確かに橋下は市長選で勝利したが、
別に文楽の芸術性やら方向性やらを指示・命令して欲しくて
市長選に勝たせた訳ではない。
そんなこと、公約にもマニフェストにも書いていないだろ?
その点では、別に市長といっても市民の代表者ではない。
そして大阪市の財政立て直しにおいて、
別に文楽の内容が市長様個人に受け容れて頂けるかどうかはどうでも良い。
「古典芸能として守るべき芸」と判断できればそれで充分。
それを客ではなく市長の立場で「演出不足」云々するのは、
伝統芸能であろうがなかろうが、
一生をその芸に賭して何がベストかと考え、生活している人に対して、
予算を持っているのをいいことに札びらで頬を張る行為であり、
無礼千万でしょう。
対する藤蔵のコメントは冷静であり、
(芸は兎も角、この点に関しては)好感が持てる。
「演出不足」と言っているが、それは難しいところ。
「曽根崎心中」は戦後のテキストであり、近代的に作られている方だと思う。
ただ基本的に、近代の理性的で「全てを表現し、伝える」手法に対して、
文楽などの日本の伝統芸能は「客に想像してもらう」ことで
より豊穣な世界にしようとするところに特色があると思う。
だから観客の経験や知識、思いによって受け取れるものは異なる。
増して、人間が表情を付けたり、リアルに人間を表現する芝居と違い、
「人形」が芝居をする文楽では、想像しなければならない範囲が広いのは当然。
まあ、橋下が「曽根崎心中」でさえ気に入らないのであれば、
夏休み第一部の「親子劇場」を見に行けば良い。
そうすれば、如何に文楽協会が子どもに向けて市場を広げようと努力しているか、
垣間見えると思う。
と書きつつ、1人の文楽好きとしては、
文楽劇場に通う回数が減っているのは否めないところで。
それは、技芸員、特に大夫のレベルが落ちている、と感じるから。
越路大夫や津大夫はいないので、
そのレベルを引き継いでいるのは住大夫だけ、
同世代では嶋大夫、さらに源大夫がいる、という状況。
その下では呂大夫が夭折し、咲大夫や土佐大夫、伊達大夫、といった
ところになるのかと思うが、
住大夫と他の大夫の差が大き過ぎる、と個人的には思う。
何と言っても、義太夫は言葉が聞き取れてナンボ、と思うのだが、
その粒の立ち方にどうやっても超えられない差があると感じる。
それは「客に合わせる」云々ではなく、
声を出す素養、基礎訓練の積み重ね、
床本を読む力、表現する力、といったレベルの話。
学歴社会が進んでいること、
小さい頃から義太夫に触れる環境ではないことを考えると、
このあたりは最早失われていく芸に対する繰言かも知れないのだが。