やあ、いらっしゃい。
今夜はカモミールティーを用意しておいたよ。
さあ、早く席に着いて。
…今夜も千客万来の様だね。
活気が有って嬉しいが…こういう催しをするには、相応しく思えないかな。
え?…誰も声なんて出してないだろうって…?
おかしな事を言うね……貴殿には、この騒々しい声が、聞えないのかい?
……まあ、いいか。
それでは今夜は、身の毛もよだつ怨霊に、命を狙われた男の話をしよう。
体は氷の様に冷たく、心臓はずっと前から鼓動しなくなっていた。
それでも、他に死んだという徴候は、少しも無かった。
誰一人として、その女を埋葬しようと言う者は無かった。
女は離別されたのを、悲しみかつ怒って死んだのだった。
それで、人々はその女を埋葬しようとしても、無駄だろうと考えたのである。
何故かと言うと、死に掛けている者が復讐したいと願う、いまわの際の最後の一念は、何時までも消える事は無く、どんな墓でも微塵にし、どんなに重い墓石でも、割ってしまうからである。
女が横たわっている家の近くに住んでいる人達は、我が家から逃げ去った。
自分を離別した男が帰って来るのを、女がひたすら待っている事を、人々は知っていたのである。
女が死んだ時、男は旅に出ていた。
帰って来て、事の顛末を聞かされると、男はぞっと怖気をふるった。
「何とかして、日暮れ前に助けて貰わないと」と、彼は一人思案した。
「あの女に八つ裂きにされるだろう。」
未だ辰の刻(午前七時~九時頃)だったが、一刻の猶予も無い事を、男は知っていた。
男は直ぐ陰陽師の所へ行って、助けを乞うた。
陰陽師は、死んだ女の話を知っていた。
そして、その死骸も見ていた。
彼は依頼の男に言った。
「あんたの身には、大変な危難が迫っていますぞ。
まあ、わしが助かるようにやってみましょう。
だが、何でもわしの言う通りにすると、約束して貰いたい。
あんたの助かる途はたった一つしかない。
そりゃ恐ろしいやり方です。
しかし、あんたにそれをやろうという勇気が無けりゃ、女はあんたを八つ裂きにしてしまいますぞ。
勇気が有るなら、夕方、日の暮れぬ内にもう一度、わしの所へお出でなさい。」
男はぞっと身震いした。
が、何でも言われるままにすると約束した。
日暮れになると、陰陽師は男と連れだって、死骸の置いてある家へ行った。
陰陽師は雨戸を押し開けて、依頼の男に入るように言った。
辺りは、刻々と暗くなっていた。
「とても駄目です」と男は、頭から足の先まで、わなわな震わせながら、息を喘がせ言った。
「女を見る勇気さえ、有りません。」
「顔を見るどころか、それ以上の事をせねばならん」と、陰陽師はきっぱり言った。
「あんたは言う通りにすると、約束されたんだ。
さあ、お入り。」
彼は、震えている男を、無理に家の中へ入れて、死骸の傍に連れて行った。
死んだ女はうつ伏せに寝ていた。
「さあ、女の上に跨りなさい」と陰陽師は言った。
「そして馬に乗る様に、背中にしっかり跨るのです。
……さあ、そうしなくちゃいかん。」
男は大変震えていたので、陰陽師は支えてやらねばならなかった。
――酷く震えたが、男はその通りにした。
「さあ、髪の毛を手に持って。」
陰陽師は命じた。
「半分は右手に、半分は左手に。
……そうです!……手綱の様に、しっかり掴むんです。
髪を手に巻いて――両手に――しっかりと。
そう、その通り!……宜しいか!朝までそうして居るのですぞ。
夜中に恐ろしい事が起る――きっと。
だが、どんな事が起ろうと、髪を放してはなりませんぞ。
もし放したら――ほんの束の間でも――女はあんたを八つ裂きにしますぞ。」
陰陽師は、それから何か霊妙な文句を、死骸の耳に囁いて、馬乗りになっている男に言った。
「さあ、わしの都合で、あんた一人を、女の元に置いて行かねばならん。
……このままにして居るんですぞ!
……何はさておき、女の髪の毛を放さぬよう、気を付けねばなりませんぞ。」
そう言って陰陽師は、後ろの戸を閉めて出て行った。
幾時間も幾時間も、男は暗澹とした不安に包まれたまま、死骸の上に跨っていた。
夜の静けさは辺りに段々深まって行き、とうとう男は叫び声を出して、その静けさを破った。
すると忽ち、下の死骸は、男を振り落とす様に、躍り上った。
そして死んだ女は、大声で喚き出した。
「おお、なんて重いんだろう!
でも、あいつを今、此処へ連れて来てやろう!」
それから、女はすっとばかり立上って、戸口へ飛んで行き、荒々しく戸を開けて、男を背負ったまま、夜闇の中へ走り出た。
しかし、男は目を閉じ、呻き声すら立てられない程恐怖に襲われながらも、両手に長い髪の毛を、固く固く巻き付けたままで居た。
どれ程女が行ったか、男は知らなかった。
男は何も見なかった。
ただ暗闇の中に、女の裸足の足音がピチャピチャ、ピチャピチャいうのと、走りながらヒュウヒュウ言う女の息遣いとが、聞えるばかりだった。
とうとう女は引き返して家の中へ駈込み、全く最初の通りに床の上に寝た。
鶏が鳴き始めるまで、男の下で、喘いだり呻いたりした。
それから後は、静かに寝ていた。
しかし男は歯をがたがたさせながら、朝になって陰陽師が来るまで、女の上に跨っていた。
「その様にして、髪を放さなかったのだね」と、陰陽師は大変嬉しそうに言った。
「それで宜しい。
……さあ、立上って宜しい。」
彼はまたもや、死骸の耳の中に囁いて、それから男に向って言った。
「さぞかし恐ろしい晩を、過された事でしょう。
だが他には、あんたを救う途は無かったのです。
これからはもう、女の仕返しの心配はせんでも宜しい。」
それを聞いた男は、ひたすら泣いて陰陽師に向い、伏して拝んだ。
…八雲は伝え聞いたこの結末が、気に食わなかったらしい。
「道義に適ってない」と、作品中でかなり酷評している。
男が最後、気が狂うか、髪の毛が白くなる等の描写が有るべきと…八雲はそう考えたらしいのだ。
しかしこれだけ恐ろしい目に遭ったのだ。
書いてはいないが、恐らくはそうなった事だろう。
それにしても壮絶な話だ。
何故死骸の上に、一晩跨らねばならなかったのか?
…謎に感じて仕方ない。
さて…今夜の話は、これでお終いだ。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。
……有難う。
また1つ…明りが消えたね。
では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように…。
家に帰り着いてから、鏡を覗く事も無きように…。
それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
今夜はカモミールティーを用意しておいたよ。
さあ、早く席に着いて。
…今夜も千客万来の様だね。
活気が有って嬉しいが…こういう催しをするには、相応しく思えないかな。
え?…誰も声なんて出してないだろうって…?
おかしな事を言うね……貴殿には、この騒々しい声が、聞えないのかい?
……まあ、いいか。
それでは今夜は、身の毛もよだつ怨霊に、命を狙われた男の話をしよう。
体は氷の様に冷たく、心臓はずっと前から鼓動しなくなっていた。
それでも、他に死んだという徴候は、少しも無かった。
誰一人として、その女を埋葬しようと言う者は無かった。
女は離別されたのを、悲しみかつ怒って死んだのだった。
それで、人々はその女を埋葬しようとしても、無駄だろうと考えたのである。
何故かと言うと、死に掛けている者が復讐したいと願う、いまわの際の最後の一念は、何時までも消える事は無く、どんな墓でも微塵にし、どんなに重い墓石でも、割ってしまうからである。
女が横たわっている家の近くに住んでいる人達は、我が家から逃げ去った。
自分を離別した男が帰って来るのを、女がひたすら待っている事を、人々は知っていたのである。
女が死んだ時、男は旅に出ていた。
帰って来て、事の顛末を聞かされると、男はぞっと怖気をふるった。
「何とかして、日暮れ前に助けて貰わないと」と、彼は一人思案した。
「あの女に八つ裂きにされるだろう。」
未だ辰の刻(午前七時~九時頃)だったが、一刻の猶予も無い事を、男は知っていた。
男は直ぐ陰陽師の所へ行って、助けを乞うた。
陰陽師は、死んだ女の話を知っていた。
そして、その死骸も見ていた。
彼は依頼の男に言った。
「あんたの身には、大変な危難が迫っていますぞ。
まあ、わしが助かるようにやってみましょう。
だが、何でもわしの言う通りにすると、約束して貰いたい。
あんたの助かる途はたった一つしかない。
そりゃ恐ろしいやり方です。
しかし、あんたにそれをやろうという勇気が無けりゃ、女はあんたを八つ裂きにしてしまいますぞ。
勇気が有るなら、夕方、日の暮れぬ内にもう一度、わしの所へお出でなさい。」
男はぞっと身震いした。
が、何でも言われるままにすると約束した。
日暮れになると、陰陽師は男と連れだって、死骸の置いてある家へ行った。
陰陽師は雨戸を押し開けて、依頼の男に入るように言った。
辺りは、刻々と暗くなっていた。
「とても駄目です」と男は、頭から足の先まで、わなわな震わせながら、息を喘がせ言った。
「女を見る勇気さえ、有りません。」
「顔を見るどころか、それ以上の事をせねばならん」と、陰陽師はきっぱり言った。
「あんたは言う通りにすると、約束されたんだ。
さあ、お入り。」
彼は、震えている男を、無理に家の中へ入れて、死骸の傍に連れて行った。
死んだ女はうつ伏せに寝ていた。
「さあ、女の上に跨りなさい」と陰陽師は言った。
「そして馬に乗る様に、背中にしっかり跨るのです。
……さあ、そうしなくちゃいかん。」
男は大変震えていたので、陰陽師は支えてやらねばならなかった。
――酷く震えたが、男はその通りにした。
「さあ、髪の毛を手に持って。」
陰陽師は命じた。
「半分は右手に、半分は左手に。
……そうです!……手綱の様に、しっかり掴むんです。
髪を手に巻いて――両手に――しっかりと。
そう、その通り!……宜しいか!朝までそうして居るのですぞ。
夜中に恐ろしい事が起る――きっと。
だが、どんな事が起ろうと、髪を放してはなりませんぞ。
もし放したら――ほんの束の間でも――女はあんたを八つ裂きにしますぞ。」
陰陽師は、それから何か霊妙な文句を、死骸の耳に囁いて、馬乗りになっている男に言った。
「さあ、わしの都合で、あんた一人を、女の元に置いて行かねばならん。
……このままにして居るんですぞ!
……何はさておき、女の髪の毛を放さぬよう、気を付けねばなりませんぞ。」
そう言って陰陽師は、後ろの戸を閉めて出て行った。
幾時間も幾時間も、男は暗澹とした不安に包まれたまま、死骸の上に跨っていた。
夜の静けさは辺りに段々深まって行き、とうとう男は叫び声を出して、その静けさを破った。
すると忽ち、下の死骸は、男を振り落とす様に、躍り上った。
そして死んだ女は、大声で喚き出した。
「おお、なんて重いんだろう!
でも、あいつを今、此処へ連れて来てやろう!」
それから、女はすっとばかり立上って、戸口へ飛んで行き、荒々しく戸を開けて、男を背負ったまま、夜闇の中へ走り出た。
しかし、男は目を閉じ、呻き声すら立てられない程恐怖に襲われながらも、両手に長い髪の毛を、固く固く巻き付けたままで居た。
どれ程女が行ったか、男は知らなかった。
男は何も見なかった。
ただ暗闇の中に、女の裸足の足音がピチャピチャ、ピチャピチャいうのと、走りながらヒュウヒュウ言う女の息遣いとが、聞えるばかりだった。
とうとう女は引き返して家の中へ駈込み、全く最初の通りに床の上に寝た。
鶏が鳴き始めるまで、男の下で、喘いだり呻いたりした。
それから後は、静かに寝ていた。
しかし男は歯をがたがたさせながら、朝になって陰陽師が来るまで、女の上に跨っていた。
「その様にして、髪を放さなかったのだね」と、陰陽師は大変嬉しそうに言った。
「それで宜しい。
……さあ、立上って宜しい。」
彼はまたもや、死骸の耳の中に囁いて、それから男に向って言った。
「さぞかし恐ろしい晩を、過された事でしょう。
だが他には、あんたを救う途は無かったのです。
これからはもう、女の仕返しの心配はせんでも宜しい。」
それを聞いた男は、ひたすら泣いて陰陽師に向い、伏して拝んだ。
…八雲は伝え聞いたこの結末が、気に食わなかったらしい。
「道義に適ってない」と、作品中でかなり酷評している。
男が最後、気が狂うか、髪の毛が白くなる等の描写が有るべきと…八雲はそう考えたらしいのだ。
しかしこれだけ恐ろしい目に遭ったのだ。
書いてはいないが、恐らくはそうなった事だろう。
それにしても壮絶な話だ。
何故死骸の上に、一晩跨らねばならなかったのか?
…謎に感じて仕方ない。
さて…今夜の話は、これでお終いだ。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。
……有難う。
また1つ…明りが消えたね。
では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように…。
家に帰り着いてから、鏡を覗く事も無きように…。
それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より