”悲しすぎた”東京五輪も”笑えない”大阪万博も、予め矛盾や問題が起こりそうな要素を徹底的に排除し、最悪を想定する。更に条件を厳しく且つキメ細かく設定し、徹底したリスク管理の下で万博プロジェクトを推し進めてたら、もっと効率のいい”箱モノ”が出来たであろうと思わないでもない。
それに、昨今のプロジェクトリーダーらが数学的思考に恵まれてたならと思うと、少し残念でならない。
一方で、コロナ渦が収束した後、プーチンのウクライナ侵攻によって、景気は再び世界レベルで落ち込んでしまい、大きくプランが狂ったと言えなくもない。そういう点では同情にも値するが、未だに続くドンブリ勘定的な農耕島民特有の予算の決め方には辟易する。
”箱モノ”のパラドクス
事実、元の予算の1.9倍に跳ね上がった大阪万博の総費用2350億だが、この数字すらも大ウソで、それ以外の追加予算が837億に上る事が判明した。更に、木造リンクも350億から429億円に上るとの指摘もある。
まさに、箱モノ予算のパラドクスが大阪万博で証明されようとしている。数学者で哲学者でもあるラッセルではなく、日本国民が指摘した悪夢の連鎖が暴露され続けている。
あらゆるリスクを想定し、条件をきめ細かく設定し、シミュレートする事は、数学という机上の世界ではよく行われる事だが、何度も繰り返す事で、箱モノ予算の矛盾と膨張は排除できた筈である。
一方で、数学で行われる事は現実の世界でも行われるべきであり、”机上の理論だから現実には通用しない”と、ムラ社会の様に何が何でもドンブリ勘定で箱モノプロジェクトを進める事は如何なものであろうか。
かつて、太平洋戦争中に莫大な国家予算を注ぎ込み、全くの無駄死に終わった巨大戦艦群と同じ惨劇を繰り返そうとしている。
まるで”箱モノ巨砲主義”の如く、これから先も巨額な国家予算を注ぎ続け、次々と箱モノが沈没するのを我ら国民は、指を加えて眺めてるだけなのだろうか。
「暗く聖なる夜」のハリー・ボッシュの言葉にもあるが、目先の成功と古き日々の栄光はそれほど良いものでもなく、目立たなくても小さくても、十分に誇れる仕事はいくらでもある。
ボッシュの捜査の特徴は、丁半賭博の様に策を弄しない。手持ちのカードだけを使い、直感と詳細を頼りに自分に忠実にプレーする。
やがてその直感は確信に変わり、詳細は安全と救済を保証し(これ大事です)、彼の仕事は遂行される。
東京五輪も大阪万博もボッシュから見たら、ガサツで野蛮な強盗未遂にも劣ると見下すだろうか?少なくとも大衆が寄り付きたいと思うイベントにはなりそうにもない。
少し横道にそれましたが、本題に戻ります。
まずは、「前回(中盤)」の簡単なおさらいになりますが、ラッセルの古典的パラドクスを「分出公理」、つまり、”自分を要素としない集合の集合”という曖昧な集合ではなく、何か既知の集合を全体集合と考えて固定し、その要素の集合を”内包的定義で定める事で矛盾を回避する”を使う事で矛盾を回避しました。
これは、命題関数を用いて集合を無制限に定義するとラッセルの矛盾が生じるが、公理系集合論では内包公理を制限する事で素朴系集合論のパラドクスが回避できるというものでした。
つまり、幾つかの命題を公理として定め、それらの”公理を全て満たす対象だけを集合として認める”やり方ですが、(矛盾も多く含むが)柔軟性のある素朴集合論とは異なり、非常にタイトな集合論とも言えますね。
結局、ラッセルが指摘した矛盾は古典的集合論における矛盾であり、古典的曖昧な表現が生み出した矛盾でもある。
こうしたラッセルの指摘も、冷静に見れば、”幾らでも書き出せる”不可解な指摘に思える。事実、ラッセルの指摘はその数年前にツェルメロが発見していたが、”素朴集合論には当り前のように存在する矛盾”だと理解してたから、あえて隠してたとされる。
そこで今日は、ラッセルのパラドクスの最終回として、”嘘つき”のパラドクスを紹介して終わりにしたいと思います。
”嘘つき”のパラドクス
ラッセルのパラドクスに関しては、抽象的過ぎるものや小難しい類いまで様々なサイトで紹介されてるが、(前回でも一部紹介した)WIISさんのコラムが一番わかり易かった。
ラッセルのパラドクスの本質として、ラッセル集合(自分自身を含まない集合の集合)の自己言及性にあり、内包公理(包括原理)の問題点は、この様な自己言及的な集合を無制限に許してしまう事にある。
一方で、「前回」でも説明した様に、”無差別に全体集合を定義してもそんな集合自体が存在しえない”という矛盾に帰着するとも言える。
大阪万博で言えば、無差別に大風呂敷を広げても予算だけが膨らみ、矛盾だけが残る。
ラッセルのパラドクスが”嘘つきのパラドクス”と揶揄されるのも、”自己言及性”と組み合わさる事で悪循環を招くとされるからだ。つまり、”無差別に定義する”とはそういう意味である。
例えば、”私は嘘つきである”という(自己言及的な)発言は何の変哲もなく思えるが、実は矛盾している。
もし、この発言が本当(真)なら、”私は嘘つきである”という発言も嘘となり、”私は正直者”となる。
故に、”私は嘘つきである”との仮定で始めた筈が”私は正直者である”という矛盾を生む。
逆に、”私は正直者”との仮定で始めても同様で、”私は正直者である”⇒”私は嘘つきである”事も正直な発言となり、仮定(正直者)と結論(嘘つき)が矛盾する。
わかりやすく言えば、”私が嘘つきなら私は正直者”であり、”私が正直者なら私は嘘つき”となる。
結局、”私は嘘つきである”という発言は、真が偽すらさえも決定できない。
一般に”この文は偽である”という構造を持つ文は真偽の判定ができないとされる。
これを「自己言及のパラドックス」と呼ぶが、他にも、”例外のない規則はない”という規則や”この壁に張り紙をしてはならない”という張り紙等の例が知られてる。
確かに、”私は嘘つきではない”という言葉は直感的に見ても矛盾を生じそうだし、真偽の判定も混乱しそうではある。
これらを内包的に記せば、”私∈嘘つき”または”私∉嘘つき”と内包公理が成り立ち、双方を仮定しても矛盾が生じる。故に、無差別(ナイーブ)に内包的にあらゆる集合を論じようとすれば、混乱を招くのは当然の様にも思える。
勿論、これは内包公理自体に矛盾がある筈もなく、内包公理の”扱い方が問題となる”訳で、「前回」で述べた”分出公理”は内包公理を制限して扱った上でのパラドクスの解消であった。
故に、”私はウソは申しません”とかいう自己言及に関しては、用心深く言葉を選ぶ必要があるのだが、これは現実世界でも全く同じ事である。事実、政治家の”私は嘘は申しません”という言葉を信じる者は誰もいない筈だ。
不完全性定理の誤解と語弊
ラッセルのパラドクスを哲学っぽく説明しましたが、数学の世界ではどうだろう?つまり、”嘘つきのパラドクス”の様に、真偽の判定が不能な命題というものが存在するのだろうか?
命題とは、それが真偽の判定でも証明できて当然と考えてる人が多いのではないだろうか。しかし、僅か26歳のクルト・ゲーデルは、「不完全性定理」(1931)で”数学には真も偽も証明できない命題が存在する”事を明らかにした。つまり、命題ですら証明できないものがあると。故に、19世後半から20世紀初頭の数学界は一時期混沌とした状況になる。
因みに、「不完全性定理」は厳密には数学そのもののではなく、”形式化された数学”についての定理である。
数理論理学者の田中一之によれば、20世紀初め以降に哲学から決別した数学基礎論の中で現れたとされ、不完全性定理が示した不完全性とは”特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在”であり、一般的な意味での”不完全性”とは無関係である事に注意です。
故に、不完全性定理を踏まえても数学の形式体系の公理は真であり、無矛盾であるし、数学の完全性も成立し続けている。
一方で、“不完全性定理は数学の不完全性を証明した”といった誤解や、“数学には不完全な部分があり、数学以外の分野に不完全な部分がある”といった誤解が一般社会や哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている。
誠に悲しい事だが、事実、不完全性定理が”ヒルベルトの数学の無矛盾性を目指すプログラムを破壊した”という類の哲学的発言がよく成される。が正確には、ゲーデルが不完全性定理で示したのは、ヒルベルトの数学の無矛盾性の証明を実現する為には”ヒルベルト・プログラムを拡張する必要がある”という事だった。
実際、不完全性定理の発見後には、数学の無矛盾性証明の為の様々な方法論が開発されている。
つまり、数学を哲学や進学や宗教のオモチャにしてはアカンという事ですね。
一方で、数学の歴史を遡れば、図形への興味から生まれ、土木や航海の技術として発展した幾何学。未知なるものを求める方法としてスタートし、方程式論へと進んだ代数学。図形の求積と物理現象の解明の為に必要とされた微分積分学。そして、国を治める為に使われ出した統計学。ギャンブルにおける利益追求から生まれた確率論・・・等々が脈略なく生まれ、壮大になっていく。
言わば、数学という名の壮大なビルに各々が雑居していた訳である。
そうした中、カントールが打ち立て(フレーゲが発展させ)た素朴集合論の概念を使い、数学界を再編しようとする動きが強まっていく。
”集合論こそ現代数学の源泉である”という気運が高まる中、ラッセルは自ら指摘した矛盾を解消しようと、公理系集合論に基づいて数学の全体を統合しようという、壮大なコンセプトを思いつく。しかしそこにも大きな壁が立ちはだかるのだが・・・
最後に〜ツェルメロとフレンケル
ラッセルばかりが目立ってしまった集合論ですが、公理系集合論の公理化にを発見し、ラッセルの矛盾を排除したツェルメロに関しても少し触れたいと思います。
エルンスト・ツェルメロ(1871-1953)が起点となったZFC公理系集合論ですが、フレンケルが改良し、選択公理を加えた、それぞれの頭文字をとって”ZFC”と名付けられました。
公理系集合論では自己言及性を許す内包公理(包括原理)を排除しようとするが、一方で、x∉xの様な悪循環を招くものには、その論理式に内包公理を制限する言語を加える事で、自己言及性を排除するやり方もある。
一方で、まともな自己言及性までも排除し、”集合の集合を集合として認めない”ZFC公理系では、役不足で不完全という声もある。
ラッセルのパラドクスの原因として、定義文自体に問題があるとか、集合の定義が古典的(素朴的)すぎるとか、ZF公理系みたいに内包公理の扱い方に問題があるとされてきたが、今では様々な回避法が考案されていて、それぞれに一長一短がある。
ラッセルは”自分自身を要素として含まない”集合を用いて素朴集合論の矛盾を指摘し、その矛盾すらも解消したかった。
一方でツェルメロは、あえてその矛盾を指摘(公表)せず、”自分自身を要素として含む”集合と自身の公理系集合論を用いてその矛盾を解消したとも言える。
後に、ツェルメロが「集合論の基礎に関する研究」(1908)を発表した事が公理的集合論の始まりとされるが、同時期に連続体仮説に取り組み、(不完全だが)一般的な証明を与え、選択公理を集合論に取り込んだ事でも知られている。
”アリストテレス以来最大の論理学者”と称されるラッセルに関しては多くの自伝本で紹介されてるが、ツェルメロやフレーゲはラッセルやカントールの影に隠れた感がある。
ただ、ラッセルのパラドクスは一時は”数学の危機”の深刻な震源となったが、その混乱を(条件付きだが)回避したツェルメロは現代集合論の救世主と呼べるのではないだろうか。
つまり、偉大なる発見や業績には間違いや矛盾が付きものである。
それらを一々指摘した所で、手放しで評価されるべきでないとも思えるが、だからとは言え、ラッセルのパラドクスを”悪循環”とか”混乱”を引き起こすと揶揄するのも気が引ける。
同じ様に、ゲーデルも”命題には証明できない様な例外が存在する”とすればいいものを「不完全性原理」と大げさに主張する必要があったのだろうか?
数学を哲学と同次元で論じようとすると、不可解な悪循環を引き起こす。つまり、哲学が諭す論理と数学が記述する論理を同じ次元で捉える事ができるのだろうか?
という事で、最後まで哲学者に振り回された感のある不可解なパラドクスのお話でした。
大阪万博も予算オーバーが暴露されました。
全く同じ様な失態をしでかしてんですよね。
延々と繰り返される”嘘つきのパラドクス”ですが、箱モノも同じ様な昔ながらの古典的な矛盾を抱えています。
そういう事が判っていながら、箱モノにのめり込む。
まさに、箱モノ至上主義の日本人の憂鬱なんでしょうか。
大阪万博も矛盾と問題だらけで
何処に向かうのやらです。
古典的で時代遅れのパラドックスなんでしょうか
国家予算を掠めとる為の
”私は嘘は申しません”的な箱モノ詐欺ともいえます。
言われる通り
自己内包のパラドクスという点では実によく出来てると思います。
何でもそうですが、自分を会話に持ち出すとトラブル事が多いですよね。
でも日本人は(古い輩ほど)自分の事を喋りたがる。それも経験則を使って説教する。
故に余計に相手はカチンとくる。
それに哲学が数学に絡んでくると、余計にややこしくなる。体系化された公理があるのに、あえてツッコミを入れたがる。
ラッセルの主張も哲学寄りであまり好きになれないんですが、当時の数学者って優れた哲学者でもあったんですよね。
今回は少し抽象的過ぎた記事でしたが、コメント有り難うです。
同様に”私は偽つきである”が偽なら(つまり私が正直者なら)、その言葉は真となり、”私は嘘つき”となり、”正直⇒嘘つき”という矛盾を無限に繰り返す。
こうした自己を含めて言及する構造の文で発生するパラドックスですが、古典的な二値の真理値(真か偽か)をあてはめようとすると無限に続く矛盾の連鎖が起きる。
故に古典的という言い方をする。
嘘つきのパラドックスの最古は、紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者エウブリデスが考案したとされますが、古典的集合論がこうした哲学上の説教を元にしてるとは、とても皮肉なことです。
イラストは実によく出来てて、龍が自分を飲み込もうとして自己内包のパラドックスに陥ってるのが面白いです。
箱モノや政治家の汚職や不正も昔から延々と繰り返されてきた古典的な時代遅れのパラドックスですから、普通にやったら何度やってもこうした不条理は起きますよね。