やあ、いらっしゃい。
そろそろ来る頃だと思ってね。
アイスティーを淹れる用意をしていた所さ。
さあさ、何時もの席に座って。
ミルクとレモン、どっちにするかい?
ガムシロップは幾つ入用かな?
…所で貴殿は筆まめな性質だろうか?
『暑中見舞い』等は、忘れず出すようにしてるかい?
立秋を過ぎた今なら、出すとして『残暑見舞い』になるねえ。
電子メールがすっかり全盛の御時世でも、文面に篭める思いは変りやしない。
何れにしろ出す時は、注意した方がいい。
手紙というのは、目に見える形に残るからね。
今夜はそんな、『手紙』に纏わる話だ。
ずっと以前の事、丹波の国に、稲村屋源助と言う、金持ちの商人が住んでいた。
お園と言う娘が在ったが、大変賢い上に綺麗だったので、田舎の師匠にやれる程度の躾だけで一人前の女に仕込むのは、可哀想だと思った。
それで、信用のおける付添人を幾人か付けて、娘を京都へやり、京都の婦人達が習う上品な芸事を、仕込んで貰うようにしてやった。
こうして仕込まれた後、お園は父方の知合いの長良屋と言う商人の元に縁付けられた。
そして彼此四年ばかり、夫と幸せに暮らした。
夫婦の間には、男の子が一人出来た。
しかし、お園は、結婚してから四年目に、病気に罹って亡くなった。
お園の葬式が済んだ晩、小さな息子が、お母さんが帰って来て、二階の部屋に居ると言った。
お母さんは坊やを見てにっこりしたが、物を言おうとしないので、恐くなって逃出した、と言うのである。
そこで家の者が幾人か、お園が元居た二階の部屋へ行ってみた。
すると、居間の仏壇の前に点された、小さな灯明の光の中、死んだお園の姿が見えたので、皆びっくりした。
お園は、自分の装身具や衣類が未だ残っている箪笥の前に、立っている様に見えた。
頭と肩は酷く際立って見えたが、腰から下の方は、しだいに薄れて見えなくなり、ぼんやりと鏡か何かに映った姿の様で在り、また水に浮んだ影の様に透通っていた。
そこで、家の者は恐くなって、部屋を出た。
階下で皆して相談した所、お園の姑がこう言った。
「女というものは、自分の細々した物が好きなんだよ。
お園も、自分の持ち物に酷く愛着を持っていたからね。
多分あの子も、それを見に戻って来たんだろう。
――そういう品を、檀那寺へ納めずにおくとね。
家でも、お園の着物や帯をお寺に納めたら、あれの霊魂も多分休まるだろうよ。」
出来るだけ早くそうする事に、相談が纏まった。
それで明くる朝、引出しは空にされて、お園の装身具や衣類は、すっかり寺へ運ばれた。
しかし、お園は次の晩も帰って来て、これまでの様に箪笥をじっと見ていた。
そして、その次の晩も、またその次の晩も……毎晩戻って来た。
――こうして、家中の者は、皆怖気を振るった。
そこで、お園の姑は檀那寺へ行き、住職に事の次第をすっかり話して、坊さんの意見を求めた。
寺は禅宗で、住職は大玄和尚として知られた、学識の有る老僧だった。
和尚はこう言った。
「その箪笥の中か、その近くに、何か仏の気に懸かる物が有るに違いない。」
「でも引出しはすっかり空に致しましたので、箪笥の中には何も御座いません」と、年老いた姑は答えた。
「宜しい」と大玄和尚は言った。
「今晩わしがお宅へ上り、その部屋で見張りをして、どうしたら良いか見届けましょう。
見張ってる間、わしの方から呼ぶまでは、誰も部屋へ入らぬように、言い付けて貰いたい。」
日が沈んでから、大玄和尚がその家に行くと、部屋はもう彼の為に用意してあった。
和尚はお経を読みながら、そこに独りきりで居た。
子の刻過ぎまでは、何も現れなかった。
が、やがて、お園の姿が、突然箪笥の前に現れた。
顔は物思わしげで、目はじっと箪笥の上に注がれていた。
和尚は、この様な場合に定められている経文を唱え、それからお園の戒名を呼んで、その姿に話しかけた。
「わしは、あんたの力になりに、此処へやって来た。
多分箪笥の中には、何かあんたの気懸りの元になる物が有るのだろう。
ひとつ、探してあげようか?」
お園の影は頭を少し動かして、同意した様であった。
それで和尚は立上って、一番上の引出しを開けた。
それは空だった。
続いて二番目、三番目、四番目と、次々に引出しを開けてみた。
そして、その後ろ側や下を、気を付けて探し、箱の中までも念入りに調べてみたが、何も見付らなかった。
けれども、お園の姿は前と同じ様に、尚も物思わしげに、じっと見詰ていた。
「一体、どうして貰いたいのかな?」と和尚は考えた。
ふと、引出しの中の敷紙の下に、何か隠されているかも知れない、という案が浮んだ。
そこで、一番上の引出しの敷紙を除けて見た。
――が、何も無かった。
二番目、三番目の引出しの敷紙も取り除けた。
――が、やはり何も無かった。
所が、一番下の敷紙の下に、一通の手紙が見付った。
「あんたが心を悩ましてたのは、これかな?」と和尚は尋ねた。
彼女の影は、和尚の方を向いた。
弱々しい眼差しで、じっと手紙を見詰た。
「わしが焼いてあげようか」と和尚は尋ねた。
その影は、和尚の前に頭を下げた。
「早速今朝、寺で焼いてあげよう」と和尚は約束した。
「わしの他は、誰にも読ませんよ。」
お園の姿は、にっこり笑って消え去った。
和尚が梯子段を下りた時には、夜が明けかけてたが、階下には家の者達が心配そうに待っていた。
「案ずる事は無い」と、和尚は皆に言った。
「あの人は二度と現れませんよ。」
果たして、お園は姿を現さなかった。
手紙は焼かれた。
それは、お園が京都で修行していた頃に貰った恋文だった。
しかし、その中に書いてあった事を知っているのは和尚だけで、その秘密は和尚が死ぬと共に、葬られてしまった。
…今迄貰った手紙を、捨てられず大事に保管している人は大いに違いない。
しかし、死は予告無くやって来る。
己が死んだ後、残された手紙の数々が、他人の目に触れるとしたら……
……どうだい、気になって来ただろう?
死んで引出しの前に、或いはPCの前に立たなくてもいいよう、管理の仕方は事前に考えておいた方が良いだろう。
さて、今夜の話は、これでお終い。
何時もの様に、蝋燭を1本、吹消して貰えるかい。
……有難う。
また…1つ、明りが消えたね。
では気を付けて帰ってくれ給え。
飲み終えたグラスは、勿論そのままでいい。
…繰り返すが、明るい所に出るまでは…絶対に後ろを振り返らないように。
夜に鏡を覗いてもいけない…。
では御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
そろそろ来る頃だと思ってね。
アイスティーを淹れる用意をしていた所さ。
さあさ、何時もの席に座って。
ミルクとレモン、どっちにするかい?
ガムシロップは幾つ入用かな?
…所で貴殿は筆まめな性質だろうか?
『暑中見舞い』等は、忘れず出すようにしてるかい?
立秋を過ぎた今なら、出すとして『残暑見舞い』になるねえ。
電子メールがすっかり全盛の御時世でも、文面に篭める思いは変りやしない。
何れにしろ出す時は、注意した方がいい。
手紙というのは、目に見える形に残るからね。
今夜はそんな、『手紙』に纏わる話だ。
ずっと以前の事、丹波の国に、稲村屋源助と言う、金持ちの商人が住んでいた。
お園と言う娘が在ったが、大変賢い上に綺麗だったので、田舎の師匠にやれる程度の躾だけで一人前の女に仕込むのは、可哀想だと思った。
それで、信用のおける付添人を幾人か付けて、娘を京都へやり、京都の婦人達が習う上品な芸事を、仕込んで貰うようにしてやった。
こうして仕込まれた後、お園は父方の知合いの長良屋と言う商人の元に縁付けられた。
そして彼此四年ばかり、夫と幸せに暮らした。
夫婦の間には、男の子が一人出来た。
しかし、お園は、結婚してから四年目に、病気に罹って亡くなった。
お園の葬式が済んだ晩、小さな息子が、お母さんが帰って来て、二階の部屋に居ると言った。
お母さんは坊やを見てにっこりしたが、物を言おうとしないので、恐くなって逃出した、と言うのである。
そこで家の者が幾人か、お園が元居た二階の部屋へ行ってみた。
すると、居間の仏壇の前に点された、小さな灯明の光の中、死んだお園の姿が見えたので、皆びっくりした。
お園は、自分の装身具や衣類が未だ残っている箪笥の前に、立っている様に見えた。
頭と肩は酷く際立って見えたが、腰から下の方は、しだいに薄れて見えなくなり、ぼんやりと鏡か何かに映った姿の様で在り、また水に浮んだ影の様に透通っていた。
そこで、家の者は恐くなって、部屋を出た。
階下で皆して相談した所、お園の姑がこう言った。
「女というものは、自分の細々した物が好きなんだよ。
お園も、自分の持ち物に酷く愛着を持っていたからね。
多分あの子も、それを見に戻って来たんだろう。
――そういう品を、檀那寺へ納めずにおくとね。
家でも、お園の着物や帯をお寺に納めたら、あれの霊魂も多分休まるだろうよ。」
出来るだけ早くそうする事に、相談が纏まった。
それで明くる朝、引出しは空にされて、お園の装身具や衣類は、すっかり寺へ運ばれた。
しかし、お園は次の晩も帰って来て、これまでの様に箪笥をじっと見ていた。
そして、その次の晩も、またその次の晩も……毎晩戻って来た。
――こうして、家中の者は、皆怖気を振るった。
そこで、お園の姑は檀那寺へ行き、住職に事の次第をすっかり話して、坊さんの意見を求めた。
寺は禅宗で、住職は大玄和尚として知られた、学識の有る老僧だった。
和尚はこう言った。
「その箪笥の中か、その近くに、何か仏の気に懸かる物が有るに違いない。」
「でも引出しはすっかり空に致しましたので、箪笥の中には何も御座いません」と、年老いた姑は答えた。
「宜しい」と大玄和尚は言った。
「今晩わしがお宅へ上り、その部屋で見張りをして、どうしたら良いか見届けましょう。
見張ってる間、わしの方から呼ぶまでは、誰も部屋へ入らぬように、言い付けて貰いたい。」
日が沈んでから、大玄和尚がその家に行くと、部屋はもう彼の為に用意してあった。
和尚はお経を読みながら、そこに独りきりで居た。
子の刻過ぎまでは、何も現れなかった。
が、やがて、お園の姿が、突然箪笥の前に現れた。
顔は物思わしげで、目はじっと箪笥の上に注がれていた。
和尚は、この様な場合に定められている経文を唱え、それからお園の戒名を呼んで、その姿に話しかけた。
「わしは、あんたの力になりに、此処へやって来た。
多分箪笥の中には、何かあんたの気懸りの元になる物が有るのだろう。
ひとつ、探してあげようか?」
お園の影は頭を少し動かして、同意した様であった。
それで和尚は立上って、一番上の引出しを開けた。
それは空だった。
続いて二番目、三番目、四番目と、次々に引出しを開けてみた。
そして、その後ろ側や下を、気を付けて探し、箱の中までも念入りに調べてみたが、何も見付らなかった。
けれども、お園の姿は前と同じ様に、尚も物思わしげに、じっと見詰ていた。
「一体、どうして貰いたいのかな?」と和尚は考えた。
ふと、引出しの中の敷紙の下に、何か隠されているかも知れない、という案が浮んだ。
そこで、一番上の引出しの敷紙を除けて見た。
――が、何も無かった。
二番目、三番目の引出しの敷紙も取り除けた。
――が、やはり何も無かった。
所が、一番下の敷紙の下に、一通の手紙が見付った。
「あんたが心を悩ましてたのは、これかな?」と和尚は尋ねた。
彼女の影は、和尚の方を向いた。
弱々しい眼差しで、じっと手紙を見詰た。
「わしが焼いてあげようか」と和尚は尋ねた。
その影は、和尚の前に頭を下げた。
「早速今朝、寺で焼いてあげよう」と和尚は約束した。
「わしの他は、誰にも読ませんよ。」
お園の姿は、にっこり笑って消え去った。
和尚が梯子段を下りた時には、夜が明けかけてたが、階下には家の者達が心配そうに待っていた。
「案ずる事は無い」と、和尚は皆に言った。
「あの人は二度と現れませんよ。」
果たして、お園は姿を現さなかった。
手紙は焼かれた。
それは、お園が京都で修行していた頃に貰った恋文だった。
しかし、その中に書いてあった事を知っているのは和尚だけで、その秘密は和尚が死ぬと共に、葬られてしまった。
…今迄貰った手紙を、捨てられず大事に保管している人は大いに違いない。
しかし、死は予告無くやって来る。
己が死んだ後、残された手紙の数々が、他人の目に触れるとしたら……
……どうだい、気になって来ただろう?
死んで引出しの前に、或いはPCの前に立たなくてもいいよう、管理の仕方は事前に考えておいた方が良いだろう。
さて、今夜の話は、これでお終い。
何時もの様に、蝋燭を1本、吹消して貰えるかい。
……有難う。
また…1つ、明りが消えたね。
では気を付けて帰ってくれ給え。
飲み終えたグラスは、勿論そのままでいい。
…繰り返すが、明るい所に出るまでは…絶対に後ろを振り返らないように。
夜に鏡を覗いてもいけない…。
では御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より