”何かに縋るのは、挫けそうな気持ちを何とか奮い立たせようとする個人の抗いだ”
これは奥田英朗さんの言葉だったと思うが、厳密に言うと、”何か”ではなく”信仰”である。
今の時代、老若男女を問わず、死に縋る人は少なくない。そういう私もその一人だ。私も含めそういった人たちに、この言葉を送りたいのだが、なかなか上手く伝わるものでもない。
あるフォロワーの記事に、”人間は元々死にたいと思いながら生きてく生き物だ”とあった。全くその通りだと思う。つまり、ヒト科の生き物が他の動物と一番違う所は”自殺の有無”ではないだろうか。
一方、最新の研究いや脳神経学で言えば、自殺する人の脳は異常な場合か病気か、又は脳神経回路が乱れた時に自殺行為に走るとされる。でも、サムライの切腹や軍人の自決はどう説明するのか?彼らは正常な脳や精神状態の時に自決した筈だ。それとも自決を決心した瞬間に、脳がイカれるのだろうか。
死に縋るとは?
死に縋るというのは、自殺をする事ではない。何時死んでもいいと悟る事である。もっと判り易く言えば、”生きる事は死ぬ事”と悟る事である。つまり、”死に対して抗う事なく人生を終える”という意味だろうか。
そういう意味では、人が生きるとは死に抗う事となる。死にたいと思っても人は生き続けるし、死にたいと思う気持ちに抗って生き続ける。言い換えれば、生きる事は死ぬ事であり、逆も真なりであろう。
例えば、心の底で何かいい事がないか?いい人と出会えないかな?あんな生き方を一度はしてみたいとか?色んな事に抗いながら人は生きているのだ。妄想や幻想もそうした例かも知れない。
つまり、人には欲がある限り、死にたいと思っても生き続ける。それが”抗う”という事なのだろう。
第二次世界大戦末期の”インパール作戦”では、約7万8千人の兵士が命を落とした。その主な死因は戦死ではなく餓死だったとされる。それに餓死と言っても、大半は自殺だった。
彼らは死にたくて自決したんじゃない。飢えに耐えられなくて、死に縋ったのだ。彼らは死に縋る事で、挫けそうな気持ちを必死で奮い立たせてたのだ。
人は追い詰められた時、何かに縋る。それは信仰か?宗教か?自分自身か?家族か?友人か?それとも死か?
今の時代、戦時中と違い、これといって苦しんでる訳でもないのに、死にたくなる気持ちを抑えきれない人が少なくないが、私もその一人と言えなくもない。
インパールで自決した兵士たちから見れば、”こんな平和な時代に、苦しくもないのに何故自殺したいと思うのか”と不思議がられるだろうが、これも現代社会における深刻な危機なのだろう。
人はなぜ死にたいと思うのか?
私は20歳の時に人生の目標を失った。死にたいとは思わなかったが、縋る何かを失った事は確かだ。30過ぎた時、何時死んでもいいと思った。40過ぎても、やはり何時死んでもいいと思っていた。勿論、やりたい事もやり残した事も沢山ある。
更に、50を過ぎて再び数学に目覚め、数学に集中してる間は、不思議と死ぬ事を考えずにいられる。だが、60を過ぎて、この歳になって出来る事は極々限られる。やはりどう抗っても、歳相応のいやそれ以下の生き方しか出来ない。
私の同僚には、生命力溢れる”元気溌剌オロナミンC”というのが多くいる。”まだまだ若いもんには負けん”と、アンチエイジングを地で行くような連中ばかりだ。彼らは自分の可能性を死ぬまで信じ続けるのであろうか。
死に縋る傾向にある私とは大きく異なり、彼らは目標や可能性に縋る。”生”に執着する彼らのタフな生命力には頭が下がると同時に、”少しバカじゃないの?”とも思わなくもない(笑)。いや、バカほど生命力は強く出来てる。つまりバカは不滅なのだろう。
今の時代、うつや躁鬱は病気とは言えないと思う。精神病学的にはうつ病とか総合失調症とか、ややこしい病名で分類されるが、鬱は普通の当り前の病気になったのだろうか。
人類の祖先はうつ病か?
我らサピエンスの祖先でもある石器時代の人類は、殆どがうつ病や引き篭もりだったという説がある。確かに、洞窟の中で常に猛獣の襲来に怯え、明日の獲物の保証もなく、常に心配しながら生き延びてた筈だ。
それが農耕民族というサピエンスになり、農耕革命が起き、あらゆる所で大繁殖&大繁栄した。お陰で我らは人類という名の元で、他の生き物たちを見下す様にして、大手を振って生きれる様になった。が一方で、我らの祖先が狩猟民族のままで皆自殺してたら、今のようなサピエンスの繁栄はなかったのだろうか。
だが、我らサピエンスが石器時代の遺伝子を継いでるとすれば、うつや躁鬱になっても不思議じゃない。農耕民族が豊作を願い、宗教や神に縋った様に、殺るか殺られるかの毎日だった狩猟民族も死に縋ったのかもしれない。 従って、鬱になったり躁になったりと、我らサピエンスも気分的には狩猟民族になったり、農耕族になったりする。
つまり、ヒト科の生き物は遺伝子学的に見ても、死に縋る傾向があり、死にたいと思っても不思議はないのであろうか。 少し無理がある考察だが、そう思う事にしよう。でないと、人生やってられない。
最後に〜メディアにすがる大衆たち
現代の第一権力であるメディアは、殺人事件や未遂事件があると、その殆どの犯人が引き篭もりやうつ病を患ってる様な報道の仕方をする。つまり、都合の悪い事は全て弱者のせいにする傾向がある。が、殺害犯や未遂犯は人気者か引き篭もりかは、確率で言えば半々かもしれない。もっと言えば、ごく普通の人だったかも知れない。
一方で、過酷な労働環境や戦場に晒される弱者は、鬱や引き篭もりになっても何ら不思議はないし、それが生身の人間というものだ。戦場で心身共にボロボロになって帰還した兵士たちがPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっても何ら不思議ではないし、それが現場の兵士というものだ。
エアコンの効いた頑丈なコンクリの中で温々と作戦を練るふりをしてる、軍司令部や政府とは状況が全く違う。
しかし、今や強者に成り上がったメディアはそういった弱者を笑いものにし、権力を英雄に持ち上げる。その権力と結びついたメディアはいつかは暴走する。
そのメディアに煽られてきた大衆が、弱者の論理を持ってして、メディアを駆逐する日は来るのだろうか。それとも、大衆いやサピエンスという名の弱者は被食者に過ぎず、永遠にメディアに縋るしかないのだろうか。
死に縋るのは弱さだと思うんだけど。
でもバカほど生命は強くできてるって、座布団5枚(*_*)(@_@)
でも強いに越した事はないんですが。バカは何時の世も逞しく出来てんですね。私も見習う必要があります(笑)。
繊細で知能が高い人は、集団化したサピエンスの群れを見て失望し、死に急ぐ傾向があるんかな。
天才だって群れをなせば最強な筈なんだけど。孤高の人種が多いです。でも天才とエリートは混合されがちなので誤解も多いんです。だから変に群れると潰される。
バカは誰とでも共存できるが、天才はバカや凡人とは共存できません。自分と同じレベルの天才じゃないと、心のバランスを崩すんです。
でも死に急ぐのは勿体ない。
paulサン風に書きましたが。ど〜でしょうか?
実は私も同じ様な事を考えてました。エリートとは単に運がいいだけの人種ですかね。芸能界でもスポーツ界でもゴマンと存在しますから。
でも真の天才とは生み出され育つのを辛抱強く待つしかないです。それに天才にしか天才を育てる事は出来ませんから。それは1800年代のヨーロッパの歴史が物語ってます。自然科学や哲学の天才たちが纏まって輩出した時代ですね。
今の時代、環境的にみて天才が生まれそうにもありません。高度に進化したAIを上手く利用するしかないですかね。
睡眠という仮死とは、言い得て妙ですね。
確かにトルーマンもチャーチルも牟田口中将もオッペンハイマーも結構叩かれたんですが、自殺しませんでした。
でもしぶとすぎるというのも考えもんですが、今の安倍首相を見ると何だか憐れに見えますね。同情する訳ではないですが、死という選択も考えてるかもしれませんね。
しかし、死を持って責任を取るよりももっとクレバーな選択をして欲しいです。それが一国の主と言うもんでしょうか。