やあ、いらっしゃい。
何時までも茹だる様な暑さが続いているね。
こんな時季は奇怪な目に遇い易い。
ゆらゆら揺れる陽炎の向うに、何時もとは違う世界を見る事も有るだろう。
恐怖が狂気を呼ぶのではなく、狂気が恐怖を呼ぶのだよ。
支離滅裂な前置きはこのくらいにして…今夜はアイルランドに伝わる話だ。
或る男が、日曜日に教会へ出掛けた。
それまでは何ともなかったのに…ミサが始まると眩暈がして来た。
あまり酷いものだったから、仕方なく教会を出た。
涼しい空気に当っていると、少しは気分が好くなって来る。
そうして或る宿屋の前を通り掛った時、向うから歩いて来た紳士が、男に声を掛けて来た。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
男が自分の具合を話すと、紳士はポケットから銀貨を1枚取出した。
「この宿屋に入って、ウイスキーでも1杯引っ掛けて御覧なさい。
きっと気分が好くなりますよ。」
そう言って、取出した銀貨を、男に渡す。
男が礼を言って宿屋に入る時…ふと後ろを振返ると、既に紳士の姿は消えていた。
しかし気分が優れなかった事も有り、彼は気に懸けるのを止め、宿屋でウイスキーを頼み、貰った銀貨で代金を支払った。
翌日、煙草を買おうと、男がポケットに手を入れると、有る筈の無い銀貨が出て来た。
男は奇妙に思いながらも、銀貨を使い、つりを貰った。
次に入った酒屋でも、そうだった。
あの銀貨がポケットの中から出て来たのだ。
その後も、それはずっと続いた。
幾ら使っても、銀貨は必ず戻って来た。
次第に、男は有難いと思いながらも、その銀貨が気味悪くなって来た。
きっとあの紳士は、人間ではなかったに違いない…そう思えて来たのだ。
或る日、男は再び、あの宿屋に入った。
注文したウイスキーを呑んで、酔っ払っている内…男は件の銀貨を取出すと、カウンターに向って投げ付け、叫んだ。
「もう、何処かへ行ってくれ!」
男の態度に不審を感じて、宿屋の主人が訳を尋ねて来た。
それで彼は主人に、事の一部始終を話した。
聞き終えた主人は、笑いながら言った。
「そんな良い物、何も捨てる事はないでしょう。
もし要らないのなら、私が貰っておきますよ。」
そうして床に落ちてた銀貨に手を伸ばす――と、途端に銀貨は、跡形も無く消えてしまった。
その後幾ら探しても、銀貨は遂に見付らなかった。
男は、やはりあの紳士は人間ではなく、妖精だったのだろうと考えたと云う。
…宿の主人同様、何も捨てる事はないと思うのだが。
この男の正体について、話中では、妖精ではないかと書いているのだが…普通妖精等の魔物は、金属を嫌うと云われている。
昔の船乗りは、マストの下等に、金貨銀貨を打込んだりしていたそうだ。
船乗りがナイフを携帯しているのは、実用的な意味だけでなく、魔除の意味も有っての事らしい。
とは言え、鍋を借りに来る妖精も居るようだし、苦手ではない魔物も居るのかもしれない。
脳が煮え滾りそうな暑い日には、奇妙な人に出くわし易い。
そんな所で、今夜の話はお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
では気を付けて、帰ってくれ給え。
暗い夜道では、絶対に後ろを振り返らないように。
深夜、鏡を覗くのも止めておくように。
それでは御機嫌よう。
次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。
『小学館入門百科シリーズ153――妖精百物語――(水木しげる著)』より。
何時までも茹だる様な暑さが続いているね。
こんな時季は奇怪な目に遇い易い。
ゆらゆら揺れる陽炎の向うに、何時もとは違う世界を見る事も有るだろう。
恐怖が狂気を呼ぶのではなく、狂気が恐怖を呼ぶのだよ。
支離滅裂な前置きはこのくらいにして…今夜はアイルランドに伝わる話だ。
或る男が、日曜日に教会へ出掛けた。
それまでは何ともなかったのに…ミサが始まると眩暈がして来た。
あまり酷いものだったから、仕方なく教会を出た。
涼しい空気に当っていると、少しは気分が好くなって来る。
そうして或る宿屋の前を通り掛った時、向うから歩いて来た紳士が、男に声を掛けて来た。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
男が自分の具合を話すと、紳士はポケットから銀貨を1枚取出した。
「この宿屋に入って、ウイスキーでも1杯引っ掛けて御覧なさい。
きっと気分が好くなりますよ。」
そう言って、取出した銀貨を、男に渡す。
男が礼を言って宿屋に入る時…ふと後ろを振返ると、既に紳士の姿は消えていた。
しかし気分が優れなかった事も有り、彼は気に懸けるのを止め、宿屋でウイスキーを頼み、貰った銀貨で代金を支払った。
翌日、煙草を買おうと、男がポケットに手を入れると、有る筈の無い銀貨が出て来た。
男は奇妙に思いながらも、銀貨を使い、つりを貰った。
次に入った酒屋でも、そうだった。
あの銀貨がポケットの中から出て来たのだ。
その後も、それはずっと続いた。
幾ら使っても、銀貨は必ず戻って来た。
次第に、男は有難いと思いながらも、その銀貨が気味悪くなって来た。
きっとあの紳士は、人間ではなかったに違いない…そう思えて来たのだ。
或る日、男は再び、あの宿屋に入った。
注文したウイスキーを呑んで、酔っ払っている内…男は件の銀貨を取出すと、カウンターに向って投げ付け、叫んだ。
「もう、何処かへ行ってくれ!」
男の態度に不審を感じて、宿屋の主人が訳を尋ねて来た。
それで彼は主人に、事の一部始終を話した。
聞き終えた主人は、笑いながら言った。
「そんな良い物、何も捨てる事はないでしょう。
もし要らないのなら、私が貰っておきますよ。」
そうして床に落ちてた銀貨に手を伸ばす――と、途端に銀貨は、跡形も無く消えてしまった。
その後幾ら探しても、銀貨は遂に見付らなかった。
男は、やはりあの紳士は人間ではなく、妖精だったのだろうと考えたと云う。
…宿の主人同様、何も捨てる事はないと思うのだが。
この男の正体について、話中では、妖精ではないかと書いているのだが…普通妖精等の魔物は、金属を嫌うと云われている。
昔の船乗りは、マストの下等に、金貨銀貨を打込んだりしていたそうだ。
船乗りがナイフを携帯しているのは、実用的な意味だけでなく、魔除の意味も有っての事らしい。
とは言え、鍋を借りに来る妖精も居るようだし、苦手ではない魔物も居るのかもしれない。
脳が煮え滾りそうな暑い日には、奇妙な人に出くわし易い。
そんな所で、今夜の話はお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
では気を付けて、帰ってくれ給え。
暗い夜道では、絶対に後ろを振り返らないように。
深夜、鏡を覗くのも止めておくように。
それでは御機嫌よう。
次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。
『小学館入門百科シリーズ153――妖精百物語――(水木しげる著)』より。