九里 【九里】を探して三千里

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横山氏(1)

2016-11-12 | 横山氏
我が祖である『九里敬三』(九里政敬の孫であり、天保14年生まれ)の妻が横山氏の娘であるが、調べてみると、浅井氏のようにあちらこちらで顔を出してくるのである。

まず、佐々木氏のラインからweb情報を集めてみた。

『武家家伝』朽木氏より
「秀義の嫡男は定綱で、その子信綱は所領を四子に分割、長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。

信綱の次男高信は高島氏を名乗り、泰信・頼綱・胤信らの男子があった。嫡男の泰信は高島氏を継ぎ、その三男師綱は平井村に住して平井氏を称した。高信次男の頼綱の長子頼信は横山に住して横山氏、次男の氏頼は田中に住して田中氏、そして三男の義綱は朽木に住して朽木氏を称したのである。そして、高信の三男胤信は永田城を築いて永田氏を称した。このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。」



佐々木秀義~定綱~高信(高島氏)~次男頼綱~長男頼信(横山氏)
となる。



西島太郎氏の『戦国期室町幕府と在地領主』から
「横山氏の史料上の初見は、正応五年(1292年)「よこ山のさへもん殿」という書状が残っており、その人物は【横山出羽三郎左衛門尉頼信】のことだそうである。

上記の高島氏次男頼綱の長男頼信と一致する。

湖西の永田氏のように、後に湖東にも進出してきたのだろうか。
同じ横山氏の一部なのかどうかも今の私にはわからないが、湖東にも横山氏はいて、横山城(坂田郡・長浜市)や横山館(旧蒲生郡蒲生町で、現在の東近江市横山町)として、跡が遺されているようである。

横山城は「横山」という名だけが残されていて、横山氏が築城したものではなく、浅井氏が築城したものと思われる。
一方、横山館の方は「横山太郎左衛門」が築城している。また、近くに櫟神社があることが、私にとっては気にかかるところである。

近江の城郭探訪さんのブログより拝借させていただくと、http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/46316ca2c5a1d7d799b8baf9c1e090aa

「お城の概要

横山氏の居城は横山にあったと考えられるが、遺構・伝承とも不明で、ただじ、現在も集落内に横山姓を名乗る家が3軒あり、そこに近世には大庄屋の大きな屋敷あったという。史跡ウォーカーの比定地の櫟(くぬぎ)神社の、となり大きな屋敷跡が残存する、館跡か?・・・(滋賀県中世城郭分布調査4)
お城の歴史
横山太郎左衛門は六角氏の旗頭で、子孫の横山将監は蒲生氏に従ったこと『近江名跡案内記』にある。

 横山喜内。備中守。六角家臣。
後に蒲生氏郷に仕える。永禄十二年、蒲生氏郷の初陣である伊勢攻めに従う。天正十五年、九州征伐に出陣。厳石城攻めで軍奉行。抜け駆けにより処分されかかるが許される。戦後、蒲生姓と一字を賜る。蒲生頼郷と改名。蒲生十八将が蒲生姓を称するのは、全て九州征伐の軍功によるものである。天正十八年十月、塩川城六千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。氏郷没後、石田三成に仕えて蒲生真令と改名。関ヶ原合戦で嶋清興らと共に奮戦。討死した 」

…とある。

【くぬぎ神社】である。

九里の『くぬぎ三郎左衛門』・・・は、ココからきているんじゃないだろうか?(妄想)

もう一つ気にかかっているのが『山崎氏』である。越中国の九里氏がいた(現在もいる)ところが山崎という地名であること、高島七頭にも山崎氏がいること、山崎氏も宮司を務めていたりすること、柏原藩の藩主も山崎氏から来ていたり・・・・と接点がある。
(九里はササキの出、神社の方)という祖母の最後の言葉が本当だとすると、山崎氏も可能性があると思われる。

しかし、まずは横山氏から湖西と湖東での活躍や、どのような人がいたのかを調べてみたい。



コメント (1)
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