九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

加地信実女 浅小井泰長 妻 そして浅小井氏の三つの流れ(深尾・山田・奥島)

2018-08-01 | 浅小井深尾氏

加地信実の娘が浅小井泰長の妻になっている。ということは、加地実秀の姉か妹である。
そして浅小井氏には加地佐々木氏が入っているということになる。

浅小井泰長の系図の註には「深尾次郎 右衛門尉 飛騨守 文暦卒」とある。

泰長の息 家長の註「深尾太郎 式部太輔 佐々木右衛門尉 母加地太郎信実 定綱四男左衛門定高成猶子號佐々木」とあるではないか。調べてみると式部太輔の他のメンバーを見ると「大江・中原・菅原・大中臣…」のような文官系と思われるのだが、右衛門尉である。

浅小井氏の始まりが行実で母親が紀氏である。その息【盛実】が佐々木宮神主とある。
そのあたりで、やはり祭祀等を行う血脈なのかもしれない。

この盛実は、三上新太夫=浅小井盛実であろうとの意見もあり(佐々木哲学校のコメント欄)、ますます神社とのつながりの強さを感じる。

佐々木行実ー盛実ー家実ー長家ー清長ー泰長ー家長ー公宣ー氏輝(重宣)…というのが浅小井深尾氏の嫡流。
清長には清家と、後に奥島氏となる義長。
清長の息には泰長の他に安顕・義清がおり、義清の息が山田氏となる。


さて、家長の註「母加地太郎信実 定綱四男左衛門定高成猶子號佐々木」の部分だが
定綱の四男定高とある。他の系図では三男定高である。

公卿類別譜には定高━定時━定清(右衛門尉、或左衛門尉)とある。

家長はその定時にあたるのだろうか???
定時は本名:太郎時定とある。また、別の系図では「沢田氏」となっている。

姓氏家系大辞典では、
澤田氏【安倍氏族、佐々木氏流】尊卑分脈に「佐々木定綱―定高(澤田)―定時(本時定)―定淸」、また淺羽本佐々木系図に「時定(澤田太郎左衛門)定淸(澤田源太郎左衛門)」と見える。・・・とある。
また、「六角家臣団」のwebページにも澤田氏が出ていた。

よくわからないが、佐々木定高は土佐に配流にされていること(建久二年の強訴)と、母を同じくする盛綱の元暦元年(1184年)12月、平氏追討の為備前国児島に在り、息:信実の娘が後に児島にあって道乗を産むことにつながっていく。

そのことと何かが絡んでいくように思えるのだが…

その信実の姉妹か本人が浅小井家長を産む。


~~~*~~~

感じであるが、「中条家長」???とつながっていく???

その周辺がwebにあるのだが、「東寺長者道乗は父頼任親王、母を、加地信実の女で、祖父北条時政としていた。」とある。確かに「阿波局」は時政の娘にもいる。が、義時の母も「阿波局」(加地)なのだ。


加地信実の娘の息=信実の孫「道乗」の妻となるのが上沢中条家長の娘となるようだ。
道乗の義父が家長ということになる。

浅小井家長と中条家長とは、別人であるが近い所にいるようだ。浅小井家長の母親の年代に中条家長がいる。

もう一度年代も含めて考えてみると、

頼仁親王(よりひとしんのう、建仁元年7月22日(1201年8月22日) - 文永元年5月23日(1264年6月18日)
道乗は1220年位の生まれと仮定する。

その妻は1225年位とする。
家長は(1165年-1236年)

一方の浅小井家長は1220年生まれ位と思われる。

加地信実の娘でweb上にあるのは「阿波局」である。北条泰時(1183年~1242年)の母となる人物である。

泰時を産んだのが1183年ということは、泰時の母と「道乗の母・浅小井の母」とは別人と思われる。
道乗の母と浅小井の母とは同一人物かもしれない。姉妹かも知れない。


中条家長は(1165年~1236年)鎌倉時代の武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子である。・・・とある。

家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家(1142年~1218年)を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。・・・とある。

上沢家長は中条家長であり、同時に宇都宮・八田氏の養子となる。つまりは中原氏でもあるのだ。

…とすれば、式部太輔もあり得るように思えてくるのである。

~~~*~~~

かなり複雑で…もっとすっきりと書きたい!






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浅小井深尾氏と金田庄、そして江戸時代になってから富木常忍の領を賜わる? 

2018-07-24 | 浅小井深尾氏

九里氏、浅子井氏と婚姻関係があったと思われる。それに、浅小井という土地は九里氏と同じ金田庄内である。ではないだろうか?(九里は西本郷・金剛寺である。)







1525年1504年(第一次伊庭の乱)に生き残った少年?男児?を引き取り匿ってくれていた事。浅小井深尾秀長こそ、九里の遺児を助けてくれた御本人だと思う。

秀長の祖母は、永原越前守の娘であった。
匿っていることが見つかった際には、一緒に逐電してくれたに違いない。(ありがとうございます!)


そして江戸時代になってからのことだが、秀長の弟元忠の系である元次が富木常忍の所領を、浅小井氏に所領として宛がわれているらしいこと。
これ、傍証にならないだろうか? 九里=富木で、浅小井氏の一族の中にいたことの。。。



浅小井氏の中には賀茂氏になったものがいたこと。

浅小井盛実は佐々木神宮神主であったこと。(九里の伝承・・うちの曽祖母から聞いた話では、佐々木の出、神社の方)

奥島氏の祖であること。

浅小井家長の母は、加地太郎信実の娘であること。その家長の息子に「乾五郎」がいること。

浅小井長家の弟の系は馬場氏になっている。

長家の祖父の兄弟から「伊庭氏」が出ている。



https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/295a53a7f0d0fea5e9accac7ec241416


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html

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土岐氏と深尾氏を調べていたら…

2018-04-12 | 浅小井深尾氏
下記のHPが出てきた。
http://miwagine.nobu-naga.net/miwanorekisi.html

太郎丸城の概要(首陽城または旭城とも云う)                                        
1、築城 文明10年2月(西暦1469
2、城主 深尾和泉守重列 宇多天皇近江源氏佐々木氏流深尾氏
3、概要
深尾氏の祖先高義は、近江国深尾村(現三重県員弁郡藤原町古田地区)に住み、
その子行信を経て、その子重列に至り、加納城主斎藤利藤と誼を通じていたので
その招きにより、文明10年2月山県郡に移り、太郎丸地区野田の地に太郎丸城
を築きこれに住み、美濃国守土岐氏に仕え大桑城の支城として、北野城(鷲見氏)
とともに勤める。
土岐氏滅亡後斎藤道三に仕える大永4年68才(1524)病にて卒せり。墓地
は龍翔禅寺南にあり、位牌は高富大桑深尾家菩提寺般若寺にあり。重列は菅原神を
敬い、姓を菅原に改めて、梅鉢を家紋とするも、斎藤と同紋なるため、旗印しは
日の丸に改めたと云われている。
その子、二代城主、重盛氏(重利ともいう)織田信長に仕える。永禄3年(1560)
織田信長に従い桶狭間の戦に参加(土井、山田、大塚、土本、塚本、桑原これに
従う)今川義元氏滅亡す。
永禄7年9月(1564)信長斎藤龍興を改める。深尾重盛火を城下に放ちて攻める。
龍興の臣、不破、安藤、稲葉等の武将、重盛によって降伏を願う。城ようやく落ち
龍興紅州浅井長政方へ落ちてゆけり。重盛永禄8年6月(1565)病に卒す。
62才、法号 済川道弘大禅定門、夫婦の位牌、龍翔禅寺に葬る。
その子、三大城主長男 重政あとを継ぎ、織田信長に仕える。天正元年8月(1573)
越前朝倉氏との戦(姉川の戦)に参加する。(土井、塚本、山内、山県氏これに従)
天正4年信長安土城に移る。岐阜城主織田信忠に仕える。天正10年6月本能寺の
変にて、信長、信忠自害、豊臣秀吉の天下となるや、三男重良に譲り浪人となる。
文禄2年1月(1696)65才卒す。位牌 心光宗伝大禅定門 龍翔禅寺に葬る。
4代城主重良織田信孝に仕える。信濃国高遠城攻撃左大腿部を傷付き癒えざるため
太郎丸城に在りて参加せず。天正11年11月織田信孝の臣、遠藤慶隆、遠藤慶嵐
周囲の豪家を焼いて太郎丸城を攻める。門の外に出て大いに奮戦せり。
この戦いで重三戦死する。後和睦して信孝に仕える。信孝秀吉と戦い戦死す。


六地蔵石幢 (ロクジゾウセキトウ)
1、今立年月日  享保壬寅7年(西暦722年)
1、場   所  旧美濃国山県郡太郎丸村六地蔵四辻
1、道   標  右ハせきむら 1里18丁
         左ハすわらみち
1、呼   称  1名 嘘つき地増
          道標に右 せきむら 1里18丁とあるがそれ程近くない
          嘘をついているので、今でも嘘吐き地蔵と言われている。
         1名 子守地蔵
          昔し地蔵様に子供を背負わして農作業に精を出したので、
          子守地蔵とも唱えています。
1、旧江戸時代には、大名道路の四辻に建立されていて、その地が六地蔵という
地名になった。口伝えによれば、昔寂しいところで、しばしば追い剥ぎや送り
狼がでたので、六地蔵を祀り、村人や旅人の安全を願って建てたものと伝えて
います。 昭和30年代の土地改良で現在地に移転安置しました。
2、参考
    六道(地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)苦悩する、人々を救う為に、
    六つの分身になられたとされ、六地蔵尊を石幢に刻んで安置されたもので
ある。
太郎丸「かけつ」の伝承

太郎丸「太郎丸団地」前付近一帯は、江戸時代から明治30年頃まで一面に花の菖蒲や
「かけつ」が群生していて、「かけつケ洞」と呼んでいた。
花盛りの5月~8月期には、食堂や出店売店等が出て大勢の見物客で賑わい、芸者の姿や
三味線の音が聞こえたと伝えています。
明治30年前後に改田工事が行われ皆な、田に変わったという。その池の畔に大辨方尊天の
水上様がお奉りしてあったのを、土地改良の時山裾に奉り替えて現在に至っている。
新種「太郎丸かけつ」
この地でカケツの新種が発見されて、それを「太郎丸カケツ」という


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佐々木行実 息 盛実=井源太=浅小井武蔵守盛実

2018-04-11 | 浅小井深尾氏

豊浦冠者佐々木行実 ― 盛実(井源太)(佐々木荘下司・佐々木宮神主)- 家実(井源太)― 家員(平井)・基重(住常陸・井上祖)・長家(浅小井四郎・山田・深尾・奥島祖)・高実(馬場祖)
 
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051e1.htm#006                                
浅小井系の深尾氏と
真野系の深尾氏

2つの流れがあるそうだ。

明日またじっくりと考えてみよう!
                                    


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