九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

韓国 九里市に関する情報

2022-12-13 | 雑記

https://www.guri.go.kr/jpn/contents.do?key=2975

日本は朝鮮を強制的に植民地支配下に置いた後、1914年に行政区域を大々的に改編した。現在の名称である「九里」はこの時に生まれた。

ええっ、の驚きの事実である。古代から「九里」ではなかったのだ。

GURIと書かれているが、発音もGUと濁るのだろうか。

私のスマホに入っている翻訳ツールでは「クリリ」と発音しているし‥‥

 

・・・という事は、中国の九里からきたのだろうか?

翻訳ツールでは「ジョオッリ」と聞こえるが。

 

海外は難しい…この辺でいったんあきらめよう。

 

 

 

 

 

 

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調べものの途中での情報  因幡局とは、どなた? 下総局とともに、登場!

2022-11-17 | 雑記

中世東国の地域権力と社会 - 42 ページ

その重国は河崎 18 (中山)氏の一族で重家の子である。つまり重実・重国・重政・為重は兄弟であった。その重国の子高重は和田合戦に和田方へ組みして討死し、同国渋谷庄は没収され幕府の女房因幡局に与えられた。

 

北条政子: 幕府を背負った尼御台 - 115 ページ

長沼(小山)宗政の言によると、今回の論功行賞では榛谷重朝の遺跡は五条局に、中山重政の跡は下総局に与えられている。 ... たしかに五月七日の論功行賞では、相模渋谷荘が女房因幡局に、陸奥由利郷が大弐局に与えられている。

「渋谷庄(和田方に加わった澁谷氏の領所のみであろう)」も収公され、5月7日に「勲功」として「女房因幡局」へ与えられることとなった(『吾妻鏡』建暦三年五月七日条)。1213年のこと。

 

大江広元の妻? 源通具の妻?

源通具はまだ存命していた時代なので、大江広元妻(多田氏)かと思われる。

が、妻は数名いたかもしれないので、多田氏とも限らない。

または、佐々木高綱妻も考えられる。(まだ高綱存命中だが、出家あと)

 

私が見つけた因幡局は、石清水八幡宮宮司の幸清の妻であった【因幡局】であった。

http://zan35441.on.coocan.jp/sub26-2.html

後に近衛局になった人物という。法名:生蓮

因幡の母は、夜須庄司 助延の娘とある。

もしかすると號因幡とあるので、因幡局と因幡と、二人いたのかもしれない。

夜須といえば、源希義が関係していたようで、

『夜須行家行宗、希義を守る』と出てくる。

 

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/e6a6442bb5ea97b0e1f03afd299221ee

http://www.komainu.org/kouchi/konansi/yasu/yasu.html

http://rekisi.tosalog.com/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/%E9%A6%99%E5%8D%97%E5%B8%82%E5%A4%9C%E9%A0%88%E7%94%BA%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%AE%AE%E3%83%8E%E5%8E%9F%E3%80%8D

 

 

嘉禎元年 1235年

 

 

 

 

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%BE%A4%E6%9B%B8%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E9%83%A8%E9%9B%86_6/4i_Q7X4O2dwC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%A4%9C%E9%A0%88%E3%80%80%E5%8A%A9%E5%BB%B6&pg=PP297&printsec=frontcover

 

因幡局は、石清水八幡宮の成清の弟子幸清の娘で、宮清の母となった人物のようでもあるが、宮清の母と書かれた人物が二人いて、詳しいことはわからない。

それとも、宮清と同じ母から生まれているという意味かもしれないか?(つまり兄弟姉妹)

宮清の妻は、花山院法眼良宗の娘【大納言局】は後嵯峨天皇の子尚清を身ごもり宮清の室になった。

 

成清の弟子?幸清の娘が、宮清の母となっていることは確かなようである。

https://geocity1.com/okugesan_com/kinoshi.htm

 

因幡局の異母姉妹に多田蔵人の妻になった人がいる。ひょっとすると大江広元の妻の母かもしれない。

 

ともかく、この紀氏の因幡局だった可能性も少しあるのではないだろうか?

 

因幡という名がついているからには、父か夫は「因幡国」と関係のある人であったのではないだろうか?

そうなると、冨城蓮忍入道の可能性もあるかもしれないなどと、妄想してしまう。

または、長田氏かもしれない。

「長田兵衛尉實經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後廣經と改める。父資經は平治に頼朝を伊豆へ送った。三巻壽永三年(1184)三月十日」

上記に出てくる 【唯信】の父は、八田知家ともいわれているそうである。親鸞の弟子である。

https://www.shin.gr.jp/shinran/24/t_042.html

 

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源実朝 と 唐船 

2022-11-07 | 雑記

吾妻鑑の「唐舟」に関する記述 ↓

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma23a-04.htm

 

もしも船が進水したならば、全く違った展開になったであろうと思う。

 

源実朝は殺されずに唐船に乗って逃げ延びた・・・という小説(の検証のページ)を見つけた。

それによると、殺された日の明け方は満潮であったそうだ。

小説も面白かった。

https://kamaeno.com/2021/05/25/karabune/

 

いろいろな憶測を呼ぶ「唐船」

今まで気にも留めていなかった「唐船」だが、船で海外に渡ることを夢見ていた青年像が垣間見れて、その実朝の姿が嬉しかった。

実現させてあげたかったな。。。

 

 

 

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実録三浦党に記載のある 三浦義明の長子 三浦義顕 その息重成=義仁

2022-11-04 | 雑記

近江国の佐々木秀義のもとに隠れ、平治元卯年従い、南都の僧兵を討ち、その功により、従四位上に叙せられ、上野守となった。 義顕は、三浦義明の長子で、源為義の寵を受け、幼少より数々為義の館に出入りしていた。

 

源為義に寵愛を受け、出入りしていたとなると、佐々木秀義1112年生と同じような立場であったことになるか。

義明嫡男といわれている杉本義宗が1126年生。

義顕の記載はwikipediaにはないのだが、同じくらいの年齢と思われる。

為義は1096年に生まれ1156年に歿している。

 

杉本義宗がもしも義顕とイコールならば、和田義盛の父親でもあるので、話が繋がってくる。

更に、義宗の母親は秩父重綱の娘のために畠山とも繋がっている。

 

だからこそ、この二人(義盛と重忠)が後に 富士元宮再造営に携わったのではないかとさえ思えるのだ。

 

【セキホツ熊の謎を追え!】 さんのHP (宮下文書に詳しいHP) 素晴らしい~~HPです。

部分を拝借致します。

https://www.sekihotu.com/entry/2022/06/05/182509

【宮下文書における三浦義明は、賀茂次郎義綱の息子・源義明のこと。】

「朝長(宮下氏族波多野義通の娘)」

 

もしも義明とすると1109年に歿している。義明の下にも4人は弟がいたことを考えても1100年~1105年生まれだろうか?その息が義顕となる。

 

因みに宮下文書では、1108年以降この賀茂次郎義綱の子・源義明が相模国に下向、三浦半島の豪族三浦氏に婿入り、三浦平太夫為道の娘『浦浪姫』を娶る。これが三浦義明の正体である。因みに、通説での妻は秩父重綱の娘とされている。

彼の実孫・源甚吾重成が大宮司宮下家に婿入り、49代宮下源太夫義仁となる(源重成は同姓同名がいるので注意)。】ともある。

 

謎であった部分が、少しずつわかってきた!

更に思い出すと、朝長の二歳年上の兄となる【義平】の母親は三浦義明の娘である。

松田殿と呼ばれていた朝長の拠点は富士山に近い。

緑の矢印が富士の八幡宮、右の端に「松田」がある。

 

波多野氏とも、木田氏とも、山縣氏とも、楠木氏とも関係があるようで、一気に今までバラバラであったことが繋がり始めたような感覚がある。

長田資家の系が富士宮とも関係があり、長田忠利が「宮判」となっていることもわかり、ますます親近感がわいている。

 

下記の長田氏(後の永井氏)と、資家の長田氏は全く別の系統なのか、はたまた繋がっているのか…そこが知りたいところなのだが、いまだわからない。

この宮下文書のどこかに記載がないだろうか?と思いながら読んでいる。

 

日本通信百科には、

「忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。」

 

この政致だが、系図によっては政俊となっている。(尾張群書系図部集)大浜太郎政俊(政信) のことのようである。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nagai1.htm

 

今後役に立つと思われる memo

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/sinanogenji.htm

https://core.ac.uk/download/pdf/291359128.pdf

https://chibasi.net/souke8.htm

 

 

 

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寄り道 和田義盛の裔達 義氏の裔・朝比奈義秀・朝盛その後

2022-11-03 | 雑記

和田義盛の息 義氏は和田の乱、40歳で歿しているようなのだが、

其の裔に関して、ココに書き留めておきたい。

義氏の息は平尾盛氏となり、この盛氏の後裔盛継の代から伊勢国小浜に住んで姓としたそうである。(静岡県苗字の話より)

更に

寛政重修諸家譜によるとその盛継の代に北畠顕家に仕え小濱の郷を領せし‥‥とある。

 

 

 

次に、巴御前との息とも言われている 朝比奈義秀なのだが、浜辺に六艘の舟を用意してあり、家来総勢500人を引き連れて安房国へ逃げ延びた説、高麗にまで逃げ延びた説などが残っている。

 

和田朝盛は義盛の孫である。この人物こそが源実朝のすぐ近くに仕えていて、しかも和歌が得意であったためもあるのか、北条泰時とともに学問所番を仰せつかっている。吾妻鑑には実朝御寵愛ともある。

彼は、進退きわまって出家、実阿弥陀仏と号して上京してしまったそうである。

 

 

鎌倉殿の13人では、和田義盛と源実朝が親しかったように描いていたが、

孫の朝盛とは本当に親しかったことが記されている。

承久の乱では京方につき、その後は尊長の嘉禄3年(1227年)京においての謀反計画にも参加していた様子も見られる。

因みに尊長の父は一条能保である。その配下に中原政経がいた。

 

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黄金のアデーレ 名画の帰還 2011年迄ご存命であった女性の話でもあります。

2022-10-09 | 雑記

黄金のアデーレ 名画の帰還

https://gyao.yahoo.co.jp/title/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AC%20%E5%90%8D%E7%94%BB%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84/621c50d7-754d-4855-a33c-44bab7ec1503

 

ナチスがはく奪した絵画が元の所有者に戻るまでの話

死んでしまった人は戻らない、其の記憶。

残った絵画は…

18日までだそうです。

ご興味のある方は、是非。 

 

記憶と芸術は結びついているものです。

 

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執権北条義時の誕生にしては説得力が…

2022-10-02 | 雑記

本日 10月2日の「鎌倉殿の13人」の義時が執権になる動機が、やけにあっさりでしたね。

謀反人‥‥とまでは行かぬともクーデターに近いことをした時政の息が、どうして跡をついで執権になることができたのか理由がはっきりとしません。

私としては、ドラマでの主人公が執権となるのですから、そこの部分を掘り下げて欲しかったです。

モヤモヤ、としたまま。

前執権の暴挙を押さえた…その人物であった、という事なのだろうか?

 

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大内氏 と 内藤氏 

2022-09-08 | 雑記

大内氏は各地にいて、様々なルーツを持っているらしいのだが、一番気になる方が ↓

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人清和源氏義光平賀氏の一族で、大内惟義嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。

wikipediaには、

平賀氏の一族も、こちらの多々良氏の一族の「大内氏」も、どちらも鎌倉時代に「御家人」と書かれている。

 

多々良氏一族「大内氏」 鎌倉時代(wikipedia)

『鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。』

「大内氏」は、重源に訴えられているほどなので、鎌倉時代周防にいたことがわかる。

重源は周防に東大寺再建の際の柱となる杣を探しに行ったのだが、それを運搬する際に大内弘盛の妨害を受けたそうである。

その頃長門守護となった佐々木高綱重源上人を助けて東大寺のための材木搬出(杣だし)に尽力したそうである。

 

 

鎌倉初期にはまだ御家人ではなかった??

  • ^ 建久3年(1192年)1月に重源から幕府に訴えられたが、「大内介は関東所勘の輩に非ず」として訴えを却下されるほど勢力があった(『吾妻鏡』)。

大内介は関東所勘の輩ではないから、朝廷に奏聞するように」として訴えを却下している。(室町文化の中にみる大内文化の遺宝展 - 6 ページ) 大内弘盛のこと。

 

 

この西国の大内氏は、久利氏ともかかわりがある為、久利家文書にもその名が登場している。

内藤氏との関りは、次に!

 

大内氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohuti.html

 

 

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日光山別当弁覚 とは?

2022-09-04 | 雑記

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/sigetadaziten_20220628.pdf

上記の年表によると、

1204 元久元年 1 28 重忠が北条時政を破る旨のうわさが京都に伝わる(明月記)』ここから以下元久二年の6月22日に至るまでが、わかりやすく載っている。

私が気になった箇所はこのほかには

『内藤朝親、新古今和歌集を持参し鎌倉に着く。』(朝親は藤原定家の門弟であった、そうだ。)

【中世文化の美と力】によると「上皇に倣って和歌を始めた実朝は、藤原定家の弟子となっていた御台所の侍の内藤朝親を通じて「新古今和歌集」を入手し、…」とある。

 

『重忠の末子僧重慶、日光山別当弁覚に謀反を企てたと訴えられる。』

日光山 ↓ 小山氏と密であった。

https://www.city.oyama.tochigi.jp/site/hakubutu/237930.html

https://www.yoritomo-japan.com/ikusa/hatakeyama3.html

 

 

 

 

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31日までのドキュメンタリー 芸術と歴史が好きな方へ、是非!

2022-08-29 | 雑記

https://gyao.yahoo.co.jp/episode/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BCVS.%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD%20%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%90%8D%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88/5f896372-8ce4-4303-8066-79549d44f812

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