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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原廣季の息【中原章弘】は【中原章貞養子】であった。

2022-01-11 | 中原氏バラバラ情報

中原親能・大江広元の養父ともなる廣季(飛騨守)の息に「章弘」がいる。

中原章貞の養子となったようである。初名は「季貞」であったそうである。

ちなみにだが、章貞の実息は章親である。

 

『山槐記 治承三年 正月廿二日

任人

少判事中原章親 明法博士章貞男、元季貞同為少判事兄弟二人相並同官、

但季貞者猶子也。實明法博士廣季子也。』とあるそうである。

 

よき同僚であり、よきライバルであったかもしれない。

 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1957/7/1957_7_90/_pdf/-char/ja

明法博士中原章貞と明法博士中原範貞 布施彌平治 著

 

上記の論文からたくさんのヒントをいただいた。

 

「章」が「のり」と読み「範」や「則」と同じ音であり、替え字として使われていたことに、

この論文でも触れてあり、

「章貞」は「範貞・則貞」とも書かれていたそうである。もっと変形では「則定」「頼貞」もあったそうである。

 

そのヒントから考えるに、

秦野市史には「朝長の母は修理太夫範兼の女とも、大膳大夫則兼の女ともいう。また波多野義通の妹坊門姫あるいは中河辺清兼の女ともいう。範兼.則兼は「範」,「則」の違いはあってもあるいは「ノリカネ」と名乗る同一人物の可能性もある。」とあったが、

私も「修理太夫範兼」(従四位以上)「大膳大夫則兼」(従五位上相当)「中河辺清兼」も同一人物であったとも云えると思う。

更にもう一つ見つけた情報があった。↓

 

嬉しいことに「中原久経」も典膳大夫中原久経 息か弟と思われる政経も主典代左衛門尉中原政経なので、近いと思う!!!

 

 

さらに、論文の方に戻ると、章貞の養子となった章弘である。(章廣とも)

しんごん=親厳は広季の養子となり、広季の実息が中原章貞の養子となっている。

 

おまけ情報 ↓ 

「範政」は、定成の養子であり、俊光の弟という。

俊光は「師任」の息という。(ここは私は未確認)

 

範政の息に「明兼」がいる。この周辺は以前調べたので、そこからコピペする。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/dba9a9f7e7e478607bf131077b5a3750

坂上範政 坂上定成の子
坂上明兼 坂上範政の子
坂上兼成 さかのうえのかねしげ 坂上明兼の子 生没年:永久2年(1114年) - 応保2年5月9日(1162年6月23日)
坂上明基 坂上兼成の子 生没年:保延4年(1138年) - 承元4年(1210年5月7日)

 

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土肥実平の弟【土屋宗遠】から始まる 私的memo

2021-11-23 | 中原氏バラバラ情報

中原親能と共に京で活動を展開していた土肥実平。

その弟に【土屋宗遠】がおり、土屋氏となっていった。

wikipediaによると、↓

中村宗平(むねひら)の子。土肥実平(どひ-さねひら)の弟。相模(さがみ)(神奈川県)土屋郷の領主。源頼朝の挙兵にしたがい御家人となる。承元(じょうげん)3年私怨(しえん)で梶原家茂を殺して和田義盛(よしもり)にあずけられた。和田氏の乱で義盛に属し,建暦(けんりゃく)3年5月3日討ち死に。通称は三郎。

 

宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党岡崎義実に嫁ぎ、義忠義清兄弟をもうけている。

義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。

 

もう一人の宗平の娘である満江御前伊豆国伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。

 

宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰伊東祐清八重姫万劫御前らが生まれたが。

万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。

河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。

 

 

伊東祐親娘で工藤祐経に嫁いだ女性『万劫御前』が、祐経が不在の時に祐親に引き戻されて、土肥実平の息であった土肥遠平に嫁ぐことになってしまう。そしてさらに、遠平娘が、今度は祐経の息祐時の室となる。

 

同じく伊東祐親娘は北条時政の前室でもある北条義時の母のようである。という事は、政子の母でもあるのだろうか? 同母だろうか??

(祐経の妻の姉妹となる人物だろうと思われる)

wikipediaには以下のようにある。

「八重姫」

頼朝の監視役であった伊東祐親の三女源頼朝の最初の妻とされる。

頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。

 

以上を繋げていくと、源頼朝の最初の妻が、実は政子の叔母であったことになるのではないだろうか?? (政子の母とは異母となるが…)

政子の母親の妹(年は離れていたかもしれない)

 

頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。

この比企尼の三女は「のち平賀義信室。平賀朝雅の母。頼朝の嫡男頼家の乳母。 」だそうである。

 

祐清の烏帽子親が時政であった事、比企尼三女が嫁いでいたことがわかり、ますます濃密な鎌倉の武士たちの関係が浮き彫りになる。

比企尼三女

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E5%B0%BC%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A5%B3

===*===

遡ってみると土肥氏・土屋氏の祖は「中村氏」であり、さらに遡ると桓武平氏となる。

その中村氏、中村宗平(土肥実平の父)のwikipediaを見ると、宗平娘が伊東祐親の室となっていた。実平の姉妹が、伊東氏とつながりを持っていたのだ。

 

この伊東祐親の養父ともいわれている工藤祐隆の工藤氏から河津氏が出てくる。

河津氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%B4%A5%E6%B0%8F

 

曽我氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E7%A5%90%E4%BF%A1

 

相良氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

相良周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)光頼を養子として家督を継がせた[6][1]。このために日向伊東氏とも近縁である[7]

===*===

 

上記のような工藤氏・土肥氏の関係の中に、頼朝の寵臣であった中原親能、中原久経、政経がいた。佐々木氏もまたしかりである。

三左衛門事件の三人が所領を没収される程度で済んだのは、中原親能の働きかけによるものと、どこかに書かれてあったこと、また、中原親能の年代と中原久経がほぼ一致していることから、義兄弟であったか、ごく近い間柄であったと思う。同じく波多野に関係もしている!

中原政経が事件後逼塞していたと思われる近江国伊香郡のこと(を考え合わせると、九里の祖である中原にごく近いと思われる。

 

そして、和歌山系図に載っている名前が九里助恒 と 助政 であり、その「スケ」が工藤・伊東氏の「祐(スケ)」を思わせる。

 

また、比企尼三女もまた源頼家の乳母を務めており、九里の祖である富木氏の富木常忍母と接点がある。

富木常忍の母が1182年のことであり、当時8歳くらいのことであり、乳母の手伝い程度ではあったと思うのだが、、、、同じ頼家の乳母として名が挙がっている。(この女性がイコール下総局であったとするならばだが。もしかすると二代にわたっての乳母であったのかもしれないが。)

 

摩々局源義朝の乳母。

「所領が早川庄内であることから、中村氏出身と見られる。」とある。

義朝は畔蒜荘で育ったと、鈴木かほるさんの本にあり!

 

 

比企尼が、伊東祐清の養子を連れ子として平賀に嫁いだ。

「生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別した後にその子を伴って平賀義信に再嫁している。」とある。(wikipedia)

 

良くはわからないのだが、ココで平賀氏と小早川氏が繋がっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%99%AF%E5%B9%B3

 

ぐちゃぐちゃなメモだが、きっと後で役に立つ!と思うので‥‥

 

上記の事項に、出雲・石見国との久利氏(吉川経安)(清原氏)の関係も絡めつつ調べていくと、そして「土屋」や「吉川」をたどると、何かわかってきそうな気がしている。

 

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0002/OS00020R089.pdf

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山内資清(助清)ー 資通(助通)ー 親清 ー 義通 ⇔ 義通は波多野義通と同一人物か?

2020-12-13 | 中原氏バラバラ情報

記事に間違いや勘違いがあったので、書き直してみた。が、系図もいくつかあり、やはり混乱している。

山内資清(助清)ー 資通(助通)ー 親清 ー 義通 ⇔ 義通は波多野義通と同一人物か?

波多野義通の妹は源義朝の妻であり朝長を産み、その後中原某氏に嫁ぎ中原久経を産んだ。
その義通がもしも山内義通となっていたとすると(どちらにしろ、藤原秀郷流の同族!ではあるのだが)
親清の弟「通清」は叔父となり、鎌田正清とは従兄弟と成る。鎌田正清の舅は長田忠致である。

つまり、山内氏流の鎌田氏と長田氏と婚姻関係があり、
波多野義通がもしも山内義通と同一人物ならば、鎌田正清が従兄弟となる。その妹と正清も従兄妹である。

===*===

「乳母の力」田端泰子著 吉川弘文館 で、気になったのが「源家の乳母たち」の章であった。
山内氏に注目してみよう。

山内首藤資通は源為義が十四歳の時に為義に従ったそうである。
此の後に?な部分が出てくる。田端氏は人物名を間違えているのではないかと思う。

『為義の子八幡殿「義家」に仕えた』とあるのは、オカシイ。為義の祖父が義家なので、ここは義朝の間違えと思う。他にもp.90 不思議な箇所があった。(鎌田正清の名は系図に出ていないとなっていたが、系図にはいる。正近が系図に現れていないのではないだろうか....という点など)

山内尼の源頼朝への息経俊を助けるための訴えには「資通入道は八幡殿に仕え、廷尉禅室の御乳母となって以降代々源家に微忠をつくすこと数えきれません。…」
因みに「廷尉禅室」とは為義のことだそうだ。

「乳母の力」の中の源氏山内氏関係図によると資通の姉は義家の妻となっている。

義家は1106年迄生きていた。
為義が十四歳と成ると1110年になる。その時に資通は為義に仕えたという。

山内首藤の系図等をみると、
経俊1137年生まれとある。つまり曽祖父の資通とだいたい75歳離れているとみても資通1062年頃に生まれている事となると思う。

山内尼は頼朝の乳母であった。
息の経俊が1137年生まれとあるので、1120年頃に生まれた人と思われる。


資通の息夫婦(親清??=?俊通・山内尼)も、その親清の兄弟通清の夫婦もまた義朝の乳父母となっていたのではないだろうか?(想像)とする。

波多野氏(山内氏)義通の妹も義朝に嫁ぎ朝長を産む。(が、離縁し、中原某に嫁ぐ。)

鎌田正清の父(通清)も義朝の乳父母であり、正清は義朝と共に育ったと言われている。
もしかすると義通と妹も共に育ったのかもしれない。

その正清の妻は長田忠致の娘であったことが、悲劇であったが、それでも山内首藤氏(含む鎌田・波多野氏)と源氏の信頼は揺らがなかったと思われる。

山内尼の訴えばかりではなく、そのこと(代々の乳父母)もあって、最終的に山内経俊も許され長生きできたのだと思う。
(頼朝に母の訴えも聞き入れてもらい、その母山内尼には早川荘の地頭職も与えられた)

山内首藤氏源氏の乳父母の家系なのだ。










上記の記事と重なる部分も多いが、この親清の弟【通清】から鎌田氏を、少々調べてみた。
通清が鎌田氏を称した…とコトバンクにもある。
wikipediaの鎌田正清を見ると「源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。 」とある。
この正清が長田忠致の娘が妻であった。ということは、藤原秀郷流と長田氏が繋がっていたことと成る。

鎌田正清(政清)
1123-1160 平安時代後期の武士。
保安(ほうあん)4年生まれ。源義朝(よしとも)と乳兄弟で,義朝のもとで保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱をたたかう。平治の乱で敗れた義朝にしたがい,尾張(おわり)の妻の父長田忠致(ただむね)をたよったが,平治2年1月3日義朝とともに謀殺された。38歳。通称は次(二)郎。名は政家とも。

===*===

波多野氏も、源氏の乳父母であったのではないだろうか?
山内首藤の後裔にも「広沢氏」が出てくるのだが、波多野義通の息にも「広沢実方」という名が見える。

===*===

「乳母の力」の系図も、下記の論文の系図も「親清」不在である。「義通」も「通義」となっている。

https://bingo-history.net/uploads/1988/10/3ee71191df620dc941880f2b5e44c846.pdf
【鎌倉期における山内首藤家について】出内博都 著 の論文より

この系図 「親清」が不在であり、
資清ー資通ー通清・通義 となっている。(「乳母の力」も同じ系図となる)



p.86 尼の発言にある資通は経俊の曽祖父である。「山内首藤氏系図」によれば、資通は「滝口下野権守」と言われ、白河院の天仁の頃の人で、後三年合戦の時、十一、二歳で戦陣に参加したという。そして為義が十四歳の時、為義に従った、とある。

この一文から想像すると、1083‐1087年にあった後三年の役の際に十一か十二歳であった資通。
1070年あたりに生まれた事と成る。


経俊の曽祖父である資通は、と「乳母の力」の中にあるのだが、この系図と年代を考えると正確である。
つまり、資通(曽祖父)のあと祖父ー父ー経俊と成るのが正しいようなのだ。
という事は
資通ー通義ー俊通ー経俊と成る。
その俊通が山内尼の夫となる。

その山内尼、土肥実平の姉妹だったのかもしれない。そして摩々尼と同じように早川荘の一部に居住していたようなので、この二人は姉妹か、同一人物であったかかもしれない。

土肥実平は、中原親能と共に、京の様子を探り、源頼朝に知らせていた節がある。
中原親能も波多野に住んでいたので、ますます山内義通(通義)と波多野義通が近く思えてくる。


この系図の註に「住相模」とある。俊通の部分である。

俊通自身は1160年に平治の乱で没しているので、俊通が没したのちは、早川荘に隠れ住んでいたのかもしれない。
山内庄(鎌倉市東慶寺付近が山ノ内)は没収されていたそうである。
地図内の小さな赤い丸が東慶寺付近 大きな茶色は波多野付近



系図も様々。こちらはいつもお世話になっている。これによると資通と義通が兄弟で、親清の場所も違っている。
一体どの系図が正しいのだろうか、悩む。




森岡先生の系図













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玉葉の中 の 橘朝臣経久 久経は経久とも名乗っていた。改訂版

2020-11-25 | 中原氏バラバラ情報

大江広元と共に中原「久経」も「経久」も同時期の文書に出てくる。
同一人物と思っている。が、どうだろうか?



更に今回見つけたのが「橘朝臣経久」玉葉 治承四年 正月



中原経久の父経任は橘次と系図に註があった。そこと関係があるのだろうか?
大江氏も橘氏と関係は深く、養子縁組が多い。その関係だろうか?

この時代、中原氏・大江氏・橘氏 かなり重なりがあったのかもしれない。











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中原久経が 景経 と 経任 の父と仮定。

2020-11-24 | 中原氏バラバラ情報


中原久経、この1192年を境に政所の文書には名前は見当たらない。
1185年に九州にまでも近藤国平とともに廻っている久経。

源義朝の息朝長のあとに、その母(=波多野氏・源朝長は松田殿ともよばれていた)が中原氏に再嫁して設けた子と言われていることから、生まれたのは1145年位ではないだろうか? ちなみに中原親能も母は波多野氏であり、1143年生まれである。もしかすると異母兄弟かもしれないとも思う。
父は中原広季・母は波多野氏の従姉妹という事も考えられる。(広季は、親能の養父・久経の実父かもしれない!)
久経の母は波多野義通の娘・親能は波多野経家の娘である。
大江広元も中原広季が養父となっている。

散位久経、と書かれているので、1192年にはもう職には就いていなかったのかもしれない。
久経、1145年に生まれていれば、1185年40歳。1192年47歳。

そして、1170年あたりに景経、経任が生まれたとすると、景経が74歳で判官になった事となり、ちょっと苦しいかもしれない。
1175年あたりに景経は生まれたか?

さらに、久経の孫と思われる経久が1190年に生まれ、常忍は1216年に生まれたのではないだろうか?(甥で姉の息かもしれない。)
常忍の母が1185年生まれであることはわかっているので、だいたいあっているかもしれない。


勿論もっと早くに結婚し、子をもうけていた可能性も大であるが、始まりは久経が生まれた1145年以降と限定してみた。
中原久経の息たち三人兄弟で、景経政経・橘に養子に入った経任、だったのではないだろうか?
三左衛門事件は1199年。

その頃、政経は25歳あたり、と考えると、景経・経任の兄弟か、もしくは景経と同一人物か?となりそうである。
というのも、景経1244年に判官となり、1246年関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
これは、景経の事のように思われるのである。
景経、近江国伊香郡富永庄の召次案主であったこと。
判官として推薦してくれたのが広橋経光であり、その妻は妻は「藤原親実の娘」であった。


藤原親実とは、(コトバンクより)

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)

親実と景経は、ほぼ同じ年代であったと思える。その義理の父よりの頼みがあって、広橋経光も動いたのかもしれない。
経光32歳の時である。(中原景経を判官として推してくれた時)



久経ー政経・景経・経任
経任ー経久ー常忍 

ではないだろうか?


===*===

いっぽう、越前の気比寺院者の神人であった中原政康は1214年に「「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住している」と書いている。
養父は、妻の父ではなく、やはり養子先の父親ではないだろうか?
とすると、この時(1214年)にだいたい50歳とすると、1164年あたりに生まれた人物と成る。
または、1214年に60歳あたりと成ると、1154年あたり。 

つまり、中原政康と中原政経は、兄弟ではなく、どちらかというと親子ぐらい年が離れていると思われるのだ。

中原政康は日吉神社の神人であったことがわかっている。

伊香郡の高月にある日吉神社の神人の関係とみることもでき、、やはり中原景経周辺の人物なのではないかと思う。

さらに、経任が橘次となっていることも、もしかすると政康と関係しているような気もしている。








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中原久経 政所下文書名者一覧にその名あり!

2020-11-23 | 中原氏バラバラ情報

1192年建久三年 六月三日・二十日 の文書に署名があったようだ。
12頁(web上のpdfのカウント) 紫苑10号の22頁

http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_010.pdf


二十日の分は東京大学史料編纂所で見つかった。





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越前國一之宮 氣比神宮 中原政康・中原政経・景経(2)政経の追放 そして政恒法師

2020-11-20 | 中原氏バラバラ情報

三左衛門事件で追放となった中原政経はその後どのようにしていたのか私にはまだ情報はない。
しかし突如1246年 関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
どこにも中原氏とは書かれていない。が、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。ならば、伊香郡の召次の統轄役ともいえる召次案主職になっている可能性もあるのではないだろうか?

そのあたりを、探していると網野氏の論説に、ピンポイントで政恒法師が登場していた。
時代は遡って平安の前期から中期あたりと思うが、院召次勾当成行(中原成行)そして「久則」という名が出てくる。
秦久則、のこと。と出ているが、そうではなく「くのり」かも知れない。
他に秦久弘が出てくるので、分が悪いのだが…

「秦氏」でもなく、唐突に名前を「久則申す」と左大弁宰相平成俊奏事目録の文書に書くだろうか。
これは苗字なのではないだろうか?
久則は召次を統轄していた人物とある。


<論説>中世前期の「」と給免田 : 召次・雑色・駕輿丁を中心に
網野善彦 著

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238269/1/shirin_059_1_1.pdf

この論説により、政恒法師の周囲の状況も少々だが、わかってくる。
42頁。

===*===

追放された中原政経が政恒法師であるならば、御家人として復帰していたことになる。
その御家人としての時代に中原経任・経久も関東にいたのだと思うのだ。

===*===

いっぽうの越前国の「中原政康」の方は、中原政経よりも一世代前と思われる。越前に居住してから40年とあるので、1214年にはもう、50歳60歳くらいだったのではないだろうか。

川崎町の歴史より
http://www1.rcn.ne.jp/~nonami/kawasaki/rekisi.htm

1214、(建保2)中原政康。「この人は建保2年、守護から御家人役である内裏大番役を催促され、自分は神事を営む身で『兵つわもの』の氏ではなく、その器量ではないとして、これを拒否している。神人が官位をもつ侍身分の人だったことはすでに明らかにされているが、廻船人あるいは海商であったとみられる政康が、このように御家人と比肩しうる人物だった事実は/政康が自ら憚るところなく、むしろ誇りをもって、『気比大菩薩神奴』といっていることに注意しなくてはならない。/神の『奴』と名乗ることは、平民と異なる聖別された存在であることの強調であり、実態としても、神人は特権――政康の場合はおそらく海上交通を妨げなく行いうる特権を保証された、侍身分の人だったのである。/そしてこの中原政康のような気比社の神人は、本社の所在する敦賀郡、それに丹生郡の浦々をはじめ、能登、越中の名古浦(放生津付近)越後の曾平、佐渡などの諸国に分布しており、能登・佐渡の神人は丸蚫、和布等を、越中・越後の神人は鮭を気比の神に進めていた。/気比神人が廻船人・海商として活動していたことは、はるか後年のことではあるが、気比社に毎年の神事料を納め、気比神人の後身とみられる敦賀の道川どうのかわ氏が川舟座の中心として、日本海を舞台とする広域的な海上交通、交易に従事している事実からも、十分に推測することができる。そしてこの時期の気比神人の動きは、それ自体、山門・日吉社の影響下にあったのである。」(網野善彦、『海と列島文化』第1巻)

web情報では、
http://yoshi-bay.com/publics/index/113/
「715年(霊亀元年) 近江守藤原武智麻呂は比叡山で氣比神と出会う。」

『古事談』二九、叡山中堂建立に蠣殻出現の事、とあり、気比が此の比叡山と関係があったことを示しているようなのである。


図説福井県史目次
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/indexzu.htm

===*===

もう一つ、論文を見つけたので、更にご紹介しよう。中原成行が登場している!

国立歴史民俗博物館研究報告第92集2002年2月 [都鄙のあいなか]ー 鋤柄俊夫 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/kenkyuhokoku_092_08.pdf


そんな中、網野善彦氏が述べているように、一O世紀後葉までに山門が若狭に荘園を形成して以降、北陸道の諸国には多くの山門と日吉社領の荘園が設けられ、また加賀の白山社、越前の気比社をその末社とし、出羽以北についてもその末社や末寺が分布することからも、山門と日吉社は、北東日本海域に対して強い影響力を及ぼしていたと考えられている。そしてその実際の運営を担ったのが近江国愛知郡司も兼ねた中原成行などに代表される日吉神人であった。かれらは大津を中心に右方と左方に分かれて十二世紀前半から鎌倉期まで「北陸道神人」と呼ばれた巨大な組織を形成して北陸道諸国に分布し、出挙・借上の活動に従事して、ひろく日本海の廻船人として活躍し、あるいは日吉神人であると同時に気比の神人でもあった中原政康のように、敦賀に居住して和布・丸抱・鮭などを貢納していたとされる。

とあり、中原と日吉神社のつながりが近江国から越前敦賀にまでおよんで、更に越中、能登、等にも広がっていたと思われるのである。

ダイナミックで、あの紫式部が父と見た様子のようである。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A171.htm
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A172.htm
http://kakitutei.web.fc2.com/murasaki/etizen/index.html


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越前國一之宮 氣比神宮と中原政康 その政康と中原政経 さらに中原景経

2020-11-19 | 中原氏バラバラ情報

以前記事にしたことのある「中原政康」だが、三左衛門事件の「中原政経」の兄弟かもしれない。政経が政恒法師となって近江国伊香郡に帰っていたとして再考してみた。

広橋経光をもって、勘解由判官になれるよう請願していたのが、中原景経であり、富永庄の召次勾当であった。(1244年)


一方、中原政経と思われる「政恒法師」は以下の書状をもらっているようである。
重時朝臣使者(重家・淳賢)を送り、近江の国伊香郡召次案主職の事、政恒法師関東家人たるに依ってこれを執り申す。早く奏すべきの由返答しをはんぬ。十四日事の由を申し、院宣を遣わしをはんぬ。
1246年 寛元4年 9月8日 癸亥 [葉黄記]

景経が歿した後なのかもしれない。伊香郡召次案主職。

中原政康は敦賀にいた人物で、以下のようにある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%94%BF%E6%81%92%E6%B3%95%E5%B8%AB

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm

神人が大番役を守護から催促されることもあった。建保二年四月二十五日、中原政康は解状を守護所に進め、自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調し、所労が滅気しない状況でもあるので催促を止めてほしいと訴えている(同一〇号)。



写真16 中原政康解(醍醐寺文書)


http://historia.justhpbs.jp/giryoujin.html

この三人に注目し、伊香郡と敦賀気比神宮にもつながりを求めてみたい。
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関東の尾張氏 

2020-06-26 | 中原氏バラバラ情報

尾張氏は天武天皇の支援をしていた氏族であった。(関裕二著による)
という事と、
江州中原氏の祖が天武天皇になっている。(近江国御家人井口中原系図による)
という事、

この辺りに何かヒントがあるのではないだろうか?

しかし、江州中原氏の祖が天武天皇というのは、本当なのだろうか?
もしも本当ではなくとも、その付近にフィットする氏であったのだろうと思う。

とすると、蘇我氏・尾張氏(含む物部氏)となりそうで、中に江州中原氏がいたのかもしれない。
でも、この辺りは本をもっと読まないと…という事で、様々な本を手許に置いてみた。

怖ろしく遠回りになりそうなのであるが、きっと九里氏を解くために必要な過程なのだ!と思って読むことにした。

出雲と大和 村井康彦 岩波新書
物部氏の正体 関裕二 新潮文庫
物部氏 古代氏族の研究⑧ 宝賀寿男 青垣出版
本当は怖ろしい万葉集 小林惠子 祥伝社
出雲抹殺の謎 関裕二 PHP文庫
天武天皇 隠された正体 関裕二 ワニ文庫

これらの本がこの辺りを学ぶのに良いから…というのではなく、たまたま我が家にあった中から選んだので偏りがあるが、INPUTの為に読もう!!と思う。

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中原氏の中の尾張氏

2020-06-18 | 中原氏バラバラ情報

ヤマト王権と十代豪族の正体 関 裕二 著 PHP研究所

この本の第四章「消し去られた尾張氏の謎」
何と、札幌の図書館にない!

https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1167430-84/

面白そうなのだが…

===*===

中原氏に入ってきた尾張氏
中原貞親 父は尾張秋時、とある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8f1c9d676341f22c1e56fae4cc455c78



===*===



長田資経は因幡国の在庁官人であった。
一体どこで、親族藤七資家が頼朝に随行するように…と指示を出したのだろう。

平氏が頼朝を伊豆に流すことに決まった際に付き従ったとして、長田資経は因幡国にいては指示が出せないと思う。京にいたのだろうか。平氏の誰の配下にいたのだろう。

中原貞親の子孫という事だろうか。中原徳如も尾張氏の記載があった。

中原氏から平清盛の養子となった「平清貞」とも関係があるのではないだろうか。

中原清貞(清定)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E8%B2%9E

中原師元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%85%83

===*===

「消し去られた尾張氏の謎」には尾張氏が関東にいたようになっているようなのだが(web情報のみで本は未確認)、そこも気になる。
一体、誰の事だろう。

コメント (2)
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