「鳩の撃退法」という映画をアマプラで見てたら、オープニングで主人公が喫茶店で本を読むシーンが出て来た。
オープニングでの陳腐な暴力シーンにウンザリしてしまった私だが、”喫茶店で本を読む”という偽善には、更に辟易した。
主人公(津田)が元直木賞作家で、デリヘルの送迎ドライバーとして生計を立てるという設定にも辟易だったが、ここまで陳腐な偽善をオープニングで見せつけられると??と思ってしまう。
過去に実際にあった事実をフィクションとして描くというコンセプトはユニークにも映ったが、アイドル系デリヘルやチンピラ系暴力に、それに今時の偽札?は許せても、流石に”喫茶店で本を読む”シーンだけは外してほしかった。
「昭和の喫茶店」でも少し触れたが、私にとって喫茶店とはイヤらしいイメージしかない。ノーパン喫茶とか風俗店を兼ねた喫茶店とか、そういう記憶があるから、どうしてもエロい視点で喫茶店を窺う嫌な癖がある。
そんな俗な所で、とても小説なんか読めたものではないし、バルザックの様に表通りを歩く人間をさり気なく観察してた方がずっと性に合う。
勿論、そんな日本人が多いから、「鳩の撃退法」という類の本がベストセラーになり、映画化されるのだろうか。映画のレビューは後で述べる事にして、まずは”喫茶店で読書はありか?”について書きたい。
喫茶店で本を読むという行為
基本的にだが、勉強とSEXは家でやるべきモンだと思う。読書もこの2つを兼ねてるようなもんだから、自宅でひっそりと隠れるように本を読み、その情景に独りで浸るべきだと思う。
勿論、喫茶店で本を読む理由として、単にコーヒーと本が好きとか、ソファーの座り心地や店内の装飾や雰囲気がいいとか、公の場という程よい緊張感があるとか・・
しかし、これらの理由も所詮は偽善的なもので、結局は”喫茶店で本を読む”という行為はファッションに過ぎないのだろう。
つまり、(多少はだが)人の目を意識しながら”喫茶店で本を読む”という優越感や自己陶酔に過ぎない。
村上春樹のハードカバーをさり気なく読む男がいる。
”今どき、村上春樹なんですか?珍しいですね”と中年女の喫茶店のオーナー。
”いや、村上の小説自体には興味はないんですよ。でも、このカバーデザインが素晴らしい。妙に耽るとはこういう事です”
”カバーがよくても中身がつまらんかったら、寂しくありません?”
”いやそうは思わない。だって、寂しいと言えば、喫茶店で本を読む事くらい寂しいものもない”
”最近は殆ど本を読む人を見かけなくなりましたね。読んでだとしてもスマホで読んでる”
”全く・・喫茶店で、それもスマホで本を読んだら、雰囲気は台無しなんだけど。だって、昭和の時代はジャズ喫茶で気難しい顔してるだけで優越に浸れた”
”ホントは女の子が声をかけてくれるのを待ってたんでしょ?”
”ああ、サルトルとかニーチェとかの話なら、昨今の哲学女子なんて簡単に口説けたさ”
”喫茶店で本を読むのも、女を口説く為のさりげない戦術ってわけですね”
”さりげないと言うより、露骨にいやらしい戦略です”
”本の中身ではなく、パンツの中身しか考えてない?”
”ピンポーン!つまり、昭和の喫茶はそういう不純でエロい幻想的な所があった。しかし、今の店はファミレスの様に店内も明るいしメニューも豊富で・・これじゃイヤらしい事すら想像できない”
”でも昭和のレトロ調に戻しても、<単に古いだけじゃない>って敬遠されちゃう”
”レトロとは、所詮は時代の廃棄物という名のガラクタなんですよ”
”そうね。今では、喫茶店で本を読むという行為はガラパゴス何とか?で、廃棄物扱いみたいなものでしょうか”
”いい事言いますね。あ、ところで「鳩の撃退方」って映画(ドラマ)知ってます?”
”風間クンの元ファンだから、一応は見ました。でも現実と虚構の境目がよく判らなかった。ミステリーとしては面白いかもだけど、小難しいのは少し・・・”
レヴュー
”その通り、典型的な謎解きミステリーだが、難解というより登場人物が多すぎて、プロット自体が破綻してるようにも思えた”
”原作を読むか、ネタバレを読んでから、この映画を見れば、ああ〜なるほどって感じもするけど、破綻とまでは・・”
”いや、だから破綻してんですよ。観客は劇場の中で目の前のスクリーンに映し出された展開を追いかける。だから映画なんですよ”
”でも最後の結末は真実通りでしたよ”
"ウソだったら、洒落にならない”
”そんなものかなぁ〜”
”そんなモンです”
”言い切りますねぇ(+_+)”
”だって、作家である主人公が奇遇にも思える実体験を、現在進行中の時間軸で書き綴るだけの展開じゃないですか”
”結末を真実で終えようと、真っ赤なウソで終えようと作家の勝手ってこと?”
”つまり、目の前のスクリーンに映し出された展開がドキュメントであろうがフィクションであろうが、観客にとってはどうでもいい事なんですよ"
”プロットを破綻させないことが一番重要って、そういう意味?”
”もう少し先が知りたい?”
”コーヒーのおかわり驕るから・・”
私は、一番安いブレンドコーヒーを渋々飲みながら、女店長に付き合った。
”でも登場人物も含め、展開を複雑にしすぎた為に、折角の図面(プロット)を台無しにしてしまった。
この映画では、秀吉一家失踪事件と僅か3枚の偽札と街を牛耳る<倉田>という男のこの3つが柱とプロットでした。しかし、物語が進む程に伏線(と登場人物)が増え、真実とウソが入り乱れ、観客の頭は混乱する。
”それがプロットの破綻ってこと?ですか”
”元々、伏線とは物語の本筋には全く関係ないもので、ウソの真実っぽさを高めるのに有効に働きます。これは、トルストイやドストエフスキーの長編小説に顕著にみられる古典的な手法で、日本の小説家や脚本家はバカみたいに真似たがる”
”でも日本では難解なミステリーとして評価されてますよ”
”難解じゃなく複雑なだけで、ミステリーやサスペンスとしてみても展開が濁り過ぎている。濁ったシナリオはやがて腐敗し、プロット自体も破綻する”
”しかし、収まりがつかない程にバラついた物語がきっちりと終着点を迎えるラストは、サスペンス・ミステリーの<新境地が体感できる>と評価されてますけど・・”
”終着点じゃなくて、仕方なく現実に引き戻しただけで、あれは終着点じゃない。新境地と言うより無様に退化したミステリーの哀れな姿にしか私には見えませんでしたね”
”たしかに最後は、無理やりハッピーエンドに持ち込んだと思えなくもないんですが。そういう映画ってよくありますよね”
”この映画上での明確な事実は、<ダムで男女の遺体が見つかった>事と<秀吉が生存してる>事の僅か2つです。
故に、死亡した男女は秀吉の妻(奈々美)とその浮気相手(晴山)である確率は高いし、そう思うのがハッピーですね”
”他に考えられるエンディングって・・”
”そうなんですよ。死んだ男は倉田でもよかった。となると、倉田を殺したは奈々美か?晴山か?それとも主人公の津田か?いやそれ以外の誰か?ってなる。つまり、観客の想像が膨らんだままで幕を閉じる”
”無理にハッピーで終わる必要はどこにもない?”
”そう、ミステリーだからね、始まりも終わりもミステリーで終わる。悪くはない筈ですが・・・”
”ラストはそれでよくても、途中のプロットの破綻はどうするんですか?”
”先に紹介した3つのプロットのうち、<3枚の偽札>に焦点を絞る。つまり、<男女の遺体>も<倉田>もその付随に過ぎない。これでずっと展開はシンプルになる。少なくとも破綻する事はない”
最後に
そこで、私は喫茶店を後にする。
というのも、(コンビニで飲むような)コーヒーで酔う事もなかったし、<3枚の偽札>をどう展開させるかを用意してなかったからだ。
しかし、秀吉役の風間俊介はとてもハンサムに思えたし、津田役の藤原竜也は地味ながらもコンスタントで安定した演技力を魅せつけていた。
ただ、女編集者役の土屋太鳳の存在が非常に曖昧に思えた。むしろ(巨乳だけが自慢の)彼女をデリヘル嬢役にすべきだった。
そう思うのは私だけだろうか?
大体において
転んださんの評価の低い作品は傑作とはいかないまでも
かなりの秀作だったりするんですよ。
早速、見てからのお楽しみと行きますか
見方を変えれば、秀作かもですね。
でも、コンセプト自体は平凡なので、映画というよりドラマとして見た方が楽しめると思います。
出来れば、tomasさんのレヴューもお願いです。