓利門   書(門)
 希伯来   書(来)
 雅各    書(雅)・・・鴉・烏
 彼得前   書(彼前)
 彼得後   書(彼後)
 約翰一   書(約壱)
 約翰二   書(約弐)
 約翰三   書(約参)
 猶大    書(猶)・・・尊=みこと=命
                見事
 約翰的啓示:
 ↓↑
 啓示録(啓)
 ↓↑
 耶 蘇基督(イエス・キリスト)=移鼠
 馬利亜(マリア)=未艶
 約瑟(ヨセフ)
 保羅(パウロ)
 ↓↑
 厩戸(うまやど)
 厩
 異体字 
 廐=廏
 厩=厂+既
   厂+旣
   厂+既(日+ム+旡)・・・牙・无(厶)
         旡=キ
         むせる・むせぶ
噎せる=むせる=咽せる
         噎=口+壹 咽=口+因
         食べ物が咽喉につまる
         ↓↑
         噎ぶ=むせぶ=咽ぶ・哽
         息がつまる
  厂+皀+旡
  厂+白+匕+旡
  ↓↑
 對=业+丷 一++土+寸
   丵+寸
   「丵」は「業・撲」等に見られる
    土を突き固める道具
   「寸」は手の運動
   「丵」を用いて土を突き固めること
 通仮字「敓」
 簡体字「对」
 異体字「𡭊・対」
 声符「對・𠏮・䨴・懟・轛」
 関連類字「丵業菐撲対(對)樸璞」
 ↓↑
 對揚休命
 キウメイヲタイヤウス
 對は答なり、君命に答へ
 其の意を衆に宣揚する
 ↓↑
  ・・・「丵=入墨の針」で
     「一を細かく刻む」
 丵を掘鑿に使う道具
 菐はそれを持って打つ
 ↓↑
 紹=糸+召
   幺+小+刀+口
   ショウ
   つぐ・受けつぐ・引き継ぐ・継承する
   引き合わせる・紹介
   間をとりもつ
 ↓↑
 善=羊+䒑+口
   羊+丷+一+口
 譱=羊+誩
   羊+言+言・・・咩(ひ・ビ)・比咩(売)
   神社の祭神
   主祭神と並んで
   比売神(比売大神)
   比咩神
   姫大神
   などと記録
   ヒメ=比売・比咩・日女・孫女・火売
      孫(まご・ソン)
      の
      女(むすめ・ニョ・ジョ)
 ↓↑
   元明天皇
   日本-根子-天津御代
        豊國-成姫-天皇
   諱 阿閇・・・阿部・阿毎を閇
         閇=しめる・とじる・閉じる
           とじ籠もる・ヘイ
           閉鎖
   和同開珎鋳造・平城遷都
   「古事記」「風土記」編纂


   父親 天智天皇
   母親 蘇我姪娘=蘇我
             倉山田
             石川麻呂の娘(女)
             ↓↑
        蘇我倉山田石川麻呂
        別名
        蘇我倉山田麻呂
        倉山田臣=山田臣=山田大臣
        ↓↑
        蘇我蝦夷=石川麻呂の伯父
        蘇我入鹿=石川麻呂の従兄弟
        ↓↑
        蘇我姪娘の
        妹=遠智娘(おちのいらつめ)
        またの名
        造媛・美濃津子娘・越智娘
       「建(享年八)」皇子の母親
        建=唖不能語=言語不能?
        皇極、斉明天皇の孫
        ↓↑
   皇配 草壁皇子・・・日下部・句差化部
        日並皇子=岡宮御宇天皇
        日下
        草苅
        草刈
        久佐賀
        久坂
        玖沙訶
        草加
        孔舎衙(衛)=日根市村
              (ひねいちむら)
        ↓↑
        1663年(寛文三年)
        河内郡日下村より
        善根寺村を分村
        1882年(明治十五年)
        河内郡日下村より
        布市村を分村
        1889年(明治二十二年)4月1日
        町村制施行
        河内郡
        善根寺村・日下村・布市村
        河内屋南新田が合併し
        日根市村が発足
        大字日下に村役場を設置
        1896年(明治二十九年)4月1日
        所属郡が中河内郡に変更
        1910年(明治四十三年)
        大字河内屋
        南新田を
        河内屋南に改称
        1912年(大正元年)10月1日
       「孔舎衙」村に改称
        1955年(昭和三十年)1月11日
        中河内郡
        石切町・枚岡町・縄手町
        と合併し
        枚岡市が発足
       「孔舎衙」村廃止
        枚岡市発足時に
        大字
        河内屋南を
        元町に改称
       「草香邑」の比定地・・・
        ↓↑
   子女 元正天皇(氷髙)
            ・・・孫女(天智・天武)
        文武天皇・・・孫男
        吉備内親王・・孫女(天智・天武)
 ↓↑
 牛馬=丑午(チュウゴ)
     ↓↑
     馬太(マタイ)=Matthew
        マチュゥ・マシュー
        ・・・収税人
        マタイオス
        (Μαθθαιος・Matthaios)
        マテオ・マトフェイ
     馬可(マルコ)=Marcus
        マーカス・マークス・マルクス
     馬利亜(マリア)=Maria=未艶
       マリア
      「マ・ミ・ム・メ・モ」+「リア」
       うま・め・バ・・・・
       うば=乳母・姥
       めのと=乳人・女の都
       馬屋=厩(うまや)・・・厩戸王子
       うま・め・バ・・・・
       うば=乳母・姥・
       めのと=乳人・女の都
ーーーーー
 斉明天皇四年(658年)五月条
 斉明天皇皇孫
 建王は八才で薨去
 今城谷の上に殯を起こし納めた
 斉明天皇の歌
 ↓↑
 今城なる・・・今来の渡来人?
 小丘が上に
 雲だにも・・・句摸拿似・・・入道雲?
 著くし立たば・・・イチジルシク・ㇱ立たば
          壹(位置・伊地・移置)
            字留詞句・史質把?
 何か歎かむ
(いまきなる をむれがうへに
 くもだにも しるくしたたば
 なにかなげかむ)
 ↓↑
 射ゆ鹿猪を
 認ぐ川上の
 若草の
 若くありきと
 吾が思はなくに
(いゆししを
 つなぐかはへの
 わかくさの・・・和歌句差之
 わかくありきと・和歌句有記譯?
 あが おもはなくに)
 ↓↑
 飛鳥川 漲らひつつ
 行く水の 間も無くも
 思ほゆるかも
(あすかがは みなぎらひつつ
 ゆくみづの あひだもなくも
 おもほゆるかも)
 ↓↑
 同年十月条
 斉明天皇は
 紀温湯(和歌山県白浜町の湯崎温泉)
 において建
 王を追憶 歌三首を詠んだ
 ↓↑
 山越えて
 海渡るとも
 おもしろき・・・興味ある記紀?
 今城の内は・・・今来の内輪(身内)?
 忘らゆ
 ましじ
(やまこえて うみわたるとも
 おもしろき いまきのうちは
 わすらゆましじ)
 ↓↑
 水門の
 潮のくだり
 海くだり
 後も暗に
 置きてか
 行かむ
(みなとの うしほのくだり
 うなくだり うしろもくれに
 おきてかゆかむ)
 ↓↑
 愛しき
 吾が
 若き子を・・・和歌記詞を?
 置きてか
 行かむ
(うつくしき あがわかきこを
 おきてか ゆかむ)
ーーーーー
 薊(あざみ・ケイ)=北京・燕京
 ↓↑
 楚人謂 治魚也(說文)
 割 也(博雅)
 吉詣切、音計・解也(集韻)
     ・・・カイ=魏・歌意・回・甲斐・✕
           魏(カイ・ギ)
 魏(カイ・ギ)=戦国七雄の一
 晋の六卿の一
 韓氏・趙氏とともに
 晋を滅ぼし、その領土を3分
 前403年
 文侯のとき
 周の諸侯に列せられ
 山西省南部から河南省北部を領有
 都は安邑=大梁(開封)
 前225年
 秦に滅ぼされた


 三国の一
 曹操が華北を統一
 220年
 子の
 曹丕
 が建国
 都は洛陽
 蜀・呉 (ご) と天下を3分
 265年
 元帝は
 晋の
 武帝に禅譲
 曹魏


 南北朝時代
 北朝最初の王朝
 386年
 鮮卑族の
 拓跋珪 (タクバツケイ) =道武帝
 建国
 第三代
 太武帝の時
 華北統一
 都は初め
 平城(山西省大同)
 493年
 洛陽に遷都
 534年
 東西に分裂
 東魏は550年に滅亡
 西魏は556年に滅亡
 北魏
 後魏
 拓跋魏
 ↓↑
 紀元前   318年
 干支   癸卯年
 皇紀    343年
 孝安天皇  75年
 ↓↑
 中国
 周 慎靚王    3年
 秦 恵文王    7年
 楚 懐 王   11年
 斉 宣 王    2年
 燕 燕 王 噲  3年
 趙 武霊王    8年
 魏 襄 王   元年
 韓 宣恵王   15年
 ↓↑
 仏滅紀元    227年
 ↓↑
 マケドニア帝国
 アンティゴノスが
 カッサンドロス
 プトレマイオス
 と連合
 アンティゴノスは
 エウメネスにも連合を持ちかけたが
 エウメネスは王家への忠誠を守った
 エウメネスは決起し
 東方の
 サトラップ(太守)たちと同盟
 エウメネスは
 アンティゴノス側から
 バビロンを奪取
 アンティゴノスは
 エウメネスに進軍し
 エウメネスは東方へ退き
 チグリス川東岸の
 サトラップたちと合流
 プトレマイオス
 アンティゴノス
 と結んだ
 カッサンドロスは
 帝国摂政
 ポリュペルコンに宣戦布告
 ギリシアのほとんどの都市国家は
 アテナイを含め
 カッサンドロス側についた
 ↓↑
 ポリュペルコンは
 ギリシア諸都市に
 自由を保障することで
 当初は影響力を保ったものの
 ポリュペルコン方の艦隊は
 アンティゴノスによって撃破
 ギリシア
 アンティパトロスの没後
 アテナイで権力闘争
 ↓↑
 民主政治の復活を望み
 アテナイ市民たちは
 フォキオン (Phocion)
 を
 支配者の座から追放し
 反逆罪で処刑
 その後
 アテナイ市民たちは
 フォキオンを讃えて・・・?
 公式の葬儀を行ない、像を建てた・・・?
ーーーーー
 秦の東方拡大
 ↓↑
 紀元前319年
 魏の
 「公孫衍」は
 「韓」の支持の下
 「張儀」
 に取って代わり
 魏の国相となった
 魏の
 「恵王」は
 「張儀」を追放し
 「張儀」は
 秦へ亡命
 ↓↑
 秦の
 「恵文王」
 姓諱 嬴駟(エイシ)
     駟=四頭立ての馬車・その四頭の馬
 父  孝公(秦)
 ↓↑
 「恵文王」は
 宰相の
 「商鞅」
 を処刑
 縦横家の
 「張儀」
 を用いて
 蜀、巴(四川)を征服
 秦として初めて「王号」を唱えた
 ↓↑
 張儀
 登用
 秦
 商鞅
 の改革で
 国力増強
 ↓↑
 元、魏の臣で亡命してきた
 張儀
 を登用
 魏・斉・楚
 などを討ち
 (岸門の役、龍賈の役)
 ↓↑
 紀元前324年
 王号を唱えた
 ↓↑
 秦を畏れ
 紀元前318年
 韓・趙・魏・燕・楚
 五ヶ国連合軍で
 秦を攻撃したが
 恵文王は弟の
 「樗里疾」に命じて連衡軍を破り
 敵兵8万の首を切った
 (函谷関の戦い)
 ↓↑
 巴蜀 併合
 「司馬錯」が
 蜀を獲って後背地を得るべきと主張し
 恵文王は
 彼の意見を採用
 穀倉地帯でもあった「蜀」を取った
 ↓↑
 紀元前312年
 楚が
 「張儀」
 の策謀で
 秦を攻めたが
 秦は
 丹陽(江蘇省丹陽)で返り討ちにし
 逆に
 「楚の漢中地方」に攻め入り
 「漢中郡」を設置
 楚が再び侵攻して来た際
 咸陽に近い
 藍田(陝西省藍田)の地で撃破
 (藍田の戦い)
 ↓↑
 「恵文王」
 は
 翌年
 紀元前311年
 死去
 ↓↑ ↓↑
 紀元前318年
 魏の宰相となった
 「公孫衍」は
 魏・趙・韓・燕・楚
 の合従軍を率いて
 秦に侵攻
 ↓↑
 合従軍の総大将は
 楚の
 「懐王」が努めた
 ↓↑
 「公孫衍」は
 義渠へ遊説し
 義渠を合従軍に組み入れた
 ↓↑
 秦は
 綾絹1000匹
 婦女100人を
 義渠へ送り
 懐柔しようとしたが
 「義渠国君」は
 策略と見抜き
 秦に出兵し
 秦軍を
 李帛で打ち破った
 しかし
 合従軍の
 五国はそれぞれの利害のため
 足並みが揃わず
 実際に出兵したのは
 魏・趙・韓の三国のみ
 合従軍は
 「函谷関」を攻撃したが
 秦軍によって撃破された
 ↓↑
 紀元前317年
 秦の
 庶長の
 「樗里疾」
 率いる秦軍が
 「函谷関」から打って出て
 韓趙魏の軍に反撃
 趙・韓軍を
 「修魚」・・・修+魚
 で大敗させ
 韓将の
 「申差」
 を捕虜とした
 合従軍の8万2千人が
 斬首された
ー↓↑ーーーー
 紀元前318年
 「函谷関」
 「楚・趙・魏・韓・燕」+「義渠」
 が連合して
 秦
 に侵攻
 「函谷関」を攻撃
 秦軍が迎え撃ち
 五カ国連合軍は敗走
 ↓↑
 宋の第34代で
 最後の国君
 「康王(コウオウ)」
 ?~紀元前286年
 在位
 紀元前329年~紀元前286年
 姓 子
 諱 偃
 諡 康
 戴公の後裔
ー↓↑ーーーー
 紀元前328年
 「康王(コウオウ)」は
 兄の宋公
 「剔成君(テキセイクン)」・・・適性訓?
 を軍事クーデターで追放
 君位を簒奪
 宋君となる
 ↓↑
 偃が即位した宋国は
 楚や斉、魏の3国に挟まれ
 強大国の情勢に国政が左右
 第二十代
 襄公以後
 弱小国
 ↓↑
 紀元前320年
 宋君としては
 最初で最後の王号を名乗った
 「宋王偃」は
 斉の属国の
 「滕(姫姓)」を滅ぼし
 自国の国勢に見合わぬ
 軍事行動を展開
 内政でも恐怖政治を敷き暴政
 「宋の桀」と呼ばれた
 「宋王は殷の暴君
  紂王の子孫で、その再来だ
  協力して誅滅すべきだ」
 と国を攻められ
 宋の民は国のために戦うことはなかった
 ↓↑
 紀元前286年
 斉・魏・楚の連合軍に敗れ
 「宋王偃」は殺され、宋は滅亡
 殷の流れを汲む王朝は完全に絶滅
 紀元前256年
 周王朝滅亡
 ↓↑ ↓↑
 「義渠(ギキョ)」
 ↓↑
 春秋戦国時代
 オルドス地方の
 遊牧国家
 岐山・梁山・涇水・漆水
 の北に居住
 涇北に義渠の戎があった
 ↓↑
 紀元前471年(厲共公六年)
 義渠が贈り物をたずさえ
 秦に来朝
 ↓↑
 紀元前444年(厲共公三十三年)
 秦が義渠を攻撃
 王を捕らえた
 ↓↑
 紀元前430年(躁公十三年)
 義渠が秦に侵攻
 渭水の南に達した
 ↓↑
 紀元前331年(恵文君七年)
 義渠で内乱
 秦の
 庶長操が出兵し平定
 ↓↑
 紀元前327年(恵文君十一年)
 秦が
 義渠を県とした
 義渠君は秦の臣となった
 ↓↑
 後
 義渠君は魏に朝事
 魏の
 公孫衍(犀首)
 は
 「秦は事のないときに
  貴国を思うまま焼き払い
  事があると重い贈り物をたずさえて
  平身低頭してきます」
 と義渠君に吹き込んだ
 ↓↑
 紀元前318年(恵文王七年)
 楚・魏・斉・韓・趙
 5カ国連合軍が
 秦を攻撃
 陳軫は
 義渠に
 賄賂を送って手なづけるよう
 秦の恵文王に勧め
 恵文王がその言に従って
 綾絹1000純
 婦女100人
 を義渠君に贈った
 義渠君は
 公孫衍
 の言っていたことはこ
 のことだったかと思い
 兵を出動させて
 秦を襲ったが
 秦の
 李伯に敗れた
 (函谷関の戦い)
 ↓↑
 紀元前315年(恵文王十年)
 秦が
 義渠を攻撃し
 25城を奪った
 ↓↑
 紀元前310年(武王元年)
 秦が
 義渠を攻撃
 ↓↑
 秦の
 昭襄王
 義渠の
 戎王は
 秦の
 宣太后と乱倫し
 ふたりの子をもうけた
 宣太后は
 義渠
 戎王を
 甘泉に誘い出して殺害
 後
 秦軍が出動して
 義渠を攻め滅ぼした
 秦は
 義渠の故地に
 北地郡を置き
 長城を築いて
 北方民族の侵入を阻んだ
 ↓↑
 紀元前318年
 アリストテレスの弟子
 ギリシアの逍遙学派(ペリパトス派)
 の哲学者で
 音楽やリズムについて
 記述を残した
 アリストクセノス (Aristoxenus) が
 『ハルモニア原論』・・・ハル(ぉ)モニア?
 と題された論文を書いた・・・
 ↓↑
 シアン化カリウム(青酸カリ)
 産業的には
 シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)
 ↓↑
 春秋戦国時代
 燕の首都=薊(ケイ)・・・景・軽・鶏?
 ↓↑
 燕国は
 紀元前222年
 秦に滅ぼされ
 上谷郡・漁陽郡・右北平郡
 遼西郡・遼東郡
 設置
 ↓↑
 秦末
 各地の諸侯が独立
 趙王武臣の将軍
 「韓広」・・・「韓+広」
 が独立し
 「燕王」・・・「燕+王」
 となる
 ↓↑
 秦を滅ぼした
 楚の
 「項籍」によって
 「韓広」は
 「遼東王」に遷され
 「項籍」に協力した
 燕の将軍
 「臧荼」が・・・・・「臧+荼」
 燕王となった
 ↓↑
 高祖 劉邦 前漢建国
 「臧荼=燕王」は
 紀元前202年
 反乱を起こし殺され
 高祖の幼馴染
 「盧綰」が・・・・・「盧+綰」
 燕王に封ぜられた
 ↓↑
 高祖(劉邦)は
 異姓の諸侯王を粛清
 自らの親族たちを
 諸侯王に立て
 「郡国制」を施行
 「盧綰」・・・・・「盧+綰」
 は廃され
 高祖の八男・・・・・「八+男」
 「劉建」が・・・・・「劉+建」
 燕王となった
 以降
 劉氏一族が燕王
 ↓↑
 元狩六年(前117年)
 八代目
 燕王
 「劉旦」・・・・・・「劉+旦」
 後継問題で父の
 武帝と揉め
 所領の
 良郷・安次・文安
 の三県を没収された
 ↓↑
 元鳳元年(前80年)
 燕王
 「劉旦」
 謀反を起こすも失敗し、自害
 燕国は一時
 「広陽郡」となる
 ↓↑
 「宣帝」の
 本始元年(紀元前73年)
 「劉旦」の太子
 「劉建」が・・・・・・「劉+建」
 燕王から改称して新たに
 「広陽王」に封ぜられ
 広陽郡は
 「広陽国」となって
 「薊・方城・広陽・陰郷」
 の四県を領した
 ↓↑
 「王莽」
 紀元元年
 「新國」建國
 広陽国は
 「広有郡」と改名
 「薊県」は
 伐戎県、
 「方城県・広陽県・陰郷県」は
 「陰順県」と改名
 ↓↑
 光武帝
 「後漢」建国
 広有郡は上谷郡に合併
 ↓↑
 「和帝」
 永元八年(96年)
 広陽郡として復活
 「薊・広陽・昌平・軍都・安次」
 の5県を領した
 幽州刺史治(州都)は
 「薊(ケイ)」
 に設置
 ↓↑
 西晋
 広陽郡はふたたび
 「燕国」となり
 「薊・安次・昌平・軍都・広陽
  潞・安楽・泉州・雍奴・狐奴」
 の10県を領した
 ↓↑
 「八王の乱」後
 「燕国」は
 「燕郡」となり
 「燕郡・右北平郡・遼西郡」には
 「鮮卑」族の
 「段部」が割拠
 ↓↑   ↓↑
 338年
 干支   戊戌
 仁徳天皇 二十六年
 皇紀   998年
 東晋 咸康四年
 後趙 建武四年
 成漢 玉恒四年・漢興元年
 前涼 建興二十六年(西晋元号使用)
 前燕 太祖
    文明帝(慕容皝)五年
 代  建国元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 故国原王八年
 百済  比流 王三十五年
 新羅  訖解 王二十九年
 ↓↑
 儁=亻+雋=㒞=㑺
   亻+凹+隹
   シュン
   すぐれる・すぐれた人=俊
 ↓↑
 「後趙」
 「石虎」
 によって滅ぼされた
 燕郡は後趙の領土となり、後
 後趙の後継争いに乗じて
 「前燕」の
 「慕容儁」が
 「後趙」に侵攻し
 「薊」を奪って
 「前燕」の都とした
 ↓↑
 「北魏」
 「燕郡」は
 「薊・広陽・良郷・軍都・安城」
 の五県を領した
 ↓↑
 「隋」の時代
 「涿郡」に合併
 以降、燕国の名は消えた
 ↓↑
 UFO
 「Unidentified Flying Object」の頭文字
 ↓↑
 ドップラー効果(Doppler effect)
 ドップラーシフト(Doppler shift)
 波(音波・電磁波)の
 発生源(音源・光源)と
 観測者との
 相対的な速度の存在によって
 音と動く物体の波の周波数が
 異なって観測される現象
 ↓↑
 光
 遠ざかる光源からの光は
 赤っぽく見え(赤方偏移)
 近付く光源からの光は
 青っぽく見える(青方偏移)
 光の伝播は
 特殊相対性理論に従うため
 通常の
 波のドップラー効果とは
 違う現象となる
 ↓↑
 ドップラー効果の原因
 波源や
 観測者が
 波の媒質に対して
 速度を持つために
 波の山の間隔が変わる所にあるが
 光は
 波源や
 観測者の速度によらず
 常に光速で伝播するように観測される
 光の場合
 波源が運動していると
 特殊相対論的な効果によって
 波源上での時間の進み方が
 遅れて観測される
 波源から出る光の振動数が
 小さく観測される効果が付け加わる
 ↓↑
 光源が
 観測者の視線方向に対して
 垂直に運動しており
 視線方向の速度を持っていない場合でも
 光の振動数が変化して見えることである
 これを横ドップラー効果という
 ↓↑
 虹=虫+工
   中+ム+工
   虹霓(コウゲイ)
   虹桟(コウザン)
   虹・蜺・蝃・蝀
   Rainbow(レインボー)=雨の弓
   arc-en-ciel(アルカンシエル)
         =空に掛かるアーチ
 ↓↑
 日本方言
 鍋づる(佐渡島、愛知県)
 地獄のお釜のつる(富山県射水市)
 太鼓橋(大分県)
 立ちもん(長崎県南高来郡)
 ↓↑
 淡=氵+炎
   あわい
   色や味などが薄い
   淡彩・淡味・淡泊・濃淡
   類 澹(タン)
   対 濃
   ↓↑
   気持ちがさっぱり
   こだわらない
   淡交・冷淡
   塩分を含まない
   淡水
   対 鹹(カン)
   「淡路(あわじ)の国」の略
   「淡州」
   ↓↑
   タン
   あわい
   うすい
   色や味などがうすい
   淡彩・淡味
   ↓↑
   淡彩・淡粧・濃淡
   淡湖・淡水
   気持ちが あっさり
   情が厚くない
   淡交・淡淡・淡泊・枯淡・恬淡
   ↓↑
  「淡」=硫黄と水銀との化合した赤土
      日光を受けて水面から
      さかんにもえあがる
      かげろうの水面
      地面から炎のような揺らめきが
      立ちのぼる現象
   ↓↑
  「あう・あわし・あわじ」
 ↓↑
 虚静恬淡(キョセイテンタン)
      虚勢・去勢・巨星・巨勢・転譚?
  私心や私欲が全くなく
  心が落ち着いていていること
  「虚静恬澹・虚静恬憺」とも書く
   出典『荘子・天道』
 ↓↑
 虚無恬淡(キョムテンタン)
  心に不信や不満
  欲望などなく
  穏やかで落ち着いていること
   出典『荘子・刻意』
 ↓↑
 攻苦食淡(コウクショクタン)
  粗食を受け入れて
  辛い状況を我慢
  苦学すること
 ↓↑
 交淡如水(コウタンジョスイ)
  水のように
  さっぱりとした人との付き合い
  徳のある人物の人付き合いは
  淡白に見えるが
  心のこもったものである
 「交わりは淡きこと水の如し」
   出典『荘子・山水』
 ↓↑
 清淡寡慾(セイタンカヨク)
  物事に執着せず
  清らかで無欲な様子
  「清淡寡欲」
 ↓↑
 清淡虚無(セイタンキョム)
  静かで落ち着いて
  わだかまりがなく欲の少ない心
 ↓↑
 大味必淡(タイミヒッタン)
  すぐれた味は
  薄味であっさりしている
 「大味必ず淡し」
   出典『漢書(揚雄伝・下)』
 ↓↑
 淡粧濃抹(タンショウノウマツ)
  美しい女性の容姿のこと
  女性の化粧
  北宋の蘇軾が
  中国四大美女
  西施
  西湖
  の美しさを比べて評した詩
   出典 蘇軾「飲湖上初晴後雨」
 ↓↑ ↓↑
 金蝿=青蠅
    ハエ目クロバエ科の昆虫の
    体が緑・青・赤などの
    金属光沢をもつハエの総称
    衛生害虫
    双翅目クロバエ科
    体が緑色、青色の
    金属光沢をもつ種の総称
    オビキンバエ
    ルリキンバエ
    スネアカ キンバエ
 ↓↑
 ハエ(蠅・蝿)=fly・housefly
 ハエ目(双翅目)に属する昆虫
 ハエ亜目(短角亜目)
 環縫短角群
 ハエ下目(Muscomorpha)に属する総称
 日本だけで
 60ほどの科
 属する
 3,000種近い種が存在
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「ツバ」=鍔・鐔・対馬・啡・唾・・・「クラ」=蔵・倉・暗・黒・黔・黯・黭・玄

2020-06-14 19:05:40 | 古事記字源
 ツバメ=つばめ=鳦・燕・鷰・乙鳥・玄鳥

 ツバクラメ=ツバクロ=Barn swallow
       津波目・津波玄目
 「~メ」=小鳥の名前の語尾
 「~め」=小さ目・篠目・笹目
      細(ささめ)・・・鈿=かんざし=簪
      愛(め)
     「彼奴目=きゃつめ」
          相手を卑しめていう
      ~+「ま・み・む・め・も」
      つまみ・つまむ・つまめ・つまも
      抓む・摘む
      啄(ついば)む・嗆・噣・乨・嘴
      乨=台+乚(乙)=始=女+台
        はじまる・はじめる・ㇱ
        通仮字「台・佁=イ+台(臺)
        異体字「嬯・乨・𠃭・兘・𠙉」
 「ツバ」=鍔・鐔・対馬・啡・唾
 「クラ」=蔵・倉・暗・黒・黔・黯・黭・玄
      くろ=句+呂
      黔=黑+今
        くろい・ くろむ・ケン
        浅黒い
        黔首・黔突
        黔(くろ)い
        黔驢の技(ケンロのわざ)
      黯=黑+音
        くろい・くらい・いたましい
        アン
        黯然
        いたましい・心がふさぐ
      黭=黑+合+廾
        あおぐろい
        ヱン・アン・オン
      黭黮是=是指云 黑貌
          昏黑貌・昏黑・黑暗
          昏暗・夜色昏黑・昏黑的小屋
 ↓↑
 卑弥呼(火女・日女・比売)
 の使者、帯方郡へ
 ↓↑
 238年6月15日12時・・・?
 戊午(丙丁)食神・比肩・帝旺
 戊午(丙丁)食神・比肩・帝旺
 丙午(丙丁) ・比肩・帝旺
 甲午(丙丁)偏印・比肩・帝旺
  寅卯空亡
  ???・・・?
  ↓↑
  午=馬・・・宇・合・・・厩
  虎・兎・・・空・亡 
  ↓ ↑
 「虎と兎(兔・菟・莵・宇佐義・鵜鷺
      うさぎ=鸕詐欺)」
      宇佐神宮=大分
           豊国=豊前・豊後(ぶんご)
  虎=天武天皇=大海人皇子
   =翼の付いた虎
  鸕=持統天皇=鸕野讃良
   =大倭-根子-天之廣野-日女-尊
   =高-天原-廣野-姫-天皇
 ↓↑
 継体持統=継=糸+乚+米
      体=イ+木(十八)=體
      持=扌+寺(十一寸)
      統=糸+充(云儿・亠ム儿・二ム儿)
 ↓↑
 午=うま=馬・宇摩・旨・甘・巧・匠
 ↓↑
 馬=司馬=シマ=志摩・縞・揣摩・死魔
    馬太(マタイ)=マチュウ
    馬可(マルコ)=Marcus
       マーカス・マークス・マルクス
    ↓↑
    馬太福音(太)傳・傅・伝
    馬可福音(可)傳・傅・伝
    路加福音(路)傳・傅・伝
    約翰福音(約)傳・傅・伝
    教会歴史:
   ↓↑
   使徒行伝(徒)
   書信
   ↓↑
   羅馬 書(羅)
  哥林多前書(林前)
  哥林多後書(林後)
  加拉太 書(加)
  以弗所 書(弗)
  腓立比 書(腓)
  歌羅西 書(西)
  ↓↑
 帖撒羅尼迦前書(帖前)
 帖撒羅尼迦後書(帖後)
 提摩太  前書(提前)
 提摩太  後書(提後)
 提多    書(多)
 腓利門   書(門)
 希伯来   書(来)
 雅各    書(雅)・・・鴉・烏
 彼得前   書(彼前)
 彼得後   書(彼後)
 約翰一   書(約壱)
 約翰二   書(約弐)
 約翰三   書(約参)
 猶大    書(猶)・・・尊=みこと=命
                見事
 約翰的啓示:
 ↓↑
 啓示録(啓)
 ↓↑
 耶 蘇基督(イエス・キリスト)=移鼠
 馬利亜(マリア)=未艶
 約瑟(ヨセフ)
 保羅(パウロ)
 ↓↑
 厩戸(うまやど)
 厩
 異体字 
 廐=廏
 厩=厂+既
   厂+旣
   厂+既(日+ム+旡)・・・牙・无(厶)
         旡=キ
         むせる・むせぶ
噎せる=むせる=咽せる
         噎=口+壹 咽=口+因
         食べ物が咽喉につまる
         ↓↑
         噎ぶ=むせぶ=咽ぶ・哽
         息がつまる
  厂+皀+旡
  厂+白+匕+旡
  ↓↑
 對=业+丷 一++土+寸
   丵+寸
   「丵」は「業・撲」等に見られる
    土を突き固める道具
   「寸」は手の運動
   「丵」を用いて土を突き固めること
 通仮字「敓」
 簡体字「对」
 異体字「𡭊・対」
 声符「對・𠏮・䨴・懟・轛」
 関連類字「丵業菐撲対(對)樸璞」
 ↓↑
 對揚休命
 キウメイヲタイヤウス
 對は答なり、君命に答へ
 其の意を衆に宣揚する
 ↓↑
  ・・・「丵=入墨の針」で
     「一を細かく刻む」
 丵を掘鑿に使う道具
 菐はそれを持って打つ
 ↓↑
 紹=糸+召
   幺+小+刀+口
   ショウ
   つぐ・受けつぐ・引き継ぐ・継承する
   引き合わせる・紹介
   間をとりもつ
 ↓↑
 善=羊+䒑+口
   羊+丷+一+口
 譱=羊+誩
   羊+言+言・・・咩(ひ・ビ)・比咩(売)
   神社の祭神
   主祭神と並んで
   比売神(比売大神)
   比咩神
   姫大神
   などと記録
   ヒメ=比売・比咩・日女・孫女・火売
      孫(まご・ソン)
      の
      女(むすめ・ニョ・ジョ)
 ↓↑
   元明天皇
   日本-根子-天津御代
        豊國-成姫-天皇
   諱 阿閇・・・阿部・阿毎を閇
         閇=しめる・とじる・閉じる
           とじ籠もる・ヘイ
           閉鎖
   和同開珎鋳造・平城遷都
   「古事記」「風土記」編纂


   父親 天智天皇
   母親 蘇我姪娘=蘇我
             倉山田
             石川麻呂の娘(女)
             ↓↑
        蘇我倉山田石川麻呂
        別名
        蘇我倉山田麻呂
        倉山田臣=山田臣=山田大臣
        ↓↑
        蘇我蝦夷=石川麻呂の伯父
        蘇我入鹿=石川麻呂の従兄弟
        ↓↑
        蘇我姪娘の
        妹=遠智娘(おちのいらつめ)
        またの名
        造媛・美濃津子娘・越智娘
       「建(享年八)」皇子の母親
        建=唖不能語=言語不能?
        皇極、斉明天皇の孫
        ↓↑
   皇配 草壁皇子・・・日下部・句差化部
        日並皇子=岡宮御宇天皇
        日下
        草苅
        草刈
        久佐賀
        久坂
        玖沙訶
        草加
        孔舎衙(衛)=日根市村
              (ひねいちむら)
        ↓↑
        1663年(寛文三年)
        河内郡日下村より
        善根寺村を分村
        1882年(明治十五年)
        河内郡日下村より
        布市村を分村
        1889年(明治二十二年)4月1日
        町村制施行
        河内郡
        善根寺村・日下村・布市村
        河内屋南新田が合併し
        日根市村が発足
        大字日下に村役場を設置
        1896年(明治二十九年)4月1日
        所属郡が中河内郡に変更
        1910年(明治四十三年)
        大字河内屋
        南新田を
        河内屋南に改称
        1912年(大正元年)10月1日
       「孔舎衙」村に改称
        1955年(昭和三十年)1月11日
        中河内郡
        石切町・枚岡町・縄手町
        と合併し
        枚岡市が発足
       「孔舎衙」村廃止
        枚岡市発足時に
        大字
        河内屋南を
        元町に改称
       「草香邑」の比定地・・・
        ↓↑
   子女 元正天皇(氷髙)
            ・・・孫女(天智・天武)
        文武天皇・・・孫男
        吉備内親王・・孫女(天智・天武)
 ↓↑
 牛馬=丑午(チュウゴ)
     ↓↑
     馬太(マタイ)=Matthew
        マチュゥ・マシュー
        ・・・収税人
        マタイオス
        (Μαθθαιος・Matthaios)
        マテオ・マトフェイ
     馬可(マルコ)=Marcus
        マーカス・マークス・マルクス
     馬利亜(マリア)=Maria=未艶
       マリア
      「マ・ミ・ム・メ・モ」+「リア」
       うま・め・バ・・・・
       うば=乳母・姥
       めのと=乳人・女の都
       馬屋=厩(うまや)・・・厩戸王子
       うま・め・バ・・・・
       うば=乳母・姥・
       めのと=乳人・女の都
ーーーーー
 斉明天皇四年(658年)五月条
 斉明天皇皇孫
 建王は八才で薨去
 今城谷の上に殯を起こし納めた
 斉明天皇の歌
 ↓↑
 今城なる・・・今来の渡来人?
 小丘が上に
 雲だにも・・・句摸拿似・・・入道雲?
 著くし立たば・・・イチジルシク・ㇱ立たば
          壹(位置・伊地・移置)
            字留詞句・史質把?
 何か歎かむ
(いまきなる をむれがうへに
 くもだにも しるくしたたば
 なにかなげかむ)
 ↓↑
 射ゆ鹿猪を
 認ぐ川上の
 若草の
 若くありきと
 吾が思はなくに
(いゆししを
 つなぐかはへの
 わかくさの・・・和歌句差之
 わかくありきと・和歌句有記譯?
 あが おもはなくに)
 ↓↑
 飛鳥川 漲らひつつ
 行く水の 間も無くも
 思ほゆるかも
(あすかがは みなぎらひつつ
 ゆくみづの あひだもなくも
 おもほゆるかも)
 ↓↑
 同年十月条
 斉明天皇は
 紀温湯(和歌山県白浜町の湯崎温泉)
 において建
 王を追憶 歌三首を詠んだ
 ↓↑
 山越えて
 海渡るとも
 おもしろき・・・興味ある記紀?
 今城の内は・・・今来の内輪(身内)?
 忘らゆ
 ましじ
(やまこえて うみわたるとも
 おもしろき いまきのうちは
 わすらゆましじ)
 ↓↑
 水門の
 潮のくだり
 海くだり
 後も暗に
 置きてか
 行かむ
(みなとの うしほのくだり
 うなくだり うしろもくれに
 おきてかゆかむ)
 ↓↑
 愛しき
 吾が
 若き子を・・・和歌記詞を?
 置きてか
 行かむ
(うつくしき あがわかきこを
 おきてか ゆかむ)
ーーーーー
 薊(あざみ・ケイ)=北京・燕京
 ↓↑
 楚人謂 治魚也(說文)
 割 也(博雅)
 吉詣切、音計・解也(集韻)
     ・・・カイ=魏・歌意・回・甲斐・✕
           魏(カイ・ギ)
 魏(カイ・ギ)=戦国七雄の一
 晋の六卿の一
 韓氏・趙氏とともに
 晋を滅ぼし、その領土を3分
 前403年
 文侯のとき
 周の諸侯に列せられ
 山西省南部から河南省北部を領有
 都は安邑=大梁(開封)
 前225年
 秦に滅ぼされた


 三国の一
 曹操が華北を統一
 220年
 子の
 曹丕
 が建国
 都は洛陽
 蜀・呉 (ご) と天下を3分
 265年
 元帝は
 晋の
 武帝に禅譲
 曹魏


 南北朝時代
 北朝最初の王朝
 386年
 鮮卑族の
 拓跋珪 (タクバツケイ) =道武帝
 建国
 第三代
 太武帝の時
 華北統一
 都は初め
 平城(山西省大同)
 493年
 洛陽に遷都
 534年
 東西に分裂
 東魏は550年に滅亡
 西魏は556年に滅亡
 北魏
 後魏
 拓跋魏
 ↓↑
 紀元前   318年
 干支   癸卯年
 皇紀    343年
 孝安天皇  75年
 ↓↑
 中国
 周 慎靚王    3年
 秦 恵文王    7年
 楚 懐 王   11年
 斉 宣 王    2年
 燕 燕 王 噲  3年
 趙 武霊王    8年
 魏 襄 王   元年
 韓 宣恵王   15年
 ↓↑
 仏滅紀元    227年
 ↓↑
 マケドニア帝国
 アンティゴノスが
 カッサンドロス
 プトレマイオス
 と連合
 アンティゴノスは
 エウメネスにも連合を持ちかけたが
 エウメネスは王家への忠誠を守った
 エウメネスは決起し
 東方の
 サトラップ(太守)たちと同盟
 エウメネスは
 アンティゴノス側から
 バビロンを奪取
 アンティゴノスは
 エウメネスに進軍し
 エウメネスは東方へ退き
 チグリス川東岸の
 サトラップたちと合流
 プトレマイオス
 アンティゴノス
 と結んだ
 カッサンドロスは
 帝国摂政
 ポリュペルコンに宣戦布告
 ギリシアのほとんどの都市国家は
 アテナイを含め
 カッサンドロス側についた
 ↓↑
 ポリュペルコンは
 ギリシア諸都市に
 自由を保障することで
 当初は影響力を保ったものの
 ポリュペルコン方の艦隊は
 アンティゴノスによって撃破
 ギリシア
 アンティパトロスの没後
 アテナイで権力闘争
 ↓↑
 民主政治の復活を望み
 アテナイ市民たちは
 フォキオン (Phocion)
 を
 支配者の座から追放し
 反逆罪で処刑
 その後
 アテナイ市民たちは
 フォキオンを讃えて・・・?
 公式の葬儀を行ない、像を建てた・・・?
ーーーーー
 秦の東方拡大
 ↓↑
 紀元前319年
 魏の
 「公孫衍」は
 「韓」の支持の下
 「張儀」
 に取って代わり
 魏の国相となった
 魏の
 「恵王」は
 「張儀」を追放し
 「張儀」は
 秦へ亡命
 ↓↑
 秦の
 「恵文王」
 姓諱 嬴駟(エイシ)
     駟=四頭立ての馬車・その四頭の馬
 父  孝公(秦)
 ↓↑
 「恵文王」は
 宰相の
 「商鞅」
 を処刑
 縦横家の
 「張儀」
 を用いて
 蜀、巴(四川)を征服
 秦として初めて「王号」を唱えた
 ↓↑
 張儀
 登用
 秦
 商鞅
 の改革で
 国力増強
 ↓↑
 元、魏の臣で亡命してきた
 張儀
 を登用
 魏・斉・楚
 などを討ち
 (岸門の役、龍賈の役)
 ↓↑
 紀元前324年
 王号を唱えた
 ↓↑
 秦を畏れ
 紀元前318年
 韓・趙・魏・燕・楚
 五ヶ国連合軍で
 秦を攻撃したが
 恵文王は弟の
 「樗里疾」に命じて連衡軍を破り
 敵兵8万の首を切った
 (函谷関の戦い)
 ↓↑
 巴蜀 併合
 「司馬錯」が
 蜀を獲って後背地を得るべきと主張し
 恵文王は
 彼の意見を採用
 穀倉地帯でもあった「蜀」を取った
 ↓↑
 紀元前312年
 楚が
 「張儀」
 の策謀で
 秦を攻めたが
 秦は
 丹陽(江蘇省丹陽)で返り討ちにし
 逆に
 「楚の漢中地方」に攻め入り
 「漢中郡」を設置
 楚が再び侵攻して来た際
 咸陽に近い
 藍田(陝西省藍田)の地で撃破
 (藍田の戦い)
 ↓↑
 「恵文王」
 は
 翌年
 紀元前311年
 死去
 ↓↑ ↓↑
 紀元前318年
 魏の宰相となった
 「公孫衍」は
 魏・趙・韓・燕・楚
 の合従軍を率いて
 秦に侵攻
 ↓↑
 合従軍の総大将は
 楚の
 「懐王」が努めた
 ↓↑
 「公孫衍」は
 義渠へ遊説し
 義渠を合従軍に組み入れた
 ↓↑
 秦は
 綾絹1000匹
 婦女100人を
 義渠へ送り
 懐柔しようとしたが
 「義渠国君」は
 策略と見抜き
 秦に出兵し
 秦軍を
 李帛で打ち破った
 しかし
 合従軍の
 五国はそれぞれの利害のため
 足並みが揃わず
 実際に出兵したのは
 魏・趙・韓の三国のみ
 合従軍は
 「函谷関」を攻撃したが
 秦軍によって撃破された
 ↓↑
 紀元前317年
 秦の
 庶長の
 「樗里疾」
 率いる秦軍が
 「函谷関」から打って出て
 韓趙魏の軍に反撃
 趙・韓軍を
 「修魚」・・・修+魚
 で大敗させ
 韓将の
 「申差」
 を捕虜とした
 合従軍の8万2千人が
 斬首された
ー↓↑ーーーー
 紀元前318年
 「函谷関」
 「楚・趙・魏・韓・燕」+「義渠」
 が連合して
 秦
 に侵攻
 「函谷関」を攻撃
 秦軍が迎え撃ち
 五カ国連合軍は敗走
 ↓↑
 宋の第34代で
 最後の国君
 「康王(コウオウ)」
 ?~紀元前286年
 在位
 紀元前329年~紀元前286年
 姓 子
 諱 偃
 諡 康
 戴公の後裔
ー↓↑ーーーー
 紀元前328年
 「康王(コウオウ)」は
 兄の宋公
 「剔成君(テキセイクン)」・・・適性訓?
 を軍事クーデターで追放
 君位を簒奪
 宋君となる
 ↓↑
 偃が即位した宋国は
 楚や斉、魏の3国に挟まれ
 強大国の情勢に国政が左右
 第二十代
 襄公以後
 弱小国
 ↓↑
 紀元前320年
 宋君としては
 最初で最後の王号を名乗った
 「宋王偃」は
 斉の属国の
 「滕(姫姓)」を滅ぼし
 自国の国勢に見合わぬ
 軍事行動を展開
 内政でも恐怖政治を敷き暴政
 「宋の桀」と呼ばれた
 「宋王は殷の暴君
  紂王の子孫で、その再来だ
  協力して誅滅すべきだ」
 と国を攻められ
 宋の民は国のために戦うことはなかった
 ↓↑
 紀元前286年
 斉・魏・楚の連合軍に敗れ
 「宋王偃」は殺され、宋は滅亡
 殷の流れを汲む王朝は完全に絶滅
 紀元前256年
 周王朝滅亡
 ↓↑ ↓↑
 「義渠(ギキョ)」
 ↓↑
 春秋戦国時代
 オルドス地方の
 遊牧国家
 岐山・梁山・涇水・漆水
 の北に居住
 涇北に義渠の戎があった
 ↓↑
 紀元前471年(厲共公六年)
 義渠が贈り物をたずさえ
 秦に来朝
 ↓↑
 紀元前444年(厲共公三十三年)
 秦が義渠を攻撃
 王を捕らえた
 ↓↑
 紀元前430年(躁公十三年)
 義渠が秦に侵攻
 渭水の南に達した
 ↓↑
 紀元前331年(恵文君七年)
 義渠で内乱
 秦の
 庶長操が出兵し平定
 ↓↑
 紀元前327年(恵文君十一年)
 秦が
 義渠を県とした
 義渠君は秦の臣となった
 ↓↑
 後
 義渠君は魏に朝事
 魏の
 公孫衍(犀首)
 は
 「秦は事のないときに
  貴国を思うまま焼き払い
  事があると重い贈り物をたずさえて
  平身低頭してきます」
 と義渠君に吹き込んだ
 ↓↑
 紀元前318年(恵文王七年)
 楚・魏・斉・韓・趙
 5カ国連合軍が
 秦を攻撃
 陳軫は
 義渠に
 賄賂を送って手なづけるよう
 秦の恵文王に勧め
 恵文王がその言に従って
 綾絹1000純
 婦女100人
 を義渠君に贈った
 義渠君は
 公孫衍
 の言っていたことはこ
 のことだったかと思い
 兵を出動させて
 秦を襲ったが
 秦の
 李伯に敗れた
 (函谷関の戦い)
 ↓↑
 紀元前315年(恵文王十年)
 秦が
 義渠を攻撃し
 25城を奪った
 ↓↑
 紀元前310年(武王元年)
 秦が
 義渠を攻撃
 ↓↑
 秦の
 昭襄王
 義渠の
 戎王は
 秦の
 宣太后と乱倫し
 ふたりの子をもうけた
 宣太后は
 義渠
 戎王を
 甘泉に誘い出して殺害
 後
 秦軍が出動して
 義渠を攻め滅ぼした
 秦は
 義渠の故地に
 北地郡を置き
 長城を築いて
 北方民族の侵入を阻んだ
 ↓↑
 紀元前318年
 アリストテレスの弟子
 ギリシアの逍遙学派(ペリパトス派)
 の哲学者で
 音楽やリズムについて
 記述を残した
 アリストクセノス (Aristoxenus) が
 『ハルモニア原論』・・・ハル(ぉ)モニア?
 と題された論文を書いた・・・
 ↓↑
 シアン化カリウム(青酸カリ)
 産業的には
 シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)
 ↓↑
 春秋戦国時代
 燕の首都=薊(ケイ)・・・景・軽・鶏?
 ↓↑
 燕国は
 紀元前222年
 秦に滅ぼされ
 上谷郡・漁陽郡・右北平郡
 遼西郡・遼東郡
 設置
 ↓↑
 秦末
 各地の諸侯が独立
 趙王武臣の将軍
 「韓広」・・・「韓+広」
 が独立し
 「燕王」・・・「燕+王」
 となる
 ↓↑
 秦を滅ぼした
 楚の
 「項籍」によって
 「韓広」は
 「遼東王」に遷され
 「項籍」に協力した
 燕の将軍
 「臧荼」が・・・・・「臧+荼」
 燕王となった
 ↓↑
 高祖 劉邦 前漢建国
 「臧荼=燕王」は
 紀元前202年
 反乱を起こし殺され
 高祖の幼馴染
 「盧綰」が・・・・・「盧+綰」
 燕王に封ぜられた
 ↓↑
 高祖(劉邦)は
 異姓の諸侯王を粛清
 自らの親族たちを
 諸侯王に立て
 「郡国制」を施行
 「盧綰」・・・・・「盧+綰」
 は廃され
 高祖の八男・・・・・「八+男」
 「劉建」が・・・・・「劉+建」
 燕王となった
 以降
 劉氏一族が燕王
 ↓↑
 元狩六年(前117年)
 八代目
 燕王
 「劉旦」・・・・・・「劉+旦」
 後継問題で父の
 武帝と揉め
 所領の
 良郷・安次・文安
 の三県を没収された
 ↓↑
 元鳳元年(前80年)
 燕王
 「劉旦」
 謀反を起こすも失敗し、自害
 燕国は一時
 「広陽郡」となる
 ↓↑
 「宣帝」の
 本始元年(紀元前73年)
 「劉旦」の太子
 「劉建」が・・・・・・「劉+建」
 燕王から改称して新たに
 「広陽王」に封ぜられ
 広陽郡は
 「広陽国」となって
 「薊・方城・広陽・陰郷」
 の四県を領した
 ↓↑
 「王莽」
 紀元元年
 「新國」建國
 広陽国は
 「広有郡」と改名
 「薊県」は
 伐戎県、
 「方城県・広陽県・陰郷県」は
 「陰順県」と改名
 ↓↑
 光武帝
 「後漢」建国
 広有郡は上谷郡に合併
 ↓↑
 「和帝」
 永元八年(96年)
 広陽郡として復活
 「薊・広陽・昌平・軍都・安次」
 の5県を領した
 幽州刺史治(州都)は
 「薊(ケイ)」
 に設置
 ↓↑
 西晋
 広陽郡はふたたび
 「燕国」となり
 「薊・安次・昌平・軍都・広陽
  潞・安楽・泉州・雍奴・狐奴」
 の10県を領した
 ↓↑
 「八王の乱」後
 「燕国」は
 「燕郡」となり
 「燕郡・右北平郡・遼西郡」には
 「鮮卑」族の
 「段部」が割拠
 ↓↑   ↓↑
 338年
 干支   戊戌
 仁徳天皇 二十六年
 皇紀   998年
 東晋 咸康四年
 後趙 建武四年
 成漢 玉恒四年・漢興元年
 前涼 建興二十六年(西晋元号使用)
 前燕 太祖
    文明帝(慕容皝)五年
 代  建国元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 故国原王八年
 百済  比流 王三十五年
 新羅  訖解 王二十九年
 ↓↑
 儁=亻+雋=㒞=㑺
   亻+凹+隹
   シュン
   すぐれる・すぐれた人=俊
 ↓↑
 「後趙」
 「石虎」
 によって滅ぼされた
 燕郡は後趙の領土となり、後
 後趙の後継争いに乗じて
 「前燕」の
 「慕容儁」が
 「後趙」に侵攻し
 「薊」を奪って
 「前燕」の都とした
 ↓↑
 「北魏」
 「燕郡」は
 「薊・広陽・良郷・軍都・安城」
 の五県を領した
 ↓↑
 「隋」の時代
 「涿郡」に合併
 以降、燕国の名は消えた
 ↓↑
 UFO
 「Unidentified Flying Object」の頭文字
 ↓↑
 ドップラー効果(Doppler effect)
 ドップラーシフト(Doppler shift)
 波(音波・電磁波)の
 発生源(音源・光源)と
 観測者との
 相対的な速度の存在によって
 音と動く物体の波の周波数が
 異なって観測される現象
 ↓↑
 光
 遠ざかる光源からの光は
 赤っぽく見え(赤方偏移)
 近付く光源からの光は
 青っぽく見える(青方偏移)
 光の伝播は
 特殊相対性理論に従うため
 通常の
 波のドップラー効果とは
 違う現象となる
 ↓↑
 ドップラー効果の原因
 波源や
 観測者が
 波の媒質に対して
 速度を持つために
 波の山の間隔が変わる所にあるが
 光は
 波源や
 観測者の速度によらず
 常に光速で伝播するように観測される
 光の場合
 波源が運動していると
 特殊相対論的な効果によって
 波源上での時間の進み方が
 遅れて観測される
 波源から出る光の振動数が
 小さく観測される効果が付け加わる
 ↓↑
 光源が
 観測者の視線方向に対して
 垂直に運動しており
 視線方向の速度を持っていない場合でも
 光の振動数が変化して見えることである
 これを横ドップラー効果という
 ↓↑
 虹=虫+工
   中+ム+工
   虹霓(コウゲイ)
   虹桟(コウザン)
   虹・蜺・蝃・蝀
   Rainbow(レインボー)=雨の弓
   arc-en-ciel(アルカンシエル)
         =空に掛かるアーチ
 ↓↑
 日本方言
 鍋づる(佐渡島、愛知県)
 地獄のお釜のつる(富山県射水市)
 太鼓橋(大分県)
 立ちもん(長崎県南高来郡)
 ↓↑
 淡=氵+炎
   あわい
   色や味などが薄い
   淡彩・淡味・淡泊・濃淡
   類 澹(タン)
   対 濃
   ↓↑
   気持ちがさっぱり
   こだわらない
   淡交・冷淡
   塩分を含まない
   淡水
   対 鹹(カン)
   「淡路(あわじ)の国」の略
   「淡州」
   ↓↑
   タン
   あわい
   うすい
   色や味などがうすい
   淡彩・淡味
   ↓↑
   淡彩・淡粧・濃淡
   淡湖・淡水
   気持ちが あっさり
   情が厚くない
   淡交・淡淡・淡泊・枯淡・恬淡
   ↓↑
  「淡」=硫黄と水銀との化合した赤土
      日光を受けて水面から
      さかんにもえあがる
      かげろうの水面
      地面から炎のような揺らめきが
      立ちのぼる現象
   ↓↑
  「あう・あわし・あわじ」
 ↓↑
 虚静恬淡(キョセイテンタン)
      虚勢・去勢・巨星・巨勢・転譚?
  私心や私欲が全くなく
  心が落ち着いていていること
  「虚静恬澹・虚静恬憺」とも書く
   出典『荘子・天道』
 ↓↑
 虚無恬淡(キョムテンタン)
  心に不信や不満
  欲望などなく
  穏やかで落ち着いていること
   出典『荘子・刻意』
 ↓↑
 攻苦食淡(コウクショクタン)
  粗食を受け入れて
  辛い状況を我慢
  苦学すること
 ↓↑
 交淡如水(コウタンジョスイ)
  水のように
  さっぱりとした人との付き合い
  徳のある人物の人付き合いは
  淡白に見えるが
  心のこもったものである
 「交わりは淡きこと水の如し」
   出典『荘子・山水』
 ↓↑
 清淡寡慾(セイタンカヨク)
  物事に執着せず
  清らかで無欲な様子
  「清淡寡欲」
 ↓↑
 清淡虚無(セイタンキョム)
  静かで落ち着いて
  わだかまりがなく欲の少ない心
 ↓↑
 大味必淡(タイミヒッタン)
  すぐれた味は
  薄味であっさりしている
 「大味必ず淡し」
   出典『漢書(揚雄伝・下)』
 ↓↑
 淡粧濃抹(タンショウノウマツ)
  美しい女性の容姿のこと
  女性の化粧
  北宋の蘇軾が
  中国四大美女
  西施
  西湖
  の美しさを比べて評した詩
   出典 蘇軾「飲湖上初晴後雨」
 ↓↑ ↓↑
 金蝿=青蠅
    ハエ目クロバエ科の昆虫の
    体が緑・青・赤などの
    金属光沢をもつハエの総称
    衛生害虫
    双翅目クロバエ科
    体が緑色、青色の
    金属光沢をもつ種の総称
    オビキンバエ
    ルリキンバエ
    スネアカ キンバエ
 ↓↑
 ハエ(蠅・蝿)=fly・housefly
 ハエ目(双翅目)に属する昆虫
 ハエ亜目(短角亜目)
 環縫短角群
 ハエ下目(Muscomorpha)に属する総称
 日本だけで
 60ほどの科
 属する
 3,000種近い種が存在
ーーーーー
 ・・・???・・・

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ウマの名前とウシの名前・・・

2020-06-12 01:47:25 | 古事記字源
 つしま=対馬=對馬=対島=但馬=たじま=多嶋=太島
     対=文+寸
       亠+乂+一+亅+丶
       音を重ねる初め、カギはテン
     馬=司馬・志摩・縞・揣摩・死魔
       馬太(マタイ)=Matthew・マチュゥ・マシュー
               ・・・収税人
               マタイオス (Μαθθαιος・Matthaios)
               マテオ・マトフェイ
       馬可(マルコ)=Marcus・マーカス・マークス・マルクス
       馬利亜(マリア)=Maria=未艶
          「マ・ミ・ム・メ・モ」+「リア」
       うま・め・バ・・・・
       うば=乳母・姥
       めのと=乳人・女の都
       馬屋=厩(うまや)・・・厩戸王子
 ↓↑
 対=文+寸=對
     ・・對=「丵=入墨(刺青・文身・黥)の針で
            一を寸(細かく刻む)」
   亠+乂+一+亅+丶
   タイ
   ツイ
   むかう・つれあい
   こたえる・そろい
   タイ
   こたえる・応じる
   相手(特に目上の人)の問いに
   応える・答える・堪える?
   むかう・向き合う・向かい合う
   つれあい・相手
   そろい・二つで一組になるもの
 對=丵+一+寸=對
 對=业+丷+一+土+寸
   異体字「對・对・𡭊」
      類字「丵業菐撲対(對)樸璞」
  丵=掘鑿に使う道具
      菐=「丵+廾」?=丵を両手で持つ
       =「业+丷+一+夫」
        「业+丷+二+人」
        丵を持って打つ
      ↓↑
      撲=相撲(すもう・ソウボク)=格闘技
      業=家業・稼業・課業・歌業
        職業=諸々の業種・・・?
        商業・工業・農業・漁業
        産業・陶業・林業・興業
   懟=對+心
     业+丷+一+土+寸+心
     タイ
     ツイ
     恨む
     相手の不幸を望む
     不快な気持ちを抱く
ー↓↑ーー↓↑ーー
 234年・甲寅
 新羅が
 倭国と和解(新羅本紀)
 新羅が
 魏に使いを出して
 和親(高句麗本紀)
 ↓↑
 236年・丙辰
 呉の
 「孫権」
 が
 燕(公孫氏)に
 使者派遣
 和親を乞う
 王(公孫氏)は
 その(呉)使いを斬り
 首を
 魏に伝えた(高句麗本紀)
 「公孫淵」
 は
 魏から受けた
 大司馬・楽浪公の地位を不足とし
 魏の皇帝
 「曹叡」
 から
 上洛を求められたが拒否
 ↓↑

 237年(景初元年)・丁巳
 七月        戊申
 「公孫淵」は
 呉の
 「孫権」に
 呼応して
 魏に反旗を翻し
 独立宣言
 遼東の
 襄平城で
 「燕王」を自称
 年号を
 紹漢・・・・紹=糸+召
         幺+小+刀+口
         幺+ハ+亅+刀+口
         ショウ
         つぐ・受けつぐ・引き継ぐ・継承する
         引き合わせる・紹介
         間をとりもつ
         と定め
 近隣部族に
 印璽を与えた

 帯方郡・・・帯(たらし・おび・タイ)
 楽浪郡・・・楽=冫+白+冫+木(十八)
 も
 燕に属したが
 帯方郡と楽浪郡の
 太守は
 燕の建国時に
 魏に逃げ戻った・・・327年~328年の何時か?
 ↓↑
 公孫淵が
 司馬懿との戦いの間に
 帯方郡と楽浪郡を
 奪還する密命を
 (郡の太守)は
 受け
 甘言を弄して
 韓国(三韓諸国)を味方にした
 ↓↑
 (公孫淵)
 魏に使いを出し
 年号を改めたのを祝賀した(高句麗本紀)
 ↓↑
 238(景初二年)・戊午
 正月・・・
 魏の大尉
 「司馬懿」
 が四万の軍勢を率いて燕に出撃
 九月・辛酉
 「公孫淵」
 を討ち滅ぼした
 ↓↑
 帯方郡は
 「後漢→魏→燕」と
 所属に変遷があったが
 実質的は一貫して
 「公孫氏の領有下」にあった
 ↓↑
 魏が
 公孫淵(燕)
 を討つので
 王(高句麗王?)は
 主簿大加
 を派遣してこれを助けた(高句麗本紀)
 ↓↑
 238年
 六月・・・
 ↓↑
 六月・戊午
 七月・己未
 八月・庚申
 九月・辛酉
 「公孫淵」滅亡
 ↓↑
 238年
 六月・・・九月・辛酉「公孫淵」滅亡3ヶ月前
 倭の
 女王(卑弥呼)が
 大夫
 難升米
 等を遣わし
 帯方郡に到来し・・・六月には「公孫淵」は
           九月・辛酉までは生存し
           帯方郡は
           その支配下・・・?
 天子に詣うで
 朝献したいと要請
 太守
 「劉夏」・・・・・・六月には「劉夏」は帯方郡にいたか?
 は使いを遣わし
 彼らに随行させ都に詣でさせた
 ↓↑
 その年(景初二年)・戊午(238年)
 十二月・・・・甲子月
 以下の文書を
 倭の女王に送った
 「親魏 倭王
  卑弥呼
  に申し伝える
  帯方郡の太守
  劉夏
  は使いを使わし
  貴方の
  大夫
  「難升米」・・・・難の升の米
  次使
  「都市牛利」・・・都市の牛利
  を送らせ
  貴方の献上した
  男生口四人
  女生口六人
  班布二匹二丈
  を奉って到着した
  貴方がいる所は
  遙かに遠いにもかかわらず
  使いを派遣して来た
  これは貴方の
  忠孝の表れであり、うれしく思う
  ↓↑
  今 貴方を
  「親魏倭王」
  としてたたえ
  「金印紫綬(シジュ)」
  を授け
  封印した後
  帯方郡の大守
  に授けさせる
  貴方は
  それを人々に示し
  人民を服従させよ
  貴方の使者
  「難升米」
  「都市牛利」・・・「都市の護利(義勇)」?
  は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた
  今
  「難升米」を
   率善中郎将・・・善=譱
           善=羊+䒑+口
             羊+丷+一+口
           譱=羊+誩
             羊+言+言
   とし
  「牛利」を
   率善校尉として
   銀印青綬を授け
   引見して労をねぎらい
  (倭へ)帰す事にする
 ↓↑
 240年(正始元年)
 魏は太守
 「弓遵」・・・弓の遵=尊+辶
 建中校尉
 「梯儁」・・・梯=十+八+弟
        の
        儁=イ+隹+凹
        儁=俊
 等を派遣し
 詔書・印綬を捧げ持って
 倭国を訪問
 倭王に拝謁
 ならびに
 詔をもたらし
 金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物
 を授けた
 倭王は、使に答えて上表し謝意を示した
 ↓↑
 242年
 高句麗は
 遼東
 西安平
 を襲って破った(高句麗本紀)
 ↓↑
 243年
 倭王も使大夫
 「伊声耆」・・・伊の声の耆
      ・・・イの尹(臣)の声の「キギ・おい」
 「掖邪狗」・・・掖の邪の狗・・・和記の譯
 等八人を(魏へ)派遣し
 生口・倭錦(わきん)
 絳青ケン(こうせいけん)
 緜衣(めんい)
 帛布・丹・木フ・短弓矢
 を献上
 「掖邪狗」
 等
 率善中郎将の
 印綬を授かった(壱拝す)
 ↓↑
 244年
 魏の将軍
 毌丘倹
 による1回目の
 高句麗侵攻
 高句麗
 東川王(位宮・イキュウ)
 は2万の兵を率いて迎え撃ったが
 連敗し
 「丸都城」・・・丸の都の城
 を落とされ千人が斬首された
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
 は将兵の
 墳墓破壊を禁じ
 (高句麗の?)
 捕虜と首都を返還したが
 高句麗は
 服属しなかった
 ↓↑
 245年(正始六年)
 高句麗は再び
 魏軍の侵攻を招いた
 魏軍は南北の2方向から侵攻し
 高句麗を大いに打ち破り
 全土の村々を落とすと
 東川王は
 南沃租
 へ逃げたが更に追撃を受け
 北方にある
 粛慎との境いまで逃れた
 この戦いにより
 3千人が捕えられて斬首
 従属させていた
 東濊も
 高句麗を離れ
 魏に服属
 魏に
 従軍した
 韓は
 戦いの後
 辰韓八国を楽浪郡へ編入され
 韓を魏の植民地にした
 激怒した
 韓族が
 帯方郡の
 崎離営を襲ったが
 「弓遵」と
 楽浪太守の
 「劉茂」
 が兵を興して討ち
 三韓は
 漢族によって滅亡
 この戦いで
 「弓遵」は戦死
 東川王は
 魏軍が引き上げた後
 平壌城を築城した
 ↓↑
 軍を出して
 新羅の北辺を侵した(高句麗本紀)
 ↓↑
 倭の
 難升米が
 黄幢(コウドウ)を賜わり
 (帯方)郡経由で仮授した
 ↓↑
 247年(正始八年)
 太守王キ官に到着
 倭の女王
 「卑弥呼」
 もとから
 狗奴国の男王
 「卑弥弓呼」
 とうまくいってなかった
 倭は
 「載斯烏越」・・・載斯の烏越(カラス越え)
 等を派遣して
 帯方郡を訪問させ
 戦争状態を報告
 ↓↑
 248年
 新羅が使いを派遣し和を結んだ
 東川王 没
 中川王 即位(高句麗本紀)
 ↓↑
 249年
 卑弥呼 死?
 四道将軍派遣
 崇神十一年
 四道将軍復命
 魏の
 張政
 来日
 ↓↑
 塞曹掾史
 「張政」
 等を派遣して、詔書・黄幢をもたらし
 「難升米」に授け
 檄文を為(つく)って戦いを告喩
 ↓↑
 卑弥呼 死
 大きな冢を造り
 男王を擁立
 国中が混乱
 戦いで千余人が死んだ
 卑弥呼の
 宗女
 壹與
 歳十三才を擁立
 国中が遂に治まった
 政等は
 檄文を以て
 壹与を激励
 ↓↑
 卑弥呼
 魏に朝貢
 ↓↑
 「公孫」氏滅亡
 ↓↑
 「公孫康」
 の死後(215年頃)
 その子
 「公孫淵」
 が幼いために
 「公孫康」
 の実弟
 「公孫恭」
 が後を継ぎ
 後漢の
 「献帝」
 から
 禅譲を受けた
 魏朝の
 「文帝(曹操の子・曹丕)」
 により
 車騎将軍
 襄平侯に封じられた
 228年
 成長した
 「公孫康」の子の
 「公孫淵」は
 「公孫恭」の位を奪い取り
 魏の
 「曹叡(明帝)」から
 揚烈将軍
 遼東太守
 に任ぜられた
 ↓↑
 「公孫淵」は
 魏から受けた
 大司馬
 楽浪公の地位を不足とし
 236年
 魏の皇帝
 曹叡
 から上洛を求めらたが拒否
 237年七月
 「公孫淵」
 は呉の
 「孫権」
 に呼応して
 魏に反旗を翻して独立
 遼東の襄平城で
 燕王を自称
 年号を
 紹漢と定め
 近隣部族に印璽を与えた

 ↓↑
 帯方郡
 楽浪郡
 は
 燕に属したが
 帯方郡と楽浪郡の太守は
 燕建国時に魏に逃げ
 魏は
 「公孫淵」に怒り
 帯方郡
 楽浪郡
 の奪還を目指した
 ↓↑
 238年
 正月
 魏の大尉
 「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃
 九月
 「公孫淵」
 を討ち滅ぼした
 ↓↑
 公孫淵
 と
 司馬懿
 との戦闘中に
 帯方郡と楽浪郡の太守は
 帯方郡・楽浪郡を奪還する密命を受け
 両太守は
 甘言を弄して
 韓国(三韓諸国)を味方にし
 帯方郡・楽浪郡
 を奪取した
 ↓↑
 新羅は
 204年
 帯方郡の属国になった
 新羅
 と
 倭国・伽耶諸国・百済
 は
 234年まで戦った
 234年
 新羅は降伏・・・
 ↓↑
 魏への朝貢の意図
 ↓↑
 卑弥呼の使者
 帯方郡を訪問
 238年
 6月
 帯方郡太守
 「劉夏」が
 韓国の手を借りて
 帯方郡を奪還した直後
 ↓↑
 238年の朝貢
 に対する返事が
 240年
 ↓↑
 243年の朝貢
 に対する返事が
 245年
 ↓↑
 247年の朝貢
 に対する返事・・・
 (張政の派遣)は
 249年
 ↓↑
 卑弥呼の死
 249年(崇神十年)・・・
 ↓↑
 狗奴国との戦い
 247年の朝貢時
 狗奴国の男王
 卑弥弓呼との戦争状態を報告
 247年=崇神六年・・・
 ↓↑
 球磨国=狗奴国・・・?
 219年(開化十年)
 247年
 でも戦闘
 第十二代
 景行天皇の時代
 仲哀天皇の時代
 も戦闘
 ↓↑
 新羅本紀
 234年
 和解・・・
 278年(崇神三十年)
 「倭女王 卑弥呼 が和を乞うた」
 ・・・
 壹(臺)與=卑弥呼・・・
 ↓↑
 新羅
 234年
 倭国に降伏・・・
 240年
 狗奴国=球磨国
 ↓↑
 245年
 開化天皇死亡
 第十代
 崇神天皇即位
 ↓↑
 245年
 244年前後
 高句麗が
 魏に侵攻され
 魏軍は
 高句麗を打ち破り
 全土の村々を落とす
 東川王は
 南沃租へ逃げ
 追撃を受け
 北方の
 粛慎との境いまで逃れた
 東濊も
 高句麗を離れ
 魏に服属
 245年3月
 日本海地方(辰韓)の人々が
 美女を献じた後宮に入れた
 245年10月
 新羅の北辺を犯す
 248年2月
 新羅と和を結んだ
 ↓↑
 倭国が魏の朝貢国
 楽浪郡は倭国と友好関係
 楽浪郡に編入された韓は
 楽浪郡に対抗しようと
 高句麗に対して美女を献じ
 高句麗の援助を受けようとした
 高句麗は
 辰韓諸国の後援に回った
 辰韓諸国の
 新羅に手を出し勢力拡大を画策
 ↓↑
 球磨国
 伊都国
 倭国
 魏
 楽浪郡
 新羅
 高句麗
 ↓↑
 248年2月
 新羅は高句麗と和
 ↓↑
 正始八年(247年)
 韓族との戦いで戦死した
 「弓遵」から引き継いだ
 太守
 「王頎」は
 倭の使者から
 邪馬台国
 と
 狗奴国
 との交戦の報告を受け
 自ら上洛して官の決裁を仰ぐが
 魏の
 少帝の詔書と黄幢を携えた
 塞曹掾史の
 「張政」が派遣
 ↓↑
 卑弥呼 死亡
 249年
 ↓↑
 「武諸隅」
 海部氏系図に
 「饒速日尊7世」に
 「武諸隅」
 丹後国 熊野郡 三嶋田神社の記録に
 孝靈天皇の御宇
 武諸隅命(海部直の祖)
 生嶋に
 大山祇命
 上津綿津見命
 表筒男命
 を祀りて三嶋神社と稱し奉る
 武諸隅命は
 孝霊天皇
 と同世代
 『勘注系図』で
 「饒速日尊
  六世孫 建田勢命」
 「七世孫 建諸隅命」
 「八世孫 日本得魂命」
 尾張氏の人物
 「建田勢命」は
 七代孝霊天皇に
 建諸隅命は
 九代開化天皇に
 「日本得魂命」は
 十代崇神天皇に
 奉仕
 『勘注系図』は
 「建諸隅命」
 の亦の名を
 「由碁理」とする
 「由碁理」と云う人物は
 『古事記』にも登場し
 九代開化の妃となった
 「竹野比売」の父親
 「古事記」は
 「由碁理」を
 「丹波大縣主」
 としている
 ↓↑
 日本書紀
 崇神天皇60年の記事
 出雲神宝検校に
 「武諸隅」が登場
 出雲神宝検校は
 孝霊天皇の頃の
 「出雲振根」が登場し
 孝霊天皇の時も
 神宝検校が行われ
 両者の記事が重なった・・・
 ↓↑
 魏志倭人伝
 238年
 「卑弥呼」は
 「都市牛利」を派遣
 都市牛利=武諸隅・・・?
 ↓↑
 難升米
 伊聲耆
 ↓↑
 中臣氏の系図に
 梨迹臣、伊世理
 難升米=梨迹臣、伊聲耆を
 伊世理・・・
 両者は神武天皇と同世代の
 菟狭津媛の4世孫で
 開化天皇と同世代・・・
 ↓↑
 邪馬台国の官
 ↓↑
 伊支馬
 彌馬升
 彌馬獲支
 奴佳是
 ↓↑
 伊支馬=崇神天皇
 第十代 崇神天皇
 ミマキイリヒコイニエ
 ↓↑
 伊支馬「イキメ→イニエ」
    「イシマ⇔石磨」
 ↓↑
 「オホキミ=阿輩鶏彌」
 「伊支馬=イキメ→オキミ」
 ↓↑
 彌馬升 (ミマシ) =彦坐王 (イマス)?
 彌馬獲支(ミマカキ)=御間城姫(ミマキ)?
 奴佳是 (ヌカテ) =建沼河別(ヌナカワ)?
ーーーーー
 ・・・???・・・重複・・・コムふゆゥず・・・
 confusion・disorder・・・

コメント
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魝=楚人謂 治魚也(說文)・割也(博雅)・解剖・さばく(捌)・卸す(おろす)

2020-06-09 22:03:58 | 古事記字源
 ニジのカナタに・・・ナニがある・・・
 ↓↑
 ?・・・「日置(ひおき・ひき・へき)」・・・実地・字通知?
 「置=罒+十+目+乚(乙・L)」
    横目を交わらす
    縦目の乚(隠れる・イン
       乙=おつ・イツ)
 「乙」の字形
 「匿(かく)るなり
  𨒅曲(キキョク)・・・𨒅=辶+只=曲行するなり
               怖れる、恐らく
  して
  隱蔽する形に象る(説文解字・巻十二)」
  隠すための衝立のようなものの象形
 「讀みて隱の若くす」
 で、隠と音義ともに通じ
 「隠の異体字」・・・
 「ツバメ(燕・乙鳥・鳦)を表す
  𠃉と同一視される」こともある
 ・・・燕国=エンコク=縁濃く?
      =三国時代の公孫氏の国
 燕国=広陽国・広陽郡・燕郡・・・燕京=エンキョウ=圓教?
                 燕京=薊(ケイ)
                    艹+⺈+田+灬 +刂
                    艹+魝・・・魝=魚の歯?
                           魚の背鰭・尾鰭?
                  薊=艹+魚+刂=あざみ
     魝=楚人謂 治魚也(說文)・割也(博雅)・解剖・さばく(捌)
                   サカナをオロス
       おろす=卸す=魚・獣の肉を切り分ける
       吉 詣切・音は計(ケイ)・解也(集韻)・解体
       古 屑切(廣韻)
     薊=艹+魝・・・類字
             薢=草薢(ところ・山芋)
               鬼野老(おにところ)
               菟薢 (ヒカイ・生薬名)
             蘚=朝鮮・鮮卑
             蘇=蘇我・蘇生・・・紫蘇(しそ・ちそ)
                    ・・・始祖・私訴・紙祖?

 公孫=公(諸侯)の孫
    公の子である公子までは公族
    その子の公孫からは臣籍に下り
    公孫を氏とする・・・
 公孫僑(子産)=春秋時代の宰相
 公孫龍(竜)=戦国時代の思想家
 公孫鞅(商鞅)=戦国時代の政治家
 公孫衍=魏の官である犀首(公孫衍)・・・衍=余分な文字
 ↓↑
 「燕」は
 更元七年(前318年)
 魏・趙・韓・燕・楚の
 五ヶ国の合従を組織し、秦を攻めた
 ↓↑
 春秋戦国時代
 燕の首都=薊(ケイ)・・・景・軽・鶏?
 ↓↑
 燕国は
 紀元前222年
 秦に滅ぼされ
 上谷郡・漁陽郡・右北平郡
 遼西郡・遼東郡
 設置
 ↓↑
 秦末
 各地の諸侯が独立
 趙王武臣の将軍
 「韓広」が独立して
 燕王となる
 秦を滅ぼした
 楚の
 「項籍」によって
 「韓広」は
 「遼東王」に遷され
 「項籍」に協力した
 燕の将軍
 「臧荼」が・・・・・「臧+荼」
 燕王となった
 ↓↑
 高祖 劉邦 前漢建国
 「臧荼=燕王」は
 紀元前202年
 反乱を起こし殺され
 高祖の幼馴染
 「盧綰」が・・・・・「盧+綰」
 燕王に封ぜられた
 高祖は
 異姓の諸侯王を粛清
 自らの親族たちを
 諸侯王に立てる
 「郡国制」を施行
 「盧綰」・・・・・「盧+綰」
 は廃され
 高祖の八男・・・・・「八+男」
 「劉建」が・・・・・「劉+建」
 燕王となった
 以降
 劉氏一族が燕王
 ↓↑
 元狩六年(前117年)
 八代目
 燕王
 「劉旦」・・・・・・「劉+旦」
 後継問題で父の
 武帝と揉め
 所領の
 良郷・安次・文安
 の三県を没収された
 ↓↑
 元鳳元年(前80年)
 燕王
 「劉旦」
 謀反を起こすも失敗し、自害
 燕国は一時
 「広陽郡」となる
 ↓↑
 「宣帝」の
 本始元年(紀元前73年)
 「劉旦」の太子
 「劉建」が・・・・・・「劉+建」
 燕王から改称して新たに
 広陽王に封ぜられ
 広陽郡は
 「広陽国」となって
 「薊・方城・広陽・陰郷」
 の四県を領した
 ↓↑
 「王莽」
 「新國」建國
 広陽国は
 「広有郡」と改名
 「薊県」は
 伐戎県、
 「方城県・広陽県・陰郷県」は
 「陰順県」と改名
 ↓↑
 光武帝
 「後漢」建国
 広有郡は上谷郡に合併
 ↓↑
 「和帝」
 永元八年(96年)
 広陽郡として復活
 「薊・広陽・昌平・軍都・安次」
 の五県を領した
 幽州刺史治(州都)は
 「薊(ケイ)」
 に設置
 ↓↑
 西晋
 広陽郡はふたたび
 「燕国」となり
 「薊・安次・昌平・軍都・広陽
  潞・安楽・泉州・雍奴・狐奴」
 の十県・・・拾(足)を懸ける・・・?
 を領した
 ↓↑
 「八王の乱」後
 「燕国」は
 「燕郡」となり
 「燕郡・右北平郡・遼西郡」には
 「鮮卑」族の・・・・「鮮+卑+ゾク」
 「段部」が割拠・・・「段+部」
 ↓↑   ↓↑
 「燕国」は
 338年・・・参百参拾八・参参八
 ↓↑    338年
       干支   戊戌
       仁徳天皇 二十六年
       皇紀   998年


       東晋 咸康四年
       後趙 建武四年
       成漢 玉恒四年・漢興元年
       前涼 建興二十六年(西晋元号使用)
       前燕 太祖
       文明帝(慕容皝)五年
       代  建国元年
       ↓↑
       朝鮮
       高句麗 故国原王八年
       百済  比流 王三十五年
 ↓↑    新羅  訖解 王二十九年
 「後趙」の
 「石虎」・・・・・・・「石+虎」
 によって滅ぼされた
 燕郡は後趙の領土となり、後
 後趙の後継争いに乗じて
 「前燕」の
 「慕容儁」が・・・「慕+容+儁」
              儁=亻+雋=㒞=㑺
                亻+凹+隹
                シュン
                すぐれる
                すぐれた人=俊
 「後趙」に侵攻し
 「薊」を奪って・・・・「薊」
 「前燕」の都とした
 ↓↑
 「北魏」
 「燕郡」は
 「薊・広陽・良郷・軍都・安城」
 の五県
 を領した
 ↓↑
 「隋」王朝の時代
  ・・・「隋(ズイ=陏・随・髄・瑞・蘂・蕊)」
 「涿郡」に合併
 以降、燕国の名は消えた・・・倭に埋没した・・・?

 ↓↑
 遼隧の戦い(リョウスイのたたかい)
 三国時代の戦乱
 遼東で半独立政権を築いた
 公孫氏(燕王)と
 魏が
 遼隧(遼寧省海城市)で武力衝突
 遼東
 公孫氏
 は滅亡・・・
 ↓↑
 晋書巻九七四夷傳
 「名を卑弥呼と曰う・・・・・・・?
  宣帝の平らぐ公孫氏なり」・・・?
 と記載
 卑弥呼は
 西晋の始祖
 宣帝(魏の司馬仲達)
 に滅ぼされた・・・?
 「公孫氏」であった・・・
 東漢の外臣で
 4代50年に渡って
 遼寧省一帯に君臨した
 公孫氏の太守
 渕(ヱン)を・・・・渕=ヱン=燕(鳦)
           =円(圓・塩・猿)
            つぶら= 円 大使主
               (つぶらのおほみ)
                 円 大臣
                 都夫良 意富美
 西暦238年・・・卑弥呼の魏への使者派遣
 に討ち
 曹魏
 の遼東平定が成る
 ↓↑
 237年 
 呉の
 孫権
 は
 高句麗と通じ
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 毌丘倹(カンキュウケン)
 を派遣し
 鮮卑・・・鮮(あざやか)な卑(いや しい)
      魚の羊       彌栄・癒也恣意?
      朝鮮        いやさか=厭(嫌)性?
 の軍を動かして
 遼東に駐屯
 孫権
 は親征を断念
 魏は
 公孫淵に対し
 上洛を命じたが
 公孫淵は
 拒否
 挙兵して
 遼隧で
 毌丘倹
 を撃退
 同年
 公孫淵
 は
 燕王を称し
 年号を
 紹漢
 と定め独立
 周辺部族を掌握して
 玉璽を与え
 魏との国境をめぐり
 抗戦を継続・・・
 ↓↑
 遼隧の戦い
 238年
 曹叡
 は
 司馬懿
 に4万余の兵を与え
 公孫淵征伐を命じ
 公孫淵も
 卑衍(ヒエン)
 ・・・卑の
     衍=彳+氵+亍=あまる意
       文章中に誤って入った
            余計な文字
     衍=語句中にまちがって入った
       不必要な文字
       衍字(エンジ)
       卑弥呼の余り?
   ・・壱(壹・臺)與or磐余

 ↓↑
 楊祚(ヨウソ)
 ・・・楊=十+八+昜(日一勿・ヨウ)
         昜≠易=日+勿
    の
    祚=示+乍(ながら・サ・ジャ)
      天からくだされる幸福・福祚
      天子の位・皇祚・聖祚・践祚
      重祚 (ちょうそ) ・帝祚
 らに
 数万の軍を与え
 遼隧(リョウズイ)に派遣
 ↓↑・・・隧=スイ・ズイ
       墓の奥へと通じる道
       地中の通路・トンネル(tunnel)
       渠=溝
         地下水路・地下用水路
         暗渠・渠渠・渠水
         河渠・管渠
         ドック=船渠(センキョ)
       英語=dock オランダ語=dok
       渠=ゴ・キョ・みぞ
         なんぞ・かれ・かしら・おおきい
         なんぞ・なに・いずくんぞ
         かれ(三人称の人代名)
         頭・親分・渠師・渠魁
      隧道(すいどう・ずいどう)・隧路
         隋道・随道⇔隋所・隋書?
 ↓↑
 卑衍(ヒエン)
 が
 司馬懿(シバイ)・・・懿=壹+次+心
            懿徳天皇  
 を攻撃したが
 司馬懿
 は
 胡遵・・・胡(えびす・恵比寿・蛭子・戎・夷)
      遵(したがう・ジュン)法闘争?
 らを派遣して
 卑衍(ヒエン)・・・卑弥呼・卑弥弓呼?
 を破った
 ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に
 数十里(二十里、六、七十里)
 の
 塹壕を掘り
 司馬懿
 の軍を迎え撃った
 遼隧の
 公孫淵
 の防衛陣が
 堅固と見た
 司馬懿は
 東南に退却したとみせかけて
 国都の
 襄平を侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退させ
 都の守備に当たらせたが
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲される
  ・・・司馬の懿(壹+次+心)
          イチのツギのココロ
        懿徳天皇=第四代天皇
     大 日本 彦 耜 友 天皇(日本書紀)
    (おほやまとひこすきとも)
     大 倭  日子鉏 友 命(古事記)
 ↓↑
 長雨の時期で兵糧が底を突き
 公孫淵は人質を出して
 和睦(ワボク)
    和=ワ=倭
    睦=目+坴
      睦(むつ・リク)み合う
 しようと画策
 司馬懿
 はこれを許さず
 公孫淵
 を捕え、処刑
 公孫淵(渊・渕)
 の子
 公孫脩(修)
 をはじめとする一族も討たれ
 ↓↑
 238年
 神功皇后摂政 三十八年八月二十三日
 西暦       238年 9月 19日(ユリウス)
     
     皇紀 898年
 魏      景初二年
 公孫淵(燕) 紹漢二年
 八月・・・238年 9月 19日(ユリウス)
 遼東「公孫」氏は滅亡
 ↓↑
 戦後
 司馬懿
 はこの地に
 魏へ反抗する勢力が
 再び生まれぬよう
 当地の15歳以上の男子を皆殺しにした
 ↓↑
 公孫淵は
 孫権
 に援軍を求める使いを出し
 239年
 孫権は援軍として
 ↓↑
 羊衜・・・羊の衜
 鄭冑・・・鄭(奠の阝)冑(由の冃)
 孫怡・・・孫(子の系)怡(心の台)
 ↓↑
 を派遣
 ↓↑
 曹叡
 死去
 魏は
 遼東に対する配慮がなく
 羊衜
 らが
 遼東の
 牧羊城(旅順口)で
 魏の
 張持・・・張の持・・・張(政)の持つ黄幡?
 高慮・・・高の慮・・・高(句麗)の思慮?
 らを破って、
 その男女を捕虜として帰国
 ↓↑
 朝鮮半島中西部の
 帯方郡
 を境に
 南 は韓と接し
 東北は高句麗
 西北は烏丸・鮮卑
 西南は漢・魏の
    幽州と接する
 漢・魏は
 公孫氏政権があった為
 遼東以東を
 絶域とみなし
 東夷諸国との
 通交を行わなかった
 二世紀後半
 「黄巾の乱」後の混乱に乗じ
 「公孫度」
 が
 遼東地方に半独立政権を樹立
 高句麗・後漢と争いながら
 楽浪郡・山東半島まで勢力を拡大
 ↓↑
 204年
 公孫度の子・・・公孫の度(たび・ド)
 公孫康が・・・・公孫の康(やす・コウ)
 楽浪郡の南に
 帯方郡・・・・・帯=丗+冖+巾
          =たらし・おび・タイ
 を設置
 ↓↑
 公孫度が
 「黄巾の乱」・・・黃巾之亂=後漢末期
          西暦184年(中平元年)
          太平道の教祖
         「張角」を指導者とする
          信者が各地で起こした
          中国史上初の組織的「農民反乱」
 以来の混乱に乗じ
 遼東地方に
 半独立政権を樹立
 民族・風習とも
 「漢民族」
 だが
 朝鮮半島
 中西部の
 帯方郡を境に
 南 は韓と接し
 東北は高句麗
 西北は烏丸・鮮卑と接し
 公孫氏の勢力圏である
 遼東以北の地は
 中華圏の北東端
 漢・魏など
 時の中華王朝からは
 絶域とみなされ
 公孫氏の勢力圏は
 半独立地方政権だった
 ↓↑
 漢人の
 公孫氏三代
 度(たび・ド・タク)
 康(やす・コウ)
 淵(ふち・エン)=潭
        =渕=渊
   水を深くたたえている所・海淵・深淵
   物事の出てくる根源・淵源
   底が深く水がよどんでいる所・瀬
   容易に抜け出られない苦しい境遇・苦境
 が
 50年にわたって
 遼東半島に樹立した
 地方政権(190~238)
ー↓↑ーーー
 ・・・公孫氏・・・天孫降臨・・・辿遜交隣・・・
     遜=辶+子+系
       へりくだる・ソン
       退いて他にゆずる・遜位
       へりくだる・謙遜・不遜
       ひけを取る
       帝位を譲る
       劣る
     遜る=相手を敬って自分を低くする
        謙遜する・へりくだる
        ひけを取る
        遜色
        忖度(ソンタク)?
ー↓↑ーーー↓↑ーーー
 ???・・・
 景初二年八月二十三日
 ↓↑
 西暦238年(景初二年8月23日⇔西暦238年9月19日?)
 干支 戊午年庚申月乙卯日
 ↓↑
  戊午(丙 丁)正財・偏財 長生
 ┏庚申(戊壬庚)正官・印綬  胎
 ┗乙卯(甲 乙)  ・比肩 建禄
  壬午(丙 丁)印綬・偏財 長生
   子丑空亡
 ↓↑
  西暦238年9月 19日
  干支 戊午年辛酉月壬午日
 ↓↑
戊午(丙 丁)偏官・正官 胎
辛酉(庚 辛)印綬・印綬 沐浴
壬午(丙 丁)  ・正官 胎
丙午(丙 丁)偏財・正官 胎
   申酉空亡
 ↓↑
 日本
 神功皇后摂政 38年・・・西暦238年9月 19日
         8月   西暦238年9月 19日
        23日     戊午 庚申 壬午
 ↓↑
 皇紀     898年
 ↓↑
 中国
 魏      景初二年
 公孫淵(燕) 紹漢二年
 蜀(蜀漢)  延熙元年
 呉      嘉禾七年・赤烏元年
 朝鮮
 高句麗    東川王十二年
 新羅     助賁王 九年
 百済     古尓王 五年
 ↓↑
 遼東
 公孫淵
 魏に謀反
 司馬懿
 率いる追討軍に敗れ
 「八月」に滅亡
 50年続いた
 公孫氏の遼東支配
 終焉(シュウエン)・・・
 ↓↑
 呉の年号「赤烏元年」紀年銘の
 画文帯神獣鏡
 が
 山梨県
 西八代郡
 市川三郷町
 鳥居原
 狐塚古墳
 から出土
 ↓↑
 「公孫淵」が
 「司馬懿」に討たれ
 公孫氏政権=燕王朝が崩壊
 魏が
 楽浪郡
 帯方郡
 を占拠
 ↓↑
 邪馬台国
 の女王
 卑弥呼
 は
 帯方郡へ使者を送って
 魏との交流が再開・・・
 ↓↑
 和=あえる=和える
 ↓↑
 相=木+目
   十+八+目
   異体字「目木」
   ソウ
   ショウ
   あい
   ありさま
   さが
   たすける
   首相・宰相
   相互・相殺
   相思相愛
   見る・よく見る・くわしく見る
   うらなう
   かたち・ありさま・すがた・様子
   たすけ・たすける・補佐する
   あい・互いに・ともに
   こもごも・かわるがわる
   あい・仲間=相棒(あいぼう)
   あい
   動詞の前につけ
   語調を強めるのに使う語
   相変わらず・相済みません
   ↓↑
   相人・観相・手相・人相
   外にあらわれたかたち
   実相・相貌
   すがた・ありさま
   相好・形相・真相
   あい・たがいに・ともに
   相愛・相談・相互・相和す
   うけつぐ・つぎつぎと
   相続・相伝
  「相模(さがみ)の国=相州」
      佐賀観・・・差、咬みに咬みて?
              誓約(うけい)
              天照大神×素戔嗚
     卑弥呼vs卑弥弓呼
     壹 與vs張政
     魏  vs呉
     魏  vs燕(公孫氏)
   ↓↑
   位相(イソウ)・家相(カソウ)
   形相(ギョウソウ)・血相(ケッソウ)
   骨相(コッソウ)・死相(シソウ)
   真相(シンソウ)・世相(セソウ)
   皮相(ヒソウ)・面相(メンソウ)
   様相(ヨウソウ)
   相合傘(あいあいがさ)
   相生(あいおい)
   相生結び(あいおいむすび)
   相客(あいキャク)
   相子(あいこ)
   相碁井目(あいゴセイモク)
   相性(あいショウ)
   相席(あいセキ)
   相対(あいタイ)
   相対済し令(あいタイすましレイ)
   相槌(あいづち)
   相手のない喧嘩はできぬ
   相弟子(あいデシ)
   相半(なか)ばする
   相判(あいバン)
   相部屋
   相俟(ま)って
   相身互い
   相宿(あいやど)
   相模(さがみ)
   相如四壁(ショウジョシヘキ)
   相伴(ショウバン)
   相撲(すもう)
   相愛(ソウアイ)
   相違(ソウイ)
   相応(ソウオウ)
   相姦(ソウカン)
   相関(ソウカン)
   相克(ソウコク)=相剋
   相殺(ソウサイ)
   相似(ソウジ)
   相承・相称
   相乗・
   相即不離(ソウソクフリ)
   相当(ソウトウ)
   相場(ソウば)
   相聞(ソウモン)
   相輪(ソウリン)
   相応(ふさわ)しい
   ↓↑
   木の目=木のメ・・・木の年輪・節
      =木の芽
       樹木の新芽
       このめ
       山椒(サンショウ)の若芽
          参 照    和歌女?
   箱=竹 + 木 + 目
     筑紫 記紀  眼・芽・女
     竹=𠂉+丨+𠂉+丨=たけ・チク
       𠂉(かみさし・髪挿し・櫛)
       丨(ぼう・コン)
   ↓↑
   箱=竹+十+八+目
     筑紫 足(拾) 捌 囗 二
   ↓↑
   α+相
   厢=厂+相
   㜀=女+相
   葙=艹+相
   廂=广+相
   湘=氵+相
   想=相+心
   箱=竹+相
   緗=糸+相
   霜=雨+相
   孀=女+雨+相
   灀=氵+雨+相
   礵=石+雨+相
   䌮=糸+雨+相
   驦=馬+雨+相
   鸘=雨+相+鳥
 ↓↑
 和=あえる =和える
   なごむ =和む
   やわらぐ=和らぐ
   おだやか=和やか・穏・妥
 ↓↑
 わきあいあい
 和気藹々・和気藹藹
 和気靄々・和気靄靄
 にぎにぎ(賑々)しい様子
 ↓↑
 邇芸速日命(にぎはやひのみこと)
 饒 速日命
 饒=食+堯
   食+垚+兀
   食+土+土+土+一+儿
   ジョウ
   ニョウ
   あまる
   おおい
   ゆたか
   ゆたかにする
   あまる・ありあまる
   たくさんある・十分にある
   ゆるす・大目にみる
   豊かな心で許す
 ↓↑ ↓↑
   堯=垚+兀
   ギョウ
   たかい・けだかい・この上なく高い
   中国の伝説上の帝王の名前
 ↓↑
 邇藝速日命(古事記)
 饒速日命(日本書紀)
 饒速日命(先代旧事本紀)
 別名
 天照国照彦(あまてるくにてるひこ)
 天火明櫛玉(あまのほのあかりくしたま)
 饒速日尊(にぎはやひのみこと)
 天火明命(あまのほのあかりのみこと)
  天照國照彦天火明尊
  胆杵磯丹杵穂命
 (いきしにぎほのみこと)
  天照御魂神(あまてるみたまのかみ)
  天 照  皇 御魂   大神
 (あまてらすすめみたまのおおかみ)
  櫛玉命(くしたまのみこと)
  櫛 玉  神 饒 速 日 命
 (くしたまのかみにぎはやひのみこと)
ー↓↑ーー↓↑ーー
 ・・・???・・・

コメント
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蝿 伊呂泥・・・はえ=蝿=映(掽・暎・栄)・・・波延(はえ)=波の延長⇔波紋の延伸?

2020-06-08 22:06:56 | 古事記字源
 弐百参拾八=貳佰(陌)参(參・丗)拾(足)捌
 「三国志・魏志・公孫淵伝」
 ↓↑  ・・・公=八+ム
        孫=子+系(一糸)
        淵=氵+片+一+爿=渕=渊
        傳=イ+專(専・云)
        專=一+申+ム+寸
 ↓↑      ↓↑
 淵=渕=渊
 渕=浂+刂
   氵+关+刂
   氵+丷+天+刂
   氵+丷+一+大+刂
   氵+丷+二+人+刂
   氵+丷+一+一+人+刂
 渊=氵+丿+米+丨
   氵+丿+氺+一
      氺(水)を一(分ける)
           水平線・海平線
           horizontal line
           horizon
           water line
           sea horizon
           border line
           ボーダー・ライン
       天淵氷炭=テンヱンヒョウタン
       違いの差が非常に大
      「炭」は燃えている炭。
      「天」と「淵」
      「氷」と「炭」
       互いに性質が反対で
       非常に差があること
       出典 「陸游」
       類義語
       雲泥之差(ウンデイのサ)・・・云出意の差?
       霄壤之差(シヒョウジョウのサ)・詞表上示唆?
       天淵之差(テンヱンのサ)・・・・典宛詞作?
       天懸地隔(テンケンチカク)・・・天を懸け地を書く?
       天壌之別(テンジョウのベツ)・・・天上、これを別ける?

ーーーーー
  和知都美 命・・・和の知の都美・・・みやび=雅・鴉⇔黰?
           ワを知るミヤのビ?
 (ワチツミのミコト)が
 淡道(アハジ)の
 御井宮(ミイノミヤ)
 にいた
  和知都美 命
 (ワチツミのミコト)
 の二人の娘の姉妹
 姉は
  孝霊天皇(七代)の妃
  蝿 伊呂泥・・・はえ=蝿=映(掽・暎・栄)?
          波延(はえ)=波の延長⇔波紋の延伸?
 (ハエイロネ)  いろ=色・以呂・彩?
          ね=値・音・練・煉?
 別名
  意富夜麻登久邇阿札比売命
 (オホヤマトクニアレヒメのミコト)
 ↓↑
 妹の名前が
  蝿 伊呂杼
 (ハエイロド)
 (古事記)
 ↓↑
 孝霊天皇(七代)
 妃の
  倭   國 香媛
 (ヤマトのクニカヒメ)
 別名
  絚 某 姉
 (ハヘイロネ)
  倭  迹々日百 襲姫  命
 (ヤマトトトヒモモソヒメのミコト)
 (日本書紀)

-ーーーー
 垂仁天皇の時代
 丹波出身の
 四人の姉妹が垂仁天皇に嫁いだ
 綺麗でなかった
 二人を里に送り返えされ
 「円野比売命(まとのひめのみこと)」
     ・・・圓 の比べウリ見事?
 は
 醜いという理由で返され
 恥ずかしいと思い
 木の枝に取り懸(さがって)
     ・・・記紀の詞に譯理懸けて?
 自殺を試み
 そのことから
 『懸木(さがりき)』・・・懸(か)け記紀(きぎ)
 と呼び
 その後、姫は深い谷に落ち死亡
 後、その場所は
 「堕国(おちくに)」・・・堕=陏+土=隋の拾う壱の語句
               =阝+ナ+冃+十+一
 と呼ばれ
 『乙訓(おとくに)』・・・音訓
 という地名になった・・・
 ↓↑
  相良木 (字)・・・相楽(さがら)木=懸木・さがりき・さがらか
(あいらぎ(あざ))
  大 熊 ヶ沢 (字)
(おおくまがさわ(あざ))
  大 原 田(字)
(おおはらた(あざ))
  切 掛 沢 (字)
(きりかけざわ(あざ ))
  熊 ヶ沢 (字)
(くまがさわ(あざ))
-ーーーー

 司馬師(シバシ)・・・しばしマテ・・・チョっと待て
                    Just a moment !
                    邪諏綴 揉めんと
                    邪主土 母女務徒?
 ↓↑    ↓↑
     シバシ・・・しばし=暫し=車+斤+日
    「史話・司馬・芝・志波・斯波」+シ・・・波斯(ペルシャ)
                紫波・斯和・志和・志王
        織田家の主人筋「斯波」氏    「紫波・志和・史話」+シ
        陸奥国斯波郡(しわぐん・岩手県盛岡市の一部・紫波郡)を所領
     暫=斬+日
       車+斤+日
       ザン
       しばし・チョッと=一寸
       しばらく・少しの間・わずかの間
       一時的に・仮に。
       しばらく・久しぶり
       ある程度長い間
       副詞
       少しの間・しばらく・ちょっとの間
      「花山院の出家(大鏡)」
      「弘徽殿の女御の御文の
       日ごろ破り残して
       御身も放たず
       御覧じけるを
       思し召し出でて
      『しばし』・・・少し待て
       とて
       取りに入り
       おはしましける
       ほどぞかし」
       待て暫し(まてしばし)
      「しばらく待て」
       他人の行動 を抑制したり
       自分の行為を少しの間
       押しとどめて考えなおすときにいう語
      「待て暫しと 思案する」
      「待て暫し」=ちょっと待て
      「シバシ、まて」・・・?
 ↓↑
 208年~255年
 魏の武将、政治家
 字は
 子元
 西晋で
 世宗の廟号
 景帝の諡号
 司馬懿の長子
 司馬昭・司馬榦の同母兄
 生母は
 張春華(宣穆皇后)
 ↓↑
 司馬懿=司馬 仲達
 179年~251年9月7日
 後漢末期~三国時代
 曹魏にかけての武将・政治家
 西晋の礎を築いた
 字は
 仲達
 西晋が建てられ
 廟号 高祖
 諡号 宣帝
-ーーーー
 太和二年(228年)
   ・・・太和=大和(やまと)・・・似撚(念=今+心)        
   ・・・太(おほの)・・・太安萬(万)侶
      和(なぎる)
      貳(爾・邇)
      撚(よる・ひねる・ネン=念・捻)
      捻(ひねる・ ねじる)
        捻挫・捻出・腸捻転
        紙捻(こよ)り・捻子(ねじ)
 孟達が
 蜀漢の
 諸葛亮
 と内応し
 魏に叛いた
 司馬懿
 が赴任していた
 宛から・・・・宛(アテる・宛名)
 孟達
 の任地である
 上庸までは
 通常の行軍で1ヶ月の道程
 司馬懿は
 丁寧な書簡を送って
 孟達を迷わせ
 昼夜兼行の進軍を強行
 八日で上庸にたどり着き
 城を包囲
 孟達
 は同僚や部下に離反され
 司馬懿
 はこれを破り、斬首
 諸葛亮
 ら
 蜀漢の中枢は動揺
 ↓↑ 
 青龍二年(234年)
 「死せる諸葛
  生ける仲達を走らす
 (死諸葛走生仲達)」
ーーーーー
 公孫淵の征討
 「遼隧の戦い」
 景初二年(238年)・・・貳陌参(參・纂)拾捌念
      2+3+8=13・・・十三歳=壹與
      景=日+京(亠口亅ハ)
      初=衣+刀
 遼東に拠っていた
 公孫淵が反乱
 司馬懿
 は
 征討を命じられ
 明帝は・・・・明帝⇔明治天皇?
 公孫淵
 の策を
 司馬懿
 に尋ね
 司馬懿は
 「城を捨てて逃げるが上策
  遼水に拠って
  我が大軍に抗するは次策
  襄平に籠もるなら
  生捕りになるだけ
  公孫淵が知恵者ならば
  城を捨てることも有るでしょうが
  公孫淵はそんな策を
  考えつける人物ではありません」
 と答えた
 ↓↑
 司馬懿は
 毌丘倹
 胡遵
 らとともに
 公孫淵討伐に出発
 司馬懿が遼東に到着したころ
 遼東では
 長雨・・・霖(ながあめ)=霖雨 (リンウ)
      和歌で「眺め」と掛けて用いる
      秋霖(シュウリン)
      すすき梅雨
      すすき=芒・薄・茅・尾花
      9月中旬頃~10月上旬あたり
 が続き
 遠征は長引くおそれがあった
 廷臣たちは遠征の中止を
 曹叡
 に訴えたが
 「司馬公は機に応じて
  戦略を立てることのできる人物だ
  彼に任せておけば間違いはない」
 ↓↑
 魏の征討に対し
 公孫淵は
 呉に援軍を求めたが
 孫権は
 「司馬公は用兵に優れ
  自在に使うこと神の如しという
  そんな人物を相手にせねばならないとは
  あなたもお気の毒だ」
 と書簡を送っただけ・・・
 ↓↑
 司馬懿は
 野戦で
 公孫淵
 の軍勢を破り
 公孫淵は籠城
 公孫淵軍は兵は多く
 食料不足
 司馬懿はこれを見て
 「兵力が多く
  兵站の確保が難しいときには
  犠牲が出ようとも
  速戦でかたをつけるべき
  逆に兵力が少なく
  兵站が安定している場合には
  持久戦を行う」
 と部下に語った
 出征前、明帝に
 「反乱をどう平らげるか」
 と聞かれた司馬懿は
 「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、
  その他休養などに60日を当てるとして
  1年もあれば充分でしょう」
 と答え、この通りに軍を動かし
 公孫淵を破った
 司馬懿の思惑通り、
 公孫淵軍の食料は底をつき
 公孫淵は使者を送り
 人質を差し出して
 和議と助命を嘆願
 司馬懿はこれを拒絶
 「戦には五つの要点がある。
  戦意があるときに闘い、
  戦えなければ守り、
  守れなければ逃げる。
  あとは降るか死ぬかだ
  お前達は
  降伏しようともしなかった
  ならば残るは死あるのみ
  人質など無用である」
 公孫淵は子の
 公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて
 包囲を突破して逃亡
 司馬懿は追撃し
 公孫淵親子を斬り殺した
 城は陥落し
 司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り
 遼東を制圧
 ↓↑
 中原の戦乱から難民が
 大量に暮らしていた
 遼東は
 反魏の温床になるおそれがあると
 司馬懿は
 15歳以上の男子を
 数千人(7000人ほど)殺した
 公孫淵の滅亡によって
 朝鮮半島北部が
 魏に押さえられ
 邪馬台国の
 卑弥呼が
 魏に使者を派遣・・238年
 ↓↑
 ・・・「公(天子)の
     孫(まご)の淵(ふち)」
 ・・・淵=氵(水)+𣶒(片一爿)
ー↓↑ーーー
 淵=ふち・エン
   水を深くたたえている所
   海淵・深淵
   物事の出てくる根源
   淵源
   物の多く集まる所
   淵藪 (エンソウ)
   「渊・渕」は俗字
   すえ・すけ・なみ・のぶ
   ひろ・ふか・ふかし
   「淵 (どぶ) 釣り」
  異体字は渊・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  声符「𣶒」・婣・䨊・淵・鼘・𨓯
  ↓↑
  䨊=雥+𣶒
  異体字は𩁵
  声符「𣶒」・𣶒・婣・淵・鼘・𨓯
  淵
  異体字は渊(簡体字・俗字)・渕(俗字)
  𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
  𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
  渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
  𣾬(同字)・㶜(同字)
  発音は ふち・かたい・はなわ
      エン(ヱン)
  名乗は、しずか、すえ、すけ、なみ、のぶ
      ひろ(佐藤信淵)
      ふか、ふかし
      ふち・・・「賀茂真淵」・・・
ー↓↑ーーー
 司馬倫
 西晋の
 第三代皇帝
 八王の乱の
 八王の1人
 字は子彝
 司馬懿の
 第九子(末子)
 建始帝
 諡号ではなく
 私年号の
 建始から取った・・・
 ・・・倭のタケルは・・・
 「私ネン号の建が始め」・・・?
 ↓↑
 石勒
 五胡十六国時代の
 後趙の創建者
 字は世龍
 上党郡
 武郷県
 (山西省楡社県の西北)
 出身の
 羯族・・・「般若心経」の「羯諦(羯啼?)」
 で
 匈奴別部の
 羌渠の血統
 元の名を
 「㔨」と言い
 幼名は
 「匐勒」
 祖父は
 耶弈于・・・
 父は
 周曷朱(又の名を乞翼加)
 前趙の将軍として各地を攻略し
 王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
 といった敵対勢力を次々と滅ぼした
 劉聡の死際には後事を託され
 劉曜と対立すると自立して
 後趙を樹立
 前趙を滅亡に追いやって
 華北に覇を唱えた
 奴隷から
 皇帝まで昇った
 中国史上唯一の人物・・・
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 ?
 異=田+共
 通仮字、機
 異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
 簡体字、异
 声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
       䔬・禩・𩛛・廙・趩
 ↓↑
 セキホウ(赤報)隊
 西郷隆盛や岩倉具視の支援を得
 慶応四年一月八日(1868年2月1日)
 近江国
 松尾山
 金剛輪寺において結成
 隊長は
 相楽総三・・・「相楽」の総(すべて)の三(さん)
 綾小路俊実
 滋野井公寿
 らを盟主として擁立
ー↓↑ーーー
 ???・・・
 羊鑑=匈奴中郎将の羊済の子
ー↓↑ーーー
 多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)
 奈良時代
 天武(672年~686年)に活躍した・・・
 上野国(群馬県)の豪族
 多胡郡の郡司
 多胡碑によれば
 「和銅四年
  近隣三郡から三百戸を
  切り取り
  羊
  なる者に与え
  多胡郡とした」
  と記載
 「羊」
 多胡碑の原文は漢文であり
 「給羊」の句があることから発想
 人名説以外に
 方角説
 時刻説などがある
 現在学説では人名説が有力
 名前については
 多胡(藤原)羊太夫宗勝
     小幡羊太夫とも
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 茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
   異体字は茝
   声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
 ↓↑
 羊茞
 羊衜(ヨウドウ)=羊茞
 211年~?
 221年~278年?
 呉の武将・政治家
 荊州南陽郡の人
 羊茞とも
 弁論の才能を有す
 225年
 蜀漢の使者の
 費禕が来訪したとき
 呉側で論争を挑んだ人物の1人
 229年
 孫登が皇太子になると
 その賓客になった
 翌年
 20歳で太子
 中庶子に昇進
 魏の
 隠蕃という人物が帰順してくると
 朱拠
 郝普
 などが彼を賞賛したが
 羊衜は彼と付き合おうとしなかった
 やがて
 隠蕃が間諜であることが判った
 ↓↑
 衜(みち・ドオ・ダオ)=道
   Dao
 衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
   謂う・云う・言う
   導(みちび)く
   人が行き来するための通り道
   道路
   人が守り行うべき決まり
   道理(ドウリ)
   云う・語る・述べる・唱える
   老子・荘子の教え・道教
   漢代の行政区画の名
   導く・手引きする・教え導く
   昔の地域区分の名
   東海道
   中仙道(なかセンドウ・中山道)
   山陽道
   西海道
   みち・学問や芸術のわざ・技術
 ↓↑
 衜=彳+首+亍
   異体字は「衟・道・噵」
 ↓↑
 道=衜=衟
   𨔞・𨖁・噵・𨗓
   𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
   遯=字彙補と同じ音「𧗟」
 ↓↑
 北海道・箱館・五稜郭
 戊辰戦争=慶応四年一月三日~明治二年五月十八日
       1868年1月27日~1869年6月27日
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 戊辰
 248年干支=戊辰・・・正始九年
   9月 5日の朝 5:50・・・日食
   卑弥呼 死没・・・?
 248/9/5/5:50
 戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
 庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
 辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
 ↓↑
 神功皇后四十八年八月一日?
 ↓↑
 戊辰戦争(ボシンセンソウ)
 慶応四年/明治元年~明治二年
 1868年~1869年
 明治政府樹立の
 薩摩藩・長州藩・土佐藩
 ら
 新政府軍
 と
 旧幕府勢力
 奥羽越列藩同盟
 が戦った内戦
 明治新政府が同戦争に勝利
 戦争経緯
 鳥羽・伏見の戦い
 甲州勝沼の戦い
 宇都宮城の戦い
 北越戦争
 東北戦争
 箱館戦争
 旧暦
 慶応四年一月三日
 1868年1月27日
  ~
 1869年6月27日
 明治二年五月十八日
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 ・・・?
  マンドリルの社会・・・
 「mandrill=すだま=山魈
  (サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」
 牝が牡のリーダーを擁立・・・当然である・・・
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 卑弥呼(ひみこ)の時代
 (正始十年=249年)
 正始十年
 (四月に改元されて
  嘉平元年=249年)
 曹操の
 曹氏の魏から
 司馬懿の
 司馬氏の晋へ
 禅譲革命
 泰始元年
 265年12月
 卑弥呼(ひみこ)は
 ?~247年~248年~249年頃死去・・・?
ーーーーー
 ???・・・だから、ナニ・・・
 ニジのカナタに・・・ナニがある・・・?

コメント
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