前回からのツヅキ
↓↑
惨(むご)いイクサ・・・
馬子は皇太后
「炊屋姫」
を
「推古天皇」
とし即位させ
「厩戸皇子(聖徳太子)」
を皇太子とし
摂政とした
推古天皇四年(596年)
馬子は
蘇我氏の氏寺
「飛鳥寺」を建立
ー↓↑ーー↓↑
・・・明日香=あすか
=飛鳥(ヒチョウ)
=安宿(アンシュク)
=阿須賀(アスカ)
阿=阝+可(口+丁)
須=彡+頁(丆+目+八=捌)
賀=加+貝(目+八=捌)
=阿諏化?
「寺(ジ・てら)=土+寸=十+一+寸」
寸=ー+亅+丶
寺院=ジイン=字音(韻)
字印
イン=陰・寅 ・尹 ・殷
吉田松陰・寅次郎・監督・咆哮
↓↑
而(ジ)=丆+⺵・・・形而上・形而下
観念・実存在
而=丆(丆)+⺵
「而」は
「刷毛(はけ)」
or
髪を梳(と)く
「櫛(くし)・笄(こうがい)」
の形象だろう・・・
↓↑
丆=面(丆+)の略字・・・?
面=丆+囬(回・囘)
一+丿+囗+丨+ = + l
回帰=囬帰=囘(冂+巳)帰
回船=廻船・・・海戦・改選
菱垣廻船
樽廻船
西廻り航路 (北前船)
東廻り航路
北国廻船
尾州廻船
顔面の上は
頭の「髪の毛」だが
「丆」は
結(ゆ)った
「丁髷(ちょんまげ)」だろう・・・
↓↑
而=一+ノ+冂+‖(l+l)
ジ
しかして
しこうして
そして
すなわち
「・・・である・・・」
順接助字
↓↑
しかも
しかるに・しかれども
「・・・ではない・・・」
逆接助字
↓↑
なんじ(汝)
あなた(貴方)・あんた
きさま(貴様)
てめい(弖名)
お前・おぬし
自分=関西弁
相手をさすことば
二人称(you=ユウ)
・・・有・結・邑・猷
・・・ヨウ=要・用
↓↑
而=ひげ(髯=髟+冉
鬚=髟+須
鬍=髟+胡
髭=髟+此
須=彡+頁)
あごひげ(顎鬚)
口 ひげ(口髭)
↓↑
丆→䂖=丆+ヽ+口=石(セキ・いし)
丆→不=丆+ト(ボク・うらない)
丆→呑=丆+大+口
↓↑
名字
而摩=しかま・しま・じま・・・揣摩
↓↑
追而書き・追って書き(おってがき)
しかも・然も・而も(しかも)
而して(しこうして)
而立(ジリツ)
形而下(ケイジカ)
形而上(ケイジジョウ)
然して・而して(しかして)
然り而して(しかりこうして)
↓↑
引而不発(インジフハツ)
温潤而沢(オンジュンジタク)
渇而穿井(カツジセンセイ)
群而不党(グンジフトウ)
激而行之(ゲキジコウシ)
三十而立(サンジュウジリツ)
秀而不実(シュウジフジツ)
而今以後(ジコンイゴ)
而今而後(ジコンジゴ)
ー↓↑ー
「白村江海戦の敗北前夜」
推古天皇十八年(610年)
新羅使が
小墾田宮で拝謁の儀を行った際に
庭中において
大伴 咋 (くう・くらう)・・・サク
咋=口+乍(ながら)
蘇我 蝦夷(えみし・えぞ)・・・カイ
蝦=虫+
坂本 糠手(ぬかで)・・・・・・コウシュ
阿倍 鳥 (とり)・・・・・・・チョウ
という
「四の大夫」
が使の旨を聞いて
馬子に啓上しており
有力氏族から代表を1人出すという
マヘツキミ制の原則を破り
蘇我氏は
大臣と大夫を各1人出すという、
他の氏族とは異なる地位を獲得した
馬子はこのとき政庁の前に立ち
啓上を聴き
新羅使に物を下賜し
馬子が外交を掌握していた
↓↑
推古天皇二十年(612年)
堅塩媛を
欽明天皇陵に合葬
安閑・宣化と欽明の勢力を統一した
「石姫皇女」
ではなく
「堅塩媛」
が欽明陵に合葬されたのは
倭王権の正統性を
蘇我氏と欽明との結合に求め
推古及び馬子の認識を
象徴的かつ可視的に大規模にしめした
堅塩媛は
「皇太夫人」
と尊称され
諸皇子、群臣が誄したが
その順番は
推古→諸皇子→馬子→蘇我系諸氏族で
あり
「欽明」天皇
と
「蘇我稲目」
に始まる王権の再確認を行った
↓↑
推古天皇二十八年(620年)
聖徳太子と共に
「天皇記」
「国記」
「臣連伴造
国造百八十部
并
公民等本記」
を記す
↓↑
推古天皇三十年(622年)
聖徳太子死去
馬子は聖徳太子と協調したが
聖徳太子の天皇権力の強化を警戒
↓↑
推古天皇三十一年(623年)
新羅からの調を催促するため
馬子は
境部雄摩侶
を大将軍とする数万の軍を派遣
新羅は戦わずに朝貢
↓↑
推古天皇三十二年(624年)
馬子は
元は蘇我氏の本居で
皇室の領地となっていた
葛城県
円大臣が
雄略天皇に滅ぼされた際に献上した
「葛城の五村」
「葛城の宅七区」
蘇我稲目の代に
その経営権、管理権は
蘇我氏が掌握していた
の割譲を
推古天皇に要求したが
推古天皇に拒否された
↓↑
推古天皇三十四年(626年)
馬子死去
桃原墓に葬られた
奈良県
明日香村
島之庄
石舞台古墳・・・
同古墳の西数百mの位置の
「島庄」遺跡
は邸宅の一部・・・説
↓↑
推古天皇時代の
冠位十二階制度
十七条憲法
遣隋使派遣
を主導した
馬子の功績を
厩戸皇子(聖徳太子)
が行った・・・
「聖徳太子=蘇我馬子」・・・説
↓↑
大化の改新(645年・乙亥の変~)
ムシゴロシ=虫・殺し・蒸殺し
🐞・🐜・🐛・🐝
夢詞語呂乨(始)
無視・無死・無私
無史
馬子の子と孫の
蘇我蝦夷
蘇我入鹿
親子は
律令体制への移行を推し進め
外交面では
朝鮮半島への
派兵計画に反対・・・?
↓↑
天皇即位を目論んでいた・・・?
「軽皇子=孝徳天皇」
は
「乙巳の変(645年)」
↓↑
・・・皇極天皇四年(645年)六月十二日
飛鳥
板蓋宮でのクーデター
蘇我入鹿の暗殺
に始まる
大化年間(645年~650年)の改革
~
大宝元年(701年)の大宝律令完成まで
の一連の改革・・・
663年は
「白村江(白馬・白口)の海戦」
敗北
天智天皇六年
667年
近江大津宮遷都
近江国滋賀郡
天智天皇はこの宮で正式即位
天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
(ユリウス暦)
672年 7月24日~8月21日
(グレゴリオ暦)
672年 7月27日~8月24日
壬申の乱
↓↑
「乙巳の変(645年)」
で
入鹿を殺害
蝦夷を自殺させ
直後に天皇に即位し
その後
百済支援を名目とし
朝鮮半島への武力介入を強行
「白村江の戦い(663年)」
に大敗
後
「天智天皇=中大兄皇子」
が
唐との外交関係の修復
太宰府の強化
近江大津宮への遷都
天皇死後
「壬申の乱
天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
(ユリウス暦 672年 7月24日~8月21日)」
・・・
「蘇我入鹿」の
「上の宮門(みかど)」
「谷の宮門」
からは武器庫や武器が発見され
軍事要塞化
入鹿が
唐の侵略を警戒
外交による解決を図るとともに
有事の際に
皇室を護る備えをしていた・・・仮説?
「改新の詔」
の内容について
藤原京から出土した木簡により
(古事記・日本書紀の)
文書が
奈良時代に
書き換えられたものと決着・・・
蘇我氏専横は無かった・・・
↓↑
兵庫県
相生市
小河
宇麻志神社(うましジンジャ)
があり
祭神は
「宇摩志・・・
うまし=旨し=甘し=美味し
=巧し=上手し
阿斯・・・
あし=足・脚 ・肢 ・疋 ・趺
拾・脚本・肢体・疋引・蹉跌
葦・蘆・葭・芦
・・・・芦別
訶備・・・
かび=黴・霉・醭・華美
黴る
麴(こうじ)
=麹=麦+匊
=麥+匊
來+夂+勹+米
木+从(従・随)+夂+勹+米
人+木+人+夂+勹+米
人+十+八+人+夂+勹+米
麯=麥+曲
粬=米+曲
糀=米+花
米や麦などに
カビを繁殖させたものや
酒や醤油などの原料
キク・こうじ・さけ(酒)
比古遅・・・比較する振る意の字?
ヒコジ
神」
↓↑
かみ=加味・加見
紙=帋=氏+巾
シ・かみ
植物繊維を材料とした紙
日本語
「新聞紙」の略称
シ
髪=镸+彡+ナ+又
嚙=噛
咬み合わせ
↓↑
であるが
明治維新以前は
「馬子宮」と呼ばれ
「蘇我馬子」を祀っていた
蘇我馬子が
相生(あおい)で死亡
↓↑ ↓↑
相生(あおい)
兵庫県の
島嶼部を除いた地域の
南西部に位置
明治終期
船の建造・修繕の
「船渠(ドック)」が完成
ここで
沈没から引き揚げられた
修理造船された
「図南丸」は
1970年まで日本の捕鯨を支えた
第三「図南丸」
太平洋戦争中
1943年7月24日
米軍
ティノサ(USS Tinosa, SS-283)
の合計15本の魚雷を受け
12本が命中したが
信管不良で爆発したのは
2本で残りは全て不発だったが
自力航行が出来ず
トラック島まで曳航
第三「図南丸」は
油槽船(タンカー)ではなく
海に浮かぶ重油タンクとして
トラック島にとどまった
この時
船体に
魚雷が
突き刺さったままの姿が
髪に簪(かんざし
鈿・兂・笄・釵・楴・篸)
を差した花魁(おいらん)
のようであった事から
「花魁船」と言われた・・・
トラック島で
工作艦
明石が修理を実施し
1943年11月
再び「船」として復帰し
輸送任務に就いた
1944年(昭和19年)2月17日
アメリカ軍による
トラック島空襲に遭遇し
被弾炎上
19日2時10分沈没
↓↑
蘇我馬子が
相生(あおい)で死亡
↓↑
従者の
将監光庵
はその地名により
小河を姓名とし
馬子の為に菩提を弔い
剃髪して
庵を結び
「光庵禅師」
を名乗り
子孫代々光庵を名乗った・・・
↓↑
馬子の
父 蘇我稲目
姉妹 蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)
蘇我小姉君(欽明天皇妃
『古事記』では
「小兄比売」は・・・小姉君
「堅塩媛」のおば
妻 物部弓 削大連(物部守屋)の妹
『紀氏家牒』
『石上振神宮略抄』
神主布留宿禰系譜料では
物部守屋の妹の
「太媛」
『先代旧事本紀』天孫本紀では
「物部 鎌足 姫
大刀自
父は
物部守屋の異母弟
石上贄古大連
母は
物部守屋の同母妹の
「布都(ふつ・ふと)姫」
・・・布訳(譯)秘?
「物部 鎌足姫 大刀自(おおとじ)」
は
崇峻天皇が殺害された後に生まれ
蘇我馬子の妻となることは
世代的に無理・・・
妻は「太媛」・・・
子 「蘇我 善徳」・・・善徳女帝は新羅王
「蘇我 倉麻呂」
「蘇我 蝦夷」
孫 「蘇我入鹿」
「蘇我 倉山田 石川麻呂」
娘 「河上娘(崇峻天皇妃)」
「法提郎女(田村皇子妃)」
「刀自古郎女(聖徳太子妃)」
ーーーーー
「島大臣=牡丹(ぼたん)」
赤紫の八重咲き種
↓↑
「牡丹=島大臣」
1953年
大根島(だいこんしま)
島根県の東部の中海にある島の1つ
東西に3.3 km
南北に2.2 km程度
「牡丹(ぼたん)名=島大臣」は
島の生産者より
改良作出された品種
牡丹の生産量は日本一
枝が湾曲
紫色=牡丹色
立てば芍薬
座れば牡丹
歩く姿が百合の花
島大臣の枝変わり(突然変異)品種
紫禁城・春の粧=越の舞姫
翠嵐=紫禁城を通じて枝変わり
ーーーーー
↓↑
成=万+戈
=異体字
「𢦩=戊+午(馬)
𧶔=貝+呈(口+王・呈示)」
勹=包の変形?・・・
↓↑
姫=女+臣
=姬
=女+𦣞
𦣞=匚+口+¦
頤=おとがい
あご=頤・顋・顎
下あご=下顎
𦣝=匚+l+コ+¦
𦣞=叵+¦=イ・アイ
=乳房の象形
康煕字典
煕=巸+灬
𦣝+巳+灬
𦣝+己+灬
𦣞+己+灬
𦣞+巳+灬
キ
ああ
たのしむ
ひかる
ひろい
やわらぐ
よろこぶ
楽しむ・喜ぶ
光る・輝く・光が行き渡る
広い・広まる・広く行き渡る
やわらぐ
ああ・感嘆の声・なげく声
異体字
「熙・熈・焈・㷩・凞・凞」
類字
「巸・媐・熙・㜯」
恬熙・恬煕(テンキ)
=世の中の安泰・平穏・平和
↓↑
懿徳天皇
懿=壹+恣
士+冖+豆+次+心
士+冖+豆+冫+欠+心
士+冖+豆+冫+丿+乛+人+心
イ
よい・うるわしい・立派
美徳・道理にかなった行い
異体字
「㦤・㦉・㱅」
懿懿(イイ)
懿戒(イカイ)
懿軌(イキ)
懿筐(イキョウ)
懿業(イギョウ)
懿訓(イクン)
懿行(イコウ)
懿旨(シイ)=皇后・皇太后の命令
いし=石・磐・磐余・岩・嵒・巖
懿親(イシン)
懿公喜鶴(イコウキカク)
懿公好鶴(イコウコウカク)
ー↓↑ーーー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
↓↑
惨(むご)いイクサ・・・
馬子は皇太后
「炊屋姫」
を
「推古天皇」
とし即位させ
「厩戸皇子(聖徳太子)」
を皇太子とし
摂政とした
推古天皇四年(596年)
馬子は
蘇我氏の氏寺
「飛鳥寺」を建立
ー↓↑ーー↓↑
・・・明日香=あすか
=飛鳥(ヒチョウ)
=安宿(アンシュク)
=阿須賀(アスカ)
阿=阝+可(口+丁)
須=彡+頁(丆+目+八=捌)
賀=加+貝(目+八=捌)
=阿諏化?
「寺(ジ・てら)=土+寸=十+一+寸」
寸=ー+亅+丶
寺院=ジイン=字音(韻)
字印
イン=陰・寅 ・尹 ・殷
吉田松陰・寅次郎・監督・咆哮
↓↑
而(ジ)=丆+⺵・・・形而上・形而下
観念・実存在
而=丆(丆)+⺵
「而」は
「刷毛(はけ)」
or
髪を梳(と)く
「櫛(くし)・笄(こうがい)」
の形象だろう・・・
↓↑
丆=面(丆+)の略字・・・?
面=丆+囬(回・囘)
一+丿+囗+丨+ = + l
回帰=囬帰=囘(冂+巳)帰
回船=廻船・・・海戦・改選
菱垣廻船
樽廻船
西廻り航路 (北前船)
東廻り航路
北国廻船
尾州廻船
顔面の上は
頭の「髪の毛」だが
「丆」は
結(ゆ)った
「丁髷(ちょんまげ)」だろう・・・
↓↑
而=一+ノ+冂+‖(l+l)
ジ
しかして
しこうして
そして
すなわち
「・・・である・・・」
順接助字
↓↑
しかも
しかるに・しかれども
「・・・ではない・・・」
逆接助字
↓↑
なんじ(汝)
あなた(貴方)・あんた
きさま(貴様)
てめい(弖名)
お前・おぬし
自分=関西弁
相手をさすことば
二人称(you=ユウ)
・・・有・結・邑・猷
・・・ヨウ=要・用
↓↑
而=ひげ(髯=髟+冉
鬚=髟+須
鬍=髟+胡
髭=髟+此
須=彡+頁)
あごひげ(顎鬚)
口 ひげ(口髭)
↓↑
丆→䂖=丆+ヽ+口=石(セキ・いし)
丆→不=丆+ト(ボク・うらない)
丆→呑=丆+大+口
↓↑
名字
而摩=しかま・しま・じま・・・揣摩
↓↑
追而書き・追って書き(おってがき)
しかも・然も・而も(しかも)
而して(しこうして)
而立(ジリツ)
形而下(ケイジカ)
形而上(ケイジジョウ)
然して・而して(しかして)
然り而して(しかりこうして)
↓↑
引而不発(インジフハツ)
温潤而沢(オンジュンジタク)
渇而穿井(カツジセンセイ)
群而不党(グンジフトウ)
激而行之(ゲキジコウシ)
三十而立(サンジュウジリツ)
秀而不実(シュウジフジツ)
而今以後(ジコンイゴ)
而今而後(ジコンジゴ)
ー↓↑ー
「白村江海戦の敗北前夜」
推古天皇十八年(610年)
新羅使が
小墾田宮で拝謁の儀を行った際に
庭中において
大伴 咋 (くう・くらう)・・・サク
咋=口+乍(ながら)
蘇我 蝦夷(えみし・えぞ)・・・カイ
蝦=虫+
坂本 糠手(ぬかで)・・・・・・コウシュ
阿倍 鳥 (とり)・・・・・・・チョウ
という
「四の大夫」
が使の旨を聞いて
馬子に啓上しており
有力氏族から代表を1人出すという
マヘツキミ制の原則を破り
蘇我氏は
大臣と大夫を各1人出すという、
他の氏族とは異なる地位を獲得した
馬子はこのとき政庁の前に立ち
啓上を聴き
新羅使に物を下賜し
馬子が外交を掌握していた
↓↑
推古天皇二十年(612年)
堅塩媛を
欽明天皇陵に合葬
安閑・宣化と欽明の勢力を統一した
「石姫皇女」
ではなく
「堅塩媛」
が欽明陵に合葬されたのは
倭王権の正統性を
蘇我氏と欽明との結合に求め
推古及び馬子の認識を
象徴的かつ可視的に大規模にしめした
堅塩媛は
「皇太夫人」
と尊称され
諸皇子、群臣が誄したが
その順番は
推古→諸皇子→馬子→蘇我系諸氏族で
あり
「欽明」天皇
と
「蘇我稲目」
に始まる王権の再確認を行った
↓↑
推古天皇二十八年(620年)
聖徳太子と共に
「天皇記」
「国記」
「臣連伴造
国造百八十部
并
公民等本記」
を記す
↓↑
推古天皇三十年(622年)
聖徳太子死去
馬子は聖徳太子と協調したが
聖徳太子の天皇権力の強化を警戒
↓↑
推古天皇三十一年(623年)
新羅からの調を催促するため
馬子は
境部雄摩侶
を大将軍とする数万の軍を派遣
新羅は戦わずに朝貢
↓↑
推古天皇三十二年(624年)
馬子は
元は蘇我氏の本居で
皇室の領地となっていた
葛城県
円大臣が
雄略天皇に滅ぼされた際に献上した
「葛城の五村」
「葛城の宅七区」
蘇我稲目の代に
その経営権、管理権は
蘇我氏が掌握していた
の割譲を
推古天皇に要求したが
推古天皇に拒否された
↓↑
推古天皇三十四年(626年)
馬子死去
桃原墓に葬られた
奈良県
明日香村
島之庄
石舞台古墳・・・
同古墳の西数百mの位置の
「島庄」遺跡
は邸宅の一部・・・説
↓↑
推古天皇時代の
冠位十二階制度
十七条憲法
遣隋使派遣
を主導した
馬子の功績を
厩戸皇子(聖徳太子)
が行った・・・
「聖徳太子=蘇我馬子」・・・説
↓↑
大化の改新(645年・乙亥の変~)
ムシゴロシ=虫・殺し・蒸殺し
🐞・🐜・🐛・🐝
夢詞語呂乨(始)
無視・無死・無私
無史
馬子の子と孫の
蘇我蝦夷
蘇我入鹿
親子は
律令体制への移行を推し進め
外交面では
朝鮮半島への
派兵計画に反対・・・?
↓↑
天皇即位を目論んでいた・・・?
「軽皇子=孝徳天皇」
は
「乙巳の変(645年)」
↓↑
・・・皇極天皇四年(645年)六月十二日
飛鳥
板蓋宮でのクーデター
蘇我入鹿の暗殺
に始まる
大化年間(645年~650年)の改革
~
大宝元年(701年)の大宝律令完成まで
の一連の改革・・・
663年は
「白村江(白馬・白口)の海戦」
敗北
天智天皇六年
667年
近江大津宮遷都
近江国滋賀郡
天智天皇はこの宮で正式即位
天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
(ユリウス暦)
672年 7月24日~8月21日
(グレゴリオ暦)
672年 7月27日~8月24日
壬申の乱
↓↑
「乙巳の変(645年)」
で
入鹿を殺害
蝦夷を自殺させ
直後に天皇に即位し
その後
百済支援を名目とし
朝鮮半島への武力介入を強行
「白村江の戦い(663年)」
に大敗
後
「天智天皇=中大兄皇子」
が
唐との外交関係の修復
太宰府の強化
近江大津宮への遷都
天皇死後
「壬申の乱
天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
(ユリウス暦 672年 7月24日~8月21日)」
・・・
「蘇我入鹿」の
「上の宮門(みかど)」
「谷の宮門」
からは武器庫や武器が発見され
軍事要塞化
入鹿が
唐の侵略を警戒
外交による解決を図るとともに
有事の際に
皇室を護る備えをしていた・・・仮説?
「改新の詔」
の内容について
藤原京から出土した木簡により
(古事記・日本書紀の)
文書が
奈良時代に
書き換えられたものと決着・・・
蘇我氏専横は無かった・・・
↓↑
兵庫県
相生市
小河
宇麻志神社(うましジンジャ)
があり
祭神は
「宇摩志・・・
うまし=旨し=甘し=美味し
=巧し=上手し
阿斯・・・
あし=足・脚 ・肢 ・疋 ・趺
拾・脚本・肢体・疋引・蹉跌
葦・蘆・葭・芦
・・・・芦別
訶備・・・
かび=黴・霉・醭・華美
黴る
麴(こうじ)
=麹=麦+匊
=麥+匊
來+夂+勹+米
木+从(従・随)+夂+勹+米
人+木+人+夂+勹+米
人+十+八+人+夂+勹+米
麯=麥+曲
粬=米+曲
糀=米+花
米や麦などに
カビを繁殖させたものや
酒や醤油などの原料
キク・こうじ・さけ(酒)
比古遅・・・比較する振る意の字?
ヒコジ
神」
↓↑
かみ=加味・加見
紙=帋=氏+巾
シ・かみ
植物繊維を材料とした紙
日本語
「新聞紙」の略称
シ
髪=镸+彡+ナ+又
嚙=噛
咬み合わせ
↓↑
であるが
明治維新以前は
「馬子宮」と呼ばれ
「蘇我馬子」を祀っていた
蘇我馬子が
相生(あおい)で死亡
↓↑ ↓↑
相生(あおい)
兵庫県の
島嶼部を除いた地域の
南西部に位置
明治終期
船の建造・修繕の
「船渠(ドック)」が完成
ここで
沈没から引き揚げられた
修理造船された
「図南丸」は
1970年まで日本の捕鯨を支えた
第三「図南丸」
太平洋戦争中
1943年7月24日
米軍
ティノサ(USS Tinosa, SS-283)
の合計15本の魚雷を受け
12本が命中したが
信管不良で爆発したのは
2本で残りは全て不発だったが
自力航行が出来ず
トラック島まで曳航
第三「図南丸」は
油槽船(タンカー)ではなく
海に浮かぶ重油タンクとして
トラック島にとどまった
この時
船体に
魚雷が
突き刺さったままの姿が
髪に簪(かんざし
鈿・兂・笄・釵・楴・篸)
を差した花魁(おいらん)
のようであった事から
「花魁船」と言われた・・・
トラック島で
工作艦
明石が修理を実施し
1943年11月
再び「船」として復帰し
輸送任務に就いた
1944年(昭和19年)2月17日
アメリカ軍による
トラック島空襲に遭遇し
被弾炎上
19日2時10分沈没
↓↑
蘇我馬子が
相生(あおい)で死亡
↓↑
従者の
将監光庵
はその地名により
小河を姓名とし
馬子の為に菩提を弔い
剃髪して
庵を結び
「光庵禅師」
を名乗り
子孫代々光庵を名乗った・・・
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馬子の
父 蘇我稲目
姉妹 蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)
蘇我小姉君(欽明天皇妃
『古事記』では
「小兄比売」は・・・小姉君
「堅塩媛」のおば
妻 物部弓 削大連(物部守屋)の妹
『紀氏家牒』
『石上振神宮略抄』
神主布留宿禰系譜料では
物部守屋の妹の
「太媛」
『先代旧事本紀』天孫本紀では
「物部 鎌足 姫
大刀自
父は
物部守屋の異母弟
石上贄古大連
母は
物部守屋の同母妹の
「布都(ふつ・ふと)姫」
・・・布訳(譯)秘?
「物部 鎌足姫 大刀自(おおとじ)」
は
崇峻天皇が殺害された後に生まれ
蘇我馬子の妻となることは
世代的に無理・・・
妻は「太媛」・・・
子 「蘇我 善徳」・・・善徳女帝は新羅王
「蘇我 倉麻呂」
「蘇我 蝦夷」
孫 「蘇我入鹿」
「蘇我 倉山田 石川麻呂」
娘 「河上娘(崇峻天皇妃)」
「法提郎女(田村皇子妃)」
「刀自古郎女(聖徳太子妃)」
ーーーーー
「島大臣=牡丹(ぼたん)」
赤紫の八重咲き種
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「牡丹=島大臣」
1953年
大根島(だいこんしま)
島根県の東部の中海にある島の1つ
東西に3.3 km
南北に2.2 km程度
「牡丹(ぼたん)名=島大臣」は
島の生産者より
改良作出された品種
牡丹の生産量は日本一
枝が湾曲
紫色=牡丹色
立てば芍薬
座れば牡丹
歩く姿が百合の花
島大臣の枝変わり(突然変異)品種
紫禁城・春の粧=越の舞姫
翠嵐=紫禁城を通じて枝変わり
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成=万+戈
=異体字
「𢦩=戊+午(馬)
𧶔=貝+呈(口+王・呈示)」
勹=包の変形?・・・
↓↑
姫=女+臣
=姬
=女+𦣞
𦣞=匚+口+¦
頤=おとがい
あご=頤・顋・顎
下あご=下顎
𦣝=匚+l+コ+¦
𦣞=叵+¦=イ・アイ
=乳房の象形
康煕字典
煕=巸+灬
𦣝+巳+灬
𦣝+己+灬
𦣞+己+灬
𦣞+巳+灬
キ
ああ
たのしむ
ひかる
ひろい
やわらぐ
よろこぶ
楽しむ・喜ぶ
光る・輝く・光が行き渡る
広い・広まる・広く行き渡る
やわらぐ
ああ・感嘆の声・なげく声
異体字
「熙・熈・焈・㷩・凞・凞」
類字
「巸・媐・熙・㜯」
恬熙・恬煕(テンキ)
=世の中の安泰・平穏・平和
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懿徳天皇
懿=壹+恣
士+冖+豆+次+心
士+冖+豆+冫+欠+心
士+冖+豆+冫+丿+乛+人+心
イ
よい・うるわしい・立派
美徳・道理にかなった行い
異体字
「㦤・㦉・㱅」
懿懿(イイ)
懿戒(イカイ)
懿軌(イキ)
懿筐(イキョウ)
懿業(イギョウ)
懿訓(イクン)
懿行(イコウ)
懿旨(シイ)=皇后・皇太后の命令
いし=石・磐・磐余・岩・嵒・巖
懿親(イシン)
懿公喜鶴(イコウキカク)
懿公好鶴(イコウコウカク)
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干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
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メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
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モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
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「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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