近江国の佐々木秀義のもとに隠れ、平治元卯年従い、南都の僧兵を討ち、その功により、従四位上に叙せられ、上野守となった。 義顕は、三浦義明の長子で、源為義の寵を受け、幼少より数々為義の館に出入りしていた。
源為義に寵愛を受け、出入りしていたとなると、佐々木秀義1112年生と同じような立場であったことになるか。
義明嫡男といわれている杉本義宗が1126年生。
義顕の記載はwikipediaにはないのだが、同じくらいの年齢と思われる。
為義は1096年に生まれ1156年に歿している。
杉本義宗がもしも義顕とイコールならば、和田義盛の父親でもあるので、話が繋がってくる。
更に、義宗の母親は秩父重綱の娘のために畠山とも繋がっている。
だからこそ、この二人(義盛と重忠)が後に 富士元宮再造営に携わったのではないかとさえ思えるのだ。
【セキホツ熊の謎を追え!】 さんのHP (宮下文書に詳しいHP) 素晴らしい~~HPです。
部分を拝借致します。
https://www.sekihotu.com/entry/2022/06/05/182509
【宮下文書における三浦義明は、賀茂次郎義綱の息子・源義明のこと。】
「朝長(宮下氏族波多野義通の娘)」
もしも源義明とすると1109年に歿している。義明の下にも4人は弟がいたことを考えても1100年~1105年生まれだろうか?その息が義顕となる。
【因みに宮下文書では、1108年以降この賀茂次郎義綱の子・源義明が相模国に下向、三浦半島の豪族三浦氏に婿入り、三浦平太夫為道の娘『浦浪姫』を娶る。これが三浦義明の正体である。因みに、通説での妻は秩父重綱の娘とされている。
彼の実孫・源甚吾重成が大宮司宮下家に婿入り、49代宮下源太夫義仁となる(源重成は同姓同名がいるので注意)。】ともある。
謎であった部分が、少しずつわかってきた!
更に思い出すと、朝長の二歳年上の兄となる【義平】の母親は三浦義明の娘である。
松田殿と呼ばれていた朝長の拠点は富士山に近い。
緑の矢印が富士の八幡宮、右の端に「松田」がある。
波多野氏とも、木田氏とも、山縣氏とも、楠木氏とも関係があるようで、一気に今までバラバラであったことが繋がり始めたような感覚がある。
長田資家の系が富士宮とも関係があり、長田忠利が「宮判」となっていることもわかり、ますます親近感がわいている。
下記の長田氏(後の永井氏)と、資家の長田氏は全く別の系統なのか、はたまた繋がっているのか…そこが知りたいところなのだが、いまだわからない。
この宮下文書のどこかに記載がないだろうか?と思いながら読んでいる。
日本通信百科には、
「忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。」
この政致だが、系図によっては政俊となっている。(尾張群書系図部集)大浜太郎政俊(政信) のことのようである。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nagai1.htm
今後役に立つと思われる memo
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/sinanogenji.htm
https://core.ac.uk/download/pdf/291359128.pdf
https://chibasi.net/souke8.htm