2017年11月にブログを始めて、3年以上が経つ。あっという間だった。
”その11”では、2年を経過した時の記事を書いた。この時もあっという間だったが、やはりマンネリ化した素人ブログの限界を感じてはいた。
基本的にはどんなコメントでも受け付ける私だが、1つだけ気になるコメントがあった。
それは、”反日過ぎる”というものだ。
以来この言葉は、私の記憶に未だにしっかりと彫り込まれてる。
確かに、考えさせられる言葉ではある。
当初は、”何をバカな!何も知らないくせにアホはほざくな!”と思った。しかし、今となっては、”もう1人の自分を知る”とても大切な言葉でもある。いや、”もう1人の自分を支える”重要なキーワードでもある。
日本人がどうも理解できない
私は日本人でありながら、どうも日本人が理解できない所がある。
日本人は繊細でとても美しい民族だが、非常に脆い民族でもある。普段はとてもお行儀がいいのに、追い詰められると無茶でバカをしでかす。いつもは勤勉で律儀なのに、窮地に陥ると自暴自棄を引き起こす。
太平洋戦争末期のバンザイ攻撃や人間魚雷や神風は、その典型でもある。
実は、若い時の自分もそういう所があった。頑張って努力して全てを犠牲にしても、それはそれで美しいじゃないかって。
確かに”自虐”精神というのは、見方を変えれば無垢な美しい行為でもあるし、常識に考えれば悍しい行為でもある。
NHKの「クールジャパン」では、日本の日本人の美しい部分ばかりを紹介する。
しかし私には、世界に誇れる日本人の無垢な美徳が無謀な悪徳に思える時がある。
1つの事を飽きずに延々とこなす匠の技。やってる事は異常なまでに単純だが、数百年も続けば、立派な伝統文化である。うどん屋だって、100年間こね続ければ立派な伝統産業になり得る。
しかし私には、こうした単調で簡単な事でも長く続ければ価値がある、という日本古来の特有の考えに少し嫌気が刺す。
変化や創造性が全くなくても、長く続けてるだけで”人間国宝”の如く認められる。難易度ゼロでも長く続けるだけで高く評価される。
こういうのがどうも私には理解できない。
歴史だけを見れば、その日本よりも中国はずっとずっと長く古い。その中国の合言葉は”3千年の歴史”である。3千年の間に何をしてきたか?何を遺したか?何を創ったか?は、ほとんど問われない。
とにかく、”古くて長ければそれでいい”のだ。
何を作ったか?という視点だけで見れば、日本は中国の上を行くだろう。しかし、文明を創り上げたという点では、ヨーロッパはもっと上を行く。
日本のお城とヨーロッパのお城を比べてみるがいい。子供の玩具と大人の精巧なミニチュア以上の差がある。と思うのは私だけだろうか。
自己否定が苦手な日本人
私は変化や自己否定を嫌う日本人がどうも好きになれない。
長い人生の中で積み上げた自己を否定する事がタブーだとする日本人固有の性癖こそが、追い詰められた日本兵のバンザイ攻撃に思えるからだ。
”捕虜になるくらいなら自決しろ”と戦時の日本人は教えられてきた。それこそ日本人特有のプライドや気高さかもしれないが、お陰で数多くの犠牲者を生んだ。
”捕虜になっても強かに生き延びた”ユダヤ人とは大きな違いがある。”母国を捨て”世界一の大国になったアメリカとは大きな違いである。
私は、日本固有のプライドとか気高さで死にたくはない。死ぬなら納得の行く理由で死にたい。神話みたいなアホ臭い理由で死にたくはない。
生きるのに邪魔になる意地や気高さなら、捨てた方がずっとマシだ。
故に今の私は、自分を否定するのに何の抵抗も感じない。
これは数学とまともに接触する様になって気付いた事だが、難題を解くとは自己否定の連続である。常に思考を臨機応変に変異させない限り、難題を難題として理解する事すら出来ない。
私のブログは典型の物事の”裏をつく”ブログだ。数学で言えば、背理法に相当する。
表から攻め入って、限界にぶつかればすぐに横に裏に回る。そういう事を無意識に試みる様になった。
言い換えれば、自己否定が無意識に出来る様になった。意地とかプライドとか、そんなものは状況によっては、何時でも捨て去る事が出来る。
これこそが、数学的思考から培った神様の贈り物かも知れない。
”変異”がないと生きていけない?
ここまで書けば、如何に私が日本人からズレてるのが理解できるだろう。つまり、私のブログは日本人から見れば、”反日”に映るのだろうか。
逆に、国内のブログが詰まらないと思う事がしばしある。
しかし、私は英語が打てないし、長文が読めない。英語でブログが自在に書けたらと思うが、それが出来ない。いや、そこまでして記事を書こうとも思わない。
私の田舎には、自己否定が苦手な”捕虜になるなら自決する”タイプの頑固系が殆どだ。まるで100年も前の腐ったしきたりをそのまま受け継いでるかのようだ。
古き良き時代に固執するのにも限界がある。しかし時代に固執するのも、我ら庶民の虚しい特性でもある。
沢木耕太郎さんは、ある雑誌でこう語った事がある(様に思える)。
”モスクワはうんざりする。しかし、ベルリンには躍動がある”
つまり、モスクワは変化がなくて詰まんないし、ベルリンは何かが起こりそうなワクワク感があると。
全く同感である。
国内のSNSには、何か新しい事が起こりそうな気配が全く感じられないのだ。いや、世界中のTwitterやInstagramをちらっと眺めても、写真や言葉の(売春宿の雛壇みたいな)インスタントな陳列で、何も起こりそうな気配がない。
私のブログも過疎だが、SNSも大げさに言えば砂漠にしか見えない。
いや広大な砂漠だからこそ、旺盛な繁殖力があるのだろうか。しかし繁殖旺盛であっても、そこには”変異”がない様にも思える。
生き物は植物や微生物も含め、常に変化し、変異を繰り返す事で生き延びてきた。つまり、生存戦略としての変異である。
ネットも回線が太くなるだけで、生き延びる事が出来るのだろうか?SNSも単に記事や写真を羅列するだけで生き延びれるのだろうか?そこに変異というものは必要ないのだろうか?
新型コロナウィルスは、変異株という新たな驚異のステージに舞台を移しつつある。しかし、人類が作り上げた無限に錯綜するネットワークは、今や変異を止めてしまった感がある。
つまり人類も、ウィルスと同じく”変異”という生存戦略がないと生き延びれないのだろうか?
そろそろネット社会もSNSも、変異する時に来てると思うのは私だけだろうか。
よく考えもせずに相手を攻撃する時に反日と言えば事をなしたと思うのではないのでしょうかね。
誤字です半日は反日でした
ごめんなさい。
言われる通り、人を非難する時に”反日”を使えば”事を成した”と思ったんですかね。
でもその時は不思議と不快な気持ちもしなかったんです。ああ俺って”反日”なんだって。
私も反省すべき点が多々ありますが、”反日”と言われると、少し考えてしまいますね。
コメント有り難うです。
それから、伝統産業を守るために単純作業に甘んじている人達は、単純作業しかできない程度の低い人達ではなく、逆に、伝統産業のよさが真に理解できているから、そういう単純作業を飽きずに続けられるという側面もあると思います。
転象さんは天才肌だから、そういう単純作業は我慢ならないかもしれませんが、それに従事する人達の賢さも知る必要があるかもしれません。
古代数学は紀元前3千年、ヨーロッパを中心とした近代数学は14世紀のルネッサンス以降とされます。古代数学には世界の4大文明であるエジプト、インド、メソポタミア(中東)が非常に大きな影響を及ぼしました。
勿論その間には、全くの進歩や変化のない時代や野蛮な時代が織り重なり出来上がった、気の遠くなる長い長い歴史があります。
そういう意味では数学は人類最古の伝統芸術みたいなもんですね。
特にヨーロッパでは、16世紀から19世紀にかけて数多くの天才を輩出しました。お陰で近代数学は非常に”変異”の激しい、ある意味、非常に野蛮で難解な現代数学へと大きく飛躍しました。しかし、変異と言えば野蛮に聞こえますが、進化という点では偉大な立役者です。
つまり、伝統というものは怠惰で平坦な単調な時代と、いきなり変異する野蛮な時代の折り重なりで出来上がるものです。
ただ私には、その怠惰なノーテンキの時代がどうも好かんのです。やはり、変異の激しい野蛮な戦国時代の方が大好きなんですね。
しかし今やその変異の激しいウィルスに人類はヤラれそうですが、変化に弱い人類がどう柔軟に対応できるかが決め手になりそうです。
そうかもしれませんね。
転象さんの説明で数学の歴史の片鱗が学べました。これもまた記事にされるといいかもしれませんね。
サッカーでも裏のスペースを使うという戦術はずっと後になって出てきたもんね。それまでは、点を取れ、守り抜けばっか。負けたら、監督やストライカーの責任。戦術には殆ど触れない。
ワールドカップで勝てというのが土台無理。
多くの製造業も単調労働の殆どを派遣に押し付け、ブラック化してきてるし、このままだと伝統産業もブラック化するのかな。
でもそういう事言うと俺も反日と言われそう?
でも、今のままじゃアメリカのポチか?中国の族国か?火を見るより明らかですね。
変異した難解な伝統を受け継ぐ事こそが日本の未来に繋がると思うんですが、こうこと言うと反日と叩かれるんですよ。
”裏のスペースを使え”と言っても、アイスホッケーみたいにゴールの後ろに回るのかと思いましたもの(笑)。
物事を裏から眺めるというのは、単純なようで高度な考察であり、それが故に誤解も生むんですが。でも”反日”はないでしょうよ。
日本人も昔とちっとも変わらないんですよね。未だにしっかりとしろ!頑張れですもん・・・
それが、16世紀以降は多く天才たちが数学に介入し、転んだ君が言うようにまるで戦国時代のように様変わりした。
今やそんな長い歴史を持つ現代数学も抽象的になりすぎて、特に日本では再び単調な受験数学に戻りつつあるんだ。それこそが原始数学の計数なんだよ。
俺も同感だけど、たぶん転んだ君はそういうのを危惧してるんだと思う。
しかしコロナ対策を見てると、政治家はもちろん専門家も意外に変化に弱いんだな。