瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第41話―

2007年08月22日 21時51分53秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
熱闘甲子園も遂に終焉を迎えてしまったね。
まさかの8回逆転劇には驚かせられたよ。

今年は九州勢が強かった。
育ちは東京でも、生れは九州な自分にとって、嬉しい限り。

高校球児達よ、お疲れ様。
また来年の夏に会おう。

…そうやって、行く夏を惜しみつつ、今夜も怪奇な宴を楽しもうじゃないか。

昨夜は邪悪な人魚の話をしたね。
今夜も引き続き、人魚の話をしよう。

但し、邪悪なのは、人魚ではない……



人魚は南の方の海にばかり住んでいるのではなく、北の海にも住んでいる。
或る時、北の冷たい海に住む一人の女の人魚が、岩に上って景色を眺めていた。

雲間から漏れた月の光が、寂しく波の上を照らしている。
どっちを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いていた。

何という、寂しい景色だろうと、人魚は思った。

自分は、人間とあまり姿が変らない。
魚や海底深くに棲む、気の荒い色々な獣等と較べたら、どれ程人間の方に、心も姿も似ているか知れない。
それだのに自分は魚や獣等と一緒に、冷たく暗い、気の滅入りそうな海中で暮さねばならないというのは、どうした事だろう。

長い年月の間、人魚は話をする相手も無く、何時も明るい海の表に憧れて暮して来た。
月が明るく照らす晩には、海の表に浮び岩の上で休んで、色々な空想に耽るのが常であった。

「人間の住んでいる町は、美しいと言う…
 人間は、魚よりも獣よりも、情けが深く優しいと聞いている。
 人魚は魚や獣の中に住んではいるが、むしろその姿にしろ心にしろ、人間の方に近い。
 ならば人間の中に入って暮せない事は無い筈…」

人魚は常々、そう考えていた。
所でその人魚の女は、身持であった。

「……私は、もう長い間、この寂しい、話をする者も無い、北の寒々とした海の中で暮して来た。
 けれど、これから産れる子供には、自分の様に哀しい、頼り無い思いはさせたくない…。
 子供から別れて、独り寂しく海の中で暮すというのは、想像するだに悲しい事だけれど、我が子が幸せに楽しく暮してくれたなら、母としてこの上ない喜び。
 人間は、この世界の中で、一番優しい生物だと聞いている。
 可哀想な者や頼り無い者は、決して虐めたり、苦しめたりする事は無いと聞いている。
 一旦手に懸けたなら、決して捨てないとも聞いている。
 幸い自分達種族は、胴から上は人間そのまま――魚や獣の世界で暮せる事を思えば、人間の世界で暮して行けない筈は無い…。」

或る晩、遂に人魚は陸で子供を産み落す決意を固め、冷たく暗い波間を泳いで行った。
遥か彼方、海岸の小高い山に在る神社の燈火が、ちらちらと揺れて見えていた。


海岸には小さな町が在った。
その中の一軒…お宮の在る山の下には、細々と蝋燭を商う店が在った。
店には年寄りの夫婦が住んでいて、爺さんが蝋燭を作り、それを婆さんが店で売っていた。
蝋燭は町の人や付近の漁師が、山の上のお宮へお参りする時用に、立寄って買って行く物だった。

山の上には松林が続いてい、お宮はその中に在った。
昼夜絶えず海の方から吹く風が、松の梢に当って轟々と鳴って聞えていた。
お宮には蝋燭の火影がちらちらと揺らめき、それは遠い海上からでも臨めた。

或る夜の事、婆さんは爺さんに向い、こう話した。

「私達が暮して行けるのも、皆神様のお蔭でしょう。
 この山にお宮が無かったら、蝋燭等売れやしなかったでしょうからね。
 私達は神様に感謝しなくてはいけません。
 それで私は、これから山を登り、お参りして来ようと考えているのです。」

「まったくお前の言う通りだ。
 私も毎日、心中では神様に礼を申しているが、つい用事にかまけて、お参りを怠りがち。
 良い所に気が付いてくれたよ。
 どうか私の分も、良くお礼を申して来ておくれ。」

爺さんも婆さんの話にいたく賛同し、こう頼んだ。
そんな訳で婆さんは、店を出て、とぼとぼと山道を登って行った。

月の綺麗な晩で、外は昼間の様に明るかった。

お宮へお参りした後、婆さんが山を下りて来る途中…石段の下で赤ん坊が泣いているのに気が付いた。

「可哀想に、誰がこんな所に捨てたのだろう。
 お参りの帰りに、こうして目に留まるのも、何かの縁。
 このまま見捨てて行っては、神様の罰が当る。
 きっとこれは神様が、私達夫婦に子供の無いのを知って、お授け下さったに違いない。
 帰ってお爺さんに相談して育てましょう。」

そう心中で考えた婆さんは、赤ん坊を取り上げ「おお、可哀想に、可哀想に」とあやしながら、家へ抱いて帰った。

家で婆さんの帰りを待っていた爺さんは、婆さんが抱いて連れて来た赤ん坊を見て、とても驚いた。
そして話を一部始終聞き終ると、爺さんも頷いてこう言った。

「それは、正しく神様がお授け下さった子だろう。
 大事に育てなければ、罰が当る。」

二人はその赤ん坊を育てる事に決め、体を包んでいた布を取って見ると…何とその子は胴から下の方が人間の姿でなく、魚の形をしていた。
二人は大層驚き…これは話に聞いた人魚に違いないと思った。

「これは、人間の子じゃない様だが……」

爺さんが頭を傾げて赤ん坊を見る。

「その様ですね。
 しかし人間の子でなくても、なんて優しい、可愛らしい顔の女の子でしょう。」

婆さんは気にもせず、目を細めた。

「何でも構わんさ。
 折角神様がお授け下さった子供だもの、大事に育てよう。
 きっと大きくなったら、利口な、良い子になるに違いない。」

爺さんもこう言って許した。

その日から、二人は女の子を大事に育てた。
大きくなるにつれ、黒目がちで、美しい髪の毛の、肌は薄紅色した、大人しく利口な娘に育って行った。


成長した娘は、自分の姿が他の人と違っている事を恥らい、外へ出ようとはしなかった。
けれど一目その娘を見た者は、皆あまりに美しい器量に魅せられ、どうにかしてその娘に会いたいと願い、蝋燭を買いに来る者まで現れた。
しかしその度に爺さんや婆さんは、こう断っていた。

「家の娘は内気で恥かしがりやの為、人様の前には出られないのです。」

奥の間では爺さんが、せっせと蝋燭を作っていた。
毎日忙しく立ち働く姿を見て…娘は自分が蝋燭に絵を描いたら、お客が喜んで買うのじゃないかと思い付き、それを爺さんに話した。

爺さんは娘の言葉を聞き、「なら、お前の好きな絵を試しに描いてみるがいい」と答え、蝋燭と赤い絵の具と筆を渡した。

娘は赤い絵の具で白い蝋燭に、魚や貝や水底でゆらゆら揺れる海草を、誰にも習ってないのに上手に描いてみせた。
それを見た爺さんは、大層驚いた。
蝋燭に描かれた絵には、一目見た途端欲しくなるような…そんな不思議な力と美しさが篭っていたからだ。

「上手い筈だ。
 人間ではない、人魚が描いたのだもの。」

爺さんは婆さんと、こう話し合った。

「絵を描いた蝋燭をおくれ」と言って、朝から晩まで、店にはひっきり無くお客がやって来た。

はたして、絵を描いた蝋燭は皆に受け、店は繁盛した。

更に不思議な事が起った。

この絵蝋燭を山の上のお宮に上げて、その燃えさしを身に着け海に出ると、どんな嵐の日でも、決して船が転覆したり、溺れ死ぬような災難が無いと、何時からともなく人々の間で噂が広がった。

「海の神様を祀ったお宮様だもの。
 綺麗な蝋燭を上げれば、神様だってお喜びなさるのだろう。」

町の人々はそう考えて得心した。

蝋燭屋では、蝋燭が売れるので、爺さんが朝から晩まで一生懸命蝋燭を作り、娘は側で手が痛くなるのも我慢して、赤い絵の具で絵を描き続けた。

「こんな人間並でない自分を、良く育てて可愛がって下さった御恩を忘れてはならない。」

娘はそう考え、黒い瞳を潤ませつつ、朝から晩まで一生懸命働いた。

不思議な蝋燭の噂は、遠くの村まで響いた。
遠方の船乗りや漁師も、神様に上った絵蝋燭の燃えさしを手に入れたくて、わざわざやって来たりした。
そして蝋燭を買って山に登り、お宮に参詣すると、蝋燭が燃えて短くなるまで待ち、またそれを戴いて帰るのが習いになった。
だから夜となく昼となく、山の上のお宮には、火の点いた蝋燭が絶えず燦然と並んでいた。
無数の燈火の光は殊に夜美しく、海上からも明るく光り輝いて見えた。

「本当に、有難い神様だ」という評判が世間に広がり、山のお宮は急に名高くなった。

神様の評判は高まったけど、しかし誰も、蝋燭に一心を篭めて絵を描いている娘の事を、思い遣る者は無かった。
娘は疲れた折、月の綺麗な夜には、窓から頭を出して、遠い北の海を恋しがり、涙ぐむ事も有った。


或る日、南方の国から、香具師がやって来た。

香具師は何処から聞き込んだのか…或いは正体を見抜いたのか…こっそり年寄り夫婦の所へやって来ると、「大金を出すから、あんたの家に居る珍しい人魚を売ってくれないか」と言って来たのである。

最初の内、年寄り夫婦は、「娘は神様から授けられた大事なもの、どうして売る事が出来よう。そんな事したら罰が当る」と承知しなかった。

しかし香具師は諦めず、二度、三度と、懲りずに何度もやって来た。
遂には年寄り夫婦に向い、実しやかにこう囁いた。

「昔から人魚は不吉な魔物として伝えられている。
 手元から離さないと、何時かきっと悪い事が起こるぞ。」

遂に年寄り夫婦は香具師の言葉を信じてしまった。
それに、積まれた大金に心を奪われ、娘を売る事を約束してしまったのだ。
香具師は大層喜び、何れその内娘を受取りに来ると言って帰った。

自分を売る約束をした事を、年寄り夫婦から告げられた娘は、心から驚き悲しんだ。
そして泣きながら年寄り夫婦に許しを乞うた。

「私はどんなにでも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売ったりなど、しないで下さい…!」

しかし最早鬼の様な心持になってしまった年寄り夫婦は、娘が何を言おうとも聞き入れてくれなかった。

娘は部屋の内に閉じ篭り、一心に蝋燭の絵を描き続けた。
しかし金に目の眩んだ年寄り夫婦は、その姿を見ても、意地らしいとも哀れとも感じなくなっていた。

月の明るい晩の事だ。

娘は独り波の音を聞きながら、身の行末を思い悲しんでいた。

波の音を聞いている内、ふと遠くの方で自分を呼んでいる声を耳にして、窓から外を覗いてみた。

けれどそこには誰も居らず、ただ暗い海上を月の光が果てしなく照らしているばかり。

娘はまた座って、黙々と絵を描き続けた。

するとその時、表の方で騒がしい音が聞えた。
何時かの香具師が、いよいよ娘を連れに来たのだ。
大きな鉄格子の嵌められた四角い箱を、車に載せて来ている。
人魚を、虎や獅子と同じ獣の如く、取り扱おうという気なのだ。

絵を描いている娘の元へ、爺さんと婆さんがやって来た。

「さあ、お前は行くのだよ!」

そう言って連れ出しにかかる。
二人に急き立てられた娘は、絵を描く事が出来ず、残っていた蝋燭を赤く塗潰して置いて行った。


穏やかな晩の事だ。

爺さんと婆さんは戸を閉めて寝ていた。

そこへ、とん、とん、とん、と、誰か戸を叩く者が在った。

「何方?」

耳聡くその音を聞き付けた婆さんが、横になったまま尋ねるも答えが無く、続いて、とん、とん、と戸が叩かれる。

婆さんは起上がると、戸を細く開け、覗いてみた。

すると、一人の色の白い女が、戸口に立っている。

女は蝋燭を買いに来たのだと告げた。

客である事が解った婆さんは、愛想笑いを浮べて女を店内に通し、蝋燭の箱を取出して女に見せた。

女の形を改めて確認した婆さんは驚いた。

女の長く黒い髪の毛は、雨も降っていないのに、びっしょり水に濡れ、月の光を受けて輝いていたのだ。

女は箱の中から真っ赤な蝋燭を取上げた。

そしてじっとそれに見入っていたが、やがて金を払うと、その赤い蝋燭を持って帰って行った。

灯火の下、婆さんが金を調べて見ると、それは貝殻であった。

騙された事を知り怒った婆さんは、直ぐに家を飛び出して追っ駆けたが…不思議にも女の影は既に見えず、辺りはしんと静まり返っていた。


その夜遅く、急に空模様が変り、近頃に無い大嵐となった。

丁度香具師が娘を檻に入れ、船に乗せて、南方の国目指し、沖に在った頃の事だ。

「この大嵐では、とてもあの船は助かるまい。」

爺さんと婆さんは、こう話し合い、ぶるぶる震えていた。


夜が明けると、沖は真っ暗で、物凄い景色が広がっていた。


その夜、難破した船は、数え切れない程だったらしい。


不思議な事に、その後、赤い蝋燭が山のお宮に点った晩は、どんなに天気が好くても、忽ち大嵐となった。

その為、赤い蝋燭は不吉と評判になった。

蝋燭屋の年寄り夫婦は、「神様の罰が当ったのだ」と言って、それ切り蝋燭屋を止めてしまった。

しかし何処からとも無く、誰がお宮に上げるものか、その後も度々赤い蝋燭が点された。
昔は、このお宮に上った絵蝋燭の燃えさしさえ持っていれば、決して海上で災難に遭わなかったというのに、赤い蝋燭を見た者は必ず災難に遭い、海に溺れて死んだのだった。

忽ちこの噂が世間に広まると、最早誰もこの山のお宮に参詣する者は居なくなった。

こうして昔あらたかであった神様は、今では町の鬼門となり…こんなお宮なぞ無ければいいのにと、人々は恨む様になった。
船乗りは沖から、お宮の在る山を眺めては、恐ろしがった。

夜になれば海上は荒れ狂い、どっちを見回しても、果てしなく高い波がうねうねと唸っている。
そして岩にぶつかり砕けては、白い泡が立上る。
雲間から漏れた月が、波の表を照らした時なぞは、真に気味悪い風情に思えた。

星も見えない真っ暗な雨降る晩に…波の上から…漂う燈火が…山の上のお宮を指して、段々高く登って行く様を見た者が在るそうな。


幾年も経たずして、その麓の町は滅び、無くなってしまったとの事だ。



…日本の創作童話の先駆け、小川未明の『赤いろうそくと人魚』を知る人は、多いだろう。
この話の何処が恐いって、元は親切だった年寄り夫婦が、欲に目が眩み、段々と鬼の様な心持に変化して行く過程だろう。
始めから悪人だった訳ではない点が、非常に恐ろしく、真に迫って思えるのだ。
近代の童話で、これ以上恐い作品を、自分はあまり知らない。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
心配しなくとも、見ての通りこの蝋燭は白い…大丈夫だよ。

……有難う。

それでは帰り道、気を付けて。
決して後ろは振り返らないように。
深夜、鏡を覗いてもいけないよ。

では、御機嫌よう。
また次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。



『新日本少年少女文学全集⑯――小川未明集―― (ポプラ社、刊)』より。
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異界百物語 ―第40話―

2007年08月21日 20時43分41秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
今夜も蒸し暑い…水仕事が楽しくて仕方ないだろう。

さて、昨夜に引き続き、今夜も水場に潜む魔物についての話だ。
貴殿は『マーメイド(人魚)』と呼ばれる生物を御存知かな?

…ああ、失礼…メジャーな存在だ、知らぬ人間の方が少ないだろう。
体の上半身は人間、下半身は魚。
半分は人間で在りながら、その性質は甚だ恐ろしいものも居るらしい。



普通人魚は海に住むと云われている。
しかし中には海から川を遡り、淡水の湖に姿を見せるものも居るのだとか。


スコットランド東部フォークシャーに暮す、ローンティー家の若い領主が遭遇したと伝えられている話――


或る日暮れの事、領主が召使を連れて狩から帰る途中、森の方から叫び声が上ったので、慌ててそちらへ馬を向けた。

ローンティーの屋敷より、南3マイル程先の森の中には、小さな湖が在る。

叫び声は、その湖の方から聞えて来た。

近付いて見れば金髪の美しい女が、湖に落ちて、もがいているのが見える。

彼女は領主を知っているらしく、「助けてローンティー!助けてローンティー!助けてローン……」と必死に叫ぶ。

遂には息絶えたかの様に、水中にその姿が消えて行った。

領主は急いで馬から飛び降り、飛び込んで助けようとしたが、召使の手で後ろから掴まえられ、湖から引き出された。

怒り狂う領主に向い、召使は大声で叫んだ。

「お待ち下さい、ローンティー様!
 お待ち下さい!
 叫んでいる女は、恐ろしい事に、正しくマーメイドです!」

驚いたローンティーが振返り、水面に浮んだ金色に輝く髪の毛をよく見れば、それは怪物の頭に生えている事が解った。

「お前の言う通りだ」と、召使に礼を述べ、領主は馬上に戻った。

湖から離れようとした時…人魚は半ば水の上に身を起こし、恐ろしい目で領主を睨みつけ、悪鬼の様な声でこう叫んだ。


「ローンティーよ、ローンティーよ!
 もしも召使が居なかったら、
 私はお前の心臓の血を、
 鍋でジュウジュウいわせたろうに!」



…古来より水場には、怪奇な話が多く残っている。
それは実際に水難事故が相次いだ事と、その為注意を促す意味も有って作られたからではないかと、自分は考えている。
これから海や川や湖やプールに行かれる予定の人は、どうか御用心召されるように。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

帰る際は忘れ物の無いように。
最近、多くて困っていてね。

夜道では、くれぐれも後ろを振り返らないように。
深夜、鏡も覗かないようにね。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。



『妖精Who,s Who(キャサリン・ブリッグズ 著、井村君江 訳、筑摩書房 刊)』より。
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異界百物語 ―第39話―

2007年08月20日 20時54分29秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
夏がまた戻って来た様な暑さだね。
我慢出来ず、水場に向う人も多いだろう。
しかし水場には魔物が多い…注意しないと引き摺り込まれるかも知れない。

今夜はそんな、水場に潜む怪奇の話だ。



中国晋の栄えていた頃、劉伯玉(りゅうはくぎょく)と言う名の男が居た。
彼の妻は頗る嫉妬深い女であった。
伯玉は女神『洛神』に憧れ、常に『洛神賦』を暗誦しては妻に語っていた。

「妻を娶るならば、洛神の様な女が欲しいものだ。」

それを聞いた妻は憤慨して言った。

「貴方は人間の私より、女神の方がお好きなのですね。
 けど、私とても女神になれない事はありませんよ。」


或る日妻は、河に身を投げ、死んでしまった。

それから七日目の夜…彼女は伯玉の夢の中に現れた。


「貴方は女神がお好きな様だから、私も女神になりました。」


目が醒めて、伯玉は覚った。
妻は自分を河へ連れ込もうとしていると。

そう考えた彼は、一生を終えるまで、河を渡ろうとしなかったそうだ。


嫉妬深い女が身を投げた河を、以来人々は『妬婦津(とふしん)』と呼んで恐れた。

美しく装った美女が渡ると、嫉妬深い女神の怒りに触れて、忽ち風波が起るからだ。
但し醜い女は幾ら化粧をし着飾って渡っても、女神が妬まないと見えて無事であったらしい。

そこでこの河を渡る時、風波の難に遭わない者は醜婦であるという事になってしまうので、どんな女もわざと衣服や化粧を崩して渡る様になったと云う。

中国の昔の諺に、こんなのが有るそうだ。


「良い嫁を貰おうと思ったら、妬婦津の渡し場に立って居ろ。
 渡る女の美しいか醜いかが、自然に判る。」


尚、妬婦津と言う渡し場は、山東省臨清(りんせい)県に在ると云われているらしい。



…女の虚栄心を突いた中々ブラックジョークの効いている伝説であろう。
この話は唐の時代に段成式(だんせいしき)と言う者が著した『西陽雑爼(せいようざっそ)』なる書物に出て来るとは、中国の怪奇譚に造詣の深い岡本綺堂の語る所。

事故で死ぬのは佳人、故意で死ぬのは「それなりの女」と言う事か…。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

さてと、お帰りの時間だ。
夜道ではくれぐれも背後を振り返らないように。
深夜、鏡を覗く事も厳禁だ。

では、御機嫌よう。
また次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。



『中国怪奇小説集(岡本綺堂 著、光文社時代小説文庫 刊)』より。



*洛神(らくしん)…中国魏の都洛陽付近を流れる川『洛水』の女神。『洛神賦(らくしんふ)』とは、魏の皇族にして文学者曹植(そうしょく)が、洛神の美しさを讃えた詩。洛神の別名は『雒嬪(らくひん)』・『宓妃(ふくひ)』。
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異界百物語 ―第38話―

2007年08月19日 21時24分55秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
もう皆さん、お集まりだよ。
さあさ何時もの席に座って、寛いでくれ給え。

所で貴殿は猫を飼った事が有るかい?
よく猫は神秘的な動物だと言われているが…闇夜に光るあの瞳を見てると然も在りなんと思えてくるね。
言葉を理解するとか、異界を見る事が出来るとか、死に目を見せないとか。
…これらの噂も、猫が醸してる神秘性から来るものだろう。

その上、今夜話す様な事も、よく伝えられているらしい。



明治26年、新潟市に住んでいた、渡辺さんが遇ったという件――


渡辺さんは猫が大好きで、家では5、6匹も飼っていた。
皆良く人の言う事を聞分ける利口な猫だったという。

或る日、その内のタマと言う雌猫が前足に怪我をして戻って来たが、次の日には姿を消し、何日か経っても帰って来ない。

死ぬ時は姿を隠すと言うから、何処ぞで死んでいるのではと案じていると、何日かしてひょっこり戻って来た。

足の怪我も治って元気になっている。

「すっかり元気になって良かったね。
 でもタマ、何処へ行っていたの?」

渡辺さんはタマを抱上げて言ったが、タマはニャアと返すだけ。


暫くして月岡温泉から、「宿泊料請求書」が届いた。

宛名は「渡辺タマコ様」――しかしそんな者は、家に居ない。

不審に思って宿に問い合わせてみた。

すると宿の人は、確かにその名前の女性客が、「請求はこの家に」と言って、宿泊したとの事だった。


「渡辺タマコ様は色白のとても綺麗な女の人で、何時も体ごとお湯には入らず、手だけ浸していました。」



…猫が人間に化けて湯治に行くという話は、何故か新潟の温泉地に多く残されているらしい。
昔から猫は、修行の名目で山に篭るとか。
その疲れを温泉で癒すのだと伝えられている。

…だとしたら姿を消したまま戻って来なくとも、そう悲観する事は無いだろう。
その内請求書と共に、ひょっこり帰って来るかもしれないから。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

夜道を帰る折、後ろは振り返らないように気を付けておくれよ。
そして深夜…決して鏡を覗かないように…。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に会えるのを、楽しみにしているよ…。



『異界からのサイン(松谷みよ子 著、筑摩書房 刊)』より。
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異界百物語 ―第37話―

2007年08月18日 21時50分33秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
関東では漸く雨が降って、気温が少し下がったね。
冷房無しで過せるのは久し振りだ。
しかしこういう、気温が大幅に変る時というのは、体調を崩し易い。
お互い注意した方がいいだろう。

所で日本には誠に多くの怪談が有る。
集めれば百と言わず、千も万も語る事が出来るだろう。
そしてその多くは、日本原産のものではない。
では何処の産かと問われれば…無論断定は出来かねるが、しかし実は殆どが中国伝来のものだそうで。
怪談だけでなく、実在上の人物伝にまで、中国発の物語は影響を及ぼしている。
その事実を強く言及したのは、明治~昭和初期に活躍した作家、岡本綺堂。
『半七捕物帳』、『修禅寺物語』の作者と紹介すれば、ああ知っていると頷かれる人は多いだろう。
氏は無類の怪談好きとしても有名で、数多く怪奇作品を著しても居る。
そして日本文学に多大なる影響を与えた中国怪奇小説を蒐集、選択し、後の世まで残した。

…前置きが長くて済まない。
今夜は岡本綺堂が残した中国怪奇小説の中から、1篇を紹介しよう。



昔中国汴(べん)州の西に「板橋(はんきょう)店」と言うのが在った。
店の女主人の名は「三娘子(さんじょうし)」――素性の知れない、三十歳あまりの独り者で、他には身内も奉公人も居ない様だった。
そんな事情に似合わず、家は甚だ富裕で在るらしく、ロバの類を多く飼っていて、往来の役人や旅人の車が故障した時等、それを牽く馬を廉く売ってやるので、世間でも感心な女だと評判だった。
主に食い物を売り、店内は幾間か設えられていた。
そんな訳で旅人の多くが此処で休んだり、泊ったりしたので、店は一層繁盛した。

或る時、許(きょ)州の「趙季和(ちょうきわ)」と言う旅客が、都へ行く途中、此処に宿を求めた。
趙よりも先に着いた客が六、七人、何れも榻(とう…寝台の意味)に腰を掛けて居たので、後から来た彼は一番奥の方の榻に就いた。
その隣は主人で在る、三娘子の居間で在った。
三娘子は客を手厚くもてなし、夜更けには酒を勧めて来たので、人々は喜んで呑んだ。
しかし趙は元来酒が呑めない性質だったので、酔いも無く騒ぐ事も無く、行儀良く控えていた。

夜の九~十一頃になると、皆は酔い疲れて眠りに就いてしまった。
三娘子も灯りを消すと、扉を閉じ、居間へ帰った。


他の客が皆熟睡して居る中、趙一人は眠られず、幾度か寝返りして居る内に――ふと主人の居る居間の方から、何かごそごそいう音が聞えて来た。

それは生物が動く様な音で、不審を感じた趙は、起上がり、隙間から伺った。

すると居間では、主人の三娘子が一枚の器を取出し、蝋燭の火で照らし視ている。

更に手箱の中から極小さな一具の鋤鍬と、極小さな一頭の木牛と、極小さな一個の木人形とを取出した。

それらをかまどの前に置き、水を含んで吹き掛けた途端、何と六、七寸程の木人形が動き出し、木牛を牽いて、鋤鍬でもって床の前の狭い地面を耕し始めた。

三娘子は更にまた、一袋の蕎麦の種を取出して木人形に与えると、彼はそれを地面に蒔いた。

するとその種は見る見る内に生長して花を着け、実を結んだ。

木人形はそれを刈って踏んで、忽ちに七、八升の蕎麦粉にした。

三娘子は更に極小さい臼を持出すと、木人形はそれを搗いて麺を作った。

作り終えると、彼女は木人形等を元の箱に収め、麺でもって焼餅(しょうべい)数枚を作った。


暫くして鶏の声が聞えると、他の客も起き出した。
三娘子は先に起きていて、灯を点すと、かの焼餅を朝の点心として、客に勧めた。
しかし趙は昨夜の事を思い起して不安を感じた為、何も食わず早々に出発しようとした。

彼が表へ出た振りして、戸の隙から窺っていると――他の客は焼餅を食い終らない内に、一斉に地を蹴っていなないた。


彼等は皆ロバに変ってしまったのである。


三娘子はそのロバを駆って家の後ろへ追い込み、彼等の路銀や荷物を悉く巻上げてしまった。

趙はそれを見て驚いたが、誰にも秘して洩らさなかった。


それから一月余の後、彼は都から帰る途中、再びこの板橋店へ差し掛かった。


実は此処へ着く前に、彼は予め蕎麦粉の焼餅を用意していた。
その大きさは、この店で出されて見た物と同様にしておいた。


趙が何気無い振りを装い店に入ると、三娘子は相変らず彼を歓待した。
その晩は他に客も居なかったので、主人はいよいよ彼を丁寧に取り扱った。

夜が更けてから、何か御用は無いかと尋ねられたので、趙は言った。

「明日の朝出発の時に、点心を頼みます……。」

「はい、はい。
 間違い無く……。
 どうぞごゆるりとお休み下さい。」

こう言うと、彼女は居間に引っ込んだ。

夜中に趙がそっと窺うと、彼女は先夜と同じ事を繰り返していた。


夜が明けると、彼女は果物と、焼餅数枚を皿に盛って、持って来た。

それから何かを取りに行った隙を見て――趙は自分の用意して来た焼餅を一枚取り出し、皿に有る焼餅一枚とすり替えて置いた。

そうして、三娘子を油断させる為に、自分の焼餅を食って見せたのである。


いざ出発という時に、彼は三娘子に言った。

「実は私も焼餅を持っています。
 一つ食べてみませんか?」

取出したのは、先だってすり替えて置いた、三娘子の餅である。


彼女は礼を言って口に入れると――忽ちにいなないてロバに変じた。


それは中々壮健な馬であったので、趙はそれに乗って出発した。

ついでにかの木人形と木牛も取って来たが、術を知らなかったので、それは用いる事が出来なかった。


趙はそのロバに乗って、四方を遍歴した。
馬は一度も誤り無く、一日に百里を歩んだ。


四年の後…彼が関に入り、華岳廟(かがくびょう)の東、五、六里の所まで来た時だ。

路端に立った一人の老人が、馬に乗った彼を目にした途端、手を打って笑った。

「板橋の三娘子、そんな姿になったか!」

老人は更に趙に向って言った。

「これにも罪は有りますが、貴方に逢っては堪らない。
 あまり可哀想ですから、もう赦してやって下さい。」

老人が両手でロバの口と鼻の辺りを開くと、三娘子は忽ち元の人の姿に戻った。

そして彼女は老人に向い拝んだ後、何処へか走り去ったのだった。



…これは唐の時代の書物、『幻異志(げんいし)』から採った話だそうだが、九州地方の昔話の中にも同様の話が在る。
また、『千夜一夜物語』の中にも、似た様な展開が出て来る。

人が動物に変化する…有得なくても不思議に妖しい話と思わないかい?


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

夜道を通る折には、絶対に後ろを振り返らないように…。
家に帰ってから深夜、鏡を覗いたりもしないように…。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に来られるのを、楽しみにしているからね…。



『中国怪奇小説集(岡本綺堂 著、光文社時代小説文庫 刊)』より。
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異界百物語 ―第36話―

2007年08月17日 21時29分03秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
漸く少し、風が涼しくなったかな…?
しかしまだまだ暑い。
今ジャスミンティーを淹れるから、待っていてくれ給え。

貴殿はこの夏、何処かへ出掛けたかい?
夏の行楽地は何処も芋を洗う様な混雑振り…敢えて外して、秋に出掛ける人も多いだろう。
…何れにしろ、慣れてない土地では、用心召された方がいい。
恐ろしい鬼と出くわすかもしれないからね。

今夜はそんな話だ。


昔、快庵禅師(かいあんぜんじ)と言う、徳の高い僧が居た。
幼少の頃から仏教の本質を明らかにし、常に諸国を行脚して修行に明け暮れていた。
そして或る年、美濃の国の龍泰寺(↓の注1参照)で夏安居(↓注2)を終えると、この秋は奥羽の方で暮そうと出立した。

旅を続けて下野に入り、富田と言う里(現、栃木県下都賀郡大平町)を訪れた頃、すっかり日が暮れてしまった。
そこで大きな構えの裕福そうな家に立寄り、一夜の宿を頼んだ。

すると丁度田畑から戻って来た男達が、夕闇の中に、破れた黒染めの衣を纏い、頭に青染めの頭巾を被った僧が立っているのを見て、怯えた様に「山の鬼が来たぞ!皆出て来い!!」と叫んで騒いだ。

途端に家の中でも大騒ぎになり、女子供の泣き叫ぶ声が響いた。
主人と思しき男が血相変え、天秤棒を手に自分の元へ走り出て来たのを見て、禅師は驚き言った。

「御主人、どういう訳で、こんなに用心して居られるのですか?
 拙僧は諸国を行脚の途中、今夜一晩の宿をお借りしようと、こうして参っただけ。
 よもやこんなに怪しまれるとは、思いも寄りませんでした。
 こんな痩せ法師に強盗を働く力等有りますまい。
 どうか怪しんで下さいますな。」

これを聞いた主人は棒を投げ捨て、気まずそうに笑って禅師に謝罪した。

「…これはこれは失礼を働きまして。
 下男共の愚かな見当違いから、お坊様を驚かせ申上げてしまいました。
 一晩おもてなしをして、この罪の償いを致しましょう。」

それから禅師を丁重に奥の間へ案内すると、気持ち良く食事を出してもてなした。
食事が済むと、主人は禅師に向い、先程の無礼の訳を語った。

「下男達がお坊様を見て、鬼が来たと恐れたのには、然るべき理由が有っての事です。

 …この里の上の山に、一つの寺院が御座います。
 元はこの地の豪族小山氏の菩提寺で、代々高僧が住職を為さって居られました。
 今の住職は何某殿の甥御様で、殊に学問も深く修行も積まれていると評判で、この国の人は香や蝋燭等のお供えを運んで、篤く信仰しておりました。
 私共の家にも時々お出でになり、大変打解けたお付合いをしておりましたが――去年の春の事です。
 
 越(北陸地方)の国へ灌頂(かんじょう)の儀式の戒師として招かれた折、百日余逗留なさった後、その国から十二、十三歳の少年を連れてお帰りになられ、身の回りの世話をさせられるようになりました。
 その少年の容貌は大層美しく、住職は深く御寵愛なされていた様でした。

 所が今年四月の頃、少年はふとした病で寝込み、立派な医師を招いての看護の甲斐も無く…とうとう死んでしまいました。
 少年を失くされた住職様の悲しみ様といったら、そりゃあもう酷いものでした。
 涙も涸れ果て、叫ぼうにも声が出ず…死を惜しむあまり、少年を火葬にする事も埋葬する事もせず、遺骸に頬擦りし、手を取って握り締める毎日。
 終いには気が狂って、生前と同じ様に愛撫しながら、腐り落ちる肉をしゃぶり骨を舐めする内に、とうとう全部食い尽してしまったのです。
 寺の人々が『院主様は鬼になってしまわれた』と、驚き慌てて逃出してしまった後は、夜毎に里に下って人を驚かし、或いは墓を暴いて生々しい死体の肉を喰らう有様は誠に鬼の如く。

 鬼という物、昔の物語には聞いて居りましたが…よもや人だった住職様が鬼になられるとは…まったく信じ難い心地で御座います。
 しかし一体どうやって、この行いを止めさせればよいものか。
 今ではどの家でも日没を限りに戸を堅く閉ざし…国中に噂が聞えてしまった為、人の往来もめっきり減ってしまいました。
 そういう事情が有りましたので、お坊様を鬼の住職と見誤ったのです。」

禅師は主人の話をじっと聞いた後で、こう語った。

「この世にはまったく不思議な事が起るもの。
 およそ人間と生れて、仏菩薩の広大な教えも知らず、愚かな心のまま死んで行く者は、その愛欲や邪な心の罪行に捕えられ、或る者は動物で在った前世の姿を現して生前の恨みを報い、或る者は鬼となり大蛇となって祟りを為すという例は、昔から今に至るまで数え切れない程沢山有ります。
 また、人間が生きたままで鬼となった例も耳にした事が有ります。
 隋の煬帝(ようだい)の或る臣下は、幼児の肉を好んで、こっそり庶民の幼児を盗み、蒸して食べたと聞きましたが…これなど浅ましい野蛮な心からした事で、御主人のお話になった件とは事情が違うでしょう。

 しかしその僧が鬼になったのも前世の因縁というもの。
 元来は修行に励み、人徳が優れていたと聞くに、少年を引取りさえしなければ、正しく立派な僧侶で在った事でしょう。
 しかし一度愛欲の世界に迷い込み、煩悩の炎が止め処無く燃上って身を苦しめた事により、遂に鬼と化してしまった…それもこれも素直な性質だった為。
 『心を緩めれば妖魔となるが、心を引締めれば仏となる』とは、この法師の例を言うのです。

 もし拙僧がこの鬼を教化(きょうげ)して、本来の心に導き戻せたらば、今夜のおもてなしのお返しになるでしょうか。」

禅師のこの申し出を聞き、主人は畳に頭を擦り付けて喜んだ。

「なんと有難いお申し出…!
 もしお坊様がそれを成就なさいますれば、この国に住む者は、皆平穏な暮しを取戻す事が出来ましょう!
 何卒、お願い致します…!」


明くる日の夕刻、禅師は件の山寺に歩み入った。

長い事人の手の入れられてない寺は、誠に酷い荒れ様で、楼門には茨が覆い被さり、経間にはいたずらに苔が生えている。
蜘蛛の巣が仏像と仏像を繋ぎ、護摩壇は燕の糞で埋められていた。
禅師は錫杖を鳴らして「諸国遍歴の僧ですが、今宵一夜の宿をお貸りしたい」と何度も叫んだが、一向に返事が無い。

暫くして…寺院の一室より、痩せこけた僧がよろよろと歩み出て来て、しわがれた声で言った。

「御坊はどちらへ参ろうとして、此処を訪れたのか?
 この寺は或る事情が有ってこの様に荒れ果て、一粒の米も無く、よって一晩お泊めする用意は御座らん。
 早く里へ下りろ。」

これを聞いた禅師は怯む事無く、こう返した。

「私は美濃の国を出て、陸奥へ行く旅の途中でしたが、麓の里を通り掛った折、山の姿、水の流れの妙なる有様に誘われて、思いがけず此処まで参りました。
 日も暮れかかっておりますので、里まで下るのも遠い道程です。
 是非とも一夜の宿をお貸りしたい。」

それを聞いた主の僧は、「こんな荒野に居ては碌な目に遭わんぞ…それでも居たいと言うなら、好きにするがいい」と言ったきり、奥の間に引っ込んでしまった。

禅師も一言も問い掛ける事無く、寺に上ると適当な場所に坐った。


みるみる内に日は沈み、灯を点さない室は目の前さえはっきり見えず、ただ谷川の水音だけが、直ぐ近くに聞える。

僧が居る筈の奥の室では、物音一つしない。


夜が更けて、宵闇は月夜に変った。

月光は清らかに美しく輝き、禅師の坐る間の隅々まで、皓々と照らし出す。

子の一刻(午前零時頃)と思われる頃――俄かに奥の間から主の僧が出て来て、慌しく何かを探し始めた。


「くそ坊主め、何処へ隠れたのか!?
 確かこの辺りに居た筈だが…!!」


恐ろしげな声を張上げ、禅師の前を何度も走り過ぎる。

本堂の方へ駆けて行くかと思えば、庭を走り回って踊り狂い、とうとう疲れたのか、倒れ伏して起上がらなくなった。


夜が明けて朝日が射し始めた頃…主の僧は酒の酔いから醒めたかの如く起上がり、禅師が元の場所に坐って居るのを見ると、呆然として物も言えないくらい驚いた様であった。

そうして柱に凭れ溜息を吐き、押し黙ったまま座り込んで居る。

禅師は近くに進み寄って、声を掛けた。

「院主殿、何をお嘆きなされるのですか?
 もしひもじくて居られるのならば、拙僧の肉で腹を満たして下され。」

これを聞いた主の僧は、「師は一晩中そこに坐って居られたのか?」と尋ねた。

禅師が「はい、此処に居て、一睡もせずに、院主殿を見て居りました」と答える。

主の僧はこれを聞くと、項垂れて話した。

「私は浅ましくも人の肉を好んで食べて来ました。
 しかし未だ僧侶の肉の味は知らず…そう考え、昨夜は師を捕まえ、食おうとしました。
 それが、どうしても、その姿が見えない。
 師は正しく生き仏…私の様な鬼畜生の愚かな眼では、見ようとしても見えないのが、当然で御座いました…。」

そう話したきり、口を噤む。

禅師は主の僧に向い、静かに語り掛けた。

「里人から聞いた話では、お前は一度愛欲に心乱れてからというもの、忽ちにして畜生道に落ちたとか。
 その様浅ましくも哀れであり、前例聞いた事の無い程の悪因縁である。
 お前が夜毎に里に下りて、人に危害を加える為に、里人達は心の休まる折が無い。
 私はこれを聞いて、見過ごす事が出来なかったのだ。
 お前が私の教えを聞くと言うなら、私はお前を教化し、人の心に立ち返らせようと思うが、どうか?」

これを聞いた僧は、禅師を拝み、涙ながらに頼んだ。

「なんと尊きお言葉か…!
 どうか、この様に浅ましい悪行を、直ぐにでも止める道理を、お教え戴きたい!」

禅師は僧の言葉を聞くと、「ならば此処へ来るがよい」と言って、僧を縁の前の平らな石の上に坐らせ、自身が被っていた青染めの頭巾を脱ぎ、僧の頭に被せたのだった。


「『江月照らし、松風吹く
 永夜清宵、何の所為ぞ(注3)』

 …お前は此処から動かずに、じっくりとこの句の真意を考えてみるがよい。
 真意が理解出来た時は、自ずと、本来お前に備わっている仏心を、探し当てる事が出来るだろう。」


僧にこの様な有難い禅宗の教えを説く証導歌二句を授けた後、禅師は山を下りて再び旅立った。


一年が過ぎて翌年の十月初旬――

禅師は奥州路の帰りに再び件の山里を通り、あの一夜の宿の主人の家に立寄ると、山寺の僧の消息を尋ねた。

主人は喜んで禅師を向え、心から礼を述べた。

「お坊様の高徳のお蔭で鬼は二度と山を下りて参る事も無くなり、里の人間は誰も彼も安楽な暮しを取戻した心地で御座います。
 …しかし山に行く事は皆恐ろしがり、一人として登る者は無く、ですから消息は存じませんが……恐らくは亡くなったものと思われます。
 良い機会ですので、今夜あの僧の菩提を、お弔い戴けますでしょうか?
 さすれば皆々回向致しましょう。」

主人の頼みを聞き、禅師はこう答えた。

「もし彼が善行の報いとして往生したとすれば、私にとって仏の道の先輩、師とも言えましょう。
 また生きて居る場合には、私にとって一人の弟子です。
 何れにしても消息を見届けない訳には参りません。」

そうして、再び山を登った。


寺までの道は、成る程人の行き来が絶えたと見えて、踏み分けて通った跡が無い。

寺に入って見れば、萩や薄が人の背丈よりも高く生い繁り、草木には露がまるで時雨の様に降り掛かっている。
通路さえ見分けがつかない中で、本堂や経間の戸は左右に打ち倒れ、方丈(寺の居間)や庫裏を廻る廻廊も、朽ちた箇所が雨で湿り、苔が生えていた。

さて、あの僧を坐らせておいた縁の辺りを探すと、影の様に痩せて髭や髪をぼうぼうに乱れさせた人物が、絡み合う雑草の中、蚊の鳴く様な声で、ぼそぼそと何事か唱えている。


「江月照らし、松風吹く
 永夜清宵、何の所為ぞ」


禅師はこれを耳にすると、直ぐに錫杖を構え、「如何に、何の所為ぞ!(いかに、どうだ!)」と一喝し、僧の頭を打った。


すると忽ち僧の姿は日に照らされ融ける氷の様に消え失せ、後には禅師が被せた青頭巾と骨だけが、草葉の上に残っていた。

長い間の執念、此処に尽きたのである。


かくして主を失った山寺は、集まった里人達の手で清掃、修繕され、新しい住職には禅師を推し戴き、元の真言宗を改め、曹洞宗の霊場として開かれた。

そして今も尚、この寺は尊く栄えているという事だ。



…この話の実に興味深い点は、「鬼」が元々「人間」で在ったと語っている事だろう。
執念は人を鬼に変える。

幽霊も鬼も…化物の元は「人間」であると考えるなら…
姿を変えて尚、人の悪意や執念を抱き続けてるとしたら…

…それは確かに恐ろしい事だろう。
 

今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれるかい。

……有難う。

では気を付けて、帰ってくれ給え。

…くれぐれも…帰る途中で後ろを振り返らないように。
深夜、鏡を覗いてもいけないよ。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。



『雨月物語(上田秋成 著)』より



注1…現、岐阜県関市に在る曹洞宗の寺院、『祥雲山竜泰寺』。尚、話の主役で在る快庵禅師は実在人物らしい。
→http://www15.ocn.ne.jp/~akatsuki/ryutaiji/index.html
注2…げあんご…夏の90日間、1室に閉じ篭る修行。
注3…「江月(かうげつ)照らし、松風(しょうふう)吹く。永夜清宵(えいやせいせう)、何の所為ぞ。」…「訳:済んだ月光が入り江を照らし、松を吹く風が梢を照らしている。この長い夜の清らかな景色は、何の為に存在するのか?」→「いや天然自然の営みは、何ものの為でもない」と言う意を含んだ、自ずから否定を呼ぶ問い。
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異界百物語 ―第35話―

2007年08月16日 21時59分34秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
今夜はミントティーを用意しておいたよ。
飲めばすっきり、一服の清涼感を味わえるだろう。

さてと…『怪談』と言えば、小泉八雲作品と並び、有名な物が有るね。
江戸期の小説家、上田秋成の著した怪談集『雨月物語』――

――中でも最も恐いと思える話を、今夜はお話したいと思う。



昔々、吉備の国の賀夜(かや)の郡、庭妹(にいせ)の里(現、岡山県庭瀬)に、井沢庄太夫と言う人が居た。
祖父の代まで播磨の豪族に仕えていたが、戦を機にこの土地へ流れて来て、以来庄太夫に至るまで三代の間、田畑を耕し裕福に暮していた。

所で庄太夫の一人息子に『正太郎』と言う者が居たが、野良仕事を嫌い、酒色に耽って、だらしがない事この上なかった。
この様を親として心配した庄太夫と妻は、密かに相談し合った末、「良家の器量の良い娘と結婚させたら、息子の気持ちも自然と修まるだろう」と考え、国中隈なく探し求めた。
そこへ幸い或る人が「吉備津神社の神主の香央造酒(かさだみき)の娘は、家柄も器量も申し分の無い女です。もしも貴方が縁組を望まれるのでしたら、私が仲立ち致しましょう」と庄太夫に言って来た。
そして直ぐさま香央家へ行って話をすると、香央の方でも丁度娘の良縁を考えていた所だったとの事で、とんとん拍子に婚約は成立し、結納を済ませた後、吉日を選んで結婚式を挙げる運びとなった。
式の前に縁起を担ぐ意味から、香央家では巫女や神官達を集めて、御湯を奉る神事を行った。

そもそもこの吉備津神社と言う所、数々の供え物をし、神前の釜で湯を焚いて、吉兆か凶兆かを占う神社なのである。
吉兆の場合、沸き立った釜は、牛が吠える如く大きな音を立てる。
しかし凶兆の場合、釜は音を立てない。
これが世に言う『吉備津の御釜祓』だ。(現在でも『釜鳴りの神事』と呼ばれ、行われている)

さて、神事を執り行った結果……どうした訳か、釜は音を立てない。

秋の虫が草むらで奏でる程の音さえ聞えて来ない。

不気味に静まる釜を不審に感じた香央は、この凶兆を妻に話して縁組は考え直した方が良いのではと相談した。
しかし妻は全く気にも懸けず、「釜が音を立てなかったのは、神官達の身が穢れていたからでしょう。既に結納を済ませておきながら翻意しては、相手の家に失礼です。娘だって自分の婿となる人の容貌が美しい事を漏れ聞いて、結婚の日を待ち侘びているというのに…取止めたら、どんなにがっかりすることか」と、言葉尽くして夫を説得した。
香央としても元々願っていた縁組である。
妻の説得に深く考えるのは止め、つつがなく結婚の準備を整える事にした。

そうして井沢の一人息子「正太郎」と、香央の娘「磯良」は、夫婦となった。

井沢の家に嫁いでからというもの、磯良は朝な昼なに甲斐甲斐しく家事をこなし、夫である正太郎に真心篭めて仕えたので、井沢の父母は大層感激し、正太郎もまた妻の健気さにほだされ、暫くは睦まじく暮していた。
しかし生来の浮気性は如何ともし難い。
何時の頃からか正太郎は、鞆(とも)の津(現、広島県福山市付近)の「袖」と言う遊女と恋仲になり、身請けまでして、近くの里に別宅を構え、そこで何日も過すようになった。
磯良はひたすら夫の浮気心を嘆き恨んで、舅姑の怒りにかこつけ諌めたりもしたけれど、正太郎は上の空で聞き流して態度を改める事は無かった。
正太郎の父は磯良の意地らしい振舞いを見かね、遂に正太郎を激しく叱責した末、一間に閉じ込めてしまった。
夫の浮気心を恨んでいた磯良も、これには悲しむばかり
磯良は尚甲斐甲斐しく夫に仕え、又、先方の袖の元へも、密かに物を届ける等して、真心の限りを尽くした。
或る日、父の庄太夫が不在の折、正太郎は磯良に向って、しみじみと話した。

「そなたの真心に感じ、私も今ではすっかり改心している。
 袖とは手を切り、またそなたとやり直したいと考えているのだ。
 …ただ、あの女には身寄りが無い。
 私に捨てられたら、きっと元の浅ましい境遇に戻ってしまうだろう。
 それはあまりに不憫というもの…せめて手当てを充分渡して、都に上らせてやりたい。
 都ならば身分の有る人に仕える機会も出来るだろうと思うのでな。
 だが、私はこの通り押込められてて、路銀等を用意してやれん。
 そなたに頼むのは気がひけるが…どうかあれを可哀想に思って、金を工面し、与えてやってくれないか。」

この言葉を聞いた磯良は大層喜び、快く請負うと、自分の着物や道具を売って金を作り、更に自分の母親に嘘まで吐いて金を借り、正太郎に渡してやった。

所が正太郎は金を手にすると、こっそり家を抜け出し、袖を連れて逃げてしまったのだ。
あまりに惨い裏切りに、磯良は狂おしい程嘆き恨み…とうとう重い病に臥してしまった。
井沢・香央両家の人々は、磯良に心から同情して、手を尽くしたけれども、粥さえ喉を通らなくなり、遂には望みの無い有様となった。


一方、正太郎と袖は印南郡荒井の里(現、兵庫県高砂市)に居る、袖の従兄弟の彦六と言う男の住いを訪ね、勧められるままに逗留していた。
彦六の方では友達が出来た事を喜び、自分の家の隣のあばら家を借りて、二人を住まわせたのだった。

所が暫くして…袖が病の床に臥せった。
最初は風邪だろうと言っていたのが、どんどんどんどん苦しみを募らせ、まるで物の怪に取り憑かれたかの如く狂おしい様子を見せる。
正太郎は己の食事すら忘れて必死に介抱したが、袖はただ声を上げて泣くばかり。
胸が締付けられて耐え難そうに苦悶するかと思えば、正気に戻り平生と変らない状態になる。
あまりの怪しさに、これはひょっとして故郷に捨てて来た妻の祟りではと、正太郎は恐れを口にした。
しかしその言葉を聞いた彦六は、「そんな馬鹿な事が有るものか。ただ熱にうなされてるだけで…下がれば正気に戻るさ」と、笑って取り合わなかった。

そうこう言ってる内に、看病の効き目も無く、七日苦しんだ末、袖は亡くなってしまった。
酷く嘆き悲しむ正太郎を、彦六は色々と慰め、遺骸をそのままにしておく訳にいかないからと、荒野で火葬し塚を作って埋めた後、僧を頼んで袖の菩提を手厚く弔ったのであった。

最愛の女を失った悲しみに、正太郎は昼の間は独り物思いに打ち臥して、夕暮れ時には墓に詣でるという日々を過した。
季節は秋で、墓地に生い茂る雑草の間から聞えて来る虫の声が、物悲しく胸に迫る。
侘しい思いに耽り、薄らぼんやり眺めていた墓の側…ふと、並んで新しい塚が在る事に気付いた。
塚の前では一人の若い女が、如何にも悲しそうに、花を手向けたり、水を注いだりしている。

「ああ、お気の毒に。…貴女もうら若くして最愛の方を亡くしたのですね」と、正太郎が声を掛けると、女は振り返り、さめざめと泣きながら言った。

「ええ、貴方様も……
 …私は夕暮れ毎にお参り致して居りますが、そうすると、必ず貴方様が、先にお参りなされてる姿をお見掛けします。
 …大事な方とお別れになったので御座いましょうね。
 御心中、誠にお察し致します。」

女の言葉を聞き、正太郎はこう返した。

「その通りです。
 十日程前、愛しい妻を亡くして以来…此処にお参りする事だけを、せめてもの慰めにしているのです。
 貴女もきっと、その様な御事情がお有りなのでしょう?」

女は正太郎の言葉に、こう返した。

「このお墓は私の御主人様の物で、しかじかの日に此処に埋葬申し上げました。
 御主人様と別れた奥様は、酷くお嘆きになるあまり、近頃重い御病気におなりになりましたので…こうして私がお代わり申し上げて、香花をお供えしております。」

正太郎は女に向い、重ねて訊いた。

「奥方様が御病気になられるのも、ごもっともです。
 失礼ですが故人はどんなお方で、どちらに住んでいらっしゃったのですか?」

女は、こう答えた。

「お仕えして居りました御主人様は、この国では由緒有る家柄のお方でいらっしゃったのですが、他人の讒言により領地を失い、今ではこの野原の片隅にひっそりと住いしております。
 奥様は隣国にまでも知られたお美しい御方。
 …実は御主人様が家や領地を失ったのは、奥方様の美しさに原因が有るのです。」

正太郎はこの話に興味を引かれ、こう申し出た。

「それで、その奥方様がお暮らしになられてるのは、この近くなのでしょうか?
 同じ悲しみを持つ者同士…話も合うだろうと存じます。
 宜しければお訪ね申し上げて、お慰め差上げましょう。」

女は正太郎の申し出に、快く了承の言葉を述べた。

「家は貴方様がお出でになられた道から、少し脇道に入った所に在ります。
 心細く日々を送られてます故、さぞお喜びになられるでしょう。
 どうぞ私と一緒に参られて下さいませ。」

そう言うと、女は先に立ち、歩いて行った。


二丁程来ると、細い横道が現れた。
そこからまた一丁程歩いて、薄暗い林の裏手に出ると、小さな茅葺の家が建っているのが見えた。

粗末な竹の扉が侘しく、上弦の月の光が明るく射し込んだ狭い庭は、酷く荒れて思える。
窓の障子紙から、か細く漏れる灯の光が物寂しい。

家の前まで来た所で、女は正太郎に「此処でお待ち下さい」と告げると、中へ入って行った。

苔生した古井戸の側に立ち、女が戻るのを待った。
襖が少し開いた隙間から、中の様子を覗くと、揺らめく灯の光の中、黒塗りの棚が煌いて見えた。

と、そこへ女が戻って来た。

「奥方様に御訪問の事を申し上げました所、『お入り下さい。物越しにお話申し上げましょう』と仰って、端の方へいざり出ていらっしゃいます。
 あちらへお入り下さい。」

そう言って、正太郎を案内する。

庭の植込みを廻って奥の方に入ると、二間続きの客間に低い屏風を立て回して在る。
屏風の陰からは夜具の端が食み出ていて、どうやら女主人はそこに居ると思われた。

正太郎は屏風に向い、労わる調子で話し掛けた。

「御不幸な御身の上に加えて、御病気にまで罹られたと伺いました。
 私も愛しい妻を亡くしたばかり…とても他人事とは思えませぬ。
 これも何かの御縁、宜しければ悲しみを語り合って、お慰め申し上げようと、無理を承知で参上致しました。」

すると中から、女主人が屏風を少し押し開けて――


「珍しくもお目にかかった事…
 つれない仕打ちの報いの程を、思い知らせてあげましょう…!」


――と恨みがましく言うその声に驚きよく見れば、なんとそれは故郷に残して来た磯良であった。

顔色は酷く蒼褪め、弛んだ眼は凄まじく、自分の方に差し出した手は、骨にも似て痩せ細り…

あまりの恐ろしさに、正太郎は「あっっ!」と一声叫び、気絶してしまった。


暫く経って息を吹き返し…おっかなびっくり目を開けて見れば…家だと思って入ったそれは、荒野に建っていたお堂で、目の前には黒い仏像だけが立っていた。


遠くの里の犬の鳴声を頼りにひた走り、家に帰ると彦六に遭った事を話した。

しかし彦六は、笑って取合わなかった。

「なあに、狐にでも化かされたのさ。
 沈んで気弱になった人間を、奴等は直ぐ、からかおうとするからね。」

それでも彦六は、袖が亡くなってから、すっかり気落ちしてる正太郎の心を落着かせてやろうと、刀田の里(現、兵庫県加古川市)に居る、評判の陰陽師を紹介してやった。
正太郎は彦六と共に、その陰陽師の所へ出向き、遭った一部始終を詳しく話した。
すると陰陽師は占った後で、非常に難しい顔して正太郎に向い、話して聞かせた。

「災いは既に貴方の身に迫っている。
 前に怨霊は貴方の傍に居た女の命を奪ったが、恨みは未だ尽きておらん。
 貴方の命も、このままでは後僅かだ。
 この怨霊が世を去ったのは七日前の事だから、今日から四十二日の間は、戸を堅く閉じて、重い物忌みに篭りなさい。
 私の戒めを守れば、或いは九死に一生を得るかも知れない。
 だがしかし…ほんの少しでも私の戒めを破ったなら、災いから逃れる事は出来ないだろう。」

そう話した陰陽師は、筆を取り、正太郎の背中から手足に至るまで、魔除の呪いを書いた。
更に朱符を数多紙に記して与え、彼によくよく注意して与えた。

「このお札を全ての戸に貼り付けて、神仏に祈りなさい。
 油断して身を滅ぼす事の無いように。」

正太郎と彦六は有難く受取って家に帰り、言われた通り朱のお札を戸口に貼り、窓に貼って、じっと家に篭った。


その日の真夜中……恐ろしい声が、外で聞えた。


「ああ、憎らしい…
 此処に尊いお札を貼ってある…」


そう呟いたきり…物音は全くしなかった。

恐ろしさのあまり、まんじりともせずに夜を過し、明けるや否や壁を叩いて、隣家の彦六に昨夜の事を語った。
話を聞いた彦六は、初めて恐怖を覚え、次の夜は己も寝ないで事を待った。


松の梢を渡る風は木を吹き倒さんばかりに激しく、雨まで降ってただならぬ妖気漂う夜に、二人は壁越しに声を掛け合い気持ちを奮い立てた。


――午前二時頃の事だ。


正太郎の家の窓の障子に、さっと赤い光が射し、「ああ、憎らしい。此処にも貼ったとは…!」と言う、恐ろしい声が聞えた。


身の毛もよだつ思いに、耳にした二人は、暫く気を失ってしまった。


夜が明けて前夜の有様を話し、日が暮れれば夜明けを待ちかね………こうした繰返しが日々続いた。

怨霊は毎晩家の周りを廻り、或いは屋根の上で叫んだりして、その怒りの声は夜を重ねる毎に凄まじくなって行った。

あまりの恐ろしさに、二人は秋の夜長を、心底嘆いた。


しかしとうとう四十二日目の、最後の夜を迎えた。


この一夜で漸く怨霊から解放されるのだと思った正太郎は、殊更重く慎んでいた。

やがて午前四時頃になって、空も次第に白んで来た。
正太郎は長い夢から覚めた心地となり、壁を叩いて隣家の彦六を呼んだ。

彦六も壁に耳をそばだて、「無事かい…?」と応える。

正太郎は喜びを隠し切れずに叫んだ。

「重い物忌みもこれで終り…漸く俺は解放されたんだ!
 どうだい、今から外へ出て、この一月あまりの憂さを晴らそうじゃないか!
 暫くあんたの顔を見てないからな…じっくり拝んで、積る話をしたいものさ!」

これを聞いた彦六も、また軽率な男だったので、直ぐに誘いに応じた。

「もう大丈夫だ!
 さ、早く出て来て、家に来いよ!」

そう言って戸に手を掛け、半分も開けない内に――


「ぎゃあっっ…!!」


――と、隣家の軒の辺りから、物凄い叫びが上った。


声に驚いた彦六は、思わず尻餅をついてしまった。

これは正太郎の身に何か有ったに違いないと、斧を引提げ外に出て見れば…


…正太郎が明けたと言った夜は未だ暗く、月は中天に在るものの、光は朧で、風は冷たく…そして正太郎の家の戸は開け放たれてて、主の姿は見えない。


中へ逃込んだのであろうかと、走り込んで見てみたが、隠れる場所も無い小さな住いだ。

ならば道に倒れているのだろうかと捜してみたが、近くには見当たる物とてない。


一体どうなったのであろうかと、彦六は怖気ながらも灯を翳して、あちこち見回った所……

……開いた戸口の側の壁に、生々しい血が流れかかって、地面に伝わっているのを見付けた。

だが死体も骨も見えない。

月明かりの中見ると、軒のつまに何か物が引っ掛っている。

灯を掲げて照らしたそこには――


――男の髪の髻(もとどり)だけがぶら下がっていて、その他には何一つ見当らなかった。


夜が明けて近くの野山を捜し求めたが、遂に正太郎の痕跡すら見付けられなかった。
仕方なくこの事を井沢の家へ言い送ると、涙ながらに香央家にも告げ知らされた。


陰陽師の占いと吉備津のお釜祓いの凶兆が外れなかった事実は、人々の口から驚きをもって伝えられ、後世の代まで語り継がれたそうだ。



…この話の何が恐いと言って、結末だろう。
死体は見当らず、月明かりの下、夥しい血と男の髻…所謂「まげ」だけが残されていた…
…その様を想像するだに身の毛もよだつ。

上田秋成はこの話を、「嫉妬深い女の性質の悪さ」を論う意味で書いたようだが…女の目から見ると、化けて出るのも仕方なしに思えるかもしれない。
とは言え、男も特に悪い性質の人間には思えない。
女が死んで気落ちする場面等、情の深さを感じられる。
相性の悪いのは如何ともし難し、という事かも知れない。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。

……有難う。

では気を付けて…夜道の途中、くれぐれも後ろを振り返らないように。
夜に鏡を覗く事もしてはいけない…。

今日は送り盆だったね。
ちゃんと送り出してあげたかい?
おや、してない?
……それはよくないね。
それじゃあ、背負ってるそれは、来年までそのままで居る積りかい?
ああいや…気にする程のものじゃないけどね。

それでは御機嫌よう。
今夜は悪い夢を見ないよう…祈っているよ。



『雨月物語(上田秋成 著)』より



*吉備津神社は岡山県に在る、古い歴史の有る神社。(→http://www.harenet.ne.jp/kibitujinja/)
あの桃太郎に所縁の場所でも在る。
みーさんのブログに、そこへ行った時の記事が載ってますよ。
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異界百物語 ―第34話―

2007年08月15日 21時09分14秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
毎晩暑苦しいね。
暑気払いには、冷たい飲物を飲みながら、怪談話をするに限る。
今夜はレモンバームティーを用意してあるよ。
さあ、席に着いて…今、持って行くからね。

今夜は旧盆…懐かしい人達と過す、最後の夜だ。
そんな夜に相応しい話を、語らせて貰うよ。



京都に、一人の若侍が居たが、主君の没落の為貧乏になり、已む無く家を離れて、遠国の国守に仕える事になった。
都を去る前に、この侍は妻を離別した。

――善良で美しい女だったが、侍は別な縁組によって、もっと立身が出来ると信じたからである。

こうして彼は、或る身分の高い家柄の娘を妻に迎え、自分の任地へ連れて行った。


しかしこの侍が、愛情の価値等解らずに、こんなに無造作に捨て去ったのは、未だ若気の無分別な時代であり、辛く貧しい経験をしていたからの事だった。


彼の二度目の結婚は、幸福なものではなかった。
新しい妻の性質は、頑なで我侭だった。
間も無く彼は、何かにつけて京都時代の事を思い出し、悔恨の情に駆られた。

やがて彼は、自分が今も尚、最初の妻を愛している事――二度目の妻よりも、ずっと彼女を愛している事に気が付いた。

そして、自分がどんなに非道で、どんなに恩知らずで在ったかを、感ずるようになった。
遺憾の念は次第に深まって、悔恨の情となり、心の休まる時は無かった。

彼がつれなくした女の思い出――あの優しい話し振り、あの笑顔、上品で感じの良い物腰、この上無い辛抱強さ等が、絶えず心に付き纏って離れなかった。

時折夢の中で、あの幾年もの貧乏暮しの間、夜も昼も働いて自分を助けてくれた時と同じ様に、織機(はた)を織って居る彼女の姿を見た。
が、もっとしばしば見たのは、自分が捨てて来た人気の無い小さな部屋に、彼女が独りしょんぼり坐って、哀れにも破れた袖で、涙を隠している姿であった。
公の務めに出ている時でさえ、彼の思いは、つい彼女の元に彷徨って行きがちで、そういう時には、よくあれはどうして暮し、何をして居るだろうかと、我と我が胸に尋ねてみるのであった。
しかし心の中では、何とはなしに、あれが他に夫を持つ筈は無い、また、自分を許してくれない事は決してなかろうと、思われてならなかった。

それで彼は、京都に帰れるようになったら、直ぐに彼女を探し出そう――それから彼女の許しを乞うて連れ戻し、罪滅ぼしに男として出来るだけの事をしてやろう、と心密かに決心した。


しかし、幾年かは過ぎ去った。


とうとう、主君である国守の任期が満ちて、この侍も自由な身となった。

「さあ、愛しいあれの所へ、帰って行くのだ」と、彼は自分に誓う様に言った。

「ああ、あれを離別した事は、なんという無情な――なんという愚かな事だったろう。」

二度目の妻との間に子供が無かった事を幸いに、彼はその女を親元へ送り返すと、急いで京都へ帰り、旅装を改める暇さえ惜しんで、直ぐさま以前の連れ合いを探しにかかった。


彼女の住まっていた町に着いた時には、夜も更けていた。


――九月十日の夜だった。


都は、墓場の様にひっそりしていた。

しかし、冴えた月が一切の物をはっきり照らし出していたので、彼は何の苦も無く、その家を見付けた。

家は住む者も無く荒れ果てているようで、屋根には丈の高い雑草が生えていた。

雨戸を叩いたが、誰も答える者は無かった。

やがて、内から戸締りがしてない事が解ったので、押し開けて入った。

とっつきの部屋には畳も無く、がらんとしていて、冷たい風が、板張りの隙間から吹き込んでいた。
そして、月の光が、床の間の壁のぎざぎざの割れ目から、射し込んでいた。

他の部屋も、同じ様に荒れ果てた様を呈していた。
どう見ても、この家に人が住んでいる様子は無かった。

それでも侍は、住いの一番奥の、もう一つの部屋――妻の気に入りの居間だった、極小さな部屋を、覗いてみる事にした。

その部屋の仕切りの襖に近付くと、内側に明りが見えるので、びっくりした。

侍は襖を開けて、喜びのあまり声を立てた。

というのは、そこに彼女が――行燈の光で縫い物をして居るのが、目に付いたのだ。

その瞬間、彼女の目が、彼の目とぴったり合った。
そして嬉しそうに微笑みながら、彼に会釈した。

――ただ、「何時京都へお帰りになりまして?あんな暗い部屋を通って、どうしてこの私の所へ、お出でなさいましたの?」と尋ねた。

歳月の為に、彼女は少しも変っていなかった。
今も尚、一番懐かしい思い出の中の彼女と少しも変らず、美しく若く見えた。

――そして、どの思い出よりも快く、彼女の何とも言えぬ美しい声が、嬉しい驚きの為に震えを帯びて、彼の耳に響いたのであった。

侍は嬉しそうに彼女の傍に坐って、一部始終の事を話した。

――どんなに深く、自分の我侭を悔いたか、彼女が居なくて、どんなに自分が惨めであったか、どんなに始終彼女と別れた事を残念に思ったか、どんなに長い間償いをしたいと思って色々工夫したか。

――こう話す間にも、彼女を愛撫して、何度も何度も彼女の許しを乞うのであった。

すると彼女は、彼が心で願った通り、愛情深い優しい様子で彼に答えて、そんなに我が身を責めるのは止めて頂きたい、と頼んだ。

私の為に、苦しみなさるのはいけません。
貴方の妻となるだけの資格が無いと、かねがね感じていたのですから、と彼女は言った。

それでも、貴方が私と別れたのは、ただ貧乏の為だった事は、知っておりました。
それに一緒に暮していた時分、貴方は何時も親切でした。
それで、絶えず貴方の幸福を祈って来ました。
しかし、償いをすると言われるような理由が仮に有るとしても、こうしてお訪ね下さった事が、有り余る程の償いです。

――たとい、ほんの束の間であるにしても、こうして再び逢えた事に勝る仕合せが有りましょうか、と彼女は言った。

「ほんの束の間だって!」と彼は、嬉しそうに笑いながら答えた。

「いや、それどころか、まあ七生の間程もだよ。
 ねえ、お前が嫌でないなら、戻って来て、何時までも何時までも、お前と一緒に暮そうと思うよ。
 どんな事が有っても、もう二度と別れはしないよ。
 今では、自分には、財産も有れば友も居る。
 貧乏なんか恐れるには及ばん。
 明日、わしの持ち物を此処へ運ぼう。
 また召使達も来て、お前の世話をするよ。
 そして皆でこの家を綺麗にしよう。
 実は今晩……」

此処で侍は、言い訳をする様に付け加えた。

「こんなに遅く――着物も着替えずに来たのは、ただお前に会ってこの事を話したい、とばかり思ったからだ。」

彼女はこれらの言葉を聞いて、大層喜んだ様であった。
そして今度は彼女の方から、侍が立ち去ってから、京都に起った色々な事を、すっかり話して聞かせた。

――ただ、自分の悲しかった事だけは口に出さず、その話は優しく拒んだ。

二人は、ずっと夜の更けるまで、語り合った。

それから彼女は、南向きの、もっと暖かい部屋――以前、彼らの婚礼の間だった一室に、彼を案内した。

「この家には、手伝ってくれる者は、誰も居ないのか?」と、彼女が寝床を延べ始めると、彼は尋ねた。

「はい」と、彼女は晴れやかに笑いながら答えた。

「召使はおけませんでした。
 ――それで、まったく一人で暮して居りましたの。」

「明日になれば、召使が沢山来るよ」と彼は言った。

「良い召使がね。
 ――それから、他にお前の入用な物は何でもだよ。」

二人は、横になって休んだ。
が、眠る為ではなかった。
互いに語りたい事が、山程有ったのだ。

――二人は、過ぎ去った事、現在の事、行末の事を、夜が白むまで語り合った。

それから侍は、我知らず目を閉じて眠った。


目を覚ますと、日の光が雨戸の隙間から射し込んでいた。
そして、全く驚いた事には、侍は朽ちかけた床の、剥き出しの板の上に横たわっているのだった。

……自分は、ただ夢を見ていたのだろうか?

いや、彼女はそこに居る――眠っている。

……彼は、彼女の上に身を屈めて――見た。

そして、「あっっ!」と叫び声を上げた。


――眠っている女には、顔が無かったのである!


……彼の前には、ただ経帷子に包まれた女の死骸が――もうすっかり朽ち果てて、骨と乱れた長い黒髪の他には、殆ど何も残っていない死骸が、横たわっているだけだった。


ぞっと身を震わせ、むかつく様な厭な気持ちで日の光の中に立つと、氷の様な戦慄が、次第に耐え難い絶望、烈しい苦痛に変って行き、侍は、自分を嘲笑する疑惑の影を掴みたいと思った。

そこで、この近辺の事は何も知らない風を装って、妻が住んでいた家へ行く道を尋ねてみた。


「あの家には、誰も居ませんよ」と、問われた人は言った。

「元は、数年前に都を去ったお侍の、奥方の物でした。
 そのお侍は、出掛ける前に、他の女を娶る為、その奥方を離別したのです。
 それで、奥方は大層苦にされ、その為病気になりました。
 京都には身寄りの人も無く、世話してくれる者も在りませんでした。
 
 そして、その年の秋――九月十日に亡くなられました……」



…実に哀しく、痛ましく、恐ろしい話と言えるだろう。
この女は…「自分は離縁されて已む無し」と口では言っていても、内心決してそうは思って居なかったのだろう。
でなければ、女の命日に、男が丁度訪れる事は無かった筈だ。
何より執念無くして、今生に留まれはしない筈だ。
女はずっと、男が来るのを、待っていたのだ。

この話と同型なものは、『雨月物語』にも出て来る。
古くは『今昔物語集』…更にもっと古くには、中国、明の怪異小説にも見られる。
かなり歴史の古い怪談と言えるだろう。

現代になっても素材として、よく創作に利用されている。
『ウインダリア』と言う名のオリジナルビデオアニメがそうで、これはネットで視聴可能。
(要会員登録、有料だが→http://www.b-ch.com/cgi-bin/contents/ttl/det.cgi?ttl_c=449)

非常に素晴しい傑作だと思うので、機会が有れば御覧戴きたい。

最後、少し話がズレて申し訳無かったが…今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように。
今夜は特に…止めておいた方がいいだろう。
夜に鏡を覗く事もね。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているよ…。



『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
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異界百物語 ―第33話―

2007年08月14日 21時31分07秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
今夜はカモミールティーを用意しておいたよ。
さあ、早く席に着いて。

…今夜も千客万来の様だね。
活気が有って嬉しいが…こういう催しをするには、相応しく思えないかな。

え?…誰も声なんて出してないだろうって…?
おかしな事を言うね……貴殿には、この騒々しい声が、聞えないのかい?

……まあ、いいか。

それでは今夜は、身の毛もよだつ怨霊に、命を狙われた男の話をしよう。



体は氷の様に冷たく、心臓はずっと前から鼓動しなくなっていた。
それでも、他に死んだという徴候は、少しも無かった。
誰一人として、その女を埋葬しようと言う者は無かった。
女は離別されたのを、悲しみかつ怒って死んだのだった。
それで、人々はその女を埋葬しようとしても、無駄だろうと考えたのである。

何故かと言うと、死に掛けている者が復讐したいと願う、いまわの際の最後の一念は、何時までも消える事は無く、どんな墓でも微塵にし、どんなに重い墓石でも、割ってしまうからである。

女が横たわっている家の近くに住んでいる人達は、我が家から逃げ去った。
自分を離別した男が帰って来るのを、女がひたすら待っている事を、人々は知っていたのである。

女が死んだ時、男は旅に出ていた。
帰って来て、事の顛末を聞かされると、男はぞっと怖気をふるった。

「何とかして、日暮れ前に助けて貰わないと」と、彼は一人思案した。

「あの女に八つ裂きにされるだろう。」

未だ辰の刻(午前七時~九時頃)だったが、一刻の猶予も無い事を、男は知っていた。
男は直ぐ陰陽師の所へ行って、助けを乞うた。


陰陽師は、死んだ女の話を知っていた。
そして、その死骸も見ていた。
彼は依頼の男に言った。

「あんたの身には、大変な危難が迫っていますぞ。
 まあ、わしが助かるようにやってみましょう。
 だが、何でもわしの言う通りにすると、約束して貰いたい。
 あんたの助かる途はたった一つしかない。
 そりゃ恐ろしいやり方です。
 しかし、あんたにそれをやろうという勇気が無けりゃ、女はあんたを八つ裂きにしてしまいますぞ。
 勇気が有るなら、夕方、日の暮れぬ内にもう一度、わしの所へお出でなさい。」

男はぞっと身震いした。
が、何でも言われるままにすると約束した。


日暮れになると、陰陽師は男と連れだって、死骸の置いてある家へ行った。

陰陽師は雨戸を押し開けて、依頼の男に入るように言った。

辺りは、刻々と暗くなっていた。

「とても駄目です」と男は、頭から足の先まで、わなわな震わせながら、息を喘がせ言った。

「女を見る勇気さえ、有りません。」

「顔を見るどころか、それ以上の事をせねばならん」と、陰陽師はきっぱり言った。

「あんたは言う通りにすると、約束されたんだ。
 さあ、お入り。」

彼は、震えている男を、無理に家の中へ入れて、死骸の傍に連れて行った。


死んだ女はうつ伏せに寝ていた。


「さあ、女の上に跨りなさい」と陰陽師は言った。

「そして馬に乗る様に、背中にしっかり跨るのです。
 ……さあ、そうしなくちゃいかん。」

男は大変震えていたので、陰陽師は支えてやらねばならなかった。

――酷く震えたが、男はその通りにした。

「さあ、髪の毛を手に持って。」

陰陽師は命じた。

「半分は右手に、半分は左手に。
  
 ……そうです!……手綱の様に、しっかり掴むんです。

 髪を手に巻いて――両手に――しっかりと。

 そう、その通り!……宜しいか!朝までそうして居るのですぞ。

 夜中に恐ろしい事が起る――きっと。

 だが、どんな事が起ろうと、髪を放してはなりませんぞ。
 
 もし放したら――ほんの束の間でも――女はあんたを八つ裂きにしますぞ。」

陰陽師は、それから何か霊妙な文句を、死骸の耳に囁いて、馬乗りになっている男に言った。

「さあ、わしの都合で、あんた一人を、女の元に置いて行かねばならん。
  
 ……このままにして居るんですぞ!

 ……何はさておき、女の髪の毛を放さぬよう、気を付けねばなりませんぞ。」

そう言って陰陽師は、後ろの戸を閉めて出て行った。


幾時間も幾時間も、男は暗澹とした不安に包まれたまま、死骸の上に跨っていた。
夜の静けさは辺りに段々深まって行き、とうとう男は叫び声を出して、その静けさを破った。


すると忽ち、下の死骸は、男を振り落とす様に、躍り上った。

そして死んだ女は、大声で喚き出した。


「おお、なんて重いんだろう!
 でも、あいつを今、此処へ連れて来てやろう!」


それから、女はすっとばかり立上って、戸口へ飛んで行き、荒々しく戸を開けて、男を背負ったまま、夜闇の中へ走り出た。
しかし、男は目を閉じ、呻き声すら立てられない程恐怖に襲われながらも、両手に長い髪の毛を、固く固く巻き付けたままで居た。


どれ程女が行ったか、男は知らなかった。

男は何も見なかった。

ただ暗闇の中に、女の裸足の足音がピチャピチャ、ピチャピチャいうのと、走りながらヒュウヒュウ言う女の息遣いとが、聞えるばかりだった。


とうとう女は引き返して家の中へ駈込み、全く最初の通りに床の上に寝た。

鶏が鳴き始めるまで、男の下で、喘いだり呻いたりした。

それから後は、静かに寝ていた。

しかし男は歯をがたがたさせながら、朝になって陰陽師が来るまで、女の上に跨っていた。


「その様にして、髪を放さなかったのだね」と、陰陽師は大変嬉しそうに言った。

「それで宜しい。
 
 ……さあ、立上って宜しい。」

彼はまたもや、死骸の耳の中に囁いて、それから男に向って言った。

「さぞかし恐ろしい晩を、過された事でしょう。
 だが他には、あんたを救う途は無かったのです。
 これからはもう、女の仕返しの心配はせんでも宜しい。」

それを聞いた男は、ひたすら泣いて陰陽師に向い、伏して拝んだ。



…八雲は伝え聞いたこの結末が、気に食わなかったらしい。
「道義に適ってない」と、作品中でかなり酷評している。
男が最後、気が狂うか、髪の毛が白くなる等の描写が有るべきと…八雲はそう考えたらしいのだ。

しかしこれだけ恐ろしい目に遭ったのだ。
書いてはいないが、恐らくはそうなった事だろう。
それにしても壮絶な話だ。
何故死骸の上に、一晩跨らねばならなかったのか?
…謎に感じて仕方ない。


さて…今夜の話は、これでお終いだ。
さあ、蝋燭を1本、吹消してくれ給え。

……有難う。

また1つ…明りが消えたね。

では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように…。
家に帰り着いてから、鏡を覗く事も無きように…。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。



『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
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異界百物語 ―第32話―

2007年08月13日 21時03分42秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
来る頃だと思ってね…ローズマリーティーを用意して、待っていた所さ。
ハーブの様な強い香りを発する物には、魔を祓う力が有ると言われているからね。
この時期に飲むには、ぴったりだろうと考えてさ。

今日は迎え盆…死者が生前住んでいた家に帰ると云われている日だ。
家でも朝、死んだ爺さん婆さんにお供えしたお茶が、夜見たら半分に量が減っていてね…。
この暑さに、ただ蒸発しただけとは思うが…ひょっとしたら、帰って来て飲んだのかも知れないなぁと…。

そんな日にぴったりの話を、今夜はしよう。
続けてで済まないが、この話も小泉八雲の作品から採り上げたもので、八雲曰く禅宗の老僧から伺ったのだとか。
霊の存在に疑いを持ち、迷信には一切耳を貸さない、坊さんにしては珍しい人だそうだが…一度だけ不思議な体験をしたらしい。



「どうも、霊魂だとか幽霊とかいう話には、私は平生から疑いを持っていますよ」と、その老僧は言った。

「時折檀家の人が見えて、幽霊を見たとか、不思議な夢を見たとか言う話をされますが、よく聞き出してみると、何時もちゃんと筋の通った説明が付くものです。
 所が、私も生涯にただ一度だけ、ちょっと説明の付きかねる、妙な目に遇うた事が有りますよ。
 
 その頃、私は未だ年の行かぬ見習い僧で、九州に居りました。
 そして、行――つまり、見習い僧は誰でも皆やらねばならん托鉢――をやっておりました。


 或る晩の事、山地を行脚している内に、或る小さな村に着きましたが、そこに一軒の禅寺が在りました。
 私はその寺へ行って、行脚僧のしきたり通り、一夜の宿を乞いました。
 所が住職は、二、三里離れた村へ葬式に行っていて、年取った尼さんが一人、寺を預かっておりました。
 その尼さんが言うのに、和尚さんの留守中にお泊めする訳には行かぬ、和尚さんは七日の間お帰りになるまい、という事でした。

 ……この地方では、檀家に不幸が有ると、住職はその家で、七日の間毎日お経をあげて、仏事を行う慣わしになっておりました。

 ……そこで私は、食べ物は何も要らぬ、ただ寝る所さえ有れば結構だと言い、更に何分くたくたに疲れているのだからと、頻りに頼みました。

 とうとう尼さんも気の毒がって、本堂の須弥壇の近くに、蒲団を敷いてくれました。
 そこへ横になると、直ぐ眠ってしまいました。


 所が真夜中頃――大層寒い晩でしたが――私の寝ている直ぐ側で、木魚を叩く音と、念仏を唱える人声がするので、目が覚めました。
 
 目を開けてみましたが、本堂は真っ暗で、鼻を抓まれても解らぬ程でした。

 で、こんな暗がりの中で、木魚を叩いたり、念仏を唱えたりするのは、一体誰だろうかと、訝しく思いました。

 所がその音は、始めは直ぐ近くの様に思えたが、どうもはっきりしない様でもあるので、これは自分の思い違いだろう。


 ――住職が帰って来て、寺の何処かでお勤めをしているのだろうと、私は努めてそう考えました。


 こうして、木魚の音も念仏の声も聞き流しながら、また寝込んでしまい、朝まで眠りました。


 それから夜が明けて、顔を洗い、着物を整えると、直ぐ年取った尼さんの所へ行って、会いました。
 親切に泊めて貰ったお礼を述べてから、私は思い切って尋ねてみました。

 『和尚さんは、昨夜お帰りになられたようですね?』

 すると、尼さんは酷く不機嫌そうに、『いえ、帰られません。昨夜申し上げた通り、七日の間は帰られませんよ』と言うのです。

 『こりゃ失礼しました。実は昨夜、何方か念仏を唱えて、木魚を叩いて居られたので、和尚さんがお帰りになられたかと思いました』と、私は言いました。

 すると尼さんは大きな声で、『ああ、あれは和尚さんではありません。檀家の方ですよ』と言いました。

 何の事だか、尼さんの言う事が、さっぱり解らんので、『何方です?』と尋ねますと、尼さんが答えて言うのには、『そりゃ、無論死んだ人ですよ。檀家の人が亡くなると、何時もそういう事が有ります。その仏が、木魚を叩き念仏を唱えに来るのです。』


 ……この尼さんは、もう長年、こんな事には慣れっこになっているんで、わざわざ話す程のものではない、と言った様な口振りでした。」



…寺社仏閣、病院等、人の死に立ち会う機会の多い場所で働く人は、比較的霊の存在を当り前の様に信じて居るものだと伺うが……

果たしてこれは、尼さんに担がれただけか…それとも………

貴殿はどの様にお考えになられるかな…?


それにしても今夜は随分、盛況な様だねぇ。
先刻から、実に賑やかだ…。

……え?何を言ってるんだって…?

……貴殿の耳には、この喧騒が聞えないのかい……?

まぁ、いいさ…何時もの様に、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

また1つ…明りが消えたね。

それでは御機嫌よう。

…いいかい…帰る途中で、後ろを振り返ってはいけないよ。
深夜、鏡を覗いてもいけない。

お休みなさい、気を付けて。
また次の晩に、お待ちしているからね…。



『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
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