九里 【九里】を探して三千里

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我が九里家古文書から(5)九里政敬(まさたか) その2 

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
 説明のしにくい、込み入った騒動です。
『丹波学』平成20年 講演のPDF と 三百藩家臣人名辞典等の助けを借りて、私なりに書いてみます。

【秘命騒動】

秘命騒動の発端は、まだ継嗣(世子)であった信守が、文政6 年(1823)に出した命令であったと言われております。
その命令に対して、耳の痛いことを信守に直言したのが九里政敬であったのです。
そのために、謹慎十日・家禄150石→拾人扶持 に引き下げられたわけです。

しかし、事の発端はもっとさかのぼると思います。
三代藩主信舊(のぶひさ)が二人の息子を亡くし、信憑(のぶより)を世子にします。
その後すぐに男の子(信應のぶまさ)が生まれたため、
藩主を継ぐことのできる系が二つになってしまったこと、ココが悶着の原因だと思います。

信憑の一人目の息子が信守(のぶもり)です。その息子が信貞です。
そして、信舊(のぶひさ)の二人目の息子が信應(のぶまさ)です。またその息子が信古です。

やっと藩主になることが決定した信守。まだ藩主にはなっていない状態であるにもかかわらず信守は心配になります。
「私の後は誰が継ぐのか」そこで、また継嗣問題が再熱したのが文政11年なのです。

信守の息子 信貞 VS 信應の息子 信古 
そこで、信守が変な画策をしたため、騒動になったのです。 下の資料をご覧ください。

『柏原藩政日記』
「豊次郎殿〔信古〕御病身ニ付、御家老中達之有候事」とあり、信古が病弱でその職務に耐えないと隠退させる命令を出した
これは、信守が実子信貞を藩主とするために画策したもので、執政らはやむを得ずその命令に従ったが、馬廻等が徒党を組み反対し、信古にも訴え、藩内は混乱した。
ついに、目付・馬廻ら5名が死を決して諌め、ようやく信守もこれを聞き入れ、信守の長女安子を信古と結婚させることを条件にこの命令を撤回し、信古を継嗣とした。

一旦解決したかに見えたこの騒動は、文政11 年(1828)再燃する。前年正式に藩主となった信守は、自らの柏原初入封前に、条件としていた信古と娘安子を急遽結婚させ、その3日後に信古に次の世子を信守の実子・信貞とする願書を認めさせようとしたのである

これには、信古以下藩士も反対したが、信守はこれが決まらなければ柏原に行かないと言い張り、万策尽き、父、信憑が強いて信貞を世子と定め幕府へ届け出た。
このような信守の振る舞いに長年苦しんできた藩士たちは、ついに執政の生駒広綱以下が結束して密かに幕府に信守の隠居を要請し、信守は文政12 年(1829)幕府の密命により致仕することとなった。

この信守のわがままぶりにも驚きますが、その父である信憑の息子に甘い判断にも驚きます。

家臣たちの反対がよくわかります! 
特に八郎右衛門政敬は、信守のことを幼少時分より見てきたはずで、その性格・資質もよくわかっていたと思います。
信守は1772年生まれで、政敬は1777年生まれ。

運が悪ければ切腹の可能性もあるような、思い切りの良い発言をした八郎右衛門政敬は、藩主にとって「うるさい奴」だったに違いありません。


【保野騒動】

こちらは、秘命騒動以上に恥ずかしい御家騒動です。

信守の隠居後に起こった保野騒動は、天保9 年(1838)1 月2 日、「信守と保野が柏原に幽閉されようとしていると保野の付人である「しま」が老中脇坂安董へ駆込訴に及んだことで発覚する。

保野は、信守の妾である。隠居後に江戸に戻ることを希望した信守だったが、柏原藩の財政は逼迫しており、贅沢をされては非常に困るような状態であった。

そのため、信守の江戸行きを止めるために家臣達が保野を柏原に呼び寄せようとした。

これを知った信守は保野へ手紙を出し、自分を江戸へ行かせないために保野を柏原に呼び寄せているので、これに従わないようにと伝えた。
このため、保野は病気と称して柏原に行かなかった。

しかし、信守は自分が江戸に行けないのを悟ると、前言を翻し、保野に柏原へ来るように迫った。
(九里八郎右衛門政敬が代表となって、保野を迎えに江戸に行った。しかも、冬! 政敬61歳)

保野はどちらが正しい手紙なのか…疑心暗鬼に陥り、その言葉を信じず、付人のしまが駆込み訴えを起こした。

理由のわからない藩士たちが、しまを質したが泣きだしたため扱いに困り、落ち着くまでの間長屋に押し込めた。

その扱いを気の毒に思ったしまの義理の父母が再度駆け込み訴えをしたため、今度は、評定所で吟味を受けることとなった。

江戸の留守居添役であった田村要左衛門が記した『評定所手続』には評定所での吟味の内容や評定の内容などがまとめられている。(東京市史稿 市街篇)

これによると、しま・保野の処遇だけでなく、吟味中に発覚した不手際もお咎めを受け、
天保10 年(1839)8 月16 日老中水野忠邦の屋敷にて信古は逼塞、信守は遠慮を申し付けられた。保野騒動は、評定は軽微な罪とみなされ、藩士たちの大半は押込み、叱り程度ですぐに免じられた。

(その当時、評定所にまで呼ばれることは、大変なことであった!そうです。)

政敬は、冬の時期に保野を迎えようとして江戸に往復し、無駄足どころか騒動に巻き込まれ評定所に呼び出され、再び江戸へ。

結果、播磨三日月藩主森佐渡守邸に幽せられることになった政敬。譴責40日余り。


以下は、其の後の政敬の様子です。

天保12年(1841年)64歳、組頭列に進む。
嘉永6年(1853年)77歳 正月藩主信敬の前でよく弓を射たといわれている。
安政2年(1855年)79歳 藩主信民の時に致仕し、万延元年(1860年)正月に没す。

享年84歳 忠正と号し柏原小峠(東)に葬った。


妻は 田邊照徳の長女で子どもは一男三女。孫の敬三(文之丞)が跡を継いだ。
田邊照徳は、田邊與左衛門の家系である。

以上が政敬の長い生涯である。12歳から藩に仕え79歳まで働いていたことになる。素晴らしい!

【三百藩家臣人名辞典】(5)新人物往来社より


さて、政敬の本当の苗字は【岡田】です。
どのような家系なのかをご紹介したいと思います。

岡田 重善(おかだ しげよし)大永7年(1527年) - 天正11年3月26日(1583年5月17日)
尾張出身、尾張国星崎城主。官職は長門守。重孝、善同らの父。
小豆坂七本槍の一人に数えられる。
信長に仕え、息子・重孝と共に活躍し、「本能寺の変」以後は、信長の次男信雄の家老となった。

岡田 重孝(おかだ しげたか)生年未詳 - 天正12年3月6日(1584年4月16日))
織田氏の家臣。尾張星崎城主。別名に直景。長門守。子に善治。
岡田重善の長男である。
織田信長に仕えたが、信長が死去するとその次男・織田信雄の家臣として仕えた。
天正11年(1583年)、父の死去により家督を継いで当主となる。

浅井長時・津川義冬らと共に三家老として信雄をよく補佐し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)からもその器量を認められていた。
しかし秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬らと共に天正12年(1584年)3月6日に信雄によって伊勢長島城に呼び出されて殺された。

そんな過去がありつつ、また織田家に仕えることとなった岡田家。
政敬の父は若くで亡くなり、兄 重礼が10歳くらいで家督を継ぐこととなります。
その弟(4男)が政敬です。

政敬の66歳の時の「天保14年日記」(柏原藩)が、釈文となって、webに登場しておりました。
始めから、政敬出ております。また、11月には孫敬三が生まれたということも、わかります。
お時間のある方は、是非ご覧になってみてください。
江戸時代の様子がわかり、面白いですよ。

http://www.city.tamba.hyogo.jp/uploaded/attachment/11264.pdf

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我が九里家古文書から(4) 九里政敬(まさたか) その1

2016-03-11 | 我が九里家と古文書
 敬三の祖父である「九里八郎右衛門政敬」の登場です。 
(政敬は長生きだったため、家督は息子政忠ではなく、孫の敬三が継ぐこととなる。)

安永6年1777年生~万延元年1860年没 享年84歳

岡田重礼の弟である岡田長門守重善6世の孫にあたります。



天明8年(1789年)九里修政の跡を継ぎ、150石を襲ぎます。(12歳)

以下は資料を見つつ、である調で進みます。

柏原(かいばら)藩用人。

柏原藩主
織田 信憑(のぶより) 四代藩主。(藩主の期間*1783年 - 1827年)
織田 信守 五代藩主       1827年 - 1829年
織田 信古 六代藩主       1829年 - 1842年
織田 信貞 七代藩主       1842年 - 1846年
織田 信敬(のぶのり) 八代藩主  1847年 - 1854年
織田 信民 九代藩主       1854年 - 1865年

以上の六代にわたって仕える。安政2年藩主信民の時に致仕。


信憑48歳の時、政敬12歳(1789年)で近習見習となる。
寛政3年春(1791年)14歳 馬廻りとなる。
資性鋭敏で節義があった。

享和元年1801年 政敬24歳で藩主にしたがって江戸へ赴き、6月世子信守の側頭となる。
その信守が放縦な気性で政敬が諌めるも聞く耳を持たず、前途を案じ信憑(のぶより)に告げるが、意に介さなかった。(困った藩主親子である。)
享和2年の夏柏原に戻り、翌3年夏役人格目付に進み、文政3年1820年春に用人郡町寺社奉行兼元締となる。

文政5年1822年十月生駒宏綱が江戸へ行き、信守を諌めたが「お前のような愚者の言ではなかろう。必ずほかに建議する者があるのであろう」と難詰。
宏綱は畏縮し九里政敬の教えによるものと答えた。
結果、同12月信守は政敬を責めて禄150石を奪い、俸10口を給して、給人格広間番にまで降格。(それでも、言わねばならぬ事は言う政敬。)
翌文政6年1823年 政敬46歳 二月、世子決定の件で藩内が紛糾した際、痛論し謹慎を命じられること十余日。
これが、「秘命騒動」である。

文政12年、52歳で6年間の年棒のない状態からやっと許された。禄80石に復し馬廻り、郡町寺社奉行兼元締となった。
同年より政敬は江戸邸内の家を【弁行堂】と名付け仮の学校とした。
目付槙田重厚・侍医小泉仙庵を会頭として有志の徒に順番に経書を講ぜしめた。
翌春用人格を命ぜられ禄70石を加えられ、あわせて150石となった。
夏に柏原に帰り天保3年(1833年)56歳、春に用人となり、はじめて旧に復した。

天保6年59歳の秋 物頭となる。
天保8年61歳 事件が起こる。「保野騒動」

この続き、【秘命騒動】【保野騒動】のことは、その2.です。

【三百藩家臣人名辞典】(5)新人物往来社より 自分なりに編集・加筆


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我が九里家古文書から(3) 九里圭治の子どもたち そして 九里敬三の兄弟妹

2016-03-11 | 我が九里家と古文書
九里圭治とりんの子どもたち
圭治とりんには、8人の子どもがいました。
 
長女 てる  釧路 
長男 誠一郎 釧路から大阪 富山薬科大学卒(その当時は薬専) 武田薬品
次男 英夫  若くして没
次女 郁子  釧路から札幌
三男 正一  釧路から標茶・登別・旭川・札幌 満州医科大学 
北海道大学低温科学研究所 医師
三女 淑子  釧路から根室
四女 静子  釧路から札幌
五女 ひろ子 釧路

そしてさかのぼり、敬三の弟妹をご紹介します。

長男 政得(敬三)
次男 政邦(雄蔵)別爲支家 明治10年分家
三男 三郎 播州福本藩 片部謹九郎養子
長女 静  長崎藩士族 馬場武義 妻
四男 頣吉 若くして没
五男 復吉 静岡県伊豆河津佐ケ野  明治36年分家

以上です。

どなたか、我が九里家のメンバーをご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?



 



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我が九里家古文書から(2) 明治24年 柏原織田家臣系譜

2016-03-11 | 我が九里家と古文書

第2章2.
明治24年に出版された【柏原織田家臣系譜】の中に九里の系譜が載っています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393のコマ番号24

この本には、大和宇陀松山藩士だった「九里政直」から丹波柏原藩士「九里敬三」と養子の圭治までもが勢ぞろい!
しかも、この下書きらしきものが我が家に残されていました。

本の出版が明治24年なので、それ以前に九里敬三の書いた字であると思われるのですが、
系譜の本の中では「九里政得 益男 改 敬三」となっている部分が、下書きでは「九里政得 益男 文之丞 敬三」と書かれており、
ずっと【柏原町志】の中に登場する「文之丞」とは誰なのか悩んでいた私には嬉しい発見でした。
この下書きまで残しておいてくれた曽祖父に拍手です!

敬三=文之丞 
【柏原町志】100ページに登場。
抜粋を少々

「嘉永3年11月、信敬、内寝の北に講武所を設け、自ら之に臨み武技を練習し、藩の子弟に競技せしめ
その優劣を判し、・・・・12月藩士の文武に進みし左の42人に賞与された。」

漢学・撃剣・槍術 とあり、その槍術のなかに 敬三の名前が見えます。
天保14年生まれなので、嘉永3年は数え年8歳。
敬三の祖父政敬も確か槍術なので、祖父の教えによるものかもしれません。
政敬は家督を文之丞に譲っています。

そして嘉永6年 敬三11歳の時に、黒船が来航します。
どんな心持ちでこの情報を聞いたでしょうか。

敬三15歳の多感な時に「安政の大獄」があります。
この15歳から27歳(明治4年)まで、動乱の大きな渦の只中であったことでしょう。
柏原とて、京の町の不穏な空気や緊迫した空気は伝わっていたのではないでしょうか。

【柏原町志】150・154ページ
慶応3年10月 柏原藩は「勤王派」として出陣。
その藩士の中に「九里文之丞」21歳の名がみえます。

その後には、山陰道鎮撫使警衛として、九里文之丞・大井多門(圭治の実父)・荻野序太郎(圭治の妻荻野りんの実父)ら多数が参加しております。

幕末に青春時代。そんな文之丞こと敬三の27歳まででした。
その後、商売を始める為か、柏原藩の土地を売って?柏原から出たようです。
明治4年の柏原藩士の家の地図の中に「九里」はもう見えません。

神戸か大坂、または丹波笹山、そのあたりで商売をしていたのではないかと思われます。
明治36年に北海道に渡るまでの足跡が全く見当たらず、探しております。

お心当たりの方は、ご一報を~!








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我が九里家 古文書から (1) 釧路に入る

2016-03-11 | 我が九里家と古文書

昨年書いていた「我が九里家」「古文書」を書き直しつつ進めます。

第1章1. 明治36年

 私の曽祖父の名前は「くのり けいじ」です。

九里圭治26歳・九里りん19歳・九里敬三60歳・九里むめ46歳。

時は明治36年(1903年)1月に北海道の東の街釧路に四人が到着するところから遡る形で書きはじめます。

まだ北海道での生活が軌道にのっていなかったかもしれない11月。
圭治の養父「敬三」が亡くなります。(圭治は大井家からの養子でした。)
4人だった家族が3人に。心細かったろうと思います。

釧路 西幣舞で「九里商店」お米・お醤油を中心に様々なものを売る雑貨商を開き生活を始めます。

圭治は手先がとても器用で、鳥籠を竹ひごで作る・・・そんな人でした。
妻の「りん」はとてもきれい好きの、うるさい夫に良く仕えた女性というイメージです。

裏は海(噸化・トンケシの浜)だったため、貝やお魚が採れてとても便利なところだったそうです。
私の祖母はよく海岸で「ほっき貝」を足で探って、とって夕食のおかずに~~♪

祖母は私たちに時折「ほっきカレー」を作ってくれました! 
今思うと、その時の思い出がいっぱい詰まっていたのでしょうね。

※ これを書いたあとに柏原織田家臣系譜をよく見ると【九里りん(旧姓荻野りん)】の家系と【九里】とに婚姻関係が二度あり、
私にも九里の血がわずかながら入っていることが確認されました。





コメント (2)
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