Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

シカゴ・トリビューンカメラマン、高橋さんの講演を聞いて

2008-03-02 | シカゴ日本人学校全日校
2月20日、先週の水曜日に、シカゴ・トリビューンのフォトグラファー高橋邦典さんが、シカゴ日本人学校全日校の中学部の生徒たちに平和講演会をしてくださった。歴史好きの中学一年の息子は、戦争にとても興味があり、太平洋戦争の本もかなり読んでいるので、現代のイラク戦争を実際に見てきている高橋さんが来るのを楽しみにしていた。私は、前から高橋さんのQマガジンでの記事や写真やトリビューンに掲載された写真を見るたびに、「アメリカのメディアで活躍し、世界的に認められている日本人のカメラマンにいつか会ってみたい。」と秘かに思い続けていたので、「あの高橋さんがやってくる!」と息子以上に楽しみにしていた。

講演会の内容は、US新聞の私のコラムに書いたので、詳しくはここでは書かないが、高橋さんの話で、イラク戦争において、アメリカ兵が具体的にどのように行動し、イラクの人たちがどのような状況下におかれたかが、迫力ある写真と話で、順を追って詳しくわかった。砲弾をかいくぐって、命がけで撮った生々しいショッキングな写真。それを果敢に撮影した人が淡々と経験を話している。もうそれだけで、一般人の私たちにはエキサイティングなことだ。フセイン政権が倒れる瞬間を切り取る。戦場の現場にいる。まさに、究極のジャーナリズムの世界。

ベトナム戦争を撮影した有名な戦場カメラマン、沢田教一の「ライカでグッバイ」を読んで、この道をめざしたという高橋さん。私も日本でアメリカの通信社に入った頃、沢田のピューリッツア賞を受賞した「安全への逃避」という写真(ベトナム戦争中、ベトナム人の家族が川の中を必死に逃げている、かなり有名なショット)を見て、この本を読み、沢田のすさまじい生き方に憧れた時期がある。

その時勤めていた会社は、ナイトリッダー・ファイナンシャル・ニュースというナイトリッダーという大きな新聞グループの金融部門の通信社で、株やら債券、商品先物などのマーケットをカバーしていたので、「これって、自分が考えている本当のジャーナリズムではない。」と悶々とし、APやUPIやAFPなどの一般ニュースをカバーする通信社や外資の新聞社に移りたかった。と同時に、アメリカで仕事もしてみたかった。

自分の中で金融をカバーするのがいやになっていたころ、AFP(フランスの通信社)からオファーがあったとき、シカゴの支局でも人を募集していた。どちらをとるか、迷いに迷った末、シカゴで金融をカバーする方をとった。私にとって、大きな転機だった。シカゴには、研修で一回きたことがあり、すでにその町の雰囲気と人に魅せられていたから、運命的なものを感じたのかもしれない。

しかし、シカゴ支局には9ヶ月いて、CMEとCBTの両方の先物取引所を行ったりきたりして、とても楽しかったのだが、ほとほと金融のマーケットをカバーする通信社の仕事がいやになり、会社をやめて、日本にもどった。

日本では、同じナイトリッダーグループのサンノゼ・マーキュリー・ニュースの東京支局長、ルイス・エム・サイモンズ氏のアシスタントで、彼の秘書をしたり、一般ニュースをカバーした。サイモンさんは、フィリピンのマルコス政権の隠し財産を暴いた捜査報道で、ピューリッツア賞を取った有名なジャーナリスト。当時外国特派員協会の会長もしていて、東京の外人記者たちから、一目置かれていた。

温和な目をした素敵なおじ様なのだが、やはりベトナム戦争を記者として報道した経験があり、「とても面白くて、戦争に行く衝動は抑えられない。」というようなことを言ってた記憶がある。彼のもとで、一般ニュースをどうカバーするか修行をしたような感じだったが、捜査報道のような対象にはめぐり合えなかった。私の前のアシスタントの人は、渡辺美智雄のODAがらみの汚職をサイモンさんと一緒に暴く手伝いをし、日本のメディアでもサイモンさんの報道が話題になったようだ。あの立花隆氏からも、一連のサイモンさんの記事を送ってもらうように依頼された。サイモンさんが初めて立花さんにインタビューしにいったとき、やけに意気投合していたのが印象的だった。ワシントンDCのタイムにうつってから、サイモンさんの消息がとだえている。もうかなりの年齢になっているから、リタイアしたのだろうか。

なんていう大昔のことを高橋さんがいらして思い出し、高橋さんの経歴を見て、AP通信のストリンガーから仕事を始めたというので、「昔の通信社の仲間たちがどうしているのかなあ。」となつかしく思い出していた。直属の上司で私をきたえてくれたやり手記者シンシアは、アジアン・ウオール・ストリート・ジャーナルの香港、バンコク支局を経て、ABCニュースに。バイリンガルのアキさんは、アメリカにもどって、バーモンドで、地元の新聞社に。仲がよかったブルースやバイリンガルのマイケル、ラリーはPRの仕事などなど。アメリカの各地に散っている。変人の気があり(?)、何ヶ国語もしゃべるベンジャミン・フルフォードは、フォーブスの東京支局長を経て、今や日本じゃ有名なライター・評論家。本も売れているらしい。日本人学校にもベンジャミンの本ありますよ。シカゴで駐妻をしている自分とはえらい違いだ。ベンジャミンは、若い頃、漫画をよく読んでいたっけ。

高橋さんの最後の話で、日本国憲法9条改正に反対する部分が、結論として、明確に打ち出されていた。真のジャーナーリストとして、真実を報道すると共に、みんなにそれを伝えていくことの強い信念と使命を感じた。きっと、私たちのもと仲間たちも同じことを考えるだろう。私も広島、長崎の悲劇をアメリカ人に私なりのやり方で伝えたり、(ハーパーカレッジで原爆の詩を書いて、ハーパーの雑誌に投稿)憲法9条を他の国の人たちにも訴える努力をしたいと思った。とりあえず、今は、みんなに高橋さんが話してくださったことを伝えたい。というわけで、今週は雪にも負けず、しっかりと高橋さんの講演会の記事をUS新聞に書いた。US新聞のエディターのきれいなレイアウトで、高橋さんの写真が小さくても生き生きと語りかけてくる。ぜひ、皆さん読んでください!

http://www.usshimbun.com/column/baba5.html

高橋邦典さんのウェッブサイト http://www.kuniphoto.com
   ブログ http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto

追伸

高橋さんは、がっちりしていて、きりりとして、とてもカッコよかった!ある種独特のオーラがでていた。道を極めている人というのは、そういうものか。シカゴでそういう日本人の方に会えるのは、ラッキーだし、同じ日本人として誇りに思う。カメラマンとして数々の名誉ある賞をとっている高橋さんの次の目標はきっと沢田が取ったピューリッツア賞なのではないかと思います。応援してます。







フォール・フーズのリブアイ・ステーキ大人気!

2008-03-01 | 食べ物・レストラン
今日は、今週格闘した記事を仕上げ、すっきりしたので、久し振りにうちの行きつけのフォール・フーズへ我が家大人気のリブアイ・ステーキを買いに行った。昨日から、次男に「金曜日はステーキにして!」と頼まれていたので、無事任務を果たすことができ、次男のお腹はふっくら!

そうなんです。このフォール・フーズの中くらいの値段(ここがミソ)のリブアイ・ステーキが、とても柔らかくて、口の中にジューシーな、なんともいえないお肉の甘さが広がる。今日は安売りで、1パウンド13.99ドル。だいたいこれぐらいの値段でいつもでてる。これよりも高くても安くてもダメ。この肉なんですよ。うちは、一枚分厚いので、肉の担当のお兄さんに半分に切ってもらう。しょっちゅう買っているので、知っている感じのいいお兄さんなら、(フォールフーズの店員はみんな感じいいけどね)「わかっている」と言って、さっとやってくれる。

肝心のたれですが、皆様ご存知かもしれませんが、ポン酢にたまねぎをすりおろし、にんにくのすりおろし、塩、こしょうを加えるだけで、このリブアイに絶妙に合うたれができあがり。とにかく、このリブアイ・ステーキを食べると、レストランのステーキがイマイチに感じられる。今日は2.44パウンド、5、6人分ぐらい(1人分残ったくらい)で、34ドルなり。

上の息子は、たれなしで、塩こしょうをつけたのを焼くだけのシンプルな食べ方。ミディアムレアで猛然と食べる。かなりの量を一瞬で食べ終わる。下の息子は、ウスターソース派だが、これもがつがつと大人の量ぐらい食べる。野菜もすべてフォール・フーズのオーガニックの物なので、新鮮で肉と共にいくらでもお腹に入る。

ウィークディにこのステーキをだすと、次の日、息子たちは、弁当も残りのステーキを持っていくのが楽しみらしい。前に投稿で紹介したランチジャーに入れて、ほのかに温かいステーキを昼にパクつく。

うちから車で5分の場所にあるフォール・フーズ。ミツワと共に、貴重な買い物場所である。ありがたや、ありがたや。

写真は、13歳の上の息子の分。あっという間にこれをたいらげる。


悲しい月、3月がやってくる!

2008-03-01 | シカゴ日本人学校全日校
明日から3月だ。去年、上の息子がシカゴ日本人学校小学部を卒業してから、もう1年がたった。

去年の今頃は、息子のクラスは、今の倍ぐらいの人数(20人ぐらいか)がいて、わいわいしていて、女の子と男の子で仲良くにぎやかなクラスだった。担任の先生は、小学部の最上級生ということで、決して手綱をゆるめず、厳しく指導してくださり、子供たちもそれに答えて、みんな1人1人の1年の成長がすごかった。
(US新聞 教育欄 「シカゴ日本人学校全日校だより」の中の記事「息子がシカゴ日本人学校全日校小学部を卒業するにあたって」を御参照ください。http://www.usshimbun.com/childcare/futaba-sotsugyoushiki2006.html)

でも、卒業後、クラスの半分の人数の子供たちが、日本に帰国してしまい、中学部に入ったとき、教室がガラーンとして、本当にさびしく感じた。海外にいると、各学年いつも出入りは激しく、子供たちもそれに慣れっこなんだけど、あんなに急激に人数が減ると、親の方がつらい!当の子供たちは、「そんなことにいちいちつらいと感じていたら、シカゴでやっていけない!」と自分の心のさびしさを封印していたかもしれない。

そして、またまたやってきた3月。今年は、お世話になった先生たちがみんな帰国予定だし、3年間息子と一緒だったちいちゃんも帰国する。ちいちゃんのお母さんとお父さんのこともよく知っていて、大変お世話になっているので、悲しい!

会社のよく知っている長い付き合いの友達も2人帰国する。

もう何人の人々を見送ってきただろうか。3月は、いつもつらい月。だから、私たちも見送らず、とっとと一時帰国して日本で少しでも悲しさを忘れることにしよう。