九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

浅小井 法名「朝房乾五郎北条左近太夫浄光寺殿了清大居士」

2021-01-23 | 浅小井深尾氏



浅小井公宣 播磨守(富木常忍にもなぜか播磨守が付けられていた…)の弟「乾五郎朝房」(富木常忍は五郎であったと思う。)
この乾氏を継いだ人物 五郎朝房の法名に「北条左近太夫」と北条が付けられている。不思議である。

「朝房乾五郎北条左近太夫浄光寺殿了清大居士」

系図をよーく見ると、其の乾五郎の父「家長」の註に、アッ!という事が載っていた。今まで見落としていたのだ。。。。

佐々木定綱四男定高 猶子成 號佐々木
この人のことだったのかぁーーーー!
定高の裔に乾氏が出た…と知ってはいたのだが、この乾五郎朝房がその人物とは繋がっていなかった。





なるほど、先祖である長家は「佐々木之庄浅小井村」に住してはいたが、佐々木氏とは名乗っていなかったことになるのかもしれない。
家長の時に「號佐々木氏」と佐々木氏を名乗ることになったのだと思う。
家長の妻は加地太郎信實の娘なので、より佐々木氏と近い存在になったのかもしれない。

定高は、建久二年に流罪となって高知土佐に流されているのだが、この乾氏はどうなったのだろうか。
北条とお墓に刻まれていると思うので、もしかすると鎌倉幕府の中で働いていたのかもしれない。

===*===

伊賀光綱(光季の息)十四歳で父と共に承久の乱の始りに歿しているのだが、妻がいた。
佐々木広綱の娘である。

佐々木氏、伊賀氏とも繋がろうとしていた矢先であったのだろうか。
佐々木広綱は、承久の乱では宮方であった。
伊賀光季は幕府方。
広綱たちが殺したのかもしれない。

===*===

伊賀(所) 朝光  保安二年(1121年)~ 建保三年(1215年)94歳
蔵人所から京下りして御家人となる。
田原武者所と註にある。田原武者所朝光とでも呼ばれていたのかもしれない。
伊賀光季も所太郎左衛門とあった。

この系図と年齢に関して、つぎの記事にしたいと思う。





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北条貞時・宗政 周辺と 土岐氏・浅小井氏

2021-01-21 | 浅小井深尾氏

土岐光定の母は東胤頼の娘。
妻は北条貞時の娘である。






北条貞時の娘に「北条師時に嫁いだ娘・土岐隠岐守光定に嫁いだ娘がいた。」




北条宗政の息「師時」の母を見ると「北条政村」の娘である。その娘から見ると「伊賀の方」は祖母である。同じ母から「貞時の室」も生まれている。



北条師時は、浅小井氏から猶子を取っている。師方である。



以上をまとめると、

北条氏を中心に伊賀氏・土岐氏・浅小井氏が繋がっている。

土岐氏に「乾氏」・浅小井氏にも「乾氏」が出ている事が不思議である。

金沢時秀の妻となった人物も浅小井氏(師方の妹)となっている。(義時の孫)




義時の妻たちとこどもたち
伊賀の方の娘の嫁ぎ先であった「一条実雅」伊賀の変の後のことになると思うが「唐橋通時の室」となって通清を産んでいる。





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良峯姓前野氏 山内氏とつながりか?  山内一豊の弟康豊 深尾氏 乾氏 (1)

2020-09-17 | 浅小井深尾氏

大和宇陀松山藩の九里の祖は…どこにあるのか。

柏原織田家臣系譜には、良峯姓の前野氏(=佐々氏)から二度ほど大和宇陀松山藩の九里氏に養子に入ってもらっている。
(大和宇陀松山藩は後に丹波柏原藩に移封)
また、水野氏からも二度。
岡田氏とは、一度岡田氏に養子に入り、一度は九里に養子に入っていただいている。

大和宇陀松山藩の九里氏は以上のように養子だらけなのだ。

そこはお家大事!で、九里氏の血脈から離れていかぬように細心の注意の許であったと仮定する。

===*===

良峯姓の前野氏から話を始めよう。
此の良峯姓は東国の源頼朝のもとに赴いた「原高春」と同じ氏である。
詳しくは
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bd935e99c1e3f50fbae745bf4c7e4e8b

【貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。」
千葉上総介広常の妹が妻となった原高成。その息(広常の外甥)高春
平忠盛の妻となった原高春の姉。
薩摩守平忠度の母となる。
高春の姉が平忠盛の妻となり、忠度の舅となる。(忠度の外舅)】

この高春の弟「高長(従五位下)から九里氏と関係のある佐々氏(前野氏)へと続く。

ここにきれいな系図がある。
http://www.maeno3.com/m-ichizoku/m-yosimine.htm

高長ー宗長―宗安ー時綱ー時基ー宗氏ー宗義ー高康ー綱宗ー時正ー長義ー忠勝-その息に九里に入った十助がいたのである。


忠勝は又五郎である。
九里に入った十助の息六左衛門ー六蔵…となる。 十助ー六左衛門ー六蔵 である。

今回注目したのはその忠勝の息に山内盛豊の弟が養子として入ってきていることであった。
山内には前野氏から妻を迎えていたり、とご縁があるのだが、其の山内の名を見ると…「十郎」がいる。
十五歳で没しているので、九里十助とは」別人と思うのだが、気になる。十助から十郎はありそうである。

しかも、この山内氏は深尾氏と乾氏とを繋げ何度も婚姻関係を結び、山内一族の中に組み込んでいくような感じなのである。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yos-maeno1.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yos-maeno2.html

山内・深尾・乾氏が繋がっていたとすると、このグループの特徴は近江国にも美濃国にも関係がある三氏であるということではないだろうか?

さらに三氏ともにその後、土佐国に渡っている点も共通である。

===*===

しかし、九里氏は土佐国とは関係が薄い、と思う。
中原秋家氏が土佐へ渡った事はあったが、、、身近に土佐国へ…の形跡がある人物はいないようなのだ。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yamanouchi.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-toki-inui.html

さらに、奇妙な点は我が九里の家紋は、乾氏の榧之内十文字なのである。乾退助=板垣退助家と同じ家紋である。

山内氏…と言えば、佐々木流の佐々木氏頼の弟が山内氏であったはずである。
そこと一豊の山内氏が繋がるのかどうかは?であるが、、、、可能性はあるのではないだろうか。



やはりこの辺りと関係がありそう。和歌山九里系図には【六角家】と系図の註にもあった。


しかも深尾氏は九里が六角に攻められていた際に、九里の幼子を匿い、逐電した。
たぶん幼子を逃がし育てるために共に脱出したのだと思う。

===*===

近江・美濃国では山内・深尾・乾氏のグループと前野氏が関係し、

尾張国では前野氏・原氏・長田氏が繋がっており、
さらに前野氏の婚姻関係から坪内氏・蜂須賀氏も、
更に突っ込むと生駒氏・津田氏・岡田氏・水野氏も連なってくる。

前野系図1によると
「【始祖】前野右馬二郎時綱  【本貫】尾張國丹羽郡前野邑

【世系】前野氏は、良峯姓なり。其先は桓武天皇の皇子、大納言良峯安世に出づ。 後裔瀧口右馬入道宗安の嫡子右馬二郎時綱が尾張國丹羽郡前野邑を領して氏と為す。あるひは良峯姓といふ。

【家紋】洲濱、丸之内花菱、立浪」

…とすると、原氏も良峯姓なんで桓武平氏となる。

つまり、前野・原・長田氏の三氏は桓武平氏を先祖に持っていることになる。

坪内氏は富樫氏と関係があり、藤原利仁が始祖のようである。
蜂須賀氏は蜂須賀系図によると「尾張國海東郡蜂須賀村 蜂須賀氏は源姓なり。斯波尾張守家氏の後裔に出づ。」とある。
尾張の岡田氏は源満政

水野氏は「水野氏 (尾張国) : 丹姓平氏良兼流の致兼の子の長田致頼を祖とする長田氏(尾張平氏)流の浦野氏の葦敷氏一門の小河氏(三河小川氏)の庶家である。尾張国山田郡(春日井郡)水野郷を拠点とした。
庶家に毛受氏、同族に尾張木田氏・尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏))・平野氏や三河平氏の大浜氏・三河永井氏などがある。後世に美濃源氏流八島氏(羽島氏)の系統と仮冒(偽称)した。ちなみに徳川家康の母方の家系であり、江戸時代には譜代大名として優遇された。」

水野氏も大きく、九里氏養子に入ってきてくださった「光信」の系がどこに位置するのかがさっぱりわからずにいる。
此の水野氏が長田氏と同じ祖であり、驚きであった。何かしらこの辺りに突破口がありそうである。

ヘロン様のページより
https://blog.goo.ne.jp/heron_goo







蒲生氏郷にも仕えていたという。




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村岡五郎良文 から 村岡次郎忠頼ー大蔵太郎将恒(武蔵権介=大蔵太郎・足立郡司武蔵武芝の女婿)ー秩父武基ー平武綱が源義家に随う

2020-09-12 | 浅小井深尾氏

村岡五郎良文 から 村岡次郎忠頼ー大蔵太郎将恒(武蔵権介=大蔵太郎・足立郡司武蔵武芝の女婿)ー秩父武基ー平武綱が源義家に随う

武綱の子孫が畠山重忠となる。
渋谷重国は武綱の父武基の曾孫である。


===*===

平(村岡)良文の兄に良兼がいて、その裔に長田氏がでている。

平公雅ー平致頼となり、長田氏へ続くと思われるのだが、諸説あって定かではない。
特に樹堂様のページには以下のようにあったので、よくわからなくなってきた。
長田氏の祖は一応大まかに桓武平氏周辺という事にしておこうと思う。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/titibu1.htm

紀伊の天野祝家(丹生直姓)の支族が、介にしろ或いは掾にしろ、九世紀前半の武蔵の国司に任じたことは、六国史など他の史料には見えないうえ、押領使や馬牧別当の官職も、天野祝という神祇の家にはふさわしくないので、丹生直姓については信じ難いように思われます。ただ、大和で丹生川上神社に奉祀した丹生祝の一族が武蔵に来た可能性は、武蔵北部の丹生神社が丹生川上神社を勧請したとの伝承もあって、この辺は無視しがたいものだとも考えられます。

 こうした事情からみると、秩父郡には中村郷の北隣に丹田郷という地があり、また水神である丹生神奉斎もあったことから、秩父郡にあった古族の裔が武蔵国司在任者の姓氏を仮冒して丹治(多治)真人姓を称したと考えるのが、比較的妥当であろうとみられます。その古族とは、知々夫国造一族か丹生祝かあたりが考えられます。武蔵国総検校となって武蔵・相模・下総などに大きく勢力を伸ばした称平姓秩父氏の一族はともかく、丹党の一族が居住した地域はほぼ北武蔵に限られ、これは古代知々夫国造の領域であったとともに、丹生神社が密に分布した地域でもあったからです。

===*===

そこは、難しいのでパスして、佐々木経方の時代には長田氏はもう「知多郡野間郷内海庄長田村」にいたことになる。
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真野氏と三浦佐原氏、真野氏と深尾氏。

2019-12-09 | 浅小井深尾氏

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/mano1.htm


(1) 東大史料編纂所蔵の『幕府諸家系譜』第二九冊に平姓という真野氏の系図が見えており、鎮守府将軍平良兼の第十三代として真野豊後守をあげ、その二男が真野孫三郎重政であって近江人と記し、その子の新太郎重則は近江に生まれて鷹匠として大神君家康に召し出されたとして、その子の九兵衛重吉以下子孫の系譜を記載する。

ところが、『姓氏家系大辞典』では『寛政譜』などにより、この家は、三浦佐原義連三代真野五郎胤連の後であって、「金右衛門重政(尾張富塚の人、仕信長)-同重吉(元亀二卒)-同重家(寛政に孫三郎重政、仕家康)-惣右衛門重則(近江二百四十石)」と記載する。この辺にも、尾張と近江に大きな混乱が見られるが、解明が困難である。
なお、真野金右衛門重宗(重家同人か)の養子に女系親族の庄九郎重勝(正勝)もおり、もと野尻氏を称していたが、真野氏を名乗り秀吉・家康に仕えて鷹匠頭をつとめた。
 
 (2) 『姓氏家系大辞典』では、秀郷流藤原氏という民部丞正永が近江真野を領して家号とすると記し、『寛政譜』には正永の後裔の「太郎右衛門正俊(仕信長)-勘右衛門正次(近江百七十貫文)-勘兵衛正重」という「正」を通字とする真野氏をあげる。

これも近江真野に起こったというから、実態は古族真野臣の末流なのであろう。 そして、上記(1)の九兵衛重吉の子孫の女性がこの「正」流真野氏の男性(真野与惣兵衛正常)の妻となって通婚するから、(1)と(2)とは本来同族で真野臣末流なのではなかろうか。こうしてみると、幕臣となった真野氏の多くが近江出自であったことも考えられる。


===*===

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%AE%B6%E9%80%A3

ここからは変な想像かも知れないが、自分の記憶のためにと留めておきたい。

浅小井家連がもしかすると三浦佐原家連(肥前守)かもしれないとするのは危険だろうか。
年代は同時代と思われる。
藤原実明(下記の系図では洞院実明)の孫が盛連の娘を娶り「公名」が生まれている。

「西園寺公経と三浦惣領家は親密な関係を持っていたことが知られているが、庶流の佐原家もこの洞院流藤原氏と関係を持っていたことがうかがえる。」(千葉氏・三浦氏のページより)

https://chibasi.net/miurasoryo6.htm



この系図中にいる三浦佐原盛連の弟に家連がいて、ひょっとするとそこと浅小井深尾氏とつながっていれば…という想像である。



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浅小井家長は公文職であった。

2019-12-02 | 浅小井深尾氏

若林氏による論文より

中世後期近江国蒲生下郡・上郡・〈境界地域〉と佐々木六角氏
著者 若林 陵一
雑誌名 東北文化研究所紀要

…ところで、蒲生下郡における古くからの土着勢力としては、本佐々木氏(佐々貴氏)一族の存在が知られる(前稿)。
具体的にそれらは「佐々木系図」によると、佐々木行実(「号豊浦冠者」)以下、

豊浦・一井・浅小井・奥嶋・馬場・賀茂・池田・武佐・船木・木村(以下蒲生上郡)・野口・山田(神崎郡か)・伊庭(以下神崎郡)・猪子・佐野・山崎など、多く蒲生下郡内の地名と一致する。
これらは、それぞれ当地の近くに本拠を置いた勢力とみられ、例えば正中二年(一三二五)の奥嶋荘に関して、「当庄下司式部四郎義信(正応本「佐々木系図」に同義信が奥嶋姓。
以下引用史料中の括弧内は筆者註)、公文家長(同じく浅小井姓)」らの動向が確認される。

===*===

私にとっては重要なヒントを含んだ内容と思う。

まず当荘下司式部四郎義信(奥嶋姓)
つまり奥嶋荘の下司を務めていたのが義信。

浅小井荘の公文を務めていたのが家長である。

以前の記事を絡めて書くと、

家長の母が加地信実の娘
家長の息が公宣(治部・播磨守) 弟は乾五郎
公宣の息が氏輝(重宣) 弟は北条師方(北条師時の猶子。母は大仏宣時娘)
            弟は範信(号 浅小井)
            弟は宣親、その息は常晴・宣政   

ついでに師時の母は北条政村の娘
師方の妹は金沢時秀(時秀の父は北条時村、母は二階堂行義)
加地信実の娘が北条泰時の実母とされる御所に仕える女房


さらに遡る。
初代は盛実。祖母は下野守紀盛宗の娘。
盛実は佐々木荘の下司であり、佐々木宮神主である。

大事な深尾氏の情報源である「深尾書簡」たつやさんのページより気になる部分を書き出す。

https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/26826705.html

小源太(浅小井氏第二代・浅小井小源太清家、後改めて清長。その後、深尾監物太郎清長。以後、子孫は深尾氏を名乗る)の浅小井に蟄居

寿永三(1184)年の頃、佐々木源三秀義と同意して、親子とも伊賀国平田城を責め、戦には利を得候へども、大将秀義老死(七十二歳没)、その後父(浅小井氏初代・四郎長家)も病死(文治三(1187)年)。

その後、清長の次男・安顕ヤスアキ。別名・安頼。承久の乱(1221年)にて戦死

安顕の息・家連(深尾小文太)(入道了弁=家連

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ca6b8d2d85209f5c5e2d16f517e77074



===*===

上記の家長が「公文職」であったこと、富木常忍の親族と思われる中原能兼が「公文職」であった可能性が高い事がリンクする。文書には公文家長と出てくる。

【日本中世の身分と社会】 丹生谷哲一著 塙書房
この本の中に
「富木蓮忍・常忍の本姓が中原であったことが知れるわけであるが、とすると、さきの伊賀国御家人中原能兼についても同族関係が想定されてくるので、千葉氏が伊賀国守護に補任されて「十一ヵ所御領」(守護領)を管領するにあたり、その「公文」として執事家富木常忍の同族の者がその沙汰に従った可能性は少なくなかろう。」

とある。

ここで、九里氏の前身である中原氏と浅小井深尾氏とは同族なのではないかと思っていたことが、より近くなったと思う。

また以前中条家長とのことも考察したが、また気になる点が。。。
宇都宮知家の猶子に中條家長。

「建久6年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こしている。家長は知家の養子となったことで思い上がり、尊大な態度が増えたため…」とある。

宇都宮知家のことである。

浅小井深尾氏の家長が中条家長であれば、宇都宮氏とも繋がり、全てが上手くいきそうなのだが…

年代はどうなのだろうか?
以前の考察では別人という結果に終わっているのだが。。。。

宇都宮知家=八田知家(朝家)である。父は八田宗綱。
中原宗綱の本当の父は「中原宗家」だったのではないだろうか。





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深尾氏・西尾氏 

2018-08-03 | 浅小井深尾氏

見つけた! 西尾氏・深尾氏  https://books.google.co.jp/books?id=51wLqxrbqrIC&pg=PA89-IA7&dq=%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E3%83%BB%E6%B7%B1%E5%B0%BE%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwimho33_c_cAhWOfd4KHeRGCloQ6AEIKDAA#v=onepage&q=%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E3%83%BB%E6%B7%B1%E5%B0%BE%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F&f=false

183頁から深尾 
189頁あたりから深尾・西尾 194頁まで

全部は見ることができないかもしれませんが、雰囲気だけでも~。

豊臣秀次の事件後より西尾となったことが書かれている。











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浅小井氏(深尾氏)・加治氏・中条氏・八田氏・北條氏の周辺 (3)

2018-08-03 | 浅小井深尾氏
では、姓氏家系大辞典に登場していただこう!






…蒲生郡志とは、はじまりからして違うのである。

行範かぁ。。。ちょっと、困った。

西尾氏の系図を探してみようと思う。


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浅小井氏(深尾氏)・加治氏・中条氏・八田氏・北條氏の周辺 (2)

2018-08-03 | 浅小井深尾氏
 昨夜、八田知家の母が中条家長の伯母となると書いたのだが、一晩明けて…

八田知家の母とした場合、年齢はどうなるのだろうか?と心配になった。

八田知家 1142年生まれ
その母ともなれば1118年前後となるだろうと思う。

一方、中条家長は 1165年生まれ。
父が例えば30歳離れていたとして1135年生まれ その妹である。

なんか、おかしい…。

ここは、深入りしない方が良いと思った。
私には解明は難しい。

~~~*~~~

浅小井家長のほうだが、母親は加地信実は蒲生郡志にもそのようにあったことから、それを信じて先に進めたい。

浅小井家長の息は公宣 「治部・播磨守」その弟「乾五郎」とある。

九里に関係する「乾氏」の系なのではないだろうか。(長命寺縁起に水茎岡山城城主 乾甲斐守と名乗った人物の記載がある。)

公宣の息「氏輝」はもう一つの名前を「重宣」と言った。その氏輝の弟が「北條師方:北條師時成猶子娶大佛信時女」とある。

北條師時を調べると(コトバンク)
「1275-1311 鎌倉時代の武将。
建治(けんじ)元年生まれ。北条宗政(むねまさ)の子。母は北条政村(まさむら)の娘。長門(ながと)守護,小侍所,評定衆,引付頭人(ひきつけとうにん)をへて,正安(しょうあん)3年10代執権となる。応長元年9月22日出家,その日に評定の座で没したとつたえられる。西殿とよばれた。37歳。通称は武蔵四郎。法名は道覚。」
「生年:建治1(1275)
鎌倉後期の幕府執権。北条宗政の子。弘安7(1284)年7月小侍所に就任,永仁1(1293)年6月19歳で評定衆・三番引付頭となり,正安3(1301)年8月,出家した貞時のあとをうけて10代執権となった。師時は貞時の女婿である。この師時の執権就任は,貞時の子高時が成人するまでの間の中継相続的な性格のものだったとみることができる。同年9月相模守。嘉元2(1304)年10月従四位下。応長1(1311)年9月22日出家(法名道覚),同日死去。一書には23日評定の座で死去したと伝えられている。<参考文献>福田豊彦「北条師時」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』)

(新田英治)
…とある。

その父、
「北条宗政
没年:弘安4.8.9(1281.9.23)
生年:建長5.1.28(1253.2.27)
鎌倉中期の武将。得宗北条時頼の子。母は北条重時の娘。時宗の同母の弟に当たる。幼名福寿丸。相模四郎と称し,西殿と呼ばれる。文永2(1265)年,従五位下右近将監。同年7月北条政村の娘と結婚。9年鎌倉幕府評定衆に列する。10年,引付頭人。建治3(1277)年武蔵守。このころ筑後守護となる。文永の役(1274)後,元の侵攻に対応するために鎌倉幕府は九州の守護を次々と新任したが,宗政は兄の時宗の分身として同国守護を務めたものと思われる。若くして病を得,死去。

(本郷和人)

…とある。

泰時の弟に政村がいるので、師時の母親が政村の娘という関係から浅小井師方を猶子として迎えたとすれば、やはり北條泰時の母は加地信実娘なのかもしれない。

さらに、浅小井師方の妹 金澤修理介時秀室とある。
詳しくはわからなかったが、北条時村の息が「時秀」である。
時村の妻は、父:二階堂行義である。

式部大夫 時秀と記載があった。この人だろうか? 金澤流ではなく、政村流となるのだが…。

氏輝には師方の他にもう一人弟がおり「宣親」といい「式部太輔 又信親 属足利尊氏公」とある。宣親の息にも式部 常晴が見える。

ここで蒲生郡志の頁をめくり、驚いてしまうのだが、氏輝の弟に範信がいて註に「號浅小井」とあるのだ。
あれっ、今までも浅小井だったのでは?と思い見直してみると、
長家は浅小井村に住し、浅小井の祖となっていたのだが、その後深尾谷に逼塞したため深尾氏を名乗り、その息に浅小井冠者はいたものの、どうも深尾氏を名乗っていたようである。母親が加治信実の娘である「家長」も深尾太郎」とある。

北條氏に入った師方の代も、深尾であった。

深尾氏と浅小井氏を姓氏家系大辞典で調べよう! (3)へ



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浅小井氏・加治氏・中条氏・八田氏・北條氏の周辺 (1)

2018-08-03 | 浅小井深尾氏
知家の妻は成尋の妹で、源頼朝の乳母近衛局である。」と中条氏の武家家伝にある。

ところがもう一つの武家家伝に「家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。」とある。

知家の妻だったのか、母だったのか、ココで混乱している。どちらが正しいのだろう。



ちょっと冷静に考えてみよう。

源頼朝の生まれた年は1147年である。近衛局(成尋の妹)は1142年に八田知家を産んでいる。乳母にはいろいろな種類の乳母がいるそうで、必ずしも「お乳」を分けるだけではない。育ての乳母も、ある時は性の手ほどきまでしたという。

しかし、八田宗綱の娘(寒河尼=結城朝光の母となる女性)のwikipediaに「保延3年(1137年)- 安貞2年2月4日(1228年3月11日):宇都宮氏や小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたという(『老士雑談』)。頼朝の乳母の一人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられている。 」とあった。

これは、八田宗綱の妻となった「近衛局=八田知家の母」と共に、連れだって近衛天皇に仕えていたとも考えられるのではないだろうか?
あまりにも符合していると思う。
もしかすると近衛天皇が産まれた時からだったのかもしれない。
寒河尼2歳の時に近衛天皇は生まれている。


八田知家の母の甥である中条家長。その家長の娘が道乗の妻。その道乗の母が、加地信実の娘。

八田知家の母:中条成尋の妹=中条家長の伯母  成尋の息が家長。


近衛天皇は
[生]保延5(1139).5.18. 京都
[没]久寿2(1155).7.23. 京都
第 76代の天皇 (在位 1141~55) 。名は体仁 (なりひと) 。鳥羽天皇の皇子。母は皇后美福門院藤原得子 (贈左大臣藤原長実の娘) 。永治1 (41) 年践祚,次いで即位。在位の間,父鳥羽上皇が院政を行なった。陵墓は京都市伏見区竹田内畑町の安楽寿院南陵。




ちなみに
中条成尋の父は成田成任で、成任の祖父は横山義孝である=小野義孝(義隆)  孝泰(隆泰)の子。 武蔵介。939年武蔵介に任命されている。



八田に嫁ぎ、1142年に知家を産む。
その縁で1165年生まれの家長が養子となる。

頼仁親王(1201年)で、息道乗が1220年位、その妻(家長娘)も1220年位か。
1165年生まれの家長。

加地信実の娘は1220年に道乗を産んだわけなので、1200年位と思われる。

ちょうど同じころ、浅小井家長も生まれていると思う。
この二人は姉妹ではないかと思われる。



東寺と関係があると思われていた道乗、1215年-1273年 となっている。

ここで。疑問が生じるのだが、↓
東寺地乗院僧正 道乗で、母親は父:左少将 坊門基信の娘 父親は二条良実とある。

二条家に養子に入ったのだろうか???



ここにはあまり突っこまずに、加地氏と浅小井氏、そして北條氏のつながりをみていくことにしていきたい。

北條泰時の母親は、人物叢書では「母のことは全く分からない。」とあったのだが、もしも加地信実の娘の「阿波局」であるならば、浅小井氏と北條氏とのつながりも上手く説明がつくと思う。

浅小井家長の母は加地信実の娘で、その家長の孫が「北條師方」となり、「北條左近太夫 北條師時成猶子 娶大佛宣時女」とあるのだ。

そしてこの大佛宣時の周辺を調べると、またまた二階堂氏・伊賀氏・結城氏が出てくるのである。

また、浅小井氏が式部太輔を名乗っていることも、何かしら秦氏系の匂いがするのだ。

秦・賀茂・中原・清原・大江・大中臣・中臣・惟宗・尾張?・・・等祭祀を司っていたルーツを持つ氏が浅小井氏のルーツの中にも入っていたのではないだろうか?



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