前回その4では、無理数の稠密構造に焦点を当てて無限の考察を進めました。
連続体(数直線)にその実質を与えてるのは無理数という”稠密”構造でした。つまり、たった1つの無理数の周りには無数の有理数が群れをなし、その逆も真なりで、ある有理数に最も近い所には無数の無理数が存在する。
更にカントールは、有理数全体の測度(距離)という概念を使い、無理数の桁違いな稠密性を証明します。
つまり、無理数は有理数の(可算)無限よりも更に大きな(非可算)無限である事を突き止めます。
こうした無理数の本質を暴き、”非可算無限(連続体)には次元が存在しない”という数学の常識を覆す様な発見をしたカントールですが、その生涯は決して順風満帆とは言えませんでした。
ユダヤ人の裕福な家系に生まれ、ベルリン大学ではクロネッカーやワイエルシュトラスといった第一級の数学者に恵まれ、猛勉強の末に僅か24歳でハレ大学の教授職に就きます。その1年後、ディリクレやリーマンさえもなし得なかった、”フーリエ級数の一意性(収束性)”を証明し、数学界にその名を轟かせます。
しかし、ハレの地で待ち受けてたのは、寂しさと孤独でした。それでも彼は、ワイエルシュトラスの無限数列の収束のアイデアを引き継ぎ、1874年(29歳)には、対角線論法を駆使し、無理数が非可算無限(実無限)である事を発見しますが、証明は不十分でした。
そこで、数少ない友人の一人であるデデキントに協力を求め、ハレ大学に教授として誘いますが、(憎きクロネッカーの妨害もあってか)断られてしまう。
孤立無援の彼は独学で研究を続け、3年後の1877年、とうとう実無限の存在を証明します。”実無限には次元という概念が存在しない”という当時の数学界をひっくり返す程の集合論を生み出しつつあったのです。
そこで今日は、カントールの集合論と、その基盤となった対角線論法について書きたいと思います。
「無限に魅入られた天才数学者たち」の著者エミール・アグゼル氏は判り易く多角な視座から書かれてますが、難しいと言えば難しいですね。つまり、集合論とはそういうもんなんでしょうか。
カントールと素朴集合論
カントールは、数ではなく集合(点集合)を考える事で実無限の概念に到達する。ここで言う無限とは、昔から使われてた”極限”としての可算無限ではなく、非可算無限と呼ばれるものです。
彼は初めに、どれかの集積点(極限点)に収束する数列、つまり数直線上の点列を考えた。
この背景には(前回でも述べたが)”有理数列の極限として無理数を定義する”というワイエルシュトラスのアプローチがある。
次に彼は、与えられた点集合の集積点(極限点)からなる集合を考えました。これは”有界閉集合内の無限点列はその内部に集積点を持つ”事からも理解できます。
例えば、ある区間に含まれる無理数の集合はその区間に含まれる有理数の集積点の集合に他ならない。これは、無理数が有理点列の極限になる事から、イメージすれば理解出来ますね。
そこで彼は、集合Pを定義し、集合Pの集積点からなる導集合をP’とし、更に集合P’の集積点からなる集合P’’とし、それを無限に繰り返せば、”導集合はいつかはゼロ(∅=空集合)になる”筈だと考えた。記号に直せば、P⊃P’⊃P’’⊃…⊃∅です。
そこで、このプロセスを応用し、1つの無限集合から出発し、次々と無限集合を構成していく。
こうやってカントールは独自の集合論を構築していく。つまり、連続体という数直線上の無限に存在する点(数)を集合の要素として考え、点列の極限(収束)というワイエルシュトラスのアイデアを注ぎ込み、無限の本質を独自の集合論の中で捉えようとした。
これこそがカントールの無限の考察に関するライフワークとなっていく。こうして彼は実無限(連続体無限)に対峙し、それを攻略した人類史上初の数学者となったばかりか、”集合論の父”とまで称されるようになる。
一方で初歩的な集合論が誕生したのは、カントールよりも遥か以前の事である。それまで、物や人などの集まりという初歩的な集合の概念は、物事を分類する時に当り前の様に使われてきた。
「素朴集合論」の著者ポール・ハルモスは”一群れの狼、一房のブドウ、鳩の群れなどは何れも集合の例である。が、数学の集合の概念は既知の数字全ての基礎として使う事ができる”と述べている。
実際、集合論と論理学からなる領域は数学基礎論と呼ばれ、形式論理を用いて定義される公理的集合論とは異なり、カントールが生み出した”素朴集合論”は非形式的に自然言語で定義される。つまり、”一群れの狼、一房のブドウ”といった何か一まとまりの集団から、現代数学という壮大な体系を築く事ができるのだ。
集合論の誕生
高校の数学に戻るが、集合の操作はAND(かつ)、OR(または)、NOT(ない)の3つだけである。それぞれ共通集合、和集合、補集合と呼ばれる。が故に、小学生でも理解できるレベルであるが、そこに無限が絡んでくると様々な矛盾が発生する。
この集合論の最大の概念は(要素を1つも持たない)空集合∅にある。つまり、空集合はあらゆる所に存在し、あらゆる集合の部分集合になる。証明は背理法を使い矛盾を引き出して行うが、集合論とはその性質上、不可避的にパラダクスを抱えた理論となる。
しかし、集合論は数学の基盤となってるから、パラダクスがある事自体が大問題なのだが・・・
故に、集合論を数学として扱う為ためには(最低限の決まり事である)公理が必要である。
集合論に公理系を与えた一人にエルンスト・ツェルメロ(1871-1953)がいる。後に「ZF集合論」と呼ばれる”公理的集合論”も(所詮は)パラダクスを免れるものではなかった。
因みに、公理的集合論に対し、カントールのそれを”素朴集合論”と呼ぶ。
カントールが実無限(非可算無限)という爆弾を持ち込む前にも、集合論の公理系は様々な矛盾に悩まされていた。故に、当時の数学者らは”大きすぎる集合は有限な人間の頭では捉えきれないし、公理化する事は不可能”と考えた。
今日もなお、パラダクスに悩まされ続けてる現代の集合論だが、数を定義する為に鮮やかに使ってみせた数学者もいた。
ジュゼッペ・ペアノ(1861-1931)は、まず0を空集合と定義し、1を空集合を含む集合、2を空集合を含む集合を含む集合とした。
この数体系を記号で表せば、0=∅、1={∅}、2={∅,{∅}}、3={∅,{∅},{∅,{∅}}}、・・・となる。
この様に、(非常に抽象的な)集合論はパラダクスに悩まされながら生き延び、現代数学の基礎となっている。
カントールの異次元の天才な所は、こうした初歩的な素朴集合論から出発し、実無限(非可算無限)にまで到達し、実無限の実像(本質)をさらけ出した事にある。
その彼が最初に定義した集合は(前述した)導集合P’であった。つまり、ある1つの集合から出発し、その集積点からなる集合を導いたのだ。
但し、この時の集合は無限集合でなければならない。
「ボルツアーノ=ワイエルシュトラスの定理」が述べる”有界閉集合内の無限点列は集積点(極限点)を持つ”様に、多数の数列が多数の点に収束する場合は、その集合の集積点の集合を定義できる筈だ。
カントールはこうして、”無限個の点からなる集合の無限の集まり”という実無限(連続体=非可算無限)の概念をとうとう手に入れたのだ。
こうした集合論の考察は、非常に抽象的で直感では把握し辛いですが、無数の点列(有理数)が無限に存在する集積点(極限点)という無理数の周りに集まってるとイメージすれば、何とか理解できますかね・・・いやそうでもないか。
可算無限と非可算無限
実無限の概念を手に入れ、ペアノのすぐ背後に回っていたカントールは、全く新しい数を定義した。
それは”超限数”と呼ばれ、数の概念を拡張し、有限の世界を超えた実無限(非可算無限)という謎めいた扉であった。つまり、数学史のパンドラの箱を開けてしまったのだ。
そして、カントールはやがて、”選択公理”という大きな壁にぶつかる事になるのだが、本人は知る由もない。
因みに、選択公理(選出公理)とは∅でない集合族がある時、それぞれの集合から1つずつ元を選び出し、新しい集合を作る事ができるというもので、カントールは有限個の集合の場合と同様に”自明である”と考えていた。しかし、無限個の場合は自明ではない。
確かに、無限個の集合からなる集合族の場合、上の様な操作を仮定しても”順に選び出す”操作は有限回で終了する事はないから、仮定した操作を行えるかは必ずしも明らかではない。事実、この選択公理は証明も反証もなされてはいない。
前述した様に、”導集合P’はいつかはゼロ(∅)になる”筈だと考えたカントールだが、この操作が行えるかは自明ではないので、矛盾がないとは言えない。
僅かに3つの演算(AND,OR,NOT)で定義できるシンプルな集合論が、未だに矛盾に満ちてるというのはこういう所なんですよね。
フランスが生んだ偉大な数学者アンリ・ポアンカレ(1854-1912)ですら、”カントールの集合論は病弊であり、数学界はそれを治癒しなければならない”とまで言い放った。
しかし、この言葉を受けた傑出したドイツの数学者ダビト・ヒルベルトは”誰もカントールが切り開いた楽園から逃れる事はできない”と切りかえした。
事実カントールは、エデンの園に足を踏み入れる事で数学新時代の幕を開けたのだから。
例えば、自然数は無限に存在するが数える事はできるが故に、”可算無限”と呼ばれる。しかし問題は、数えられるか?ではなく、数えるというプロセスにある。というのも自然数を数えるという行為は永遠に続き、終りがないからだ。
(前述したが)カントールは数学者になりたての頃に既に”有理数が可算である”事を示していた。丁度ガリレオが(1対1対応を使い)”整数と二乗数が同じだけある”事を示したように、整数と有理数が同じだけ(可算)無限にある事を示した。
対角線論法の始まり
この時の論文が「有理数の可付番性に関する対角線論法」(1875)である。
彼が、この”対角線論法”を初めて使ったのは1874年だが、十分に理解できない点が多々あった。
その3年後に、実数Rが非可算である事を証明し、更には、RとRⁿの、つまり”1次元の実数体とn次元の実数体の間には全単射が存在する”事も証明した。言い換えれば”連続体の無限には次元が存在しない”という驚愕な真実を発見したカント―ルだが、1879年から1884年にかけ、集合論に関する一連の論文を発表するも、極端な先進性と難解さの為に、周囲から散々な悪評を浴びせられた。
「実無限に関する様々な立場について」(1885)でも、誤解がないようにカモフラージュするも受け容れられる事はなかった。
そして1891年になリ、この対角線論法に改良を加え、超越数全体のヒエラルキーを確立できる程の完成度をもって、数学界に激震を与える主張をする。その論文こそが「集合論の1つの基本的問題について」(1890-1891)でした。
この対角線論法ですが、彼はまず有理数を2次元格子に配列した。
そこで、有理数はa/bという2つの整数a,bの分数で表されるから、aを縦軸にbを横軸にした格子を考えれば、有理数を自然数の様に数え、対応させる事ができる。
有理数は自然数や整数とは異なり、遥かに稠密な数である筈だ。しかし、1対1対応(全単射)をつける事で有理数も整数も同じだけ存在する事がわかる。これを整数の無限と有理数の無限が”同じ階数(Rank)に属する”と言う。
しかし、無理数を含む(数直線上の)実数は自然数(整数)と1対1対応を満たさない事を、カントールは発見した。つまり、無限集合はどれも自然数を使って数える事が出来るとは限らない。
故に、無理数は非可算集合であり、それを含む実数は有理数とは異なる階数を持つ実無限(非可算無限)となる。
少し長くなりすぎたので、今日はここで終了です。
次回(その6)では、この対角線論法に少し踏み込んでいきたいと思います。
ただ、公理的ZF集合論の非形式な表現となっていて、言語と表記が通常の非形式的な数学のものであり、公理系の無矛盾性や完全性を扱っていないという点で、”素朴”とされます。
しかし、考察する集合を正しく指定すれば、必ずしも矛盾を生じる訳ではない事も判っていて、同様に公理系集合論も無矛盾という訳でもなく、パラドクスも存在します。
ゲーデルの不完全性定理より、最も一般的な公理系集合論でさえ実際には無矛盾だとしても、数学的理論により無矛盾性を証明できないとされますね。
但し、一般的な公理系は一般的に無矛盾と考えられてるから、素朴集合論に含まれる幾つかのパラドクスは除外されます。
だったら、直感で理解できるような素朴集合論の方が使い勝手が良いのでは?って思われるかもしれません。
つまりは利便性の問題で、日常の数学では公理系集合論を非形式的に使うのが最善の選択とされます。
素朴集合論の見た目と同様に、非形式的な方が主張・証明・議論の定式化において読み書きが簡単になり、厳密に形式的なアプローチよりも誤りが起こりにくいとされます。
一応、ウィキから調べました。
もし、専門用語が一つもなく、全てが哲学的に超絶的に書かれてたら、私達は単なるデマや狂った奴らの妄想だと勘違いしますよね。
同じ様に、”ラッセルのパラダクス”で有名な英国のラッセル卿ですが、晩年のカントールの手紙を受け取った時、頭が狂ってると思い込み、会う事を拒否しました。
そのラッセルも、数学の全領域を集合論の上に構築しようと目指してましたから、もし会ってたら、カントールの評価は揺るぎないものになってたであろうし、現代集合論ももっと飛躍したでしょうか。
これこそが直感や思い込みのパラダクスとも言えますね。
色々調べてくださって、ホントにありがとうです。
お陰で、集合論の外郭が掴めた様な気になりました。
例えば
{{A,B,C,D,E},{あ,い,う},{α,β,γ,δ}}という集合族から、1つずつ要素を選び、{A,あ,α}という新たな集合を作ります。
ここに矛盾はないのは自明ですよね。
つまり、どんな選び方をしても、有限個の集合族の場合は矛盾は発生しない。
そこで、{{1,2},{3,4},{5,6},{7,8}・・・}と無限個の集合を持つ集合族を考えます。
ここに”順番に選び出す”という選択公理を適用し、{2,4,6,8,・・・}という無限個の要素を持つ集合を作る。
実はこれが大きな問題なんです。
ここでは、無限回の選択を行う訳ですが、”順番に選択する”という行為が正しく行われるかは自明ではない。
つまり、無限個の集合に順序をつける事は可算無限では可能だが、非可算無限では可能であるかは自明ではない。
言い換えれば、”無限回を超える回数の選択を行う”という行為が可能なのか?
もしこれが可能ならば、無限回の選択は自明ではなくなる。つまり、どれだけ無限回の選択を行っても、先にはまだ無限回の選択が残ってるからです。
故に、仮にこの公理を使う時は、有限個の場合を除き、”自己責任で”という事になるんでしょうか。
しかしその後、ゲーデルやコーエンにより”証明も反証も出来ない”独立した公理である事が証明されました。
でも、この領域になると頭が狂いそうです。
色々と教えて下さって有り難うです。
200gの金の塊と
300gの金の塊の集合と
100gの鶏肉と
200gの鶏肉と
300gの鶏肉の集合では
サイズと個数は全く同じなのに
価格と価値は全く違うよね
つまり
要素の属性が異なる
この2つの集合の間には
公理ってものは通用するのかしら?
集合論の公理とは
集合の要素の属性によって異なる(多分)。
つまり、要素の属性に応じた(独立した)公理を持つと言えるんでしょうね。
また、そう定義する事で矛盾を省けるし、かと言って矛盾が全てなくなるとも言えない。
選択公理を使う時は”自己責任で”とはそういう事なんでしょうが、可算無限と非可算無限も数の属性として見れば離散と連続、集合としてみても”濃度”(測度)が違いますから、同じ無限でも”取り扱いに注意”となるんでしょうか。
もうここまで来ると、カントールでなくとも頭が変になりそうです。