”多数決のパラドクス”でも書いたが、要するに数の論理いや、好き嫌いの論理だけで単純に事を進めようとすると、バカを見るという事だろうか。
わかりやすく言えば、どんな無能な輩でも票さえ集めれば、一国のリーダーになれる。極論を言えば、ミミズでもヘビでもなれる。
多数決とは、投票という好き嫌いの数(の論理)で決める”民主的”なやり方ではある。無能な人間よりも多くの大衆が(高度な教育を受けた)ワニやAIを選んだ所で、”民主的ではない”とは言い切れない。
日本がアメリカに戦争を仕掛けた時も、上述した様な、幼稚な数の論理が支配した。
軍幹部の多数決で可決された太平洋戦争は、その後、米軍の無差別空爆は66都市にも及び、その上、2発の原爆投下を許し、無条件降伏を余儀なくされた。
つまり、500%の確率で負ける戦争を、日本は単純な多数決で採択した事になる。
お陰で、戦後はアメリカのポチになり、高度成長やバブルといったアメリカのゲームにまんまと乗せられ、今の日本は”失われた20年”の真っ只中にある。
数が支配する、民主主義の矛盾
つまり世界の歴史の中でも、日本は多数決によって一番の被害を被った島国となった。
事実、太平洋戦争前の日米の経済力の比較だが、当時のGDP比で約11倍、現代に戻し修正を入れても、7〜10倍ほどの差があったとされる。今でも日米には10倍近い経済格差があるから、高度成長やバブルで儲けたお金も全てアメリカにむしり取られた事になる。
それでも日本政府は途上国に大金をバラまき、戦闘機の瀑買いを繰り返す。
それでも大半の日本人は、日本はお金持ちで、国債はともかく、途上国にバラ撒いたお金が全て返ってくるとでも思ってるのだろうか?アメリカ製のガラクタ戦闘機が中国軍を打ち負かすとでも本気で思ってるのだろうか?
そして今や、多数決で選ばれた内閣や議員たちは好き放題の汚職と不正を繰り返し、”失われた20年”に更に追い打ちをかける。それでも我ら大衆は、多数決こそが民主的で正義の王道だと信じ込んでる。
笑わせるが、これこそが日本人の共通した認識なのだ。
「数と正義のパラドクス〜頭の痛い数のミステリー」(ジョージGスピロ著)は、元々「数が支配する〜頭の痛い民主主義の数学、プラトンから現在まで」(2010年)の翻訳版である。
私達が”民主的だ”と信じ込んできた多数決による選挙では、どんなに投票や選挙の方法を工夫しようと、それに固有のパラドクスと矛盾が含まれる事が(数学的に)明らかになっている。
つまり、不公正や不公平が必ず生じ、様々な問題を引き起こす。本書は、そういった事を歴史の流れの中で延々と詳細に述べたものだ。
要約すれば、民主主義の基礎として君臨する、私達が長らく慣れ親しんできた民主的選挙には、絶対的な正義は存在しないという事。
但し、数学的観点から見た”民主的選挙方法に固有の不正義”について述べたもので、民主主義に固有の(不正義)という意味ではない。
以下、本文を長々と紹介するには時間がいくらあっても足りないので、訳者(寺嶋英志氏)のあとがきから一部抜粋です。
アテネ民主制と多数決
多数決が絶対に正しいと言えるのは、2者間から1者を選択する場合だけである。もし候補者が3人以上になれば、多数決が絶対に正しいとは言えなくなる。
これは中世の大昔に、カタルーニャの修道士によって既に発見されてる真理でもある。
事実、女子修道院における僧院長の選挙を如何に公正に行うかを考えてるかを考えてるうちに、この結論にたどり着いたとされる。
本書の骨組みは、①古代の民主主義②多数決における公平さ③議員割当の問題の3つからなる。
まず、民主主義の起源は古代アテネの民主制にさかのぼる。
この古代民主制の重要な点は、国政が市民全員で決められるだけでなく、政治家も役人も市民の中から、市民による直接選挙により選ばれたという事だ。今の様に職業的役人は存在しなかった。
しかし、こうした状況に異を唱えたのがプラトンで、”教育されてない貧乏人を国政から排除すべき”と考えた。
結局、紀元前6世紀半ばに始まったアテネ民主制(デモクラシー)は、約2世紀続いた後、その固有の弱点により崩壊する。
その後2千年以上の現代に至っても、未だにアテネ型民主制は復活してはいない。つまり、国家レベルでは寡頭制や君主制、独裁性が繰り返されてるのだ。
あくまで民主的な選挙方法である多数決は、古くはアテネ民主制以前から中世の暗黒時代でも行われてきた。古代ローマの共和制や帝政時代でさえ、元老院内部では”民主的”な手続きが取られていた。
この様に、私達が用いる意味での民主的手続きは現在まで脈々と保たれてる。しかし、完全な(アテネ民主制という意味での)民主主義は、現代の重要な組織では行われてはいない。
多数決の不公平さ
次に、多数決の不公平さですが、何人かの候補者の中から誰か1人を選出する時、民主的な手続きとして、投票による多数決以外に方法がないという事に、我々は特に異論はない。
多数決選挙は、民主主義の要として、我らが最も安心できる(諦めのつく)方法でもある。
但し、通常の選挙では3人以上の候補者を持つのが普通だが、実はこれが問題なのだ。
方法論的に言えばだが、唯一問題を起こさない絶対的公平な選挙は、候補者が2人の時だけである。もし3人以上になれば、絶対的な公平さを保証できなくなる。2人ずつに分けて対決させても、絶対的(公平)ではない。
候補者が更に多くなれば、不公平の種類も増え、その性質も複雑になり、公平さに関する評価や判断は一層、不確かなものになる。
つまり、どんなに選挙方法を工夫しても必ず不公平さは起こる。
数学の世界では、これをパラドクスと呼ぶ。パラドクスを解決しようとすれば、新たなパラドクスが生まれる。
パラドクス(逆説)とは、常識的判断に反する真実の事であるが、ここら辺の事情は古代ギリシャにおける無理数の発見と似通っている。
というのも、無理数を発見したピタゴラス学派は合理的な有理数の性質を追求する中で、不合理な無理数を発見したのだから。
言い換えれば、アローの不可能性定理の発見をゲーデルの不完全性定理の発見に擬える事も出来そうだ。
議席割当てのパラドクス
最後に、現代の欧米の代議制民主主義の議席割当ての問題について焦点を当てる。
現代民主主義の本家であるアメリカの下院の議員割当てと、欧州民主主義の老舗であるスイス国会の議席配分の比較は、実に興味深い。
アメリカは各州への議席の割当て(配分)をめぐり、どれほど苦労してきたかは、昨今の大統領選挙での不正疑惑や暴動や混乱を見ても明らかだろう。
一方で日本では、明治の廃藩置県により県とその境が確定して以来、議席割当て問題がアメリカやスイスの様に表面化する事はない。
日本の場合、選挙区を弄る事である程度は調整可能な為でもあろうが、1票の重みに5倍の格差があっても、それを合憲とする高等判事がいる程だからでもあろう。
この様な配分や割当の問題は、選挙に限った事でもなく、対象が何でろうと、何かを公平に配分する時に必ず生じる問題であり、”割当て論”(配分論)と呼んでもいい程の普遍的な問題でもある。
しかし、数学の分野で熱く論じられないのは、割当てに関する端数(1より小さい数)の扱いが、特に日本で数学的に重要な問題とされないのは、地味な問題とみなされるからだろうか。
特に、日本人は譲り合いの精神があり、四捨五入でごまかし、細かい事に拘泥するのはよくないという儒教的発想があるからだろうか。
これがアメリカとなるとそうは単純じゃない。特に下院議席の場合、1議席の重みは致命傷にもなる。2議席の選挙区が1議席にでもなれば50%減となり、僅か1議席の増減が切実な問題になる。
こうして”割当て”の問題は、選挙という現実的大問題を深く結びつく。米国は州の独立性が強い為、選挙区の境界を変えるという対処法がとれない。スイス国民院でも同様に真剣に考えられてきた。
一方日本では、選挙区の独立性が弱い為に、東京が自民党なら日本列島全てが自民党なのだ。
多数決の単純にも思えるパラドクスが、議員割当てのパラドクスに繋がると、かなりややこしく複雑になるんですね。
少し長くなったので、前半はここまでです。次回の後半では、民主的と民主主義の識別の重要性と独裁制と化した現代の民主主義と、それに投票のパラドクスを述べたいと思います。
もし候補者が2人とも無能であったなら、選びようがありません。でも国民のリーダーは必要です。
でどうするかと言えば、アテネ民主政みたいにリーダーになってほしい人を国民投票による直接選挙で選ぶわけです。しかしこれもプラトンがいうように、有名なだけで教育されてない人を選んでしまったら、大変なことになります。
実際に、長嶋さんやイチローやAKB48らを国家のリーダーとして選んだら、大きな話題は提供しますが、それこそトランプ帝国みたいに国家は滅亡します。
そう考えると、教育で人を差別できる筈もありませんが、今のトランプ政権や日本の内閣府を見てますと、プラトンの言ったことは正しかったですね。
悪しからずです。
後半はキツい言い方になりましたが、スピロ氏のアテネ民主制への強い執着と翻訳者の寺島氏の強い思いには頭が下がります。
10年前に予想された事が明確な形で現れたんですが。個人的にはきちんとした教育を受けてない人は政治家や議員になる資格を与えてはいけないと思います。
勿論、弱腰ではダメですが、無能な叩き上げはもっとアカンですね。
タイムリーなアドバイス一も有り難うです。