象が転んだ

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性と不寛容のパラドクス〜性が商売として成り立つ事の矛盾

2021年04月29日 06時35分29秒 | コールガール系

 カール・ポパーが1945年に発表した「寛容のパラドックス」とは、”もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、または寛容性は破壊される”と述べる。
 ポパーは、”寛容な社会を維持する為には、社会は不寛容に対し不寛容であらねばならない”と一見矛盾した結論に達し、”不寛容に対して不寛容である権利を要求するべき”とした。
 一方プラトンは、”真の寛容によって必然的に不寛容に繋がるので、寛容の問題を多数派の支配に任せるより、悟りを開いた哲人王の独裁的な支配の方が望ましい”とした。

 判り易く言えば、様々な人間には様々な価値観や権利が存在し、それを”不寛容だとして奪っちゃアカン”というのだろうか。
 因みに寛容とは、異なる意見や宗教を持ち、異なる民族の人々に対し一定の理解を示し、許容する態度の事である。
 この「寛容のパラドックス」に関しては、賛否両論様々な意見がある。”無差別な寛容さが寛容性を奪う”というこの逆説は、NOとは言えない日本人が抱える永遠の課題かもしれない。

 そこで今日は、”性のタブーに対し寛容であるほど、性のタブーは消滅するのか?”というテーマです。


性のタブーと神様のスケベ心
 
 「未成年の性のタブー」に寄せられたコメントにもある様に、性のタブーには明らかな矛盾がある。
 ヒトは他の動物とは違い、思春期(繁殖期)を過ぎても、性的アピールを保持するとされる。SEXという始点から捉えれば、ヒトも動物も同じだが、エッチやエロという視点から見れば、別の生き物となる。
 つまり、ヒトを創造した神様は根っからのスケベで、麗しい若い乙女の肉体をいつまでも見続けていたいという性的願望が、性のパラドクスを生み出したとしたら?
 そう考えると、神父の幼児への性的虐待(「スポットライト」参照)は、それなりに説明がつくと言えなくもない。

 性には元々、年齢制限なんて存在しないとしたら?
 もしかしたら、未成年の売春こそが神様が仕組んだ性のイタズラだとしたら?
 ボストンの神父の多くが、児童ポルノ虐待に手をつけてたという記事は記憶に新しいが、神様に操られる様に”性のタブー”に手を付けたてたとしたら?

 確かに、タブーなんて考えればキリがない。タブーなんて何処にもどんな時代にも存在したし、守る奴も守らない奴もいた。
 元々タブーとは、未開社会や古代の社会で観察された、”何をしてはならない、何をすべきである”という決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する”広義の規範”である。そういう意味ではタブーとは言え、”要請”に近いのかもしれない。
 但し、道徳の基盤となる事もあるが、時の為政者(独裁者)に作為的に利用される危うさも孕む。

 性のタブーなんて、未成年の売春だけでなく、夜の街にも多く存在する。
 お酌するクラブでは、何処まで触ったらいいのか?何処までならOKか?高級のつくクラブでは、お触りは全くのタブーなのか?
 いや、会員制の地下クラブでは何でもアリなのか?
 風俗店だからとて本番アリなのか?高級エステなら本番NGなのか?多目的トイレは性行為に使ってはいけないのか?

 いや夜の街ではなく、日常の生活でも性のタブーは氾濫する。職場でもテニスコートでも趣味のサークルの場でも、ありとあらゆる所に性のタブーは存在する。
 好きな人との性的接触はOKで、嫌な奴とは接触だけでもセクハラなのだろうか?
 性的接触はOKで、本番はNGというのもおかしな話ではある。本番も売春も全ては性的接触から始まるのだから。


性に寛容はあるのか

 そもそも性行為に値段をつける事自体がタブーではないのか?
 性に快楽やファンタジーを求めるのは当然であり、だからとて高く売りつけるのは如何なもんか?
 元々、売春とは身体を売る行為である。しかし、ネットによるポルノサイトの日常的な普及により、性行為が日常化し普遍的になりつつある今、性行為そのものが身体を売るという大袈裟で特殊な商売になりうるのだろうか?
 つまり、”性のタブー”とは考えればキリがないテーマではある。

 しかし、「ガロア群」ではないが、あらゆる矛盾やタブーを体の中に閉じ込め、体を群にまで拡張し、そこから対称性を導き、タブーの中に潜む明確な答えを求める事が出来るとしたら?つまり、性のタブーに数学的思考で切り込む事が出来るとしたら?
 ガロアは”対称性をズラす”という逆の視点から群の曖昧性にメスを入れ、解の公式を明らかにした。
 同様に、タブーの曖昧さにメスを入れ、未成年の性の売買がもし神のお告げだとしたら?と考える事で、未成年の性のタブーを明らかにできればとも思うが。

 つまり、ガロアがやった様に、常識やタブーをほんの少しズラしてみると、見えない部分が見えてくる。
 これも逆説的な見方だが、大金を稼ぐ為に性を売り物にする事自体こそがタブーではないのか?性は本来なら共有するものであり、売り物ではない筈だ。
 タダでやれば合法で、有償でヤれば違法という問題でもないが、生活の為になら合法だとしても、目先の贅沢の為に性を売る事こそが真のタブーにも思える。
 キャバ嬢や風俗嬢は最初は生活の為にという明白な大義名分があるが、いったん稼ぎ始めると、ハイエナの様に大金に貪りつく。
 勿論、彼女たちの逝く末がどうなるか?はこれも明白だろう。

 今や、性行為が3度の食事よりも好きな女は沢山いる。同じ様に、仕方なく性行為に身を貶す不幸な娘も沢山いる。だからビッグビジネスになり得るのだろうが、この矛盾こそが本当のタブーだとしたら。
 日本には、”性行為はタブーだ”とする古い観念がある。逆を言えば、”性はタブー”という固定観念が売春というタブーをを生んだとも言えなくもない。
 もし、性をオープン価格にすれば、どうなるだろうか?好きな人と好きな値段でヤれる”寛容の性”、いや性の価格崩壊といったら言いすぎか。
 性にもし寛容性があるとすれば、こういう事になるのだろうか。


性の領域をズラしてみる

 ”性のタブーをずらす”という点で言えば、イヤらしい例を挙げれば、昔のSEXは男も女もスッポンポンになってヤッていた。
 それが今では衣類を着たまま、パンツをずらすだけでヤる。まるで、インスタントな朝食をとるかの様にである。
 つまり、現代人は性に対しても合理的で日常的なのだろう。そうすると、性のタブーの矛盾が簡単に見えてくる。
 ガロアの群の対称性と性のタブーを繋げれる筈もないが、合理的で日常的という軸で性の複雑な世界の対称性を考えれば、面白い答えが見つかるかもしれない。

 「未成年の性のタブー」でも書いた女子高生の集団売春であるが、視点をずらせば、未成年の性の集団という群れが、様々なタブーや矛盾を含んだまま行った禁断の行為とも言える。
 しかし、それが一度きりの苦い失態だけで終われば、深刻な問題にはならないが、それが日常化し蔓延化すれば、それこそ禁断であり、重犯罪でもある。

 つまり、性そのものが日常化し合理化すれば、性のタブーも自然消滅するとしたら?タブーが消滅すれば、矛盾も消滅するとしたら?だが、”性のパラドクス”だけは存在し続けるような気もする。
 つまり、性に対し少しだけ寛容になる事で、性のタブーをほんの少しズラす事で、性の矛盾を消滅できるとしたら?

 すなわち、性が商売として成り立たなくなった時、性のタブーは消滅するのかも知れない。



2 コメント

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おはようございます (けんすけ)
2021-04-30 08:39:15
私は
プラトンの 一方プラトンは、”真の寛容によって必然的に不寛容に繋がるので、寛容の問題を多数派の支配に任せるより、悟りを開いた哲人王の独裁的な支配の方が望ましい”とした。に同感してます。
この場合の独裁は許せます。
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けんすけサンへ (象が転んだ)
2021-04-30 16:41:16
プラトンの独裁なら、私も喜んで付いていきますね。
でも、安倍政権の独裁の時は苦痛でしかなかなかったです。日本人を本気でやめようと思いましたから。
ま、プラトンには寛容で、アベェ〜一族には全くの不寛容になるんですが。抽象的な問題ですかね。
コメント有り難うです。
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