九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

筑後守俊兼(また筑後権守とも) と 松田氏

2022-02-05 | 佐伯・波多野氏

源頼朝の右筆に筑後守俊兼という人物がいる。

この「俊兼」という名前、中原にも、源氏にも、いて東京大学史料編纂所DBでは411件も出てくる。

僧名にも「俊兼」という人物がいたようであるし…

 

何故気にかかっているのかというと…

この筑後守俊兼の娘が波多野義通の弟と思われるのだが、遠義の養子となり 「波多野次郎朝定」他の母となっていることを知ったからである。

さらに、號白川の義典の母親でもある事になっている!!

つまり義定の妻という事になる。義定改め俊職となっている。

秦野市史には「波多野三郎義定・大井実春・山内滝口三郎と大内惟義の家人らが、伊勢羽取山において志太三郎義広と合戦し、終日死闘を繰り返した末に遂に義広の首を取った。」とある。

川村家の歴史には「波多野義通の妹は坊門局と称し、大友実秀の女相模局は実朝の室坊門信清の女に仕え、波多野義定・朝定の妹越前局は後鳥羽法皇と坊門信清の娘との間に生まれた嘉陽門院礼子内親王に仕えているから、波多野氏は古くから坊門氏と関係があり、…」

 

上系図が荒木系図 したが松田系図で、どちらも群書系図部集(googlebooks)からのもので合え亨。

 

よく見ると母同、母義雄同とある。

二十一歳で自害した義典の母は俊兼の娘であったことになる。

この義典のことは、【公暁-鎌倉殿になり損ねた男】矢代仁さんの御著書である。

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%85%AC%E6%9A%81_%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%AE%BF%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E6%90%8D%E3%81%AD%E3%81%9F%E7%94%B7/yZBxDgAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=%E7%BE%A9%E5%85%B8%E3%80%80%E5%85%AC%E6%9A%81&pg=PT67&printsec=frontcover

 

この本を読んで、鎌倉時代の謎が面白くなった私であった。

そして、其の場所近くに、頼朝の右筆俊兼の娘がいた事になり、もう一度読み直そう!と思っている。

 

 

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波多野遠義と比企遠光が兄弟だったならば…

2022-01-29 | 佐伯・波多野氏

http://himagine1110.web.fc2.com/keizu/hatano.htm

遠義 1082年生-1155年

比企遠光 1110年より 比企郡司として京より下向 とある。

比企尼の夫遠宗は遠光の祖父に当たるようで、

秦野市史研究第19号によりますと

「比企氏は比企郡司の家系ですが波多野三郎が比企郡司となって比企遠光を名乗り、武蔵比企氏の祖になったことが比企郡川島町にある金剛寺の「比企氏系図」が明らかにしておりました。秦野市史編纂調査委員でもあられる藤井先生にとってこれは新な発見でした ...」

 

更に、義家、義朝の乳母夫も、もしかすると波多野氏から出ていたのだろうか?

比企能員を頼家の乳母夫としたことにも、その流れがそうさせたのではないだろうか?

 

今まで、私は頭が中原氏で一杯だったが、この佐伯氏・波多野氏も九里氏におおいに関係がありそうである。

他の方に九里氏は秀郷流だったのでは?といわれていたのだが、今やっと、その中にいたような気がしている。

 

 

 

 

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複雑なはずだ!の大失敗。 小野良實と大江良實とは別人ではないか? 年代が…

2022-01-23 | 佐伯・波多野氏

ものすごい発見だったと思ったのは、間違い!!!だと思う。

今、掃除機をかけながら再考していたら、年代が大きく違うような気がした。

 

もう一度考える。

『公俊の母が大江良實の娘である。』これは何年位の事だろう。

兼光の娘と同じくらいの歳の人物と考え、950年位に生まれたと仮定する。

小野良實が出羽郡司になったのが850年、娘もせいぜい840年前後とか??

809年という説もある様だが、小町の祖父の小野篁が805年生まれなのでありえない。

やはり、別人です! 皆さま大変失礼いたしました!

 

 

 

 

 

 

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複雑なはずだ! 小野良實とは坂上当澄のことで、小野篁の養子となり、文室秋津の娘を妻とする。

2022-01-22 | 佐伯・波多野氏

小野良實は坂上當道の弟當澄のことであり、小野篁に気に入られたのか養子となる。

文室秋津の娘が良實の妻となる。

文室秋津は、三諸大原の息で、遡っていくと天武天皇につながる。

承和の変連座した参議文室秋津 とある。

この承和の変には、和歌山の九里系図に記載のあると云われている「橘逸勢」も連座している。

つまり同時代で、仲間であったわけだ。

 

時代を戻して、小野良實の娘に小野小町がいる。

また、この小野は大江良實との名のりもあり、郡司として赴いていた場所も出羽国「寒河江」であった。

鎌倉時代に大江氏が寒河江を拠点とする長井氏が出てくるが、其の流れが関係しているのではないだろうか?

更に、大江(中原)親厳が隋心院の大僧正となり、九里の土地に関係があったと思われるのだが、それも元々は小野氏の関係から来たのかもしれない。随心院門跡領が九里という土地なのである。

その近江に佐伯氏(後の波多野氏)がいて、婚姻関係が進む。

そこに大江氏とも重なりのある中原氏との婚姻関係も加わり、秀郷流とのつながりができ、やがて東国へも…

経範が公俊であり、母親が大江(小野)良實の娘であること。

これは、大きな私的発見! 嬉しい!!

 

 

 

 

 

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宇都宮氏(中原宗房)と源季長 そして、中河辺清兼(波多野義通の義父)が繋がっているのではないだろうか?

2021-06-14 | 佐伯・波多野氏

波多野義通の妻が中河辺清兼の娘という。

宇都宮氏(中原宗房)の中原が中河辺であったかもしれない、と思う。

というのも、「清兼」を調べると、中原清祐の息という事で土地の文書が出てくる。中河辺という苗字が拝領した土地の名前に由来するとした場合、その前は中原や宇都宮氏であった可能性は十分にあると思う。

その土地は、秦武元・佐伯氏・紀の某女・そして小野季長…と渡っていく。この小野季長…が気になる処である。源季長???

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/e/119cc7b7e59befb893df42757bde6fe7

もしも源季長だったならば、宇都宮氏につながってくる可能性もあるのではないだろうか?

 

 

宇都宮(八田)宗綱の弟宗房は中原宗房(藤原宗円の次男)であり、息は宇都宮信房である。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b5f1db0c2cfbf9f9eae2ac7ee1ed239c

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/7173c05329c7c6b752231675b38162c9

 

源季長=中原季長=小野季長 だったのではないだろうか?

 

いろいろと探しているうちに、菅原季長という人物に出会った。

https://geocity1.com/okugesan_com/gojo.htm

 

するとこの人物は五条氏という。

さらに系図を探してみると、年代的にもぴったりかも知れない。しかも五条氏は後に清原氏へと

https://geocity1.com/okugesan_com/gojo.htm

 

五条 季長[ 文永2(1265)年 〜 正和2年3月2日(ユリウス暦:1313年3月29日) ]長経一男。母河野辺入道女

 

河野辺という名は日蓮関係で聴いたことがあり、しかも五条氏の周囲に前田氏・壬生氏・鍋島氏‥‥など、気になる氏名が見えている。

更に以下の阿野家にも繋がっている。

https://geocity1.com/okugesan_com/urinke.html#jitsucyoku_ano_moto

 

此処には七回も「河野辺」という名があった。↓ 殿原も!

http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-902.html?sp

 

何故、富木氏は日蓮を匿っていても罰されたり、被害に遭わなかったのであろう。

日蓮が迫害を受けていたにもかかわらず。 

 

今まで「五条家」は矢部・清原氏の時に目にした程度で、調べたことはなかったように思う。

また、「河野辺」という苗字も新しく出てきたことが、しかも富木氏や日蓮と関係がある人であったことが、驚きであったとともに、近いところにいる感じがした。

 

宇都宮と那珂氏が繋がっていることも分かり、宇都宮には秋元氏という名が見えたこともまた、驚きであった。

 

 

 

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平経方の娘 祐子内親王家一宮紀伊 藤原懐尹の息重経(紀伊守・紀伊入道)=素意 素意の母は神祇伯大中臣輔親女

2021-02-02 | 佐伯・波多野氏

以下は、私の想像も混じっているのだが…

小辨は、藤原令尹の娘ではないだろうか?
そして、重経=素意で、母親は大中臣輔親の娘のようである。









そして、小辨が平経方(仲平?)に嫁いだ…として‥同じ祐子内親王家に出仕していたのだろうと思う。
更に藤原重経に嫁いだ一宮紀伊は、夫の出家のためだろうか、藤原秀遠に嫁ぎ1082年に遠義を産んだのではないだろうか?
彼女は1113年まで活動の様子が見えるそうである。

仲平とはどのような意味なのだろう。


仲平とは、ひょっとすると「藤原仲尹」「藤原中尹」かも知れない。











もしも祐子内親王紀伊が藤原秀遠に嫁いでいたならば、そして、祐子内親王紀伊の父が平経方がであったならば…

平経方は佐々木氏の祖であり、佐々貴宮の神主職も勤めていた人物となる。(1053年ー1115年)
経方の母は後冷泉院女房綾御方であり、父は義経(初名章経)(1021年ー1082年)

更に、祐子内親王紀伊の兄弟たちが季定(為俊)・行定・行実・家行・行範と成る。(古代氏族系譜集成 宝賀寿男)

と成ると、ぐっと佐々木氏と藤原秀郷流が近くなる。

佐々木哲学校の記事では
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_15.html
「沙々貴神社所蔵佐々木系図では、経方の妹を歌人とする。年代的にも紀伊は経方の妹か妻と考えられる。」とある。

どれが真実なのかは私にはわからないが、佐々木氏と藤原秀郷流波多野氏の距離がグッと縮まったと思う。


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波多野義通の母は 藤原師綱 の娘であった。

2021-02-02 | 佐伯・波多野氏

波多野氏を調べている。
藤原波多野義通の妹が中原久経の母であった。

その周辺なのだが、義通の母は藤原師綱の娘」であるという。
そこで、藤原師綱を調べてみたのだ。

因みに「中原師綱」もいるのだが、年代的には藤原師綱のようである。
更に藤原師綱の言う名前も二人いる。一名は平安時代、一名は鎌倉時代である。

===*===

藤原義通の母である藤原師綱の娘。
藤原師綱という人物は奥州に深く関係する。

【鎮守府将軍】であった。

wikipediaでは「康治元年(1142年)の陸奥守在任時においては、同国を実効支配する奥州藤原氏の藤原基衡に対して強硬姿勢で臨み、朝廷の権威を高揚させたとして名声を得た。 」とある。

その時の様子が「藤原基衡」のwikipediaに書かれていた。
「藤原師綱との諍い
康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春、または季治)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季春(季治)は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季春(季治)の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。」

潔癖な藤原師綱である。

この人物が見込んだ(自分の娘の婿に)のが「藤原遠義」(波多野遠義)であったわけである。

義通の母が藤原師綱の娘であることは、祖父が【鎮守府将軍】であったという事で、大きく義通にも影響したのでは、と思う。
妹も同じ母親とするならば、源義朝に嫁いだ際に正室になるであろうとの期待があっても不思議はなかったであろう。
それが、藤原季範の娘が正室となったため、義通は失望して義朝から気持ちが離れたのだろうと思う。

さらに遡ると、義通の父といわれている遠義の母親は「一宮紀伊 仲平の娘」だそうである。









以前記事にしていた「祐子内親王家紀伊」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b3755c58daa21d3756535e4a45c86f6c

という事は、巨勢麻呂の藤原家の越前守藤原懐尹の娘(小弁)の娘(一宮紀伊)と秀郷流の藤原家(佐伯経範の養子の系・秀遠)が婚姻関係を結すび、藤原遠義(波多野氏)を(1082年に)産んだことになる。



藤原秀遠。
祐子内親王家紀伊の裔である、かもしれない。
「平経方」なども絡んできてくる!
素意も、近くなり、あの藤原実方もいる。

其の祐子内親王家紀伊の父は仲平‥‥の部分がまだわからない。


===*===

本日 外はツルツルのスケートリンク。我が家の前は坂道。
豆まきも終わり、早く春になって欲しい===☆デス。





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藤原秀郷流と藤原利仁流の接点は、後藤基清だけではなかった。 藤原千常の息  

2020-12-17 | 佐伯・波多野氏

私が持っている系図と違っているのだが、
藤原秀郷流の千常の息 文脩(ふじわら の ふみなが)の妻に藤原利仁の娘となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%96%87%E8%84%A9

一方、私の持っている系図は千常の妻が利仁の娘である。そして文脩が生まれている。
千常の息に文脩・文行・兼光の三人いることになっている。兼光の註には「母利仁女 兄文脩為子」とある。

文行の息には公光がおり、「佐藤公清、藤原経範(右馬助、波多野氏初祖)」の父である。
この佐藤氏の系から後藤氏に養子に入ったのが「後藤基清」である。



基清は、中原政経、小野義成と共に正治元年(1199年)の三左衛門事件で源通親への襲撃を企てたとして捕縛される。

岩手史学硏究, 第 74~79 号「基康の六代前の先祖基綱の弟基連は先に鎌倉幕府問注所執事三善康信の猶子となって式目評定衆となり、康信の子太田康連と義兄弟となっている。」とある。





確かに基連は実在の人物なのだが、残念ながら式目評定衆には見えてこない。
布施基連という人物がいるのだが、時代が室町時代となり、上記の基連とは別人と思う。


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佐伯=波多野経範の五代目「波多野義通」 そして 斎藤氏との接点「後藤基清」

2020-12-16 | 佐伯・波多野氏

波多野義通は、波多野経範より5代目に当たる。
源頼義に30年近く仕え、前九年の役で活躍した佐伯経範は藤原姓(波多野氏と同族)

これで計算すると1125年前後に生まれた人物となり、やはり源為義の時代と成る。
藤原氏族系図1.(千葉琢穂著)によると親清=称山内義通となっている。

下記の森岡先生の系図では親清の息義通となっている。
山内義通と波多野義通が同一人物かどうかは不明のまま、として、次に進もう。



~~~*~~~

義朝の家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛は平治の乱の際に源義朝に従っていた。

wikipedia「斎藤実盛」より 44歳の時に駒王丸を助ける。

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。
実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

このことから、中原兼遠の夫妻が乳父母であったことがわかる。

中原親能夫妻もまた源頼朝の娘の乳父母であった。「親能の妻は、文治2年(1186年)に誕生した頼朝の次女・三幡の乳母となっていた。」とある。

後藤実基は頼朝の妹の「坊門姫」の乳父母であった。(実基も藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。)

源氏の乳父母には、特に平安から鎌倉時代前期までは、中原氏と後藤氏や山内氏・鎌田氏などの藤原秀郷流の一族であったようだ。

中原親能もまた、母は波多野氏であったのか、相模国で育っている。(と言われている)

中原親能
「『尊卑分脈』によれば、明経道の家系である中原氏出身の中原広季の実子で、大江広元とは兄弟とされる。
一方、『大友家文書録』によれば、実父は参議・藤原光能であるが、母が前・明法博士の中原広季の娘だったので、外祖父の養子になったのだという。
なお、第4代将軍九条頼経の側近である大外記中原師員(幕府の高級官僚摂津氏の遠祖)は、従兄弟の師茂の子である。 」

三幡の乳母(波多野経家娘?)と書かれたものもあった。波多野氏の中の誰かが中原親能の妻となっていた可能性もあるのかもしれない。


不思議ではないか。
中原親能は土肥実平と共に京での情報を集め源頼朝に送る役目となり、いっぽう中原久経は近藤国平と共に全国に「鎌倉殿御使」として上洛,畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たる役目となっている。

何れも藤原秀郷流の大きな氏族の中でつながりを持っている者を選んだのではないだろうか?
つまりは、もともと源氏の乳父母の流れの者を。

中原久経
平安末・鎌倉初期の幕府吏僚。源義朝に仕え,頼朝にもおそらく流人時代から候じていたものと思われる。頼朝の兄朝長の母波多野義通の妹の子という縁で早くから源家に仕えたようである。文筆に携わる者であったが,平家追討のさなか,頼朝の命を受け元暦2(1185)年2月近藤国平と共に「鎌倉殿御使」として上洛,畿内近国の武士荘官らの非法狼藉停止に当たる。さらに7月には院庁下文を帯し鎮西に下向,同様に管内の治安維持に当たり,後継の天野遠景の鎮西奉行就任まで同地にあった。久経は主に後白河院との折衝役を務めたと推測される。しかしその後については全く不明である。

(奥田環)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
関連語をあわせて調べる

===*===

そして、鎌田氏が長田氏と婚姻関係を持っていたように、中原久経の裔も長田氏とも婚姻関係を持っていたと想像できる。
また、秀郷流の中の佐藤氏から養子を入れた後藤氏は藤原利仁流斎藤氏であり、利仁流との接点となる「後藤基清」
後藤基清は中原政経とおなじ一条能保の家司として共に働き、婚姻関係も持っていたかもしれないと思う。
後藤基清の息に「太田基連」がいる。その太田氏がのちのち中原の常忍と同様に日蓮の支援者として登場する「太田乗明」なのではないだろうか?

そして一条能保の家司であった「小野義成」とも同様に、中原氏は小野氏ともつながりを持っていたであろうと思われる節もある。

小野氏とは近江国で繋がっていそうなので、この辺からのつながりではないかと思うのだ。(後日調査要)

===*===

私の頭の中では

中原久経ー政経ー経任(橘次)-経久ー常忍 と成るように思っている。

その周辺で、中原氏(大江氏・橘氏)・秀郷流の全般・後藤氏(斎藤氏)・太田氏 ・長田氏・小野氏らとつながってきているような気がしている。

そして近江国の伊香郡にいた関係上「余語氏」(佐々木流)とつながった事によって、後に佐々氏・前野氏とのつながりができ、そのつながりが大和宇陀松山藩の九里氏にも引き継がれていると見ることができる。
和歌山の九里氏は大江氏とのつながりが強く出ているようなのである。(ここは、これから図書館に依頼している系図が来るとわかるかもしれない。)

余語氏よりも以前に、木村氏で佐々木氏とつながっていたのかもしれないし、長田氏でつながっていたのかもしれないが、そこもこれから!である。

次から次へと謎が追ってくるが、徐々に範囲が狭間ってきているように思う。


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近江国 豊浦庄

2019-11-01 | 佐伯・波多野氏

波多野氏とつながっていると仮定し、(中原久経が波多野義通妹の夫か息かは、まだ微妙であるが…)

豊浦庄は【初めは源有仁が持っていて、師忠~師綱~波多野経秀に渡って来た!】と以前記事に書いた。
その周辺を再考したい。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/67d4882023073c50d515e43ecd8d8628


まず、波多野経秀は下記のページによると
https://rekishi.directory/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%B5%8C%E7%AF%84



藤原師綱
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 承安2年9月6日(1172年9月25日)
別名 宗形宮内卿
官位 正四位下、宮内卿
主君 白河上皇
氏族 藤原北家小一条流
父母 父:藤原尹時、母:源師忠の娘
妻 藤原俊忠の娘
子 済綱、尹成、親綱、波多野遠義室
    藤原朝方室



この系図と、以前書いた記事を合わせると、(このページは今は見ることができない。残念!)

「○曽屋村楚也牟良

江戸より十九里、村内に波多野原と唱ふる秣野あり、往昔は此邊広く係りし原野にて庄名の因て起りし所なり、【倭名鈔】淘綾郡郷名に幡多あり、 今彼郡中に其遺名と覚しき所なし、おもふに幡多の字音地彼郡に接したれば、恐くは【倭名鈔】に載る所は別當所にして後世郡界沿革ありて、本郡に属せしならん、又古書に庄内を南北に分ち唱えへり、
古筑後権守遠茂藤原秀郷の後胤、刑部丞秀遠子、庄内北方を領し、保延三年( 1137)正月ニ男次郎義通或は景延に作る、に譲る證下に註す、按ずるに、義通初て波多野を以て称号とせり、古書に波多野氏の人、多く所見あり、人物部に詳載す、

義通左馬頭義朝に属し、京師にありしが、保元三年(1158)春京師を辞して郷中に住す【東鑑】治承四年( 1180)十月十七日條曰、義常叔母者、中宮大夫進朝長母儀仍父義通就妹公之好、始候左典厩之処有不和之義、去保元三年( 1158)春の頃辞洛陽居波多野郷、按ずるに、寺山村に古城蹟あり、波多野次郎の居城なりと云傳ふ、則義通が居城なるべし、義常は義通の長子也、

平治一乱(1159)の後佐々木次郎経高庄内に居住せり【源平盛衰記】曰、佐々木源三秀義が古共平治の乱の後は此彼にかゝまり居たり、
次郎経高は相模の波多野にあり云々、佐殿謀反を起給ふとて聞て、経高波多野より馳参り、兄弟四人、佐殿を守護し奉る、
又弟三郎盛綱も居住す諸家大系図曰、盛綱住相模国秦野、」

つまり、この波多野には佐々木氏も居、中原氏も居る、そんな場所だったのである。


波多野義通の母は藤原師綱である。
その藤原の周辺がバックにいる波多野氏。

松田郷で自害した波多野義常の息有常が中原久経の息となったのではなく、久経が囚人となっていた有常の預かり人となっていたのではないだろうか。
1180年の頃、有常はいくつだったのだろう。1107年に義通が生まれ、義常は遅めでも1137年、有常は遅く見積もって1167年としても1180年の頃は13歳。たぶん、1180年には30歳以下~13歳の間の歳で、預かっていたという事かもしれない。
大庭景義が有常を預かっていたと言われているが、昨日の論文を読んでいて、為子の子が、有常にかかっているように思った。
その部分を添付しておこう。

皆さまは如何思われますでしょうか?






1188年 松田有経(常)となって鎌倉幕府の御家人として登場する。

1144年に松田で朝長を産み、その後その地で育てたという伝承もある波多野義通の妹。

松田郷=現松田町一帯=治承4波多野義常が松田郷で自害、大庭景義に預く(東鑑)、のち義常遺児有常に返給、「松田」を称す






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