続けて行きます。この”その5”も少し長くなりますが。
1960年、クロックは当然の如く、救世主のソナボーンをマクドナルドの社長兼CEOに任命する。以降、クロックは会長として現場を担当し、ハリーは財政面を担当する。
社名も"McDonald System"から、今の"McDonald's Corporation"に改めた。
前年の2つの大型融資で自信をつけたソナボーンは、マクドナルドにハクを付け、信用を高める為に、東海岸の由緒正しい投資家からの融資を狙ったが、まんまと騙される。もう100万ドルの融資があれば、マクドナルドの財務に関する限り、全ての問題を解決できると考えてたのだが。
60年代末、228店舗を持つマクドナルドの自己資金は、僅かに9万ドル。60年代を通じ、7500万ドル相当のハンバーガー、フレンチフライ、ミルクシェイクを売り上げたが、純利益として16万ドルを稼いだに過ぎない。
ソナボーンの不動産戦略により総収入は増えたものの、増加分は高騰する人件費に潰された。お陰で、給与支払い不能の危機がやってくる。
そこで、経理重役のゲリー•ニューマンは、急場しのぎで給与の支払いを週休から半月毎に変更した。よって、この週は何とか危機を乗り切るが。
こうしたソナボーンの、必死の尽力も叶わず、銀行は次々と融資を渋った。しかし、そんな彼の失望を埋め合わせる幸運が舞い込んだ。ジョン•ハンコック保険会社の副社長であるリー•スタックとの出会いだ。
彼は、ステート•ミューチュアル保険やポール•リビア保険、及びボストン銀行らの幹部と通じていた。彼らはハイリスク&ハイリターンを好む積極的な人種であった。 マクドナルドにとってはうってつけの連中でもあったのだ。
数カ月の交渉の末、ソネボーンは約150店舗の不動産を担保にハンコック社からの融資の予約と、ボストン銀行からも融資の約束を取り付けたが。欲に走ったソナボーンが、若干の自社株をつける事で、150万ドルを持ちかけた為に、この融資はオジャンになった。
しかし、スタックはソナボーンを見捨てなかった。彼はステート•ミューチュアルの副社長Dウィルソンに、融資話を持っていく。ウィルソンは部下のフェデリにマクドナルドの全てを調べさせた。
返済能力に問題はなかったが。フェデリを一番驚かさせたのは、店の営業状態だ。安いだけでなく、清潔で、駐車場は満杯、窓口には常に50人もの行列が。この光景に、彼は圧倒され、融資を決断する。
つまり、フェデリを感銘させたのは、ソナボーンの不動産戦略ではなく、クロックの基本に忠実な営業方針であったのだ。
1961年、こうしてソナボーンは、2つの保険会社(ステート・ミューチュアル及びポール・リビア)から、7%の持ち家担保(モーゲージ)ローンを取り付けた。
マクドナルドの22.5%(11.25%✕2)の株と引き換えに、150万ドルの融資である。この融資は、まさに”打ち上げロケット”となった。
しかし、当時ソネボーンがコネをつける為に割いた22.5%の自社株の、真の価値を知るものは一人もいなかった。
因みに、5年後マクドナルドが株を公開した時、両保険会社はそれぞれ330万ドルの株を保有してたが、10年後には処分していた。売却時の差額は僅かに2千ドル。
融資した150万ドルは、丁度15年の期間満了時に返済された。予想を遥かに超える売却益を出したマクドナルドの株だが。少なくとも一方が10%の株を保有してたら、今日では時価6億ドルの金鉱と化してたのだ。何と勿体無いことか。
”借金で信用を”築いたマクドナルドだが。ソナボーンは、この150万ドルの融資の為に、自社株の譲渡という過大な代償を支払ったが。彼はこの借りたお金を6ヶ月間使わずに、バランスシートの上に堂々と残し、マクドへの融資を断ってきた銀行へのエサとしたのだ。
この有名生保からの、巨額な借り入れを目にした銀行側は、競ってマクドナルドの各店舗に融資しようとした。”借金のある会社ほど借金がしやすい”という皮肉を、ソナボーンは理解していた。お陰で、他の外食チェーンにはない機関投資家とのコネを持てたのだ。
クロックとその部下の営業のエキスパートたちが、マクドナルドを業界で最も進んだ営業形態へと磨き上げる一方で、ソナボーン率いる積極果敢な財務スタッフは、経営資金が尽きかけた若い外食産業の陥る難問を解決した。
これにより、同業者に10年の差をつけた。他社が店舗建設資金の調達に躍起してる間に、マクドナルドは業界で初めて店の建設資金を一括で調達し、初めて機関投資家からの融資を獲得し、初めて株の売却により資金を調達した。3つの初めてが重なるんですな。
事実、バーガーキングはビルズベリー社に、バーガーシェフはゼネラルフーズに、ピザハットとタコベルはペプシコに、レッドバーンはサーボメーションに、ビッグボーイはマリオットに、ハーディーズはイマスコに、身売りした。
今日、マクドナルドが株と運命に左右されない、唯一のファースフードチェーンにデンとしていられるのは、ソナボーンの隠れた財務経理による手腕の賜物である。これ以降も、マクドナルドが急成長する為の資金調達は生易しいものじゃなかったが。ソナボーンにとって最大の難関は、既に過ぎ去ったのだ。
こうしてソナボーンは大口資金への扉を開き、60年代から70年代にかけ、小売史上最大規模の店舗拡大資金を調達した。こうして、一流の投資家が何の担保もなく、7%で融資をした事で、この”借金という融資”こそが、業界の信用になり、信用を土台に拡張していく。”借金が信用に”とは、よく言ったもんだ。
しかし、ソナボーンは別の考えがあった。ライセンスが切れる前に全ての店を閉め、不動産専門業としての青写真を描いてた。
しかし、クロックはあくまでフードビジネスという態度を崩さない。当然、二人は反発し合うが。一方で、30%以上の店を傘下に置く事は、非生産的である事にも気付いてた。
一方で、これだけ借金してもやってこれたのは、当時の収益計算に関する監査がユルユルだった事が、大きいとも言われてる。社員を安月給で雇い、会計を歪曲できたが。会社に残った者は皆、大成功を収めてる。クロックは夢を売り、給与を抑えたのだ。
こうして、大きな危機を脱し、大口投資家の援護を得たマクドナルドは、長年の友人でもあり、難き天敵でもあるマクド兄弟との決闘に挑むのですが。
長々と失礼しました。
クロックは、いやマクドナルドは、タイトル通り、豊穣なる人材に恵まれてたんですね。フランチャイジーや店舗スタッフまで、あらゆる人材に恵まれた。
ただ、ソナボーンが思い描いたように、不動産専門のフランチャイズビジネスにしてたら、ハンバーガーで稼いだ天文学的資金で全米中のいや世界中の土地を買い占め、様々な企業に売り込んでたらと思うと、頭がパニックになりそうです。
でも、これまた天文学的な数の牛をミンチにするという悲劇だけは避けられたんですが。でも、所詮ハンバーガー屋さんだから、ノーマークで急成長できたんでしょうか。
創業時のマクドナルドの経営陣やフランチャイジーや店舗スタッフは、スター揃いでしたか。ホント、皆凄い人達ばかり。個人で事業やってもかなりの高い確率で成功した事でしょう。
ハンバーガーに拘らなくとも、ソナボーンの知略だけでも、相当に高い所にまで登りつめた筈です。でも、クロックの情熱と人脈も最後の最後で生きてきます。全てにおいて、60年代から70年代はアメリカの黄金時代だったんです。借金で信用が築けた時代が羨ましいですね。