やあ、いらっしゃい。
今夜はミントティーを用意しておいたよ。
飲めばすっきり、一服の清涼感を味わえるだろう。
さてと…『怪談』と言えば、小泉八雲作品と並び、有名な物が有るね。
江戸期の小説家、上田秋成の著した怪談集『雨月物語』――
――中でも最も恐いと思える話を、今夜はお話したいと思う。
昔々、吉備の国の賀夜(かや)の郡、庭妹(にいせ)の里(現、岡山県庭瀬)に、井沢庄太夫と言う人が居た。
祖父の代まで播磨の豪族に仕えていたが、戦を機にこの土地へ流れて来て、以来庄太夫に至るまで三代の間、田畑を耕し裕福に暮していた。
所で庄太夫の一人息子に『正太郎』と言う者が居たが、野良仕事を嫌い、酒色に耽って、だらしがない事この上なかった。
この様を親として心配した庄太夫と妻は、密かに相談し合った末、「良家の器量の良い娘と結婚させたら、息子の気持ちも自然と修まるだろう」と考え、国中隈なく探し求めた。
そこへ幸い或る人が「吉備津神社の神主の香央造酒(かさだみき)の娘は、家柄も器量も申し分の無い女です。もしも貴方が縁組を望まれるのでしたら、私が仲立ち致しましょう」と庄太夫に言って来た。
そして直ぐさま香央家へ行って話をすると、香央の方でも丁度娘の良縁を考えていた所だったとの事で、とんとん拍子に婚約は成立し、結納を済ませた後、吉日を選んで結婚式を挙げる運びとなった。
式の前に縁起を担ぐ意味から、香央家では巫女や神官達を集めて、御湯を奉る神事を行った。
そもそもこの吉備津神社と言う所、数々の供え物をし、神前の釜で湯を焚いて、吉兆か凶兆かを占う神社なのである。
吉兆の場合、沸き立った釜は、牛が吠える如く大きな音を立てる。
しかし凶兆の場合、釜は音を立てない。
これが世に言う『吉備津の御釜祓』だ。(現在でも『釜鳴りの神事』と呼ばれ、行われている)
さて、神事を執り行った結果……どうした訳か、釜は音を立てない。
秋の虫が草むらで奏でる程の音さえ聞えて来ない。
不気味に静まる釜を不審に感じた香央は、この凶兆を妻に話して縁組は考え直した方が良いのではと相談した。
しかし妻は全く気にも懸けず、「釜が音を立てなかったのは、神官達の身が穢れていたからでしょう。既に結納を済ませておきながら翻意しては、相手の家に失礼です。娘だって自分の婿となる人の容貌が美しい事を漏れ聞いて、結婚の日を待ち侘びているというのに…取止めたら、どんなにがっかりすることか」と、言葉尽くして夫を説得した。
香央としても元々願っていた縁組である。
妻の説得に深く考えるのは止め、つつがなく結婚の準備を整える事にした。
そうして井沢の一人息子「正太郎」と、香央の娘「磯良」は、夫婦となった。
井沢の家に嫁いでからというもの、磯良は朝な昼なに甲斐甲斐しく家事をこなし、夫である正太郎に真心篭めて仕えたので、井沢の父母は大層感激し、正太郎もまた妻の健気さにほだされ、暫くは睦まじく暮していた。
しかし生来の浮気性は如何ともし難い。
何時の頃からか正太郎は、鞆(とも)の津(現、広島県福山市付近)の「袖」と言う遊女と恋仲になり、身請けまでして、近くの里に別宅を構え、そこで何日も過すようになった。
磯良はひたすら夫の浮気心を嘆き恨んで、舅姑の怒りにかこつけ諌めたりもしたけれど、正太郎は上の空で聞き流して態度を改める事は無かった。
正太郎の父は磯良の意地らしい振舞いを見かね、遂に正太郎を激しく叱責した末、一間に閉じ込めてしまった。
夫の浮気心を恨んでいた磯良も、これには悲しむばかり
磯良は尚甲斐甲斐しく夫に仕え、又、先方の袖の元へも、密かに物を届ける等して、真心の限りを尽くした。
或る日、父の庄太夫が不在の折、正太郎は磯良に向って、しみじみと話した。
「そなたの真心に感じ、私も今ではすっかり改心している。
袖とは手を切り、またそなたとやり直したいと考えているのだ。
…ただ、あの女には身寄りが無い。
私に捨てられたら、きっと元の浅ましい境遇に戻ってしまうだろう。
それはあまりに不憫というもの…せめて手当てを充分渡して、都に上らせてやりたい。
都ならば身分の有る人に仕える機会も出来るだろうと思うのでな。
だが、私はこの通り押込められてて、路銀等を用意してやれん。
そなたに頼むのは気がひけるが…どうかあれを可哀想に思って、金を工面し、与えてやってくれないか。」
この言葉を聞いた磯良は大層喜び、快く請負うと、自分の着物や道具を売って金を作り、更に自分の母親に嘘まで吐いて金を借り、正太郎に渡してやった。
所が正太郎は金を手にすると、こっそり家を抜け出し、袖を連れて逃げてしまったのだ。
あまりに惨い裏切りに、磯良は狂おしい程嘆き恨み…とうとう重い病に臥してしまった。
井沢・香央両家の人々は、磯良に心から同情して、手を尽くしたけれども、粥さえ喉を通らなくなり、遂には望みの無い有様となった。
一方、正太郎と袖は印南郡荒井の里(現、兵庫県高砂市)に居る、袖の従兄弟の彦六と言う男の住いを訪ね、勧められるままに逗留していた。
彦六の方では友達が出来た事を喜び、自分の家の隣のあばら家を借りて、二人を住まわせたのだった。
所が暫くして…袖が病の床に臥せった。
最初は風邪だろうと言っていたのが、どんどんどんどん苦しみを募らせ、まるで物の怪に取り憑かれたかの如く狂おしい様子を見せる。
正太郎は己の食事すら忘れて必死に介抱したが、袖はただ声を上げて泣くばかり。
胸が締付けられて耐え難そうに苦悶するかと思えば、正気に戻り平生と変らない状態になる。
あまりの怪しさに、これはひょっとして故郷に捨てて来た妻の祟りではと、正太郎は恐れを口にした。
しかしその言葉を聞いた彦六は、「そんな馬鹿な事が有るものか。ただ熱にうなされてるだけで…下がれば正気に戻るさ」と、笑って取り合わなかった。
そうこう言ってる内に、看病の効き目も無く、七日苦しんだ末、袖は亡くなってしまった。
酷く嘆き悲しむ正太郎を、彦六は色々と慰め、遺骸をそのままにしておく訳にいかないからと、荒野で火葬し塚を作って埋めた後、僧を頼んで袖の菩提を手厚く弔ったのであった。
最愛の女を失った悲しみに、正太郎は昼の間は独り物思いに打ち臥して、夕暮れ時には墓に詣でるという日々を過した。
季節は秋で、墓地に生い茂る雑草の間から聞えて来る虫の声が、物悲しく胸に迫る。
侘しい思いに耽り、薄らぼんやり眺めていた墓の側…ふと、並んで新しい塚が在る事に気付いた。
塚の前では一人の若い女が、如何にも悲しそうに、花を手向けたり、水を注いだりしている。
「ああ、お気の毒に。…貴女もうら若くして最愛の方を亡くしたのですね」と、正太郎が声を掛けると、女は振り返り、さめざめと泣きながら言った。
「ええ、貴方様も……
…私は夕暮れ毎にお参り致して居りますが、そうすると、必ず貴方様が、先にお参りなされてる姿をお見掛けします。
…大事な方とお別れになったので御座いましょうね。
御心中、誠にお察し致します。」
女の言葉を聞き、正太郎はこう返した。
「その通りです。
十日程前、愛しい妻を亡くして以来…此処にお参りする事だけを、せめてもの慰めにしているのです。
貴女もきっと、その様な御事情がお有りなのでしょう?」
女は正太郎の言葉に、こう返した。
「このお墓は私の御主人様の物で、しかじかの日に此処に埋葬申し上げました。
御主人様と別れた奥様は、酷くお嘆きになるあまり、近頃重い御病気におなりになりましたので…こうして私がお代わり申し上げて、香花をお供えしております。」
正太郎は女に向い、重ねて訊いた。
「奥方様が御病気になられるのも、ごもっともです。
失礼ですが故人はどんなお方で、どちらに住んでいらっしゃったのですか?」
女は、こう答えた。
「お仕えして居りました御主人様は、この国では由緒有る家柄のお方でいらっしゃったのですが、他人の讒言により領地を失い、今ではこの野原の片隅にひっそりと住いしております。
奥様は隣国にまでも知られたお美しい御方。
…実は御主人様が家や領地を失ったのは、奥方様の美しさに原因が有るのです。」
正太郎はこの話に興味を引かれ、こう申し出た。
「それで、その奥方様がお暮らしになられてるのは、この近くなのでしょうか?
同じ悲しみを持つ者同士…話も合うだろうと存じます。
宜しければお訪ね申し上げて、お慰め差上げましょう。」
女は正太郎の申し出に、快く了承の言葉を述べた。
「家は貴方様がお出でになられた道から、少し脇道に入った所に在ります。
心細く日々を送られてます故、さぞお喜びになられるでしょう。
どうぞ私と一緒に参られて下さいませ。」
そう言うと、女は先に立ち、歩いて行った。
二丁程来ると、細い横道が現れた。
そこからまた一丁程歩いて、薄暗い林の裏手に出ると、小さな茅葺の家が建っているのが見えた。
粗末な竹の扉が侘しく、上弦の月の光が明るく射し込んだ狭い庭は、酷く荒れて思える。
窓の障子紙から、か細く漏れる灯の光が物寂しい。
家の前まで来た所で、女は正太郎に「此処でお待ち下さい」と告げると、中へ入って行った。
苔生した古井戸の側に立ち、女が戻るのを待った。
襖が少し開いた隙間から、中の様子を覗くと、揺らめく灯の光の中、黒塗りの棚が煌いて見えた。
と、そこへ女が戻って来た。
「奥方様に御訪問の事を申し上げました所、『お入り下さい。物越しにお話申し上げましょう』と仰って、端の方へいざり出ていらっしゃいます。
あちらへお入り下さい。」
そう言って、正太郎を案内する。
庭の植込みを廻って奥の方に入ると、二間続きの客間に低い屏風を立て回して在る。
屏風の陰からは夜具の端が食み出ていて、どうやら女主人はそこに居ると思われた。
正太郎は屏風に向い、労わる調子で話し掛けた。
「御不幸な御身の上に加えて、御病気にまで罹られたと伺いました。
私も愛しい妻を亡くしたばかり…とても他人事とは思えませぬ。
これも何かの御縁、宜しければ悲しみを語り合って、お慰め申し上げようと、無理を承知で参上致しました。」
すると中から、女主人が屏風を少し押し開けて――
「珍しくもお目にかかった事…
つれない仕打ちの報いの程を、思い知らせてあげましょう…!」
――と恨みがましく言うその声に驚きよく見れば、なんとそれは故郷に残して来た磯良であった。
顔色は酷く蒼褪め、弛んだ眼は凄まじく、自分の方に差し出した手は、骨にも似て痩せ細り…
あまりの恐ろしさに、正太郎は「あっっ!」と一声叫び、気絶してしまった。
暫く経って息を吹き返し…おっかなびっくり目を開けて見れば…家だと思って入ったそれは、荒野に建っていたお堂で、目の前には黒い仏像だけが立っていた。
遠くの里の犬の鳴声を頼りにひた走り、家に帰ると彦六に遭った事を話した。
しかし彦六は、笑って取合わなかった。
「なあに、狐にでも化かされたのさ。
沈んで気弱になった人間を、奴等は直ぐ、からかおうとするからね。」
それでも彦六は、袖が亡くなってから、すっかり気落ちしてる正太郎の心を落着かせてやろうと、刀田の里(現、兵庫県加古川市)に居る、評判の陰陽師を紹介してやった。
正太郎は彦六と共に、その陰陽師の所へ出向き、遭った一部始終を詳しく話した。
すると陰陽師は占った後で、非常に難しい顔して正太郎に向い、話して聞かせた。
「災いは既に貴方の身に迫っている。
前に怨霊は貴方の傍に居た女の命を奪ったが、恨みは未だ尽きておらん。
貴方の命も、このままでは後僅かだ。
この怨霊が世を去ったのは七日前の事だから、今日から四十二日の間は、戸を堅く閉じて、重い物忌みに篭りなさい。
私の戒めを守れば、或いは九死に一生を得るかも知れない。
だがしかし…ほんの少しでも私の戒めを破ったなら、災いから逃れる事は出来ないだろう。」
そう話した陰陽師は、筆を取り、正太郎の背中から手足に至るまで、魔除の呪いを書いた。
更に朱符を数多紙に記して与え、彼によくよく注意して与えた。
「このお札を全ての戸に貼り付けて、神仏に祈りなさい。
油断して身を滅ぼす事の無いように。」
正太郎と彦六は有難く受取って家に帰り、言われた通り朱のお札を戸口に貼り、窓に貼って、じっと家に篭った。
その日の真夜中……恐ろしい声が、外で聞えた。
「ああ、憎らしい…
此処に尊いお札を貼ってある…」
そう呟いたきり…物音は全くしなかった。
恐ろしさのあまり、まんじりともせずに夜を過し、明けるや否や壁を叩いて、隣家の彦六に昨夜の事を語った。
話を聞いた彦六は、初めて恐怖を覚え、次の夜は己も寝ないで事を待った。
松の梢を渡る風は木を吹き倒さんばかりに激しく、雨まで降ってただならぬ妖気漂う夜に、二人は壁越しに声を掛け合い気持ちを奮い立てた。
――午前二時頃の事だ。
正太郎の家の窓の障子に、さっと赤い光が射し、「ああ、憎らしい。此処にも貼ったとは…!」と言う、恐ろしい声が聞えた。
身の毛もよだつ思いに、耳にした二人は、暫く気を失ってしまった。
夜が明けて前夜の有様を話し、日が暮れれば夜明けを待ちかね………こうした繰返しが日々続いた。
怨霊は毎晩家の周りを廻り、或いは屋根の上で叫んだりして、その怒りの声は夜を重ねる毎に凄まじくなって行った。
あまりの恐ろしさに、二人は秋の夜長を、心底嘆いた。
しかしとうとう四十二日目の、最後の夜を迎えた。
この一夜で漸く怨霊から解放されるのだと思った正太郎は、殊更重く慎んでいた。
やがて午前四時頃になって、空も次第に白んで来た。
正太郎は長い夢から覚めた心地となり、壁を叩いて隣家の彦六を呼んだ。
彦六も壁に耳をそばだて、「無事かい…?」と応える。
正太郎は喜びを隠し切れずに叫んだ。
「重い物忌みもこれで終り…漸く俺は解放されたんだ!
どうだい、今から外へ出て、この一月あまりの憂さを晴らそうじゃないか!
暫くあんたの顔を見てないからな…じっくり拝んで、積る話をしたいものさ!」
これを聞いた彦六も、また軽率な男だったので、直ぐに誘いに応じた。
「もう大丈夫だ!
さ、早く出て来て、家に来いよ!」
そう言って戸に手を掛け、半分も開けない内に――
「ぎゃあっっ…!!」
――と、隣家の軒の辺りから、物凄い叫びが上った。
声に驚いた彦六は、思わず尻餅をついてしまった。
これは正太郎の身に何か有ったに違いないと、斧を引提げ外に出て見れば…
…正太郎が明けたと言った夜は未だ暗く、月は中天に在るものの、光は朧で、風は冷たく…そして正太郎の家の戸は開け放たれてて、主の姿は見えない。
中へ逃込んだのであろうかと、走り込んで見てみたが、隠れる場所も無い小さな住いだ。
ならば道に倒れているのだろうかと捜してみたが、近くには見当たる物とてない。
一体どうなったのであろうかと、彦六は怖気ながらも灯を翳して、あちこち見回った所……
……開いた戸口の側の壁に、生々しい血が流れかかって、地面に伝わっているのを見付けた。
だが死体も骨も見えない。
月明かりの中見ると、軒のつまに何か物が引っ掛っている。
灯を掲げて照らしたそこには――
――男の髪の髻(もとどり)だけがぶら下がっていて、その他には何一つ見当らなかった。
夜が明けて近くの野山を捜し求めたが、遂に正太郎の痕跡すら見付けられなかった。
仕方なくこの事を井沢の家へ言い送ると、涙ながらに香央家にも告げ知らされた。
陰陽師の占いと吉備津のお釜祓いの凶兆が外れなかった事実は、人々の口から驚きをもって伝えられ、後世の代まで語り継がれたそうだ。
…この話の何が恐いと言って、結末だろう。
死体は見当らず、月明かりの下、夥しい血と男の髻…所謂「まげ」だけが残されていた…
…その様を想像するだに身の毛もよだつ。
上田秋成はこの話を、「嫉妬深い女の性質の悪さ」を論う意味で書いたようだが…女の目から見ると、化けて出るのも仕方なしに思えるかもしれない。
とは言え、男も特に悪い性質の人間には思えない。
女が死んで気落ちする場面等、情の深さを感じられる。
相性の悪いのは如何ともし難し、という事かも知れない。
今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。
……有難う。
では気を付けて…夜道の途中、くれぐれも後ろを振り返らないように。
夜に鏡を覗く事もしてはいけない…。
今日は送り盆だったね。
ちゃんと送り出してあげたかい?
おや、してない?
……それはよくないね。
それじゃあ、背負ってるそれは、来年までそのままで居る積りかい?
ああいや…気にする程のものじゃないけどね。
それでは御機嫌よう。
今夜は悪い夢を見ないよう…祈っているよ。
『雨月物語(上田秋成 著)』より
*吉備津神社は岡山県に在る、古い歴史の有る神社。(→http://www.harenet.ne.jp/kibitujinja/)
あの桃太郎に所縁の場所でも在る。
みーさんのブログに、そこへ行った時の記事が載ってますよ。
今夜はミントティーを用意しておいたよ。
飲めばすっきり、一服の清涼感を味わえるだろう。
さてと…『怪談』と言えば、小泉八雲作品と並び、有名な物が有るね。
江戸期の小説家、上田秋成の著した怪談集『雨月物語』――
――中でも最も恐いと思える話を、今夜はお話したいと思う。
昔々、吉備の国の賀夜(かや)の郡、庭妹(にいせ)の里(現、岡山県庭瀬)に、井沢庄太夫と言う人が居た。
祖父の代まで播磨の豪族に仕えていたが、戦を機にこの土地へ流れて来て、以来庄太夫に至るまで三代の間、田畑を耕し裕福に暮していた。
所で庄太夫の一人息子に『正太郎』と言う者が居たが、野良仕事を嫌い、酒色に耽って、だらしがない事この上なかった。
この様を親として心配した庄太夫と妻は、密かに相談し合った末、「良家の器量の良い娘と結婚させたら、息子の気持ちも自然と修まるだろう」と考え、国中隈なく探し求めた。
そこへ幸い或る人が「吉備津神社の神主の香央造酒(かさだみき)の娘は、家柄も器量も申し分の無い女です。もしも貴方が縁組を望まれるのでしたら、私が仲立ち致しましょう」と庄太夫に言って来た。
そして直ぐさま香央家へ行って話をすると、香央の方でも丁度娘の良縁を考えていた所だったとの事で、とんとん拍子に婚約は成立し、結納を済ませた後、吉日を選んで結婚式を挙げる運びとなった。
式の前に縁起を担ぐ意味から、香央家では巫女や神官達を集めて、御湯を奉る神事を行った。
そもそもこの吉備津神社と言う所、数々の供え物をし、神前の釜で湯を焚いて、吉兆か凶兆かを占う神社なのである。
吉兆の場合、沸き立った釜は、牛が吠える如く大きな音を立てる。
しかし凶兆の場合、釜は音を立てない。
これが世に言う『吉備津の御釜祓』だ。(現在でも『釜鳴りの神事』と呼ばれ、行われている)
さて、神事を執り行った結果……どうした訳か、釜は音を立てない。
秋の虫が草むらで奏でる程の音さえ聞えて来ない。
不気味に静まる釜を不審に感じた香央は、この凶兆を妻に話して縁組は考え直した方が良いのではと相談した。
しかし妻は全く気にも懸けず、「釜が音を立てなかったのは、神官達の身が穢れていたからでしょう。既に結納を済ませておきながら翻意しては、相手の家に失礼です。娘だって自分の婿となる人の容貌が美しい事を漏れ聞いて、結婚の日を待ち侘びているというのに…取止めたら、どんなにがっかりすることか」と、言葉尽くして夫を説得した。
香央としても元々願っていた縁組である。
妻の説得に深く考えるのは止め、つつがなく結婚の準備を整える事にした。
そうして井沢の一人息子「正太郎」と、香央の娘「磯良」は、夫婦となった。
井沢の家に嫁いでからというもの、磯良は朝な昼なに甲斐甲斐しく家事をこなし、夫である正太郎に真心篭めて仕えたので、井沢の父母は大層感激し、正太郎もまた妻の健気さにほだされ、暫くは睦まじく暮していた。
しかし生来の浮気性は如何ともし難い。
何時の頃からか正太郎は、鞆(とも)の津(現、広島県福山市付近)の「袖」と言う遊女と恋仲になり、身請けまでして、近くの里に別宅を構え、そこで何日も過すようになった。
磯良はひたすら夫の浮気心を嘆き恨んで、舅姑の怒りにかこつけ諌めたりもしたけれど、正太郎は上の空で聞き流して態度を改める事は無かった。
正太郎の父は磯良の意地らしい振舞いを見かね、遂に正太郎を激しく叱責した末、一間に閉じ込めてしまった。
夫の浮気心を恨んでいた磯良も、これには悲しむばかり
磯良は尚甲斐甲斐しく夫に仕え、又、先方の袖の元へも、密かに物を届ける等して、真心の限りを尽くした。
或る日、父の庄太夫が不在の折、正太郎は磯良に向って、しみじみと話した。
「そなたの真心に感じ、私も今ではすっかり改心している。
袖とは手を切り、またそなたとやり直したいと考えているのだ。
…ただ、あの女には身寄りが無い。
私に捨てられたら、きっと元の浅ましい境遇に戻ってしまうだろう。
それはあまりに不憫というもの…せめて手当てを充分渡して、都に上らせてやりたい。
都ならば身分の有る人に仕える機会も出来るだろうと思うのでな。
だが、私はこの通り押込められてて、路銀等を用意してやれん。
そなたに頼むのは気がひけるが…どうかあれを可哀想に思って、金を工面し、与えてやってくれないか。」
この言葉を聞いた磯良は大層喜び、快く請負うと、自分の着物や道具を売って金を作り、更に自分の母親に嘘まで吐いて金を借り、正太郎に渡してやった。
所が正太郎は金を手にすると、こっそり家を抜け出し、袖を連れて逃げてしまったのだ。
あまりに惨い裏切りに、磯良は狂おしい程嘆き恨み…とうとう重い病に臥してしまった。
井沢・香央両家の人々は、磯良に心から同情して、手を尽くしたけれども、粥さえ喉を通らなくなり、遂には望みの無い有様となった。
一方、正太郎と袖は印南郡荒井の里(現、兵庫県高砂市)に居る、袖の従兄弟の彦六と言う男の住いを訪ね、勧められるままに逗留していた。
彦六の方では友達が出来た事を喜び、自分の家の隣のあばら家を借りて、二人を住まわせたのだった。
所が暫くして…袖が病の床に臥せった。
最初は風邪だろうと言っていたのが、どんどんどんどん苦しみを募らせ、まるで物の怪に取り憑かれたかの如く狂おしい様子を見せる。
正太郎は己の食事すら忘れて必死に介抱したが、袖はただ声を上げて泣くばかり。
胸が締付けられて耐え難そうに苦悶するかと思えば、正気に戻り平生と変らない状態になる。
あまりの怪しさに、これはひょっとして故郷に捨てて来た妻の祟りではと、正太郎は恐れを口にした。
しかしその言葉を聞いた彦六は、「そんな馬鹿な事が有るものか。ただ熱にうなされてるだけで…下がれば正気に戻るさ」と、笑って取り合わなかった。
そうこう言ってる内に、看病の効き目も無く、七日苦しんだ末、袖は亡くなってしまった。
酷く嘆き悲しむ正太郎を、彦六は色々と慰め、遺骸をそのままにしておく訳にいかないからと、荒野で火葬し塚を作って埋めた後、僧を頼んで袖の菩提を手厚く弔ったのであった。
最愛の女を失った悲しみに、正太郎は昼の間は独り物思いに打ち臥して、夕暮れ時には墓に詣でるという日々を過した。
季節は秋で、墓地に生い茂る雑草の間から聞えて来る虫の声が、物悲しく胸に迫る。
侘しい思いに耽り、薄らぼんやり眺めていた墓の側…ふと、並んで新しい塚が在る事に気付いた。
塚の前では一人の若い女が、如何にも悲しそうに、花を手向けたり、水を注いだりしている。
「ああ、お気の毒に。…貴女もうら若くして最愛の方を亡くしたのですね」と、正太郎が声を掛けると、女は振り返り、さめざめと泣きながら言った。
「ええ、貴方様も……
…私は夕暮れ毎にお参り致して居りますが、そうすると、必ず貴方様が、先にお参りなされてる姿をお見掛けします。
…大事な方とお別れになったので御座いましょうね。
御心中、誠にお察し致します。」
女の言葉を聞き、正太郎はこう返した。
「その通りです。
十日程前、愛しい妻を亡くして以来…此処にお参りする事だけを、せめてもの慰めにしているのです。
貴女もきっと、その様な御事情がお有りなのでしょう?」
女は正太郎の言葉に、こう返した。
「このお墓は私の御主人様の物で、しかじかの日に此処に埋葬申し上げました。
御主人様と別れた奥様は、酷くお嘆きになるあまり、近頃重い御病気におなりになりましたので…こうして私がお代わり申し上げて、香花をお供えしております。」
正太郎は女に向い、重ねて訊いた。
「奥方様が御病気になられるのも、ごもっともです。
失礼ですが故人はどんなお方で、どちらに住んでいらっしゃったのですか?」
女は、こう答えた。
「お仕えして居りました御主人様は、この国では由緒有る家柄のお方でいらっしゃったのですが、他人の讒言により領地を失い、今ではこの野原の片隅にひっそりと住いしております。
奥様は隣国にまでも知られたお美しい御方。
…実は御主人様が家や領地を失ったのは、奥方様の美しさに原因が有るのです。」
正太郎はこの話に興味を引かれ、こう申し出た。
「それで、その奥方様がお暮らしになられてるのは、この近くなのでしょうか?
同じ悲しみを持つ者同士…話も合うだろうと存じます。
宜しければお訪ね申し上げて、お慰め差上げましょう。」
女は正太郎の申し出に、快く了承の言葉を述べた。
「家は貴方様がお出でになられた道から、少し脇道に入った所に在ります。
心細く日々を送られてます故、さぞお喜びになられるでしょう。
どうぞ私と一緒に参られて下さいませ。」
そう言うと、女は先に立ち、歩いて行った。
二丁程来ると、細い横道が現れた。
そこからまた一丁程歩いて、薄暗い林の裏手に出ると、小さな茅葺の家が建っているのが見えた。
粗末な竹の扉が侘しく、上弦の月の光が明るく射し込んだ狭い庭は、酷く荒れて思える。
窓の障子紙から、か細く漏れる灯の光が物寂しい。
家の前まで来た所で、女は正太郎に「此処でお待ち下さい」と告げると、中へ入って行った。
苔生した古井戸の側に立ち、女が戻るのを待った。
襖が少し開いた隙間から、中の様子を覗くと、揺らめく灯の光の中、黒塗りの棚が煌いて見えた。
と、そこへ女が戻って来た。
「奥方様に御訪問の事を申し上げました所、『お入り下さい。物越しにお話申し上げましょう』と仰って、端の方へいざり出ていらっしゃいます。
あちらへお入り下さい。」
そう言って、正太郎を案内する。
庭の植込みを廻って奥の方に入ると、二間続きの客間に低い屏風を立て回して在る。
屏風の陰からは夜具の端が食み出ていて、どうやら女主人はそこに居ると思われた。
正太郎は屏風に向い、労わる調子で話し掛けた。
「御不幸な御身の上に加えて、御病気にまで罹られたと伺いました。
私も愛しい妻を亡くしたばかり…とても他人事とは思えませぬ。
これも何かの御縁、宜しければ悲しみを語り合って、お慰め申し上げようと、無理を承知で参上致しました。」
すると中から、女主人が屏風を少し押し開けて――
「珍しくもお目にかかった事…
つれない仕打ちの報いの程を、思い知らせてあげましょう…!」
――と恨みがましく言うその声に驚きよく見れば、なんとそれは故郷に残して来た磯良であった。
顔色は酷く蒼褪め、弛んだ眼は凄まじく、自分の方に差し出した手は、骨にも似て痩せ細り…
あまりの恐ろしさに、正太郎は「あっっ!」と一声叫び、気絶してしまった。
暫く経って息を吹き返し…おっかなびっくり目を開けて見れば…家だと思って入ったそれは、荒野に建っていたお堂で、目の前には黒い仏像だけが立っていた。
遠くの里の犬の鳴声を頼りにひた走り、家に帰ると彦六に遭った事を話した。
しかし彦六は、笑って取合わなかった。
「なあに、狐にでも化かされたのさ。
沈んで気弱になった人間を、奴等は直ぐ、からかおうとするからね。」
それでも彦六は、袖が亡くなってから、すっかり気落ちしてる正太郎の心を落着かせてやろうと、刀田の里(現、兵庫県加古川市)に居る、評判の陰陽師を紹介してやった。
正太郎は彦六と共に、その陰陽師の所へ出向き、遭った一部始終を詳しく話した。
すると陰陽師は占った後で、非常に難しい顔して正太郎に向い、話して聞かせた。
「災いは既に貴方の身に迫っている。
前に怨霊は貴方の傍に居た女の命を奪ったが、恨みは未だ尽きておらん。
貴方の命も、このままでは後僅かだ。
この怨霊が世を去ったのは七日前の事だから、今日から四十二日の間は、戸を堅く閉じて、重い物忌みに篭りなさい。
私の戒めを守れば、或いは九死に一生を得るかも知れない。
だがしかし…ほんの少しでも私の戒めを破ったなら、災いから逃れる事は出来ないだろう。」
そう話した陰陽師は、筆を取り、正太郎の背中から手足に至るまで、魔除の呪いを書いた。
更に朱符を数多紙に記して与え、彼によくよく注意して与えた。
「このお札を全ての戸に貼り付けて、神仏に祈りなさい。
油断して身を滅ぼす事の無いように。」
正太郎と彦六は有難く受取って家に帰り、言われた通り朱のお札を戸口に貼り、窓に貼って、じっと家に篭った。
その日の真夜中……恐ろしい声が、外で聞えた。
「ああ、憎らしい…
此処に尊いお札を貼ってある…」
そう呟いたきり…物音は全くしなかった。
恐ろしさのあまり、まんじりともせずに夜を過し、明けるや否や壁を叩いて、隣家の彦六に昨夜の事を語った。
話を聞いた彦六は、初めて恐怖を覚え、次の夜は己も寝ないで事を待った。
松の梢を渡る風は木を吹き倒さんばかりに激しく、雨まで降ってただならぬ妖気漂う夜に、二人は壁越しに声を掛け合い気持ちを奮い立てた。
――午前二時頃の事だ。
正太郎の家の窓の障子に、さっと赤い光が射し、「ああ、憎らしい。此処にも貼ったとは…!」と言う、恐ろしい声が聞えた。
身の毛もよだつ思いに、耳にした二人は、暫く気を失ってしまった。
夜が明けて前夜の有様を話し、日が暮れれば夜明けを待ちかね………こうした繰返しが日々続いた。
怨霊は毎晩家の周りを廻り、或いは屋根の上で叫んだりして、その怒りの声は夜を重ねる毎に凄まじくなって行った。
あまりの恐ろしさに、二人は秋の夜長を、心底嘆いた。
しかしとうとう四十二日目の、最後の夜を迎えた。
この一夜で漸く怨霊から解放されるのだと思った正太郎は、殊更重く慎んでいた。
やがて午前四時頃になって、空も次第に白んで来た。
正太郎は長い夢から覚めた心地となり、壁を叩いて隣家の彦六を呼んだ。
彦六も壁に耳をそばだて、「無事かい…?」と応える。
正太郎は喜びを隠し切れずに叫んだ。
「重い物忌みもこれで終り…漸く俺は解放されたんだ!
どうだい、今から外へ出て、この一月あまりの憂さを晴らそうじゃないか!
暫くあんたの顔を見てないからな…じっくり拝んで、積る話をしたいものさ!」
これを聞いた彦六も、また軽率な男だったので、直ぐに誘いに応じた。
「もう大丈夫だ!
さ、早く出て来て、家に来いよ!」
そう言って戸に手を掛け、半分も開けない内に――
「ぎゃあっっ…!!」
――と、隣家の軒の辺りから、物凄い叫びが上った。
声に驚いた彦六は、思わず尻餅をついてしまった。
これは正太郎の身に何か有ったに違いないと、斧を引提げ外に出て見れば…
…正太郎が明けたと言った夜は未だ暗く、月は中天に在るものの、光は朧で、風は冷たく…そして正太郎の家の戸は開け放たれてて、主の姿は見えない。
中へ逃込んだのであろうかと、走り込んで見てみたが、隠れる場所も無い小さな住いだ。
ならば道に倒れているのだろうかと捜してみたが、近くには見当たる物とてない。
一体どうなったのであろうかと、彦六は怖気ながらも灯を翳して、あちこち見回った所……
……開いた戸口の側の壁に、生々しい血が流れかかって、地面に伝わっているのを見付けた。
だが死体も骨も見えない。
月明かりの中見ると、軒のつまに何か物が引っ掛っている。
灯を掲げて照らしたそこには――
――男の髪の髻(もとどり)だけがぶら下がっていて、その他には何一つ見当らなかった。
夜が明けて近くの野山を捜し求めたが、遂に正太郎の痕跡すら見付けられなかった。
仕方なくこの事を井沢の家へ言い送ると、涙ながらに香央家にも告げ知らされた。
陰陽師の占いと吉備津のお釜祓いの凶兆が外れなかった事実は、人々の口から驚きをもって伝えられ、後世の代まで語り継がれたそうだ。
…この話の何が恐いと言って、結末だろう。
死体は見当らず、月明かりの下、夥しい血と男の髻…所謂「まげ」だけが残されていた…
…その様を想像するだに身の毛もよだつ。
上田秋成はこの話を、「嫉妬深い女の性質の悪さ」を論う意味で書いたようだが…女の目から見ると、化けて出るのも仕方なしに思えるかもしれない。
とは言え、男も特に悪い性質の人間には思えない。
女が死んで気落ちする場面等、情の深さを感じられる。
相性の悪いのは如何ともし難し、という事かも知れない。
今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。
……有難う。
では気を付けて…夜道の途中、くれぐれも後ろを振り返らないように。
夜に鏡を覗く事もしてはいけない…。
今日は送り盆だったね。
ちゃんと送り出してあげたかい?
おや、してない?
……それはよくないね。
それじゃあ、背負ってるそれは、来年までそのままで居る積りかい?
ああいや…気にする程のものじゃないけどね。
それでは御機嫌よう。
今夜は悪い夢を見ないよう…祈っているよ。
『雨月物語(上田秋成 著)』より
*吉備津神社は岡山県に在る、古い歴史の有る神社。(→http://www.harenet.ne.jp/kibitujinja/)
あの桃太郎に所縁の場所でも在る。
みーさんのブログに、そこへ行った時の記事が載ってますよ。