九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

藻原荘 と 藤原黒麻呂 周辺 (2) 斎藤兼綱

2020-02-17 | 藤原氏

藤原黒麻呂の子孫を掘っていこう。

順を追うと、
黒麻呂ー春継ー良尚ー菅根ー季方 となる。
この季方の姉妹藤原元姫が『平時望の室』となっている。

黒麻呂も790年頃に因幡国司であったように、菅根も880年代に因幡権大掾を務めている。

季方の弟元方。
その息に藤原 致忠(むねただ)がいて、その息に盗賊となった藤原保輔がいる。兄弟だが、藤原保昌の方ではない! 保昌の妻は和泉式部である。
保昌は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E6%98%8C

平時望(桓武平氏高棟流)とつながり、藻原にある橘樹神社の蓮西尼(信西の娘)とつながるが、
源氏方面では満仲の妻となったものもいる。藤原致忠の娘で、源頼信の母となっている。

===*===

藻原の豪族の「斎藤兼綱」は日蓮の支援者であり、富木常忍との関係も示唆されている。
この斎藤氏は日蓮の父である貫名重忠の兄弟(小林)民部実信の預先だそうである。

この斎藤氏は清原氏から斎藤氏となる、あの清原清定の息『斎藤長定』=【斎藤浄円】と関係があるのだろうか?


斉藤浄円 コトバンクより
没年:延応1.10.11(1239.11.8)
生年:建久8(1197)
鎌倉初・中期に幕府評定衆などを務めた実務家。藤原利仁の子孫。清定の子。法名浄円,斎藤兵衛入道を名乗る。
嘉禄1(1225)年12月,評定衆設置に際して文人系官僚としてこれに加えられ,貞永1(1232)年,御成敗式目制定には起草者のひとりとして参与し,また評定衆連署起請文の草案を作成したとされる。
さらに同年12月には鎌倉政権草創以来の散逸した重書の収集と目録作成を命ぜられ,暦仁1(1238)年には地頭職をめぐる一連の追加法制定の奉行を務めるなど,文書管理能力に長けた実務家として重んぜられた。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』上


鎌倉・室町両幕府の奉行人を務めた斎藤氏。幕府初期より幕政に参加し,1225年(嘉禄1)評定衆に就任した斎藤長定以降,幕府奉行人を輩出した。
また六波羅探題検断方にも鎌倉後期に斎藤基明なる奉行人が見え,のち室町幕府奉行人家の斎藤氏はおそらくこの系統であろう。

斉藤長定浄円の息 斉藤清時 甥かも知れないが…
?-1266 鎌倉時代の武士。
斎藤長定の子。寛元4年幕府から追放され京都に送還される4代将軍九条頼経(よりつね)にしたがう。
弘長(こうちょう)3年引付衆。文永3年2月9日死去。


藻原寺

鎌倉時代中期建長5年(1253)5月、藻原の領主斎藤兼綱公と、その一族の高橋五郎時忠公は観世音菩薩のお告げにより「笠森」の観音堂で難を逃れていた日蓮聖人を自邸に招き、教えを乞い「南無妙法蓮華経」と唱える最初の帰依者となりました。
建治2年(1276)邸内に一小堂を建立し藻原寺「お題目初唱の霊場」が開かれました。日蓮宗の本山の一つです。

===*===
斎藤兼綱は、長定とは別系で「岩櫃斎藤氏 」六つ葉柏 (藤原北家秀郷流) の方かもしれない。「兼」の字が通し字となっている。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iwa_saito.html



memo
対馬左衛門尉仲康(三善)三善仲康 中原仲康 



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藻原荘 と 藤原黒麻呂 周辺

2020-02-16 | 藤原氏

近江国と上総国を結ぶ線上にいる人物として「藤原黒麻呂」がいる。
以前にも記事にはしていたが、再度TRYしてみようと思う。

wikipedia コピー 

藻原荘(もばらのしょう)は、奈良時代に成立した日本の初期荘園のひとつ。上総国埴生郡、現在の千葉県茂原市を中心とする一宮川流域に存在したと推定される。

『朝野群載』所収の、寛平2年8月5日付藤原菅根等連署施入帳にみえ、興福寺領であった。

宝亀5年(774年)上総介に任ぜられ現地に赴任した藤原黒麻呂は、入手した牧を開墾し藻原荘が成立した。
黒麻呂の子春継は常陸大目坂上盛の女をめとって藻原荘に住み生涯を終えたが、子の良尚に自分の死後は当荘中に葬り墓所として保全するため興福寺に施入するよう遺言した。
しかし、良尚は遺言を果たさぬうちに貞観19年(877年)に急死したため、寛平2年(890年)良尚の子菅根らが田代荘とともに興福寺に施入した。

一宮川中流の藻原寺付近にあったとされ、荘園の存在した奈良・平安時代は埴生郡の郡域内であった。
その後郡域に変更があり、江戸時代には古代の埴生郡の太平洋側が長柄郡に併合されたので、長生郡発足以前の長柄郡にあたる所である。

===*===

黒麻呂の父と母、その周辺
父:藤原巨勢麻呂、母:山背王の娘(山背王=藤原弟貞 父は長屋王 母は藤原長娥子で、藤原不比等の娘)
妻:田辺清足の娘、縣犬養氏

息:春継 母は縣犬養氏

===*===

藻原にある橘樹神社に関すること
下記のページがすばらしく、いろんなヒントが見つかった。
http://engishiki.org/kazusa/bun/kaz190201-01.html

穂積忍山宿禰 (ほづみのおしやますくね)

日本武尊の妃、弟橘媛の父
景行四十年十月に「時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、
五十一年八月に「(日本武尊の)妃、穂積氏忍山宿禰の女弟橘媛は、稚武彦王を生めり」とある。(『紀』)

『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。
系譜上の位置づけは定かではないが、崇神紀七年八月に「穂積臣遠祖」とある大水口宿禰の子か孫であろう。

===*===
memo
藻原荘
上総と近江を結ぶ藤原氏
黒麻呂の子孫
黒麻呂が因幡守であった事

===:
橘木荘
九條蓮西尼 相伝は頼偏 良海(九条兼実の息)となっている。
長谷川景則
下河辺氏?

===*===

斉藤兼綱(茂原の豪族斉藤兼綱)
宗祖生国の先住者安房に移住した阿波忌部いんべ族の動向について
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-37.pdf&type=G&prt=1270


田代荘
田代荘(たしろのしょう)は上総国長柄郡、現在の千葉県長生郡長柄町田代地区を庄域とし、平安時代を中心に発展した興福寺系の荘園。初見資料は『朝野群載』所収、寛平2年(890年)8月5日付の「藤原菅根等連署荘園施入帳」。

宝亀5年(774年)に上総介に任じられた藤原黒麻呂が現在の茂原地区を私牧として設定し以降、子春継の代に至るまでその土地を開墾して藻原荘とし、同じ一宮川の上流域の谷戸である田代地区を買得集積し、これを田代荘とした。なお、施入帳には「田代荘 壱処在長柄郡、壱処在天羽郡」とあり、田代荘は長柄郡と天羽郡に分置されていたとみられ、天羽郡の部分は天羽荘とも称された。

藻原荘に住み生涯を終えた春継は、興福寺に施入するよう遺言していたが、菅根の亡父良尚は遺言を果たさず急死しため、菅根らが施入したとされている。また、9世紀半ば頃から、東国では朝廷の統制力は既に弱まり、寛平・延喜東国の乱に見られるように治安が不安定なっていく時期であったことから荘園を存続させるため、黒麻呂の孫良尚に死により継承した曾孫菅根等が本家職を藤原氏の氏寺である南都興福寺に藻原荘とともに施入(献上)したとも考えられている。


橘樹神社 

http://engishiki.org/kazusa/bun/kaz190201-01.html

穂積忍山宿禰 (ほづみのおしやますくね)

日本武尊の妃、弟橘媛の父。
景行四十年十月に「時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、
五十一年八月に「(日本武尊の)妃、穂積氏忍山宿禰の女弟橘媛は、稚武彦王を生めり」とある。(『紀』)

『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。

系譜上の位置づけは定かではないが、崇神紀七年八月に「穂積臣遠祖」とある大水口宿禰の子か孫であろう。

===*===
いろいろと気になることが多い、この周辺である。


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後鳥羽天皇と藤原範季の娘と姪二人 そして 土岐光基・深栖光重・橘次季春

2019-07-03 | 藤原氏

後鳥羽天皇に近侍していたという「藤原範季娘」「範季の姪二人」(=範兼の娘)とその周辺を見ていこうと思う。

娘は重子であり、院号は修明門院(しゅめいもんいん)である。
wikipediaでは「鎌倉時代前期の後鳥羽天皇の寵妃。女院。順徳天皇の母。藤原南家高倉流・藤原範季の娘。母は平家一門の平教子」
「正治2年(1200年)9月、卿局の邸で雅成親王を出産。

40歳になった承久3年(1221年)6月、後鳥羽上皇が順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の兵を挙げると(承久の乱)、その人生は暗転する。幕府に敗れた後鳥羽・順徳両上皇と雅成親王は配流となり、同母弟の範茂は首謀者として幕府方に処刑、幼い孫の仲恭天皇は廃帝となった。

肉親がみな散り散りになったあとの京の都に重子は一人取り残されるかたちになってしまった。
同年7月後鳥羽上皇の出家に伴い、重子も同じ道助入道親王の受戒を得て落飾し、法名を法性尼(ほっしょうに)といった。

その後は順徳上皇の残された子供達を養育し、後鳥羽院の母七条院を労った。

延応元年(1239年)に後鳥羽上皇、仁治3年(1242年)に順徳上皇が崩御。後年、明恵に帰依する。

様々な憂き目にもあったが、七条院や卿局から多くの荘園や財産の遺贈を受けており、経済的には豊かだった。
孫達に囲まれた穏やかな晩年であった。
文永元年(1264年)8月29日、83歳で薨去。遺領の四辻殿は孫の善統親王に贈与された。」

と、長い人生であり、この方と富木蓮忍、常忍は同じ時代を生きている。

===*===

範兼の娘 
範子*後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇ったことで知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。従三位。通称は刑部卿局。子は他に源通光、源定通、源通方。
(範子の子どもは大江親広と義兄弟となると思う。)

兼子*平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官。刑部卿・藤原範兼の娘。通称は卿局(きょうのつぼね)。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも。後鳥羽天皇の乳母。

弟の藤原範光は低い官位ながら後鳥羽天皇の近習として重用され、その権勢は通親と並び称されるほどであった。

===*===

後鳥羽院下野 後鳥羽院女房

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/efda06d596c327f720ab6a4b72794394
後鳥羽院下野の父祝部允仲 母土岐(源)光基の娘

藤原秀宗の妻も土岐光基の娘 つまり藤原秀能の母が土岐光基娘

秀能と後鳥羽院下野はイトコである。

秀能の息は秀行で、源頼政の隣の家である、または同じ敷地内であることが確認されている。
光基は源頼政と同じ清和源氏頼光流であり、弟の光重が深栖光重であり、頼政の義弟となっている。

範季の叔母の息が頼政であり、従兄弟同士である。
義理ではあるが光重も従兄弟という関係となる。

深栖光重の家の者と思われる金売吉次(橘次季春)も同じグループであり、源義経の擁護派であった。
もしかするとすべて範季と頼政の指示によって動いていたのではないだろうか?

奥州とのつながりも範季があってのつながりであったと思う。



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藤原範季が義経を支持!! 叔母は頼政の母であった(2)

2019-07-02 | 藤原氏

では、なぜ範季は義経を匿ったのだろうか。

あくまでも私の考えだが、
範季の父能兼はわりと早くに亡くなり、兄が養父となって支えていたのだが、その兄範兼も亡くなり、幼い子供たちが残った。

今度は範季が兄の子ども達を引き取って育てていた。(1165年以降)
それ以前のことだが、義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。(1159年あたり)
それだけではなく、(1180年)高倉天皇の第四子となる尊成親王も範季の妻と、また姪の二人が乳母となり育てていた。後に後鳥羽天皇となった人物である。

さらに九条兼実の忠実な家司でもあったという。

この藤原家は【藤原南家貞嗣流】であり、儒家であったそうだ。
自分の記事で恐縮だが、以下で触れている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6%E8%B2%9E%E5%97%A3%E6%B5%81

さて、なぜ義経を…だが、この範季の父能兼の妹が【源仲政】の妻であり、【源頼政】の母であったからだと思う。

つまり、頼政とは従兄弟であり、この叔母は、父が亡くなった後、また兄が亡くなった後に支えとなってくれた女性だったのではないだろうか。

頼政は、久寿2年(1155年)に源義賢の長男・仲家(木曾義仲の兄)を養子にしている。

保元2年(1157年)には頼政の弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件が起きた。
頼政は頼行の子の源宗頼・源政綱・源兼綱を養子にしている。

このように、子供を大事にしていることも、彼女の慈愛に満ちた生き方が周囲に影響していたのかもしれない。(想像)彼女は源斉頼の養女であり、源頼政に嫁いだ人物ではないのだろうか?


九条兼実の家司といえば、中原兼遠(中原頼季と同一人物であれば)もそうであったと思うので、範季と兼遠は同僚であったかもしれない。

兼遠は義仲を育て、範季は範頼を育てかつ義経を匿い、頼政は仲家(義仲の兄)を育てていたことになる。


藤原能兼の妻、つまり範兼・範季の母となる女性だが、高階為賢の娘であった。
そのあたりの影響もあったのでは、と思う。








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藤原範季が義経を支持!! 藤原季範ではない。(季範はもう亡くなっていた。)

2019-06-30 | 藤原氏

藤原範季
藤原兼実の家司に藤原範季がいる。

彼は源義朝が討たれた後、子の範頼(蒲冠者)を引き取っている。
源義経を匿った咎で、頼朝に睨まれ、官職を剥奪されている。

…と「方丈記と平家物語 改訂版 7 鴨長明と九条家の人々」にあった。(ありがとうございます。)

https://s.webry.info/sp/jikan.at.webry.info/201409/article_7.html

藤原季範ではなく、藤原範季が義経を匿ったのだ!!
季範だと、1155年に没している。しかも義経は1159年に生まれたことになっている。

藤原範季は1205年まで生きている。
wikipediaにも以下のような記述があった。

「有能な行政官・政治家でありながら、平清盛に滅ぼされた源義朝の遺児である範頼を育て、九条兼実の家司でありながら兼実とそりの合わない後白河院の院司を兼ね、源義経が頼朝に追われた際には義経を支持し、奥州藤原氏の滅亡後に藤原泰衡の弟・高衡を匿う等、当時の権力者の意向に背く危険な選択を選び続けたため、アナーキー性の持ち主だと評価されることもある。」

範頼の右筆・家司は「中原重能」であった。
以前の記事にも触れているのだが、

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a0f8c33fc0d99c84e5f848fe6496c2fd


そこにこの藤原範季が加わった形である。
範季が範頼を育てた時に、中原氏が家司か乳夫母であった可能性は充分にあると思う。



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