”全ての政治家は無能だ”という表現と”任意の政治家は無能だ”という表現では、どう違うのか?いや全く同じ意味なのか?
まず、日常生活で使われる”任意”という言葉は、本人の自由意思(arbitrary)を意味し、”任意同行”なんかの言葉で使われる。勿論、全てはallである。
しかし数学の世界では、”任意”(any)と”全て”(all)は同じ意味の時もあるし、違う場合もある。
因みに、高校の数学では(大体において)任意と全ては同じ意味だと教えられる。
数学においては、任意とは”無作為に1つだけ選ぶ”という意味であり、ここでは選ぶという行為に注目してみる。
そこで、ある対象の集まりをAとする時、そのAの中から何かを選ぶ場合、Aの中から無作為に1つ選ぶ場合は”任意”で、Aの中の全部を選ぶ場合を”全て”となる。
以下、「任意とすべての違い、そして2つの無限」の一部を参考です。
”任意”と”全て”が異なるケース
A={1,2,3}とする時、”Aの任意の元は0より大きい”と”Aのすべての元は0より大きい”は、勿論どちらも正しいですね。
次に、”Aの任意の元と1の総和”と”Aのすべての元と1の総和”ではどうなるのか?
前者は、Aから無作為に1つだけ元を選ぶから、1,2,3のどれかになる。故に、1との総和は2,3,4のいずれか。
後者は、Aの全ての元{1,2,3}と1の総和は、1+2+3+1=7となり、前者とは明らかに異なりますね。
この様に、やり方によっては”任意”と”すべて”では、結果が大きく異なるんです。
この2つがどう異なるかを無限大を例にとる。
”任意”の場合はたくさんある中のどれか1つだけを対象にし、一方で”すべて”は、集まりに属する対象を余す事なく(全部)取り上げる。
例えば、√2は1.414213562379・・・ですが。
この小数の”すべて”を数えあげる事は不可能です。しかし、小数点以下第何位と”任意”の条件(対象)をつければ、数えあげる事は可能となる。
一方で、1/3は0.333333・・・と3が永久に続きます。故に、”任意”の条件をつけなくても全てを数える事が出来る。
前者は無理数で”非可算”無限大、後者は有理数で”加算”無限大である事が、カントールにより数学的に証明されてます(「無限大ホテル」を参照)。
コラムでは、任意を可能無限、すべてを実無限と喩えられてますが。敢えて、加算無限大と非可算無限大に喩えてみました。
以上、はてなブログからでした。
最後に〜”任意”と”全て”と内閣支持率
つまり、任意も”全て”という意味ではあるが、選ぶのは”1つだけ”という微妙?な条件がつく。どれを選んでも自由だが、1つしか選べない。故に、allの頭文字Aを逆さまにした記号”∀”で表される。
そこで冒頭の問題に戻ります。
”全ての政治家は無能だ”とは、東大出の官僚やエリート議員も含め、全員が無能だという事で、言い換えれば”実無能”となる。
一方で、”任意の政治家は無能だ”とは、エロ議員や汚職議員らを(暗に)名指しし、その中から無作為に選んだとして、全ては無能だろうと言う”推定無能”という事になるのだろうか。
つまり、オールなんだけど厳密にはオールじゃない。全てと言いたいが全てとは言い切れない。こういう曖昧な”すべて”が”任意”と言えるのだろう。
私たちは、政治家を常にエロ議員とか無能呼ばわりする。勿論それは、大体の意味で正しい。
しかし、”任意の政治家は無能だ”と言った方がより正しい言い方だろう。
勿論、”全ての政治家は無能だ”と言いたい気持ちは判るが、任意という言葉を挟む事でより的確な言い方になる。
こうして数学用語を実社会で使う事により、少しは賢い言い方に聞こえる様な気もするが。
管総理の支持率(NHK)が40%と、不支持率37%をかろうじて上回った。
しかし、これも”任意”の調査だから当てにならない。事実、朝日は21%(支持)と60%(不支持)、時事は34%と40%、産経は45%と44%とバラバラだ。
つまり、”任意”の選び方で結果は大きく変わる。”すべて”調査したらどういう結果になるのだろうか?
そういう意味では、コロナ感染者数も任意に過ぎない。それも感染者の60%を占める経路不明を除くという条件付きだ。
結局我々人間は、”任意”という曖昧な世界の中で生きている。そして、任意をすべてとみなす事で、合理的かつ効率的に生き延びてきた。
特に日本人は、任意といういい加減さを好む傾向にある。
しかし”任意”と”すべて”には、加算無限と非可算無限という非常に大きな埋められない差がある事を知っておきたいもんだ。
εN論法も例に挙げられてましたが、対角線論法を敢えて例にとりました。でもアキレスと亀に比べると、やはり夢がないですね(悲)。
つまり、数学もユーモアを交えて単純に描けば楽しいんですが、厳密に説明すると気難しい学問ですね。
加算無限と非加算無限としたほうがわかりやすいのかな。
コラムではアキレスと亀を例に上げてたけど、アキレスが亀を追い越せないという前提で無限を語ってる。そういう意味での可能無限。
一方でカントールは対角線論法を使って、加算無限と非加算無限の違いを証明したんですが、非加算無限を使うことでアキレスと亀の矛盾を数学的に導きました。
でも夢という視点では、アキレスと亀に軍配が上がるのだろうか。
言われる通り、無作為に選ぶというのが問題なんですよね。そこで統計学の理論を駆使し、より少ないサンプルで精度を上げる。
「金貨のパズル」でも紹介したんですが、偏り補正は”エラー訂正システム”によく似てますね。
これまた実にタイムリーなコメントで、とても助かりました。お陰で知ったか振りが出来ました(笑)。
僅か1%の出口調査で精度の高い結果を出すには、実に様々な補完データを集め、統計の信頼度を上げます。
統計学を学んだ人なら解りますが、許容誤差少なくし(5%)信頼率上げる(99%)事で、精度を上げるみたいです。でもその為には、出口調査だけでなく、事前アンケートや過去の実績など様々な補足因数を足すらしいです。
こういう所でも数学的思考は世の役に立ってんですね。
そう言えば、選挙のときの出口調査とかいうのは、この考えで当確を決めてあるんでしたっけ?で、たいがい当たるのは、一部分を抽出して調べた結果は全体の数値の割合と合致するという結果になるからでしょうか? たまに外れるのは、これが今日のこの記事のテーマの「選んだ結果は必ずしも全体そのものではない」という論になるのでしょうか?
「無限大ホテル」はいつ読んでも笑えます。
任意はたかが知れた程の無限の大きさで、全ては想像を超えた無限の大きさ。
内閣支持率も調査の対称を人間が選ぶという時点で、すでに矛盾が発生します。純粋に無作為に選ぶことは不可能ですから、必ず偏りが生まれます。
現実における任意とは、そういった矛盾をすでに含んでる。つまり偏り補正をしない限り、正確な支持率を弾き出すことが出来ないわけですよ。
数学的思考が現実社会と融合するには、もう少し時間がかかりそうですね。