九里 【九里】を探して三千里

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源国政 = 山縣国政 の娘 佐竹氏の系図に「佐竹秀義の妻 義重の母」として記述有

2019-09-29 | 美濃源氏

この戸村義国編の佐竹氏は新羅三郎こと源義光から始まっている。
その中に、源国政の女(娘)が佐竹義重の母として名が残されていた。義重の父秀義は美濃国の山田郷の地頭にもなっている。

国政のwikipediaには
「系譜上従兄弟にあたる源頼政の養子となっていたとされ、父より美濃国山県郡の所領を継承する一方、都で斎院次官などを務めて従五位下に昇ったとされる(『尊卑分脈』)。

その詳しい動向は不明であるが、以仁王の挙兵で自害した頼政の首は郎党の渡辺省・猪早太らによって国政の美濃の領地内(現在の岐阜県関市蓮華寺[1])に運ばれ葬られたという伝説が存在する。

四人の子息たちもそれぞれ美濃国内に所領を有し、美濃源氏山県氏族として勢力を持った。」とある。











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源光保 と その周辺 (メモ)土岐光信の弟(源氏)と大中臣氏が繋がった。

2018-04-20 | 美濃源氏

http://minogenji.html.xdomain.jp/page074.html

そして「興定三郎トハ友員の郎党」とあったように、日野氏の有師が友員(有仁の勾当)で、その郎党が土岐氏(=隠岐氏)ということはないだろうか?

その周辺を探っていると【源光保】に出会った。以前にも記事にしていたかもしれないが、新しい気持ちで書いてみようと思う。
この人は、母親が大中臣輔清の娘で、この輔清の長男が「岩田家」の祖となる「大中臣清親」である。

大中臣 清親
[ 寛治元(1087)年 ~ 保元2年8月7日(ユリウス暦:1157年9月12日) ]
神祇大副輔清一男。
康治元年11月14日(ユリウス暦:1142年12月2日)叙従三位。
正三位・非参議・神祇大副・祭主。


源光保(泰) wikipediaより

(1137年検非違使左衛門少尉。1154年出雲守。1156年正四位下)
[父、源光国。母、神祗大副大中臣輔清娘]兄、土岐光信(母は別の女性)

1156年6月、保元の乱の前、鳥羽殿を守護。源義朝より位は高い。
平治の乱(1159)前半で藤原信西を発見、斬首。但し後半の二条天皇が六波羅に脱出して以降は清盛側に。
保元の乱自体が当初反信西の色彩が強く、源光保は二条天皇派の軍事貴族として反信西の一点で後鳥羽院派の反信西勢力、藤原信頼と共闘したものと思われる。
平清盛は最初は中立派だった。
後半は共通の敵信西無き後の院政派と二条天皇親政派の分裂か?摂津源氏の頼政一党も後半では義朝と戦う。 
1160年6月、後白河上皇の命を狙った疑いで、薩摩国配流(川尻で誅殺) 。これ以降平清盛の軍事独裁が始まる。

参考: 「院政の展開と内乱」p74(京大:元木泰雄)


weblioより

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。

生涯

大治5年(1130年)、闘乱事件の罪により兄・光信の土佐国への配流が決定すると光保もこれに連座して右兵衛尉の任を解かれたが間もなく還任される。
その後、兄に代わり鳥羽法皇の北面武士を務めた際、娘(土佐局)が法皇の寵妃となったことを契機としてその近臣となり、仁平元年(1151年)の院昇殿を皮切りに、久寿元年(1154年)には従四位下・出雲守となり、さらに保元元年(1156年)には正四位下に叙されるなど異例の早さで昇進した(『兵範記』)。

保元元年(1156年)7月に鳥羽院が崩御すると院近臣の一人として藤原信輔や信西らと共に入棺の役を務めた。また美福門院に近かったことから、その猶子となっていた守仁親王(後の二条天皇)の側近となり[1]、直後の保元の乱にあたっては甥の源光基(土岐氏の祖)と共に後白河天皇方に参加して勝利する。
乱の後、即位した二条天皇の親政派と退位した後白河上皇の院政派が対立を生じると、光保はかねてからの関係により終始前者の側に立って行動する。

その流れの中で平治元年(1159年)に勃発した平治の乱にあたっては、嫡男・光宗や甥の光基らを率いて藤原信頼・源義朝方に参加、第一の攻撃目標に掲げられていた信西を追跡し、山城国において発見・殺害するという大功を挙げた。

しかし同じ親政派の葉室惟方や大炊御門経宗の裏切りにより二条天皇が内裏から脱出すると、信頼方に味方する理由を失った光保一党は動揺し、初め陽明門の守備に付くが、最終的には寝返って平清盛方に加勢した。
このため乱の直後は処罰を免れるが、二条親政派の排除を意図した後白河院によって、引き続きその立場を狙われることとなる。

永暦元年(1160年)6月、後白河院の命を狙ったという罪状でついに光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流となった。さらに間髪を置かず、同国川尻(鹿児島県指宿市)において誅殺された。

参考文献

宮崎康充 「古代末期における美濃源氏の動向」『書陵部紀要』第30号(1979年、宮内庁書陵部)

関連項目

美濃源氏


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土岐氏の中の深栖氏 (メモ)

2018-04-20 | 美濃源氏
源光重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

養父・仲政が国司として東国に下向した際、兄たちと共に同行し現地に所領を得て居住したとされる。
しかし、所領の位置については下総国とも下野国とも云われており明確でない。
『平治物語』には子の頼重が京から東国の深栖一族の所領にまで源義経を招き入れた際にこれを出迎える存在として登場している。『尊卑分脈』には光重が「波多野御曹司」と称したと記載されているが、その詳細については不明である。

本拠地・深栖の所領は五男仲重の子孫が代々相伝し、鎌倉時代以降も御家人として続いたことが『吾妻鏡』にみえている。
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