九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大和宇陀松山藩・丹波柏原藩の中の九里を称した岡田氏

2019-02-25 | 岡田氏 バラバラ情報

我が系に関係する岡田氏には二系統あると思われる。

一つ目が清左衛門系
二つ目が市十郎から十右衛門になる系である。


途中で養子に入ってきてくださった岡田氏は四日市市史にあった「伊勢守」の兄弟の系と思われる。(=市十郎・十右衛門の系と思われるのである。)

今、一つ目を探している。

紀州の文書にあった「岡田清左衛門」であろうか?
南部藩の「岡田金左衛門 岡田清左衛門忠政 」であろうか?
下総原氏宗家当主原氏の系とつながっていくと思われる中原一族でもある「岡田元繁」であろうか?

一つ一つ接点がないかを見て行くしかないと思う。

岡田元繁に関しては、千葉氏の立派なHPもあり、web上を探って行けばかなりわかってきそうな気配であるが、他の二つは殆ど情報がない。

~~~*~~~
岡田元繁 

先祖書(岡田元繁)(寛政6)大慈恩寺文書 3371–22 原蔵大慈恩寺(千葉県香取郡吉岡
村)影写明治19(1886) 19丁(文書17点) 40cm (4部合綴)大蓮寺文書 3071. 35–28 原
蔵大蓮寺(千葉県東葛飾郡浦安村)影写大正4 (1915) 2丁(文書1志)36cm (清澄寺 ...と出てくる。

原氏式部太夫胤栄系図井譜録・岡田元繁先祖書をも収む。

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岡田氏と片岡氏

2019-02-24 | 岡田氏 バラバラ情報

下記のページの二枚目の写真に
「本国は勢州松阪あたりにて、始めは片岡と名乗り江州に住居し、故ありて岡に改称し氏郷に従軍す。・・・」とあり、この部分にこだわってみたい。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F

まず、勢州松阪の片岡氏。

伊勢国 ムラの戸籍簿データベースより
野田郷☆ (桑名)
(横郡) 天正13.-.- 1585 〔織田信雄分限帳〕織田信雄分限帳/‖/一、弐百貫<横 野田の郷/之内 相違>片岡助三/‖/一、百三拾貫文<横 野田の郷>安井弥助 四日市市史p.876-897
織田信雄分限帳(『続群書類従』)

杉谷郷☆ 朝明 天正13.-.- 1585 〔織田信雄分限帳〕織田信雄分限帳/‖/一、百七拾貫文<朝明/杉谷郷内相違>片岡善四郎 四日市市史p.876-897
織田信雄分限帳(『続群書類従』)

どちらも織田信雄分限帳にその名があるそうで、これは関係がありそうである。
調べてみると、この分限帳の中には、佐々氏・岡田氏・片岡氏の記載があった。
しかも佐々宗淳の家伝来の物のようである。



片岡氏と岡田氏、いなへ(員弁)の所領もあったようだ。

海から深尾氏の潜んでいた員弁の藤原鼎につながるライン上である。
東禅寺 片岡氏
梅戸 岡田氏
藤原鼎 深尾氏



===*===








古くから何かしらつながりがあったのだろうか。

江戸時代に入ってからの記載では、四日市あたりの事と思われるが、「岡田伊勢守」の名の記載があった。



その伊勢守善同の弟重綱からの系が九里政敬につながっている…と言う系図が丹波柏原藩の織田家臣系譜なのだが。(岡田時常も伊勢守である。)

なお、岡田氏の始めに片岡を称していたという「松阪」の片岡氏は見つかっていない。

===*===

以下は今のところ関係のない片岡氏であるが、忘れそうなのでメモしておく。
memo
片岡茂光の時、
長宗我部国親の妹と結婚し姻戚関係となり、
吾川・高岡・越知・黒岩・佐川・加茂・北地等の
広大な土地を有する領主となりました。


長宗我部元親の娘・美和も
片岡下総守光綱公と結婚しており、

有力武将として活躍していましたが、
金子城の援軍を命ぜられ金子城で討死したのです。

長曾我部は中原秋家とも繋がりそう。。。
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南部藩・紀州藩(?)の「岡田清左衛門」

2019-02-21 | 岡田氏 バラバラ情報

南部藩
岡田金左衛門 岡田清左衛門忠政  推挙・旗本某 寛文元年御祐筆に被召抱

…と下記にあった。

https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=kirokukan&mode=details&code_no=906&class_id=14

この南部藩にちらほらと近江国の出身者がいるので不思議であったが「南部重直」の母が蒲生氏郷の娘であったことに起因すると思う。

蒲生の配下の者も、娘について南部藩にいったのだと思う。
とすると、この岡田氏もその仲間であったように思えるのであるが、京極高次の分限帳の「岡田清左衛門」とはつながっているのだろうか。

南部藩の岡田氏
岡田金左衛門家で 盛岡藩の家臣に岡田五郎兵衛(のち助兵衛、清左衛門)忠政を祖とし、地方三百石、うち現米五十駄を食邑した岡田家がある。

岡田清左衛門忠政という名がみえる。

===・===

和歌山大学図書館/地域史料デジタルアーカイブ
紀州藩文庫より郷土誌料〔御入国之節姓名記〕

この文書は「従駿河御入国…」とも記載があるので、1716年の頃と思われる。
吉宗が駿河国に入った際という事なのではないだろうか。

そこで、この名簿の中に「岡田清左衛門」とある。他にも何名か岡田氏が入っていた。
何故紀州藩にいるのか?

紀州ではなくとも他藩からも江戸へ入国する人材を集めたのかもしれない。

===*===

丹波柏原藩、岡田氏の中から医師になっている系がある。
その系は「道可」から始まっている。

上記の従御入国のメンバーに医師で「道伯」という者がいる。

===?===

蛇足ではあるが、同じ紀州の文書の中に「糟屋左近」なる者がおり、通し矢の名人である。さらに日置流の流れをくんでいる。

~~~*~~~

memo
同じ帳の中に「深尾七郎」もいた。








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加賀藩の中の岡田氏

2019-02-20 | 岡田氏 バラバラ情報

〈論文〉「保科正之後見期の加賀藩について」本多俊彦 氏 著 より一部「岡田氏」に関する部分を下記にしるす。

岡田善政
岡田善政は美濃国の旗本として美濃国代官(美濃郡代)を務め、当時は幕府の勘定奉行であった。彼の父・善同は前田利家の許に寓居していた時期があり、その縁で善政の兄・義村は利家に仕えている。また、善政の息子2人(重治・重元)も前田家に仕えるなど、加賀藩と縁の深い旗本であった。

さらにweb情報として以下を

https://blog.goo.ne.jp/chitaya/e/0ed972ba8da2f141fe27f6fd5f9b7f11


岡田氏の先祖は、戦国時代に尾張に居住し、織田の諸侯に仕えていて、戦国時代から江戸初期は、岡田伊勢守善同(よしあつ)として、美濃ー揖斐城下に拠点を構え、美濃郡代・奉行として勤めていた。

善同の六男・善政の又六男・善紀は美濃・揖斐川沿いに清水陣屋を構えていた。
さらに善同が前田家にも仕えた事もあり、その長男義村は加賀・前田家に仕えていた。

~~~*~~~

この揖斐清水陣屋は、近江国のすぐお隣である。



その奥に揖斐城がある。


そこを拠点としていた岡田氏。
となれば、やはり近江国時代の九里氏との接点だろうか。(京極氏のテリトリーと近い!)

善政の兄義村が前田家に仕え、九里もまた前田家に仕え、共に鉄砲に関係する「金沢 鉄砲所文書」に名前の記載がある。

他の文書、本、webには、
岡田長右衛門 岡田助右衛門 岡田十右衛門 岡田喜六郎などの名前が文書に見える。


岡田長右衛門(15??~1619)

前田家臣。1575年、前田利家の右筆、御算用奉行となり70石を領した。後に同じ前田家臣新川儀太夫と争い隻眼となった。のちに4,000石を領した。

岡田政忠(雄次郎)は、文久2年(1862)に壮猶館で航海学が創設されると航海学生頭取となり、後には軍艦発機丸の軍艦頭取として、元治元年(1864)の第一次長州征討では広島まで赴いた。明治元年(1868)には、徴士として政府に出仕し、刑法官権判事、江戸府権判事などを歴任した。帰藩後には参政、そして大参事に任じられて明治初年の藩政に深く関わった。


岡田助右衛門
岡田助右衛門直教(1527~1583)が初代星崎城主となる。

岡田十右衛門(重右衛門)とも書かれている。氷上郡志: 上巻に名が記されている。
同じ名前が岩磐資料叢書にも出てくる。同一人物なのか、別人かは分からない。

~~~*~~~




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蒲生氏郷の家臣であった岡・岡田氏の妻が町野氏

2019-02-19 | 岡田氏 バラバラ情報

東京大学史料編纂所にあった寛永諸家系図伝の中に「三善氏」から始まった系図があった。そこに町野氏が出ている。

町野氏に関しては後日記述しようと思う。

下記に蒲生氏配下にいた「岡田氏」が出てくる。初めは片岡氏、そして岡氏を名乗り、更に岡田氏となる。

柳営婦女伝 十一ノ三







この記述を見ると、蒲生氏の家臣で4万石も貰っていたそうである。

意外と九里氏と近いところに蒲生氏と町野氏、そして岡、岡田氏がいる。
下記はもっとわかりやすく書かれている。

https://books.google.co.jp/books?id=v7Wu2D-GDDYC&pg=RA1-PA42&lpg=RA1-PA42&dq=%E5%8B%A2%E5%B7%9E%E3%80%80%E7%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F&source=bl&ots=Ynsm5CjBIX&sig=ACfU3U1HnUxqTLbo97LuSW-Na_F7DQrzzg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj6p9mnnsfgAhUPQLwKHcrSAtkQ6AEwCXoECAUQAQ#v=onepage&q=%E5%8B%A2%E5%B7%9E%E3%80%80%E7%89%87%E5%B2%A1%E6%B0%8F&f=false





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中原一族 「岡田元繁」 千葉県印旛郡誌: 前編, 第 1 巻 に見つける。

2019-02-13 | 岡田氏 バラバラ情報

中原一族の中に「岡田氏」もいたのですね!
ちょっと感動しています。
この広い海の中で、たったの一行、奇跡のように見つけたのです。



元繁という事は、他に見える元次、元直とも関係しそうに思えます。


この岡田氏は宇陀藩で織田信雄の前でお囃子の一人として龍笛を披露している人物かもしれず、もしも

柏原藩の岡田氏と重なっていれば、我が九里氏も中原氏の一族の可能性が大きくなります。

でも、違うかもしれません。

中原一族の岡田氏、現れて下さって、ありがとうございます!





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河童伝説の「志古淵神社」(しこぶち)京都左京なのだが、近江に近い場所「久多」

2019-02-04 | 岡田氏 バラバラ情報

岡田氏に関することを調べていた。

伊勢の員弁にも「岡田御厨」があったという。

さらに岡田浩佐家文書というものが、何度か出てきていたので気になった。
この岡田家はどのような家だったのであろうか?

岡田浩佐文書に関係する荘園はどこであったのか。それが以下の3つである。
1 山城 愛宕 久多庄 大悲山寺領・法成寺領・摂関家領・醍醐寺領・三宝院領

2 山城 愛宕 大見庄 大悲山領・法成寺領・摂関家領
3 近江 未勘 大見庄 法成寺領・大悲山寺領・足利家領・醍醐寺領・三宝院領

久多庄: 角川地名=深洞山東南、久多川流域国境=長承2中原明兼勘注状初見=平治1忠通家政所下文、法成寺領、平等院法成寺修理杣山、田地35町=永暦1久多針幡大
【備考】 永仁7朽木文書=久多庄地頭代貞能と朽木庄地頭出羽義綱代祐聖が堺相論和与=正安1幕府和与裁許・文安6醍醐寺文書=三宝院領門跡領・大見庄と堺相論あり・→0102019「大見庄」参照・法成寺領として村名が見えるのはヘ2281長承2明法博士中原明兼勘注・庄名の初見はヘ3096永暦1前太政大臣家政所下文案・→2102042「針幡庄(近江)」参照

現在の京都市左京区久多(上の町・中の町・下の町・宮の町・川合町),左京区大原(尾越町・大見町・百井町)を範囲とする久多荘の中でも,特に,久多地域に伝来しました「岡田家文書」(京都市登録文化財),「東本家文書」(京都市登録文化財),「久多自治振興会所蔵文書」のことを称しています。田畠や山林の売買に関する資料が多いものの,各時代の領主による支配の実態や中世における山間村落の様子,周辺地域との関わりなどを示す貴重な文書群です。

山城国大見庄:荘園志料=なし・角川地名=四方を山などの山林に囲まれ、東は近江国、大見川が東南に流る=久多庄の南に位置する山間集落=永暦6忠通家政所下文初見、法成
【備考】 角川地名=建久8無動寺政所下文、久多庄と堺相論、葛川領下立山に打入る=嘉暦3久多本庄と大見新庄の堺相論(岡田浩佐家文書)=もと久多庄に含まれていたか=正中2承鎮法親王付属状、西南院領久多杣<付大見>=義演准后日記に久多郷内大見とみえる・カ2977平治1前太政大臣家政所下文=久多針幡大見3箇所見作田35町を大悲山寺領とす=これは法成寺領、平等院法成寺修理杣山・カ3096永暦1同政所下文=法成寺領久多針幡大見庄=庄号あり・近江国に大見庄あり、当庄のことであろう・→2199049「大見庄(近江)」参照

近江国 大見庄 荘園志料=なし・角川地名=庄号なし→大見(木之本町)=大箕とも(輿地史略)
【備考】  山城国愛宕郡(現京都市左京区)の大見か。近江に接し、久多庄の南に位置する山間の荘園である。なお、伊香郡木之本町にも大見の地名はあるが、山城大見庄とみておく。・→0102019大見庄(山城)

いずれも近江と山城のお互いに近いところに位置している。

次に、「岡田浩佐家」は、どのような家だったのか…である。
京都左京区の文書解説にあったので、ご紹介しておきたい。https://data.city.kyoto.lg.jp/node/14936

岡田家は愛宕郡久多村に居住した家で、文書中の系図・由緒書によれば仁和年中に上総介盛久という人物が久多荘に来住、それ以来久多荘の公文職をつとめたと伝える。

 同家文書の特色は総点数382点の半数をこえる230点を中世文書(便宜上慶長5年以前とする)が占めることである。中世文書で年代の明らかなものは長久3年から慶長4年にわたり、11世紀2点、12世紀4点、13世紀7点、14世紀28点、15世紀55点、16世紀125点という年代分布で、とくに天文年間のものが70点の多きにのぼる。

 最も早い年紀をもつのは長久3年4月付久多荘政所職給田安堵状であるが、これは文体・字体等に疑点があり、次の永承5年5月15日付公文職補任状写を最古とすべきであろう。

ほかに百姓申状・年貢注文・売券など、久多荘の住民結合をうかがうことができる文書が多い。なかでも久多荘の初見史料である前記公文職補任状写、久多荘住民の中核であった「十人百姓」の御公事条々案2点(天福元)、住民が代官の非法を訴えた百姓等申状(正応2)、久多関の関所奉行公文源三郎補任状(年未詳3月3日)、同じく関銭の受取状(天文14)等が注目に価いする。

 近世文書は中世分に接し、慶長13年から明治元年にいたる。久多村村政に関するものが多く、知行所関係では村高指出(慶長13)、朽木監物知行高覚(延宝7)、国絵図作成時に指出された朽木監物知行所改覚帳(元禄11)などで、その実態がうかがえる。次に年貢収納関係は、年貢算用帳10点(寛政11~元治元)、減免高を書き上げた「田畑御用捨引帳」の類10点(弘化4~慶応4)など帳簿類が多くのこされている。

 このほか、領主朽木氏から久多郷・大見村・百井村に出された申渡条々2点(慶長20・明暦4)、安曇川筋材木運上関係3点(享保8・享保14)など久多村を中心にした洛北村落の形成についての貴重な史料群である。
なお同家文書には新採訪追加分があるが、ここでは触れない。

~~~*~~~
不思議な事に
「六角承禎書状案○岡田浩佐家文書」というのもある。

河童のことに関係する神社の記載も「岡田浩佐文書」にあるそうである。
https://kyotofukoh.jp/report600.html



次に調べたいのは「上総介盛久」という人物である。
さらに「中原明兼」が出てきている。
ここに中原氏(坂上氏系)が出ている意味は大きいと思う。

上総介盛久とは…上総介で仁和年間で見ると平高望あたりになるのではないかと思う。
仁和は、855-889年なので高望の息である良兼かもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9

平高望と妻藤原良方
その息良兼
それが、藤原北家良方流の糟屋氏につながることがわかった!!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%9F%E5%B1%8B%E6%B0%8F

系図によれば、藤原良方の子の元方が、糟屋の地で土着して糟屋氏の祖になったという。その元方は前九年の役で源頼義の軍に従った坂東武士の一人佐伯元方で、婚姻か主従関係によって藤原氏に姓を変え、糟屋氏の祖となったと考えられる[2]。

荘官を務めた盛久は治承・寿永の乱で活躍し、その子有季は源頼朝に臣従して鎌倉幕府御家人として活躍した。有季が頼朝の乳母一族比企氏の女婿であった事から、比企能員の変で北条氏と対立し、有季は討たれ、一族は鎌倉を去って京の朝廷で後鳥羽院の武士として仕えた。その後承久の乱で京方として敗北し、有季の子らはことごとく討ち死にしている。

…という事で比企能員の娘聟が糟谷氏
糟谷有季
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%9F%E5%B1%8B%E6%9C%89%E5%AD%A3

一族から一条高能とつながる娘もおり、一条能氏の母となっている。同じ妻の立場で、藤原兼光の娘もおり、
その兄が「日野資実」である。


「中原明兼」は次回にしたい。
そして関所公文源三郎が、実は「岡田氏」なのではないだろうか。





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早川権左衛門

2019-01-27 | 岡田氏 バラバラ情報

前回までは、柏原織田家臣系譜(国立国会図書館デジタル)によるものであった。

今回は、同じ部分を尾張群書系図部集で見てみると、毎度のことながら、
全く違っている。以前に書いた記事も付けておこう。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/5d25e8425424eaca296a8f09711e1623


では、岡田堅桃斉の岡田氏は実在の人物だが、どの岡田氏からやって来た岡田氏なのだろう。

それに本当にここにつながる岡田氏から政直は始まっているのだろうか?

堅桃斉の部分には、尾張群書系図部集では重頼が当てはまると思う。
でも、全く当てにならないかもしれない。
方法を替えて個人個人を見ていくことにする。

~~~*~~~

九里政道の妻が早川権左衛門の娘であった。
この権左衛門の部分はわからないが、早川氏に関しては、九里氏に近い部分がある。

それは、佐々氏である。
佐々成政の三男といわれている雄助(春日井郡比良城)が母の姓を名乗り早川氏としていた。尾張群書系図部集の「佐々氏」より↓



この中での勝長、その弟長康、



前野 勝長 (まえの かつなが)

?~天正十三年(1585)四月二十九日。
小兵衛尉、加賀守。
小次郎宗康の三男。小坂雄吉・前野長康の弟(武功夜話・前野氏系図)。「武功夜話」には、天文十一年(1542)の小豆坂の戦いをはじめ、いのうの戦い、桶狭間の戦いなどで敢闘とある。
後、佐々成政の臣となり、元亀元年(1570)六月二十二日、小谷より退却の時、殿軍を務めた成政軍の中で活躍した(ほあん)。鉄砲隊長を務め、成政の越中一職はい領に伴って、砺波城主一万五千石という(武功夜話)。
その後、成政の命により、越中魚津・松倉城を攻める。天正十二年(1584)成政と前田利家とが争った時、朝日山の戦、末森城攻めなどで軍功。家老職に任じられ、井波城主となるが、病のため越中新川郡にて没(前野氏系図)。妻は佐々平左衛門の娘という(前野氏系図)。



前野 長康 (まえの ながやす)

享禄元年(1528)~文禄四年(1595)八月十九日。
小太郎、勝右衛門、但馬守。いは「光景」とも。また、長康は「長泰」とも書く。号は五宗、五斎。
小次郎宗康の次男。小坂雄吉は兄、前野勝長は弟(前野氏系図)。「重修譜」では坪内勝定の長男としているが、「前野氏系図」にある通り、勝定の婿というのを誤ったものであろう。
永禄元年(1558)、信長の岩倉城攻めの時、父宗康とともにその軍に従う。その時の功により、登立・竹藤・五日市場で都合四十貫文の地を与えられた(大森供太文書)。
蜂須賀正勝と兄弟の契りを結び、両者とも秀吉に付属され、永禄九年の墨俣築城に活躍したという(武功夜話・前野氏系図)。元亀元年(1570)四月の越前金ケ崎の殿軍の時など、常に秀吉に従って諸所に転戦。天正五年(1577)に秀吉は播磨に入国するが、それに従い、今度は播磨・但馬で活躍する(武功夜話)。


小坂(前野)雄吉

1526-1601 戦国-織豊時代の武将。
大永6年生まれ。前野宗康(むねやす)の長男。前野長康(ながやす)の兄。織田信長につかえ,尾張(おわり)(愛知県)春日井郡柏井の小坂(おざか)氏の名跡をつぎ,織田信雄(のぶお)の守り役となる。吉田城にあって3000貫文を領したが,天正(てんしょう)18年信雄が豊臣秀吉により除封されたため,在所丹羽郡前野村に蟄居(ちっきょ)した。慶長6年9月13日死去。76歳。通称は孫九郎。


小坂 雄長

(おさか おなが、天正4年(1576年) - 寛永13年8月29日(1636年9月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、旗本。柏井城主の小坂雄吉の子。通称、助六郎、孫九郎。兄に小坂助六郎雄善(『武功夜話』のみ)、姉に於奈(山口重政室)、弟に小坂一長(肥後藩士)、山口吉長(旗本小坂家の祖)。子に小坂雄忠、小坂雄綱。
概要

織田信雄に仕え、その諱を戴き雄の字を名乗ることとなる。その後、信雄の命により豊臣秀吉に仕え、文禄の役の際には肥前国名護屋城に赴く(その際、父・雄吉は同所で死去している)。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福島正則の配下として東軍に属した。

戦後は松平忠吉に仕えたが忠吉が若くして没し、その後は福島正則の下に身を寄せたり、各地を流浪したりしていたが、姉の夫である山口重政が雄長のことを酒井忠世に上申し、寛永10年(1633年)に1000石の旗本として取り立てられた。寛永13年(1636年)、上野国草津において61歳で死去。法名は宗最。

~~~*~~~

佐々氏とのつながりのある早川氏かもしれない。


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岡田重綱の祖父重忠 称 見桃斉・堅桃斉(賢桃斉)

2019-01-27 | 岡田氏 バラバラ情報

【岡田堅桃斉】という名前で検索すると出てくる。

「さきたつも心ありてや行つらん花の山路はふむ跡もなし」

岡田重忠、今までは調べたことがなかったので、非常に面白い人物に出会えたことに感謝!

生花の師匠でもあり、連歌もしていたようで、武田信玄のお伽衆であったそうだ。



その兄弟が、小豆坂七人槍の一人であった。その息 岡田重善は織田信雄に誅されている。(小説では秀吉の陰謀ともされているが…)

堅桃斉の孫である重綱(月庭斎男となっている。)11歳で信雄に仕え始めている。

織田信長の二男であった信雄は、生まれた時に髪の毛が立っていて茶筅のようだったとか。名を茶筅丸という。

重綱は織田信雄と行動を共にしていた近臣であったようだ。

信雄は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、伊豆韮山城攻めから、小田原城包囲軍に転属し、武功をあげる。

しかし、家康が関東へ国替えになった跡地の三河・遠江への転封を命じられ、父祖の地の尾張からの移動をいやがり拒否したことから、秀吉の怒りを買って改易される。

改易後は下野国烏山(一説に那須とも)に流罪となり、出家して常真と号した。

その後、出羽国秋田、伊予国へと流され、文禄元年(1592年)の文禄の役の際に家康の仲介で赦免され、御伽衆に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。

肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという(『太閤記』)。この際、嫡男・秀雄も越前国大野に5万石を与えられた。

~~*~~

上記の信雄と同じように移り住んでいることがわかる。



~~~*~~~

多分、元和の事でもあるので、この岡田重綱が養父であったのだと思う。


~~~*~~~

堅桃斉、これから何か書籍を探してみたいです。
映画「花戦さ」の池坊専好と同じ時代の「花僧」であったのか?と思うとワクワクしますね。

連歌も、宗祇に憧れていたのではないかと思われる近江国九里「浄椿」を思い起こさせます。

浄椿、蒲生秀胤も「浄椿・常椿」を名乗っていたそうで、気にかかっています。


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九里政直は岡田政直であった。

2019-01-27 | 岡田氏 バラバラ情報





常真公とは、織田信雄のことである。
その家臣に見える「佐々木高一」は、(wikipedia 宇陀松山藩)

生駒氏(1700石)佐々木高一は六角義治の弟で、織田信雄に仕え、その次女を娶った。その子正勝は、外祖父信雄の母方の生駒氏を名乗ることを許された。

佐々木高一-生駒正勝-正興=正純-邦綱-通綱-方綱-宏綱=美綱-克綱-高令

生駒氏(1500石)生駒忠親は、本姓は谷氏。織田信雄に仕え、その養女を娶った。その跡は弟の範親が相続。宇陀崩れで則正が上意討ちにより殺害され家名断絶。

生駒忠親=範親-則旦-則親-則正

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佐々木高一は情報がなく、息の「生駒正勝」は出てきたので、メモしておく。






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