九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

多田氏(後裔に能勢氏か?)と大江広元 大江親広の祖父が多田氏で、且つ平信忠が大江氏となる。其の平信忠は摂津能勢郡所領、、何かこの辺りに引っかかる。

2021-06-10 | 大江氏

どのように書いていけば、私の引っ掛かりが解明できるのか‥‥わからないのだが、ともかく書いてみようと思う。

https://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/nishikawa2/antyuubou/page/A0001.html

寒河江大江氏は、大江広元が文治五年十一月寒河江庄を頼朝から拝領したことに始まる。大江広元はこの時、置賜地方全域即ち成島・屋代・北条の各庄と置賜郷の地頭職も得たものであった。広元は幕府の重鎮として鎌倉にあり、寒河江庄には、目代として多田仁綱を入部させた。

多田仁綱仁ついて「安中坊系図」には「仁綱は多田満仲朝臣の弟出羽満成の長男、左近将監満信の後胤なり、摂州多田郷吉川村仁誕生す。文治六年庚戌四月、中原広元の譲りを受けて羽州寒河江庄を領す。はじめ本楯村仁住し、のち吉川村に徒る。いわゆる吉川は、旧里摂州吉川村の地に擬して、この地を名づけて吉川と号す云々。嘉禄元年乙酉七月十日、薙髪 法名正阿源宥、文暦元年甲午六月十四日卒、或いは六月十日と言う、阿弥陀堂の傍らに葬る」と書かれている。・・・

親広以後の後継者は6代政広まで鎌倉にて過ごしたが、7代元顕は寒河江荘に下り、安中坊屋敷を本拠地とした。

 

政広まで鎌倉にて過ごしていた! 

ただし、親弘は承久の変で逐電していたので鎌倉にはいなかったのではないかと思う。

紀伊にも大江親広がいたという説も、ご地元の方でブログに書かれた方がいらした。寒河江の前に潜んでいたことがあったのかもしれない。

 

下記は以前にもご紹介したかもしれない。

佐々木哲氏のメルマガからで、非常に面白い箇所で、今まさに関係してくると思う。

目賀田氏の祖と考えられる右馬助平信忠は、『梁塵秘抄口伝集』巻十で後白河院の今様の弟子の筆頭に挙げられ、「この中には信忠こそは年来弟子にてもあり、千日のうた(法住寺御所での千日の今様会)にまじりたる者はあれ」と述べられている。信忠は今様を通して後白河法皇と強く結ばれていたことが分かる。
 
また信忠は、後白河院近臣大膳大夫平信業の年齢差のある兄であり、『山槐記』保元三年八月十日条の除目の記事では「任右衛門尉平信成(元左、然信忠、成父子礼、同為大[ママ])」とある。この記事から、信忠と信業(信成)は兄弟だが、父子の礼をとっていたことが分かるが、このうち「同じく大と為す」をどう読むのか解釈が難しいが、大は右の誤りで、「元は左衛門、然るに信忠と父子の礼を成し、同じく右衛門と為す」と読めよう。目賀田系図で信忠―信生(のぶなり)とするのも、信忠―信業(信成)の関係を反映したものと考えられる。信業も信忠の養子になることで、後白河院近臣としての地盤を築いたのだろう。
                                                                                                                                                                                                                                                           
信忠は右衛門尉のまま、保元元年(一一五六)十一月二十八日には検非違使に補任され(山槐記除目部類)、翌二年に従五位下に叙爵され、検非違使に叙留された。同三年(一一五八)正月三十日に従五位上に加級されて山城守を兼任し、三月一日には正五位下に叙された(兵範記)。八月十日に弟信業が左衛門尉から右衛門尉に転じて信忠と同様に右衛門尉になり、八月二十五日の行幸では信忠の子信遠・信元が左衛門尉として供奉している(山槐記)。その後信忠は十月六日に備中守に遷任された(兵範記)。
 
ところで信忠は検非違使補任のとき平氏から大江氏に改姓している。そうであれば信忠が大江氏改姓後に『愚昧記』仁安二年九月二十一日条で「信忠妹」と記された坊門局も平氏ではなく大江氏の可能性がある。壬生家文書八一号採銅所領次第によれば、信忠は摂津能勢郡採銅所預大江氏の出身であり、馬大夫大江成賢の孫で、大膳進大夫範資の子だという(小泉恵子「中世前記に於ける下級官人の動向について」『中世の人と政治』吉川弘文館、一九八八年所収)。壬生家文書によれば、大江氏の系譜は神奉賢―大江成賢―大江範資―大江(平)信忠と続き、本姓は神(みわ)氏である。三輪(神)氏は出雲系神職の氏だが、また鉄など鉱物資源を採掘する氏族でもあり、その一族が銅の採掘を管理していたことがわかる。
 
===*===
 
この記事は次に続く。
 
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大江通景 以成 藤原爲盛 

2020-11-13 | 大江氏

大江通景の息の名は、続群書類従では「以通」が確認できたが「以成」はいなかった。もちろん名前を変えた可能性もある。
遡ってみたが、越前国・加賀国・越中国などとの関係は見えてこなかった。
疋田斎藤氏の方、藤原爲盛が越前国司であった。

https://books.google.co.jp/books?id=h4TOU2exzc8C&pg=PP68&dq=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E4%BB%B2%E5%AE%A3%E3%80%80%E4%BB%A5%E8%A8%80%E3%80%80%E4%BB%A5%E6%88%90&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi3rf7W4_7sAhXU7GEKHZTzCoo4FBDoATAFegQICBAC#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E6%B1%9F&f=false



制治民政篇: 上巻




攷證今昔物語集: 本朝部下




国司補任 4



佐伯地方の氏性(10)佐脇貫一氏著 p.6-13
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/ss13303.pdf







藤原章綱略伝  佐々木紀一氏著 p.10

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大江佐房 弟 佐時(尾張次郎) 上田氏の祖となる

2020-09-26 | 大江氏

熱田社の起源について 前川明久 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/shigaku_15_maekawa-1.pdf

尾張氏を追っていて、いま大江氏に中に「尾張次郎」を見つけた。
此の尾張二郎は大江佐時である。

父が佐房で、尾張守であった。
此の親広の息であった佐房。
親広の孫であった佐時。

上田氏を名乗ることとなっているが「承久の乱における戦功により信濃国上田荘を拝領し、子の佐泰・長広らが上田氏を名乗る。しかし直系は、弘安8年11月17日(1285年12月14日)の霜月騒動で没落した。 」とある。

さらに、尾張次郎佐時は「佐々木氏信」の娘と結婚し、広宗・宗清をもうけている。
以前にも記事にはしていたが、佐時が「尾張次郎」と名のっていたことに驚いている。

広宗は佐々木氏信の息として養育されたようである。
宗清も佐々木少輔を名乗っていたそうだ。

  

坂田郡志 上巻
  

  



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源頼清が山縣氏の祖とすると、周辺の多田氏との関係は?

2020-08-29 | 大江氏

大江広元の妻は多田仁綱の娘である、という。
多田仁綱とは?清和源氏の多田氏なのだろうか?

大江氏の系図である『安中坊系譜』によれば摂津国多田郷吉川村の出身で、源満仲の弟・源満成の長男・左近将監満信の後胤であるという。

そこで、系図を見るが「仁綱」は見つからない。

美濃源氏とは 美濃源氏フォーラムさんHPの系図より
http://minogenji.html.xdomain.jp/page229.html

美濃源氏の中に前々回の「山縣氏」国直(ー国政)が見え、(土岐氏のグループに入っている)
また、もう一つ原氏が出た満政系の重実―重成もみえる。

共に同じ清和源氏の中の美濃源氏であることがわかる。
とすれば、同じ原氏であった可能性もあるのかもしれない。



===*===

話を多田氏にもどすと、多田行綱が見えるので、その周辺に仁綱もいた可能性もある。

源氏の系図 さん
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_43_keizu.htm

この系図によると源(山縣)国政の孫で原となった頼清!
その上に「多田行綱」がいる。源頼盛の養子となったのだろうか?



大江広元(中原広元として活躍していた頃含む)は多田氏とも繋がっていたことになる。

九里となる以前の中原氏も多田氏(含頼政)とのつながり、山縣氏とのつながり、があったかもしれないと思う。
特に、大江氏は因幡守であった。九里も因幡国にいた。
広元の養父となった広季の弟となる「親光」。
その息親厳が隋心院の大僧正であり、九里のあった場所も隋心院領であった。

何処がどうなっているのかは、いまだわからないが、何等か関りがある。

===*===


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大江広元の義理の妹に 「水谷重清母」がいる。

2020-06-08 | 大江氏






調べてみてわかったが、大江広元は源頼朝より一歳若い!
いつもお爺さんのように感じていたので、驚き。(笑)
web上に載っている絵による、刷り込みである。

1148年生まれである。1225年に他界しているので、77歳まで生きたことになる。

大江宗元 - 経歴不詳。はじめ宗光と名乗った。別名に那波政広。判官代、掃部助。子孫の那波氏は引付衆などを務めた。
この那波氏がいることで江戸時代になって長田重元の息永井直勝が大江姓を名乗ることにもつながっているようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F

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大江能広 = 中原能広か?

2020-02-05 | 大江氏

大江能廣は中原能廣でもあった、と思う。が、将監の方が上位だろうか?






1213年 建保元年




能範は藤原能範も見ることができる。1179年 治承三年





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大江能範の周辺

2020-02-05 | 大江氏

大江能範 江兵衛尉(大江)能範 と 吾妻鏡には名が出ているようである。
吾妻鏡には
『建歴3年(1213年)学問所当番・近習たちのうち芸能に堪能な輩を選び学問所を設け、それぞれ1~3番の当番の日を定めた。大江能範は、島津忠久、北条義時、伊賀仲能、安達景盛、達と壱番の当番であった(出典:吾妻鏡巻第二十一)』

『建保6年(1218年) 7月22日 所司に5人が就任する。北条泰時が別当に就任し、二階堂行村、三浦義村らと共に御家人を扱う。大江能範は将軍の外出や邸内の雑事、伊賀光宗は御家人の随行への督促を行う。 』とあることから、兵衛尉を名乗りながらも文官的な役割もこなしていたと思われる。



大江氏の中で「能」の文字が入っている。

他に 1200年 大江能廣がいる。親子かも知れない。
   1201年 大江能廣 (左近将監)
   1213年 江左衛門太郎能實も見える。
  
新判官能員が見えるが、こちらは比企氏であろうか。

中原親能の「能」をいただいたのだろうか。






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中原広元から大江広元へ その理由が吾妻鑑の中にある。

2019-12-26 | 大江氏

web情報の吾妻鑑に、ほほぅ。。。と思える場面があったので、そのままここに留めておきたい。

現代語建保四年(1216)閏六月小十四日丙寅。中原広元さんは、今月一日大江性へ戻りました。天皇の許可の内容を、二階堂行光を通じて、将軍実朝様に申し入れました。すぐにその許可状の写しを書き写して保管したそうです。

 正四位下行陸奥守中原広元が、恐れながら謹んで申しあげます。
   特に朝廷の恩を戴いているので、先例に倣って中原性を戻して大江性にしたい願いです。
 右については、広元が謹んで先例を調べましたところ、事情があって性氏を直す事は、中国の常道手本、我国の恒なる規則にもある。理氏は李に直した。これは老子(李性)よりも先です。姫性は蒋にかえました。これも周公旦(姫叔旦)の後です。田口斉名は紀性に直し、弓削以言は大江としました。日本・中国の例は沢山あります。散位従四位上大江惟光は、実の親子なので継ぐのが妥当でしょう。従四位下行掃部頭中原広秀(季ヵ?)には、育てられた恩がありますけれど、性を変えたいのです。中原性は大勢になり性を継ぐ者が沢山おります。大江は見ずに流れるように縁者が少ないのです。早く元の性に戻って、絶えそうな性を継ぎたいのです。願わくば、朝廷は先例に合わせて、中原性を変えて大江広元に戻すように、命じていただければ、ますますもって朝廷を敬い、儒学の道を復興することを知られるでしょう。広元が恐れ敬いながら申し上げます。
 健保四年六月十一日   正四位下行陸奥守中原広元
 正二位行中納言藤原隆衡が、宣言します。天皇の許可があったので、申請通り認めます。
 同年閏六月一日              大外記兼筑前守中原師重〔命じられて書きました〕

===*===

この場面、大事!
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大江広元の娘,飛鳥井氏、そして九里伊賀守へ

2018-06-15 | 大江氏
大江広元の娘は飛鳥井 雅経室となっていることの関係が、二百年以上たっていても繋がっていて、九里伊賀守(浄椿)と九里四郎次郎員秀(確か備前守)にも及んでいたのか?

はたまた朽木晴綱の妻が飛鳥井雅綱の娘であるという関係が、近いところにいた九里氏にも秘伝を頂戴することに至ったのか。


飛鳥井氏は足利将軍にも蹴鞠の文書は献上しているのだが、飛鳥井氏が九里に下さるにはそれ相応の理由というものがあるに違いないと思うのだが…

なぜだろう。


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佐々木広綱の妻は大江広元の娘である。

2018-05-08 | 大江氏
佐々木氏と大江氏と宇都宮氏と熊野の接点を考えると「佐々木定綱」となる。
佐々木定綱の妻は宇都宮朝綱であり、両親は源秀義・源為義娘である。⇒(源義朝・鳥居禅尼とも、姉妹関係である)

定綱の弟に盛綱がいて加地氏となる。
定綱の息広綱の妻が「大江広元」の娘である。大江広元の他の娘たちは、高階惟長室、飛鳥井雅経室、大外記中原師業室、藤原公国室、藤原実国妾となっている。(系図の中には佐々木広綱室は見当たらなかった。)

熊野の本宮「大江法眼」と「佐野法橋」は、どうしてもわからなかった。残念。
アヤシイかな?と思ったのは、行命であった。行範の息である。



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