九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

本巣郡 船木庄 (2)船木三郎頼胤 

2021-01-15 | 土岐氏

本巣郡史の船木庄に関するページの中ほどに
「船木三郎頼胤」美江寺過去帳とある。
「胤」が付くという事は、千葉氏との関係があったためなのではないかと思う。
頼胤の父は舟木氏で母が千葉氏とすれば、一人「土岐七郎左衛門尉」に嫁いだ千葉胤綱の妹がいた。
この女性の子が「頼胤」だろうか。胤綱は1208年生であり、其の下の四人目の妹と成る。






本当につながっているのかどうかはわからないが、ヒントかもしれないと思ってここに書き留めておくと、

https://hotokami.jp/area/chiba/Hkmts/Hkmtstk/Dysks/47596/
船木七郎次郎中務丞行胤がいる。

この船木氏がもともと土岐氏の裔なのかもしれない。しかも海上胤方の四男。とすれば、土岐船木氏に養子に入った可能性もある。

もともと東氏と土岐氏は婚姻関係がある。
土岐光行の妻は東胤頼の娘である。
其の東氏の一部は海上氏を名乗るのである。
船木七郎次郎中務丞行胤(海上郡船木村)とあるので、たまたま偶然の船木という苗字なのだろうか?

ココをもう少し掘ると何か出てきそうと思う。
この周辺は、富木常忍と関係が深そうな箇所である。

皇典講究所講演: 第101-110号




驚きである。片岡常春が地頭とある。
やはり、ココの海上郡船木氏と九里の祖、其の周辺は繋がっているのではないだろうか?

あれだけこだわってきた片岡氏。
船木氏と片岡氏、時間差はあれど「つながり」を見つけた!のである。

===*===


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本巣郡 船木庄 (1)続報

2021-01-15 | 土岐氏

菅原肥後守基実は高階肥後守基実で、〇(合格)であったようだ。



高階基実の祖父は「美濃守業敏」であった。


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本巣郡 船木庄 (1)

2021-01-15 | 土岐氏

船木庄に関する文献を見ることができたので、船木庄を調べていこうと思う。
本巣郡史から
「糸貫川と犀川の中間に在って…本田…」というのがヒントである。





今も「本田」という地名が残っていた。

更に驚いたことにこの荘園は元は菅原肥後守基実の所領であったようだ。
この基実は菅原姓では出てこないが、実は「肥後守・高階基実」の事と思われるのだが、どうであろうか?
もしもそうなると源義親の正室・藤原南家高倉流の行通の母もまた肥後守高階基実女である。


千葉氏のHPのなかの「伊勢平氏」のページに以下のようにあった。
http://chibasi.net/iseheisi6.htm

■対馬前司源義親の追討と栄達

 康和3(1101)年7月3日、前陸奥守源義家の長男・対馬守源義親が太宰大弐大江匡房から「至濫行於九国、不随宰府於命」を告発されたことが議され(『殿暦』)、朝廷は義親の父である義家に義親召喚を命じた(『殿暦』)。しかし、康和4(1102)年2月、義家が官使者に副えて九州へ遣わした「郎従佐通(資道、対馬権守輔通)」が官使者を殺害するという事件を起こし、2月20日に朝廷に報告された(『中右記』『殿暦』)。この「佐通(資道・輔通)」は、かつて後三年の役で、十三歳にして義家に従って活躍した藤原資通とされ、対馬守義親と同時期に「対馬権守」であることから義親に近い人物だったと思われる。その「佐通」の官使殺害は義親に同心した結果と思われるが、朝廷は義親の度重なる狼藉に対し、12月28日、隠岐国への流罪とすることで決着。結果、義親は隠岐へ流され、従類二人は周防国と阿波国へ流罪、舅で「同類」とされた「前肥後守高階基実」は除名の上、贖銅を命じられた

贖銅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E9%8A%85

===*===
話を戻そう。

本には菅原基実の娘が高階氏に嫁ぎ、…とあるので、上記の記事は間違っているのかもしれないが、同じ肥後守なのである。

時代は1300年代になってしまうと思うが、
「土岐頼重の息に頼夏の腹違いの弟頼尚がいて、母親は高階氏という。」

これは、もしかすると藤原南家高倉流の藤原尹通(行通の父)の兄友実の娘=姪が「源頼政卿母」であることと関係があるのかもしれない。(尹通の妻が高階基実の娘である。)

源義親1108年生まれ、源頼政が1104年生まれ、である。


源義親の同心(家臣のことか?)にいた坂上重盛。その重盛の子清重は、中原定清に養子に入る。(中原貞清のことかもしれない)
清重(=清定)である。その清定の息子が清業である。
この清業は平頼盛の家臣であった。















美濃国の徳山氏が坂上氏の裔といわれているようで、この辺りとも繋がってくるのかもしれない。

…いつの間にか、記事が船木庄から離れてしまった。


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美濃国本巣郡船木庄

2021-01-14 | 土岐氏
 
千年村プロジェクトさんのページより たまたまヒットした「本巣郡船木庄」
http://mille-vill.org/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E5%B7%A3%E9%83%A1%E8%88%B9%E6%9C%A8%E5%BA%84(%E8%8D%98%E5%9C%92)

http://mille-vill.org/%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%8B






美濃国から員弁の鈴養湖近辺を通り、多賀の佐目に行く道があり、これは使えそうだと思った。





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國學院大學 古事記学センター の中の「舟木氏」

2021-01-13 | 土岐氏


http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/isenofunaginoatai/

いろいろな情報がここにある!
このコロナ時代に、デジタルはぴったり。
図書館に行かないと見ることができないデジタルも、少し緩和して欲しいと思うこの頃です。

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京極佐々木氏と土岐氏の関係(3)舟木氏・乾氏 そして 多治見氏・山縣氏

2021-01-13 | 土岐氏

舟木氏・乾氏(土岐氏と近江佐々木氏の中間)
この中間に九里氏が位置していたのだろうか?

http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html

頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。

確かに近江の舟木庄に土岐氏がいた!ことになる。

今まで冨城(富木)氏と土岐氏を中心に調べていたのだが、「舟木氏」の領であった「舟木庄」。
その舟木庄で1400年後半に代官を務めていた九里員秀

そして、近江八幡本郷に私領を持っていた「乾氏」土地を縁あって「九里種信」もらい受け長田氏に売る文書がある。



この「乾氏」は崩し字では「起」にも見えるのだが、「隠岐氏」とも通じる。
どちらにせよ、佐々木氏であり土岐氏なのだ。さらに佐々木義清の長男であった政義も「隠岐政義」であり、ココも土岐氏と佐々木氏の中間的な感じを受ける。

さらに、ぐっと平安時代までさかのぼるのだが、散位源行真申詞記に「興」という人物も出てくる。
源頼政のまだ27歳ごろの事件である。この頃、土岐氏はもうすでに近江国に所領を構えていたのかもしれない。

佐々木氏の系図の中の乾氏も舟木氏も平安時代後期のことである。源頼重(舟木頼重)に至までにはまだ、間がある。

===*===

佐々木氏との関係で、他に気になっているのは、土岐頼忠である。

土岐頼忠を見ると妻が京極佐々木氏であり、頼忠の弟に明智頼兼がいるのである。


土岐頼重の息に頼夏の腹違いの弟頼尚がいて、母親は高階氏という。鷹飼村の名と関係するかもしれない。(鷹飼村も近江八幡なのである。)

特に、本郷を中心とした八幡宮周辺(含む舟木庄)は鎌倉時代あたり、土岐氏の領地になっていたことがあったのではないだろうか?


こう考えると、多賀や京極とも関係があって、共に「佐目」に密やかに住んでいた時代もあり、更に旧きよしみのために「本能寺の変」の後も明智と共に闘い、やがては京極高知・高次の家臣となって‥‥とストーリーができる。

===*=== 

土岐頼員(よりはる…頼春でもある)その弟光賢が、頼貞の養子となっている。頼貞の息となった舟木系の光賢が、乾道謙と、兄弟と成っている。
光賢は「多芸荘の吉田(豊村)の地頭職」を頼貞頼貰っている。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%93%A1

明日は、もっと落ち着いて考えていこうと思う。
今日はいろいろな情報がどっと入ってきたので、書き留めておくことに、バタバタしていた感がある。


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近江国の佐々木氏系図 初期には「乾氏」「舟木氏」がいる。

2021-01-13 | 土岐氏

近江国宇多源氏佐々木氏の系図のごく初めの方に「乾氏」「舟木氏」がいる。
佐々木氏はその土地に居たものと婚姻関係も持ちながら、どんどん大きくなってきた氏族である。

もしも、土岐氏がそこに私領を持ち住んでいたとすると、佐々木氏は婚姻関係を以って、自分の氏族に取り込んで行ったと思う。









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郡府山=船来山  舟木氏の居た場所!?

2021-01-13 | 土岐氏


こちらでしょうか? 舟木庄のあった場所。








http://momoji-fw.blogspot.com/2015/12/mino-funaki.html

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京極佐々木氏と土岐氏の関係(2) 舟木庄の舟木氏とつながってくるのではないだろうか?

2021-01-13 | 土岐氏

舟木氏に注目していこうと思う。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/9dfae595496a10f86ca59bdcbaef6a3f



舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)は、その後裔である。(日本通信百科事典)


近江国で九里が代官として関わっていた「舟木庄」は、1352年(文和元年)までは土岐(舟木)頼夏が引き籠っていた場所であった!

その翌年に頼夏と頼尚はともに美濃国の土岐庄に移り住んだ。
頼尚は清原の養子婿であった。が、解官し、本姓に戻した。舟木と称した
母は高階氏。(高階は「たかがい」とも読めるそうで「鷹飼」に関係があると思う!)

頼尚の嫡男は正尚。
1363年(貞治二年)勢州一志郡堀内、属多芸御所幕下

多芸御所 ↓
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%8A%B8%E5%BE%A1%E6%89%80-180096


船木氏

舟木系図に

一、從五位下右近将監源頼重は、鎮守府将軍攝津守頼光十代の後胤、土岐隠岐守光貞の男、母は平貞時の女である。

少名を隠岐孫三郎と号す、是舟木の祖である。

幕紋丸の中に桔梗である。

花園院御宇、北條家執権の時、濃州、江州等において領知を賜い、且つ伊勢國守護職を命ぜられる。

後醍醐院の御宇、宣下を蒙って讃岐國高松庄に住し、諸郡を管領す。

その外、所領・諸所に在り。

頼重の弟貞親、頼貞、亦貞時女の生む所、故に北條家母方の一家である。

然りと雖も後醍醐天皇御陰謀の節、貞親の孫頼貞、頼重の男頼春以下、宣旨を蒙って、各々これに與し奉る、是れ高時の政務・正からず、且つその時を以って少恨あるのである、事露顕に及び、一族頼兼以下、高時の為に殺される。

その子孫一族なお官軍一味の志あるを以って、足利家と心を合わせ、後尊氏・遂に後醍醐院に背いて朝敵になった故、光貞の子孫土岐氏・朝敵と為るのである。

光貞の子孫舟木氏は始終義を立て宮方と為る。

就中頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。

建武三年春、尊氏卿・内意に頼夏に通じ、又同年九月、新田義貞を誅伐出来たならば、宜しく恩賞が有るだろうの旨、御教書を成さる。

その上さらに、一族宮内少輔・勧めて曰く

去る冬、朝敵叛逆の時、祖父頼重これを防ぎ、家人多く死す。

少しく君の為め忠を盡す者である。

且つ朝家衰えて武家盛んになり、則ち家運を開き難し、今朝家に背き、尊氏卿に属したなら、子孫當に繁昌するだろうと、再三之を諌む。

故に頼夏・やむを得ず之に従う。

しかしながらその誠心にあらず、故に尊氏卿・大将拝賀の時、数度病と称して供奉に及ばず。

観応二年、密に鎌倉を窺い、事を新田義興に通じ、之によってその陰謀を知る者あり、計遠其難。

翌年文和元年、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。

頼尚・曾つて清原氏の養子聟と為り、其の家を嗣ぐ意思があり、故に從五位下に叙せられ、源姓を改め、清原と為す。

しかしながら故あって其の家を継がず、遂に官を解いて、本姓に復し、舟木と称す、高階氏である。

足利家・兵を摂津紀伊に発する時、頼夏父子止むを得ずして、一方の大将である。

両陣相持の際、頼夏・頼尚に謂って曰く、我今朝敵と為るも全く素意にあらず、只時難を遠ざけ、父祖の本意を達せんと欲するのみ。汝早く退き重ねて義兵を揚げよと。

頼尚・父の命に応じ、熊野を越えて、勢州多藝郡三瀬谷に赴く、勢州は先祖の所任、且つ國司・宮方であるを以ってである。

居る所・三方大河を帯び、要害の地である。

昔平家の餘衆・此に居る。

延文中、頼尚攻めて之を取る。

貞治二年、城を一志郡堀の内に構えて之に移る。

其の奮跡を譜代の家人に給し、並びに百姓を入れる、今一邑である、舟木村と号す。

此によって三瀬谷舟木村の百姓等、貢米を堀内に納める。

http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html


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京極佐々木氏と土岐氏の関係という点から見てみると…土岐頼忠之妻は京極佐々木家の娘である。

2021-01-13 | 土岐氏


http://minogenji.html.xdomain.jp/page015.html

①土岐頼忠(?~1397)室町幕府第五代美濃守護

   とき よりただ
頼清の六男で頼貞の孫の一人であり、そして康行からは叔父にあたるが、妻は京極佐々木家の女である。

頼忠は「弓馬上手 鷹一流相伝」と言われ文武両道に長け、中でも「隠し落款蒼鷹之図」を遺し、
また名僧覚源禅師に帰依し禅宗を庇護、禅蔵寺(揖斐郡池田町)を開基し、
同寺境内墓所に頼忠・頼益親子の他、母や妻と共に安らかに眠っている。

頼貞の孫であり、妻が京極佐々木氏。ここに注目したい!
その京極佐々木氏の誰の娘であったのだろうか?

道誉か、高秀のあたりの時代となるだろうか。

以前調べた坂田と土岐氏との関係の記事より
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%BA%90%E5%85%89%E5%9F%BA

坂田と土岐光基(源光基)滋賀県坂田郡伊吹町にある大楽寺は、光基を先祖とし、その墓は名水〝大清水〟が湧き出るすぐ前
        源光基供養塔(滋賀県坂田郡伊吹町大清水)

大楽寺のすぐ近くに京極氏の城館跡とある。

これは、そのまま京極氏と土岐氏の関係だ!











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