九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

加地八郎左衛門女『尼浄智』と三善氏・富来氏との関連。(メモ)

2018-04-20 | 三善氏

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f9d1f051373ea275ff1e8e61e1f5c7e6

加地実秀女が三善氏の妻であって『尼浄智』と仮定する。

三善氏の一族の中に富木氏(富城・富来・土岐)がいた。(三善大田乗明の姉の夫が富木常忍であった。)

そして、もしかするとその加地実秀は大友実秀と同一人物であった可能性もあるという。
下記との関係が、この加地氏とのことにつながってくるのかどうかは不明だが…

大友能直は父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

昨日、大田昌明という人物を見つけた。乗明と関係がありそうな名前である。

また、土岐氏と大中臣氏の関係も見つけた。

大中臣氏と那珂氏の関係が福知山の金山氏の「大中臣系図」で見ることができたが、それ以外に、今度は近江に住んでいたと書かれている大中臣氏の系図を見つけたので、次の記事に書いてみようと思う。


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三善康信 (法名・善信)

2018-01-19 | 三善氏
三善康信の祖父三善為康は越中国射水郡の豪族射水氏の出身で、「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」さんに詳しく書かれている。
http://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/三善

為康の息「康光」の妻が「大中臣倫兼女」であり、康光の息が康信である。

康信の息に「康連」がおり、大田乗明がおり、富木常忍と親しかった。常忍の妻は乗明の姉であった。

三善流太田氏
鎌倉幕府問注所執事・三善康信の子康連が、鎌倉時代中期に備後国世羅郡太田(現在の広島県世羅郡世羅町)を与えられ、名字を太田とした。
後に足利尊氏に従い活躍し、周防国玖珂郡椙杜郷を与えられて移住した一族は、椙杜氏を名乗り、大内氏、毛利氏に仕え、後に長府藩筆頭家老となった。

杉森村:九里村の西にあり

https://ja.wikipedia.org/wiki/椙杜氏

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三善康信の叔母 頼朝の乳母のこと!

2017-12-27 | 三善氏
今日思いがけず「三善康信の叔母であり、頼朝の乳母であった方がわかった。」

まず、以前の記事。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/三善康信

そして今日発見した【三善康信とその時代 (要約)】
http://shinrekiken.net/wp-content/uploads/2016/11/aee64bfb19df46c20dcd5e953ce1981b.pdf

…(三善)康光は神祇官祝師大中臣倫 ともかね 兼の次女と結婚、保延6年(1140)に長子康信が誕生する。この倫 兼の長女、すなわち康信の伯母が源頼朝の乳母となるのである。

嬉しいです。じっくりと読みこめば、他にも私的発見がありそうです。橋下 欣之介様ありがとうございました。


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鷹飼であった源斉頼娘(孫娘)は源頼政室   そこから三善氏にまで繋がっていく不思議なご縁

2017-12-13 | 三善氏
清和源氏も近江国に領地があったようで(当然か)、滋賀県守山市矢島町の「八嶋重實」(佐渡源太とも)の他、滋賀県高島郡にある善積にも住していたようである。

鷹飼として名を馳せた「源斉頼」その息惟家から善積氏へとなっている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01001b.htm#004

さらに「善積氏」から「和田氏」へ
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01001b.htm#004

満政~忠隆~斉頼~惟家~忠頼~惟忠・・・

惟忠は善積氏から和田氏への養子となっている。
「和田惟忠」これはもしかするとこの系は「和田惟政」の甲賀21家の和田家に続くのではないだろうか?

斉頼の娘が「源頼政室」となり仲綱と二条院讃岐を生んでいる。
さらにその二条院讃岐は「藤原重頼室」となって、重頼が頼政の所領であったであろうと思われる若狭国遠敷郡松永・宮川両保(福井県小浜市北東部)の地頭となっている。
重頼が亡くなった後には「讃岐尼」となった二条院讃岐が、若狭国宮川保の地頭となっていることが確認されている(『秦文書三号』)。(wikipedia)

九里氏がもしも「本郷氏」と関係があるならば、はやりこの頼政の息広綱の系が「美作朝親」となる説が有力となると思う。(美作朝親のルーツと言われている中では…という意味)
が、それはさておき、 この源頼政の末裔に「大田氏」がいたことに驚き、さらにその大田氏が「三善」と関係していたことに昨夜は驚いたのだった。
その大田氏が、実は富木中太蓮忍の息常忍(後の日常)と非常に親しい間柄で日蓮の旦那であった「大田乗明」につながっている可能性大なのだそうだ。

富木氏も遡ると源頼政の近辺に居そうな気がするのである。

常忍が1222年生まれということがわかり、富木氏に関する情報が多々あった。この意味を解読するのは私には難しい。でも貴重!(乗明と同じ年に生まれた常忍=日常である。)



そして大田乗明のことがwikipediaにあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E4%B9%97%E6%98%8E



(何だかまとまっていないのですが、取り急ぎ書いておかないと、消えてしまいそうで。)

この頼政と紀氏(石清水八幡宮)とも関係がありそうなので探っている。(紀氏ということは、そこから穂積・熊野・鈴木・・・ともつながってくる。)
源行家に山伏の格好をさせて平家追討の令旨を各地の源氏に伝達する役に抜擢したのは、源頼政ではなかっただろうか。

このことは、若狭関係のブログであるもう一つ「【九里一族】に出会う旅に出かけよう!」にも重なり、非常に重要だと思う。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
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