本佐々木氏の木村成俊は、下記の系図では定道の息となっている。
が、成俊は木村氏の祖として佐々木氏とは別系の可能性もあると宝賀先生はご指摘なさっていらっしゃる。
貞永元年(1232年)から寛元三年(1245年)までの記載がある「中原成俊」
定道は1109年に生まれ1129年あたりから活躍したとする。
が、年代が合わないので、木村氏とは別人であろうと思われる。
二人目の中原成俊となる。(少内記)
仁治元年(1240年)
木村成俊は、佐々木季定・行実・行定・家行・行範の兄弟として系図に記載のあった人物ではないだろうか?
とすると、紀氏が母親となるのかもしれない、とも思う。
この系は消されていると思う。
何故かは確かではないが、
道正(政)の母親と弟(道澄)を殺した人物が、成俊の息だったのではないだろうか? つまり、仮名「新六郎友員」のことである。(源行真申詞記)
犯人は「道正の従兄弟」であったと思うので、この成俊の息であった可能性も充分ある。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c75c7201ef9ffaa6201805c68dff35bb?fm=entry_awc
「成俊」という名前が、定道の叔父と、定道の息にいたような事になってしまう。
下の徳源院本に追記するとすれば、成俊は定道の兄弟となる。そして兄弟の子(甥)を養子にもらい、木村氏を継がせたのかもしれない。
若しくは、定道の【木村氏】を継ぐ者として、叔父の成俊以下の系を付け加えたのかもしれない。
系図が様々あるので、見解は一致しない。
以前webでみた「徳源院本」の系図には、
章経ー経方ー季定
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-行定 真野の祖
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ー定道 木村の祖
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-行実 伊庭の祖
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-家行 愛智の祖
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-行範 乾の祖
となっていた。
これにも季定の兄弟の「成俊」の記載はない。
ここに何かが隠されていて、そこが九里氏と関係がある様に思っている。