九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

石黒氏と井口氏(ブラックホール・・・)

2016-09-18 | 井口氏 バラバラ情報

姓氏家系大辞典

井口【ヰノクチ ヰクチ】より

越中国砺波郡井口邑 美濃国厚見郡(稲葉郡)井口邑 近江国伊香郡井口邑、其の他 播磨、相模、土佐等に地名ありて、数流の井口氏を起こし、中世以来大いに栄ゆ。

利仁流藤原姓 … 源平盛衰記巻三十
「利仁将軍三人の男を生む。嫡男越前にあり、斎藤と云ふ。 
次男加賀に在り、富樫と云ふ。
三男越中にあり、井口と云ふ。…」


三州志 砺波郡 条
「井口三郎光義は越中にて中古諸士の祖、その先斎藤氏より出づ。
石黒、高楯、野尻、福満、向田、泉、水巻、中村、福田、吉田、鴨島、宮崎、南保、入膳、皆是れ井口氏の庶流。

其中、宮崎、石黒は嫡流にして、惣て二十四家、井口氏に属すといふ。

「石黒氏は、もと井口氏の流れ也」



しかし、『越と出雲の夜明け』宝賀寿男 法令社出版を見てみると、

「『尊卑分脈』でみると、利仁将軍の三男はおろか、利仁の後裔に、井口氏も井口光義も見えない…
但し、利仁将軍の子徐用の長男吉信の系統から斎藤氏が、次男の吉宗の系統から富樫氏・林が出たと記載されており、こちらの部分は疑問があるものの、所伝としては必ずしも誤りとはいえない・・・」と書かれてある。

確かに、本の中の系図には、井口氏の記載はなく、加藤・斎藤・石黒・林・石浦・河崎氏が見える。


このあたりは難しくて、さらに謎が謎を呼んでしまいそうである。


姓氏家系大辞典による詳しいことは、明日か明後日書き込む予定である。









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紀伊国 井口氏周辺 その(1)

2016-09-12 | 井口氏 バラバラ情報

越中国宮崎氏が熊野にいるならば、その宮崎氏の祖である井口氏も紀伊国熊野にいるのではないだろうか?と予想してみた。

つながりがあるのかはまだわからないが、紀伊国那賀郡粉河荘の粉河寺・井口で検索してみると、web情報に行きあったった。
http://michi01.com/ochiai/404dst26740515.html

かなりリアルな、井口氏がどのような役割だったのかまでもわかる記事ではないか! 記事を書かれた落合様ありがとうございます。

webの良いところは、このように個人個人の中にある貴重な情報にも出会える可能性がある!ということだと思う。

この井口氏が770年以前に熊野にいた。しかも測量術という特殊な技能を持っていた・・・とある。

近江国の富永庄も「名主光明治定之処」とあり、光明皇后は701年生まれて760年に亡くなっているので、だいたい時期を同じくして、井口氏が各地で活躍していたのかもしれない。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%85%89%E6%98%8E

【熊野が測量・水路設計を職能とした和田氏の本貫】と書かれていた落合氏の記事によると、はじめは熊野和田氏がその技術を持っていたが、それを井口氏が受け継いだとある。

近江にも、井口氏も和田氏もいるではないか。

そして熊野和田氏は橘姓に改姓し【橘廣方】、その息【良輝】、その息【良形】(方)、その息【良冬】(熊野社年領 和田庄下司 号和田庄司となる。

そしてもっと私的に重要な事には、和田廣方の娘が【鈴木良氏室】となっていることである。

鈴木良氏は、穂積姓、藤白鈴木氏の当主であり、wikipediaによると『初代・鈴木基行の子。官位は従五位下、検非違使、右衛門府生。別名、鈴木判官。

検非違使に任官し、鈴木判官を称した。扶桑略記に「天徳4年検非違使右衛門府生穂積良氏」とある。妻は、同族の熊野国造で牟婁郡大領、熊野本宮大社神職を務める橘広方(従五位下、右衛門尉)の娘。』とある。

そして、さらにその鈴木良氏の息は【重氏】、その息は【重実】(庄司)、その兄【重豊】の娘は【藤原実方】に嫁いで熊野別当・【泰救】を生んだ。

ああ、実方にも、熊野別当家泰救にもつながったのだ。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%B3%B0%E6%95%91

ぐるり巡ってつながったのである。





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武蔵坊弁慶は田辺出身かもしれない&(宮崎)太郎と湛増との出会い(想像)

2016-09-09 | 井口氏 バラバラ情報
web情報よりだが、弁慶の出自には二説あり、

「田辺市」では、「弁慶は熊野別当”湛増(たんぞう;たんそう、たんそ、とも言われる)”の子」とされているが、「松江市」では弁吉(母)と山伏(父)の間にできた子とされているようだ。

田辺説をとると、
「武蔵坊弁慶」では、母親は「二位大納言の娘」とし、熊野別当”湛増”が強奪して産ませた子としている。

「義経記」によれば、熊野の別当”弁生(べんしょう)”が二位の大納言の娘に産ませたのが鬼若(武蔵坊弁慶)であるとしているそうだ。

・・・

もしも、田辺説があっていたとすると、越中に敗走しているとき、宮崎氏を目指していたのではあるまいか?

もう少し詳しく私の勝手な想像を書くと以下のようになる。

井口三郎光義の息であった太郎、若かりしときに京に上った。(弟の南保も一緒だった。)
熊野別当の湛快の息であった湛増も若かりしときに京に上った。

二人は京で出会い、(お互いに藤原の血を引いていたこともあり)親しくなり、やがて湛増の姉妹か娘かを太郎が娶り、義兄弟となった。

湛増の息、湛全が紀州国宮崎荘の地頭となっていることから、以前は其の地頭は湛増であった可能性大である。
まだ湛全が幼い時には、太郎もその地頭の代理として住んでいたこともあるのではないだろうか?

やがて、越中国に戻り、宮崎党として徒党を組んで活躍することとなるが、その孫の代(定範)に承久の乱があり、敗走となる。

一部は信濃国へのがれ、一部は紀州国の有田郡宮崎荘に戻って来たのではあるまいか。

話をまた鎌倉黎明期に戻すと、太郎と弁慶(湛増の息とすると)も懇意(叔父かもしれない)であり、越中国の宮崎を目指して、義経と共に行動をしていたのではないだろうか。



そして、太郎の孫の代になり、

定範も、また若かりしときには京に上り、朝廷に仕えていた身である。

定範は、湛全の後に有田荘の地頭となって、後世を過ごしたのではないだろうか。


これは、全くの想像で、これから文書を調べていきたいと思います。

そして、この宮崎定範や、祖父の南保氏と九里はどのように関わっているのだろうか。そこを考えなくては。




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田辺別当 湛全の弟 左衛門尉定範 宮崎氏と称す。

2016-09-08 | 井口氏 バラバラ情報

湛全とは、湛増の息(四男)である。そして湛全の弟に宮崎左衛門尉定範(湛増五男か、義理の弟か?)がいる。(新宮市史系図+和歌山有田郡誌より)

年代はどうなのだろうか。

湛増 たんぞう
1130-1198 平安後期-鎌倉時代の僧。
大治(だいじ)5年生まれ。湛快の子。源頼政・以仁(もちひと)王挙兵のとき,平清盛について勢力をひろげ,元暦(げんりゃく)元年紀伊(きい)熊野山(和歌山県)の別当となる。のち占いで源氏に味方し,2年源義経の呼びかけに応じ,熊野水軍をひきいて屋島,志度,壇ノ浦の戦いで活躍。文治(ぶんじ)3年法印,権大僧都(ごんのだいそうず)。建久9年5月8日死去。69歳。

これは、宮崎太郎とほぼ同じである。(宮崎太郎は1132年~1195年)

その息子である宮崎(別符?)三郎 三郎の息である【宮崎左衛門尉定範】(1180年位に生まれたか?)
宮崎兄弟に関しては、「田舎の2000年歴史ロマン」に詳しい。

http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_22.html

宮崎定範 みやざき-さだのり
?-? 鎌倉時代の武将。
越中(富山県)宮崎城を本拠とした。承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇方につき,仁科盛遠(もりとお)らとともに北陸道で幕府軍を迎撃。承久3年(1221)6月8日礪波(となみ)山でたたかって敗れ,その後は不明。(コトバンク)

大正時代に「忠臣」として正五位を贈られた。宮崎の鹿嶋神社境内には、宮崎定範の記念碑が建っている。(共生の里 ささ郷)
http://www.sasagou.com/kisoyoshinaka/pg39.html

湛全の年代は不明であるが、法印湛全、法橋湛全・・・と東京大学史料編纂所のデータベースには出てくる。
湛全は、承久の乱の際に、斬首されたという新宮市史と、それは快実の間違いではないか・・・という紀伊国続風土記。
さて、どちらが正しいのだろうか。

ちなみに法橋湛全も、本人だとすると斬首されなかったことになる。

さて、宮崎太郎の母親や妻、三郎の妻、定範の妻、宮崎太郎の弟である南保の妻、などに熊野出身、熊野別当の人はいなかったのであろうか。


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井口氏から宮崎氏になり、宮崎定範が生まれる。

2016-09-08 | 井口氏 バラバラ情報
井口氏の祖は藤原利仁である。
wikipediaから繙くと、『次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。』となる。

越中の宮崎氏の祖が井口三郎光義であることが分かり、宮崎太郎の登場となる。
宮崎太郎の孫に【宮崎定範】がいる。

同じ名前の人物が、和歌山県有田郡誌にも載っていたので、別人かも知れないが調べてみたので、ここに書き留めておきたい。

・・・和歌山 有田郡誌・・・

弘仁年間今の安諦、八幡、城山、五の四村は高野山の領となり、其他の地方も亦親王郷相若しくは社寺の田荘多かりしことは、仁寿四年の真済大徳が在田郡に於いて新田、宅地、及び畠智を買得せる古券なるものを見るも明らかなり。

・・・

正暦の前後各荘は大部分中納言平惟仲の所領に帰し、荘毎に覚荘司を置かれたりしが如し。その後応徳三年尚侍藤原氏宮崎荘(古文書には宮前荘とあり)の全部を那智山に施入し、同年広荘の内」、十三町五段の地、亦那智の神漁となりしこと那智山の文書に見ゆ。

爾来宮崎荘は八十余年の間那智の神領たりしが、嘉応元年に至りて田辺別当湛全の弟、左衛門尉定範城を野村に築き、宮崎氏と称して世々この地を領す。

康和年中湯浅に藤原宗永なるものあり。その子、宗重 康治天養の頃、岩崎谷に城を構え、後湯浅の東に移して之に拠り、湯浅権守と称して勇名近隣に高し。

保元の頃終りに保田、山保田、田殿、藤並、石垣の諸荘を併領し、広も亦共有となりしが、文治二年京都蓮華王院の領となれり。

・・・




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なぜ九里が井口の仲間の中にいないのか・・・

2016-09-05 | 井口氏 バラバラ情報
前回の「越中 井口氏」の予想は外れ、近江国の井口氏よりも越中国の井口氏の方が、ぐっと古かった。

越中国の井口氏の祖は、藤原利仁の三男、井口三郎光義だそうだ。

【藤原利仁の三男で、越中国を任せられ砺波郷に住み、越中国の豪族として勢力を維持。】とあさひ塾に詳しい!
http://www.asahi-juku.jp/history.html

其の流れに井口から宮崎氏になった、宮崎太郎がいる。

この宮崎と九里がどうも関係がありそうだ~と調べていたら、またまた「あさひ塾」の中の物語の冒頭に重要なことが書かれていた。
http://www.asahi-juku.jp/pdf/miyazaki_tarou.pdf

序章に書かれているので、ぜひご一読を。

宮崎=井口…ということが分かり、では、九里はどこに?ということになるのだが、九里と名乗るのは、また後のことで、この頃は中原氏か、何か、他の氏を名乗っていたと思われる。(井口氏や宮崎氏の中にいた可能性もあると思う。)


そして【赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!】ブログさんの中にも、重要なことが書かれている。

 ✳「藤原利仁」:平安中期の人。左近将監を経て延喜11年(911年)上野介。翌延喜12年(912年)上総介。下総介・武蔵守と関東の国司を歴任。同 15年(915年)に下野国で貢物を略奪した群盗数千を鎮圧した話は有名。(『鞍馬蓋寺縁起』)この年に鎮守府将軍。
 その子の加賀介三郎叙用の兄の太郎有家は斎宮頭に任ぜられ「斎藤」の祖となり、弟の有頼は越中井口氏の祖となった。叙用の五代後の 貞宗は林氏の祖となり、弟の家国は富樫氏の祖となった。

続きはまた明日にしようと思う。



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越中 井口氏

2016-09-04 | 井口氏 バラバラ情報
近江国御家人井口中原系図の中に、九里よりも後の時代に井口が登場する。

この井口は、実は井口が中原と名乗っている時代に越中に赴き、井口になり、そして近江国に移り住んで近江の井口になったのではないか。
同じように、九里も中原の時代に越中に赴き、九里になり、そして近江国に移り住んで近江の九里になったのではないか。

九里に関しては、中原であった時代より、越中にて藤原・吉田・賀茂(加茂)・卜部・・・との関係から、神社の宮司・禰宜になっていたのではないだろうか?
そして、義仲・北陸宮が【宮崎】を頼って赴いたことも、中原姓であったからではないだろうか?

このあたりは、まだ一昨日あたりから考え始めたばかりなので、メモにとどめておく。


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