月1回の講座に出かけました。西先生のお話は相変わらず楽しい。
なのに遅刻してしまった。すべての動作、行動に
時間のかかることを忘れていた。
ブログ更新も当日は無理でも翌日に・・・と思っていたのに数日も経ってしまった。
知多半島の古代から戦後までのお話でした。
戦後のお話は私の記憶の中にありますから興味深いでした。
受講生の皆さんは私よりお若い方ばかり
戦中戦後は既に歴史の中ではないでしょうか?
GHQ,御真影、奉安殿(御真影が納められている建物)等々。
懐かしい?言葉も出てきました。
1945年の終戦から1952年までの7年間は全くの占領下(連合軍)。
あらゆることにGHQの許可を必要とした。文化芸術から
市井のこまごまとしたことまで。
当時の私は戦争が終わって嬉しくて、ノホホンと過ごしていた。
1952年平和条約の成立で真の戦争終結となりました。
戦争、そして戦後は私の記憶の中にありますし、
私の人間形成に大きな影響があったのではないかと思います。
冒頭の写真白川公園は、戦後「アメリカ村」として
占領軍の家族用住宅でした。我が家の近くには米軍キャンプがあり、
我が家へも遊びに来ました。紳士的な兵隊さんばかりでした。
かつてのアメリカ村の今は白川公園として
市美術館、日本一を誇る科学館など、
樹木生い茂り市民の憩いの場所になっています。
「平和ボケ」の言葉も折につけ言われますが、
こうした機会に戦後を思い出すことができて
無駄ではなかったと思います。
今や使われることもない単語になりました。
昭和一桁生まれの私世代がこれらを知る最後と思います
何十年もの以前のこの日(10月21日)は神宮外苑で学徒出陣壮行会が雨の中
行われた日のようで
NHKで放送されていました。
胸痛む思いで見ていました。
ご返事遅れてごめんなさいね!
1952年に平和条約が結ばれたことは教科書で学びましたが、
それまでが、連合軍の占領下にあったこととは結び付いていませんでした。
1952年は私が小学校に入学する一年前です。
東京都下には米軍の立川基地や横田基地があり、立川基地は返還され
昭和記念公園となりましたが、横田基地にはアメリカ空軍が駐留しています。
友人と広ブラのときアメリカ村を
横目に歩きました。
「もはや戦後ではない」とは経済白書の言葉のようですが、
間もなく戦争のことを知らない人たちばかりになりますね。
「三種の神器」も今では何の家電を指すのか忘れてしまいました。
「貧しきえお憂えず等しからざるを憂う」
お米お砂糖は勿論ですが
晒し木綿なども配給でした。
妊産婦には「特配」がありました。
これらが自由に買えるようになったのは
戦後しばらく経ってからと思います。
そうですね災害ボランティアには
頭が下がります。感謝です。
軍国少女でしたのに、戦後はがらりと変化して
楽しんでいました。
私の軍国少女もいい加減なものだったわけです。
私世代がいなくなれば
本当に「戦後は遠くなりにけり」
だと思います。
ありました。
父が片言英語ですが会話できましたので
筆談もしたりして意思の疎通葉できました。
残っています。
アメリカ村の横を通って通学していました。
焼け残ったビルは、接収されてPXや
GHQが使っていました。
みんな貧しかったけど、活力はあった
ように思います。
1歳ですから何も覚えていませんし世の中がだんだん良くなってきていました。
今は苦労をしたこともそれほど覚えてなくて、物が無いので何もかもを大切に使っていた記憶が残っています。
今は豊富すぎて麻痺してしまい反省もし感謝もして。
でも若いボランテァの方を見るとまだ日本は素晴らしいと思います。
なんにも
憶えていないのですよ。
ただ、数年も経つころには
とても景気がよくなってきて
みんな生きる力に溢れていたこと
を憶えています。
Rei様と同様、戦中、戦後の占領下も経験しました。
私も身近に占領軍がいて何度も接触がありましたが、
みんな友好的で紳士でもありました。
いつも「南風」お読みいただき有り難うございます。