第一次世界大戦終了後、世界一の大国に成り上がったアメリカ。
ルースはとうとう全米最高のスーパースターに君臨します。彼の選手としての卓越した才能は、他チームの憎悪や嫉妬を激化させます。お陰で、モンキー•ゴリラ•猿•ニガーリップと、様々なあだ名がついた。
因みに、愛称は”バンビーノ”。日本では”ベーブ”(赤ん坊)で知られますが、チームメイトは、ジョージとかバム、ジッチとかで呼んだとか。
一方、ボストンのオーナーのフレイジーは事業を拡大し、莫大な損失を被った。その上、戦争のお陰でここ数年の観客の入りも激減する。
結局、ルースは前年と同じ、1万ドルの3年で仕方なく契約を結ぶのですが。不満タラタラのベーブの顔が思い浮かびます。
ベーブ•ルースの本塁打革命
お陰で、1919年のルースの出だしは大スランプだった。身体はカバか水牛みたいに膨れ上がった。酒樽のような上半身に対し、下半身は筋肉質だった。2桁盗塁を5回記録するなど、”太っている割には走るのが速かった”(タイカップ談)。写真は、まだ痩せてる頃のルースです。
しかし6月に入ると息を吹き返し、本塁打は16本を超え、1902年のアリーグ記録に並ぶ。ナリーグ記録の27本(1884年のウィリアムスン、両翼が60mの超狭い球場での記録)がルースの当面の目標となる。
当時は、”飛球をワンバウンドで取ってもアウト”というルールからか、本塁打はフライボールと言われ、その評価も低かった。
そして記念の28号は"見た者でなければ、信じられない一発"の伝説となる。新記録のアーチは遥か場外に消え去り、NYのポログランズで放たれた最長のアーチとなった。
この1919年はペナントこそWソックスに譲ったが。130試合で(戦争の為に短縮)、29HR、114打点。投げても9勝5敗、防御率2.97と、ルース伝説に相応しい数字を残した。
その上この年は、MLBの歴史の中でも最も象徴と言えるシーズンとなった。
デッドボール(飛ばないボール)時代が終わり、本塁打が量産されるライブボール(飛ぶボール)時代が始まった。つまり現代ベースボールの始まりである。
ライブボール時代の到来
ライブボールに関しては諸説あるが、どれも曖昧だ。1918年と1921年を比較すると得点は40%上昇し、本塁打は4倍に跳ね上がった。
飛ぶボール(ラピッドボール)にして、激減したチケット収益をあげようとオーナー連中が策略したとされるが、ボールを包む紡ぎ糸が変わるのは1920年以前であり、しかもテストでは、両者の間に殆ど違いはみられない。
これら以上に、試合球の交換が大きい。当時はボールが高価で、同じ球を試合の最後まで使った。後半になる程、ボールは柔らかく黒くボロボロになり、打者を悩ませた。故に、見え辛く揺れ動き飛ばない球になるのだ。
ルースは主審に警告した。”ボールが見えないじゃないか!こんな糞ボールでヤッてたら、死者が出るぜ”
事実、1920年のレイ•チャップマンはビーンボールを受け、メジャー史上唯一の”死球による死者”となった。その後、ボールは汚れる度に取り替えるという新ルールが生まれた。
その上、ルースの登場による打撃理論革命がある。チョッパー打法(タイ•カップ)からレベルスイング(ジョー•ジャクソン)に、そしてアッパー打法(ベーブ•ルース)に打撃が変化した。事実、この時期にリーグ打率は、.254から.291に上昇した。
一方で球場の広さも要因の一つではある。当時の球場は異常なまでに歪で、特に中堅までが広すぎた。故に本塁打と言えば、ランニングか、ポール際の本塁打に限られた。
しかし当時はポール自体がなかったし、あったとしても、ポールを巻く本塁打はファールとみなされた。故に、1920年のルール変更はファンを大いに喜ばせたとある。
つまり、”ルールかルースか”の議論はベースボールの本質をも変える事になる。
事実、ベーブ•ルースの出現に影響され、多くの40本塁打以上を打てる若い強打者が出現した。ルー•ゲーリッグ(NYY)、ジミー•フォックス(PHA’s)、ハック•ウィルソン(CHC)、ハンク•グリーンバーグ(DET)などである。
それに、1910年〜1920年までの10年で30勝投手は10人。しかし、ライブボール時代に入ってからは僅かに3人だけ。レフティ•グローブ(1931)、ディジー•ディーン(1934)、デニーマ•クレイン(1968)のみだ。
デッドボール時代の終焉
因みに、デッドボール(飛ばないボール)時代とは1900年から1919年までを指し、ルースが当時のアリーグ記録となる29本を放った1919年をデッドボール時代の終わりとするのが一般的だ。
事実、以前からロースコアの試合に不満の声が上り、ボールを変えて状況を改善しようという動きが起きてた。
1911年、コルクを芯にしたボールが公式球となり、その後の本塁打数や打率をみても、新しいボールの効果は明らかだった。
タイカッブが最高の成績を上げたのも1911年(打率.420)であり、ジョージャクソンは同年に.408を残した。しかし、1902年から1919年までに出現した4割打者は、この2人だけだ。
その上、禁止されてたスピッツボールやエミリーボール(傷をつけて変化を増す)が常習化し、更に使い古しの汚いボールが、投高打低を再び加速させた。
そんな”飛ばないボール”時代の本塁打王が、ギャビー•クラバス(PHI)だ。クラバスはナリーグで本塁打王6回を獲得、1915年には自己最高の24本塁打を放った。また1913年と1914年には19本塁打を放ってる。
しかし、本拠地ベイカーボウルは打者有利の球場で、本塁から右翼まで85mしかなかった。
この事は偶然にも、”飛ぶボール”時代の本塁打王ベーブ•ルースが、NYに君臨したポログランズのサイズとほぼ同じである。
つまり、ボール云々より球場のサイズが本塁打王を生むと置き換えてもいい。日本の王貞治や山本浩二のケースと全く同じであろうか。
全米中を震撼させたブラックソックス事件
1919年は、ベーブルースの躍動と”飛ぶボール”の到来だけではなかった。シーズン終了後には、MLBの歴史を、ルースの野球人生を、大きく変える出来事が全米中を震撼させた。
これこそが、MLB史上最強と謳われたWソックスの”ワールドシリーズを金で売った”八百長事件だ。
この背景には、Wソックスのオーナー、チャールズ•コミスキーの”ドケチ”ぶりにあった。
特に、Wソックス選手たちは低賃金でプレーさせられた。ユニフォームの洗濯代も自腹だった。彼らが八百長に手を染めるのは誰が見ても明らかだったのだ。
翌1920年オフ、元判事で初代コミッショナーのケネソー•ランディスとオーナー連中が策動し、一連の八百長賭博の全ての責任を、Wソックスの8人の選手に擦り付けた。
故に名称も、"ブラックソックス事件"から今では、"アンラッキー8"と変更された。Wソックスのスター選手であるジョー•ジャクソンもその一人だった。
この衝撃は米野球界のみに止まらず、当時は精神的国技として野球を半ば神聖視する米国社会に、大きな動揺を与えた。
”嘘だと言ってジョー”とは有名な言葉だ。
因みに、八百長に大きく関わったコミスキーもタイカップも処分される事はなかった。
選手らに八百長話を持ちかけた賭博師が破産し、報酬が得られない事が判り、選手たちは八百長と手を切ろうとした。しかし、事態はマフィアも関与する所となり、脅迫を受けた選手もいた。
そんな中、初代コミッショナーになったランディスは、八百長に関わった全員を処分するとした。
当時は、選手だけでなくオーナーや審判までもが八百長に手を染めてた。しかし実際に処分されたのは、Wソックスの8人だけだった。陪審員の評決は全員無罪だったにも関らずにだ。
つまり、コミッショナーが名門Wソックスを潰した結果となった。故に、”ジャクソンの呪い”とか、”ブラックソックスの呪い”と揶揄された。
メジャーと八百長に関しては、”野球とNY、その8”も参照です。
ベーブ•ルース、NYへ
1919年オフのルースは、ボストンのオーナーであるフレイジーと大きく揉めた。ルースは前年の給料の2倍の2万ドル(現22万ドル)を要求する。これを拒否した怒り心頭のフレイジーは、ルースをトレードに出す事を決めた。
次いで、酒屋のボンボンのルパートとヒューストンの2人がヤンキースを僅か?45万ドルで買収した。ルースの交渉相手は、この新生ヤンキースと6万ドルを提示したWソックスだけだった。
結局、10万ドルでヤンキースがルースを引き抜いた。本当はその10万ドルで、ジャクソンとセットで引き抜く予定だったとか。
引き換えとして、フレージーに30万ドルの融資を約束。その見返りとして、筆頭オーナーのルパートはフェンウエイを抵当に持った。つまり、ヤンキースは僅か10万ドルで、ルースとフェンウエイを手にした事になる。
"45万ドルで、際立った選手もなく、評価もない。おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ"とのルパートの皮肉な述懐を、後にルースが見事にひっくり返すのだ。
つまり、ヤンキースは"ルースが創った球団"で、ヤンキースタジアムは”ルースが建てた庭”になったのだ。
カムデンヤード(BAL)は、ルースが育った酒場(中堅の定位置辺り)で、フェンウエイパーク(BOS)は、ルースを創った家、そして、ヤンキースタジアム(NYY)はルースが作った庭で覚えておきましょう。
確か、"アメリカを変えた夏"は、1927年でしたか。ルースが60本を打った年です。特に、この1920年台はアメリカの第一期の黄金期でしたね。読んでるだけでゾクゾクしますもの。
ラジオは時代の脅威と言われ、この1922年には28局から570局に増えたんですね。アメリカって、ルース共に大きく我が儘になっていくんです(笑)。
まさに、ルースかルールか。ルールかアメリカかって、感じです。あ、この事も補足しときますね。
でも、古いグチャグチャのボールを29本もの本塁打をかっ飛ばしたルースの破壊力は本物ですよ。それに打撃の精度も優れてます。イチローみたいに当てに行くだけではないですから、むしろ落合をパワーアップしたようなもんです。
本塁打の激増がルースか?ボールか?の議論なら明らかにルースですよね。
タイカップもジョージャクソンも動画で見る限り、かなり強く引っ叩いてます。ただ、重いバットを使ったアッパー打法を初めて取り入れたのはルースです。
tomasさん言われる様にボールも勿論ですが、当時の景気や野球に対する嗜好に負う所が大きかったのでしょう。今で言う”フライボール革命”とは全くの別物ですが。