源頼朝の右筆に筑後守俊兼という人物がいる。
この「俊兼」という名前、中原にも、源氏にも、いて東京大学史料編纂所DBでは411件も出てくる。
僧名にも「俊兼」という人物がいたようであるし…
何故気にかかっているのかというと…
この筑後守俊兼の娘が波多野義通の弟と思われるのだが、遠義の養子となり 「波多野次郎朝定」他の母となっていることを知ったからである。
さらに、號白川の義典の母親でもある事になっている!!
つまり義定の妻という事になる。義定改め俊職となっている。
秦野市史には「波多野三郎義定・大井実春・山内滝口三郎と大内惟義の家人らが、伊勢羽取山において志太三郎義広と合戦し、終日死闘を繰り返した末に遂に義広の首を取った。」とある。
川村家の歴史には「波多野義通の妹は坊門局と称し、大友実秀の女相模局は実朝の室坊門信清の女に仕え、波多野義定・朝定の妹越前局は後鳥羽法皇と坊門信清の娘との間に生まれた嘉陽門院礼子内親王に仕えているから、波多野氏は古くから坊門氏と関係があり、…」
上系図が荒木系図 したが松田系図で、どちらも群書系図部集(googlebooks)からのもので合え亨。
よく見ると母同、母義雄同とある。
二十一歳で自害した義典の母は俊兼の娘であったことになる。
この義典のことは、【公暁-鎌倉殿になり損ねた男】矢代仁さんの御著書である。
この本を読んで、鎌倉時代の謎が面白くなった私であった。
そして、其の場所近くに、頼朝の右筆俊兼の娘がいた事になり、もう一度読み直そう!と思っている。