前回では、十死零生の無謀な作戦で駆り出された4000人の若きエリート達の真実を述べました。
そこで今日は、「特攻」の第二弾として、特攻隊の成果とその実像に迫ってみたいと思います。以下、前回と同じく栗原俊雄氏のコラム「神風特別攻撃隊の本当の戦果をご存じか?」から一部抜粋です。
”桜花”の記憶と悲劇
1945年3月21日。鹿児島の海軍鹿屋基地から特攻隊が飛び立った。
それは、一式陸攻18機を基幹とする”神雷部隊”だった。護衛のゼロ戦は30機、敵は九州沖南方の米海軍機動部隊である。この一式陸攻は爆弾と魚雷も搭載できる軍用機だが、この日は初めての兵器を胴体に抱いていた。
これこそが、前回でも述べた、人間爆弾機である”桜花”だった。
重さ2トン、機体の前身に1.2トンの爆弾を積み、ロケットエンジンで前進し、小さな翼でグライダーの様に飛ぶ。勿論車輪はない。
”普段は前3分、後ろ7分なんですが”
護衛30機のパイロットの一人だった野口は、70年近く前の体験を振り返り、証言した。
戦闘機に限らず、撃墜される場合は、死角である後方から攻撃される事が多い。故に、搭乗員は前方よりも後方を強く意識する。
”しかし、あの時は前の編隊(「桜花」を抱いた一式陸攻の部隊)を守る意識が強すぎて、後方がおろそかになりました”
結局、野口氏が護衛した16機の”桜花”は、何も出来ずに全てが撃墜された。
前回でも見た様に、”最初の特攻”は1944年10月のフィリピン戦線で始まった。海軍の”敷島隊”5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。
第二次世界大戦において、我が帝国海軍は戦艦12隻を擁していた。大和や武蔵はよく知られてるが、帝国海軍の実力は、艦船数や総トン数など、アメリカとイギリスに次ぐ世界第3位であった。戦艦部隊の実力に関する限り、それは世界第一位だったといっていい。
しかし敗戦時、その12隻のうち何とか海に浮かんでいたのは長門だけ。戦果と言えば、たったの1隻(レイテ沖海戦における護衛空母ガンビア•ベイ)だけだった。
前述の”敷島隊”の戦果から半年後、世界最強と謳われた戦艦大和は、米軍機の空襲が始まってから僅か2時間余で撃沈された。
そうした現実から見れば、たった5機の”敷島隊”による戦果は衝撃であった。勿論、海軍内部には”特攻”に対する抵抗もあった。
作戦ではなく”作戦”だからである。まさに”統率の外道”(特攻創設者とされてきた大西海軍中将の特攻評)である。
しかし敷島隊の大戦果により、海軍は特攻を本格的に進めた。陸軍も同じフィリピン戦線で特攻を始めた。結局、”外道が本道”となり、”特別攻撃隊”が”普通の特別攻撃隊”になったのだ。
ポンコツ機の犠牲になった若者
特攻隊が”敷島隊”の様な戦果を挙げ続けたら、第二次世界大戦の流れは変わっていたかもしれない。しかし現実は違った。
米軍は、特攻の意図を知って対処を進めた。特攻機の第一目標は空母であったから、レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に護衛機や戦艦を多数配備した。結果、特攻隊は近づく事さえ困難になる。
そうした護衛部隊を掻い潜り、何とか米空母群付近にたどり着いたとしても、さらなる多数の護衛機群があり、艦船からは十重二十重の迎撃弾が襲ってくる。
軽量化を図った日本軍機は防御力がゼロに近い。故に、弾が掠っただけで炎上した。
その上、特攻機は出撃したものの、機体故障の為に帰還する事が少なくなかった。
国を挙げての総力戦が長引くうち、パイロットのみならず整備兵や製造技術者も不足していく。故に、新しく製造されるゼロ戦は著しく品質が落ちていった。
要するに、飛行機の生産数が減り、新しく生産された飛行機は少なからずポンコツで、そのポンコツに粗悪な燃料を積み、十分な整備もなされないまま、特攻機として前線に送り出されたのだ。
尊い犠牲の上に今の平和がある?
”特攻”といえば、”家族や国を守る為、自らの命を投げ出した若者たち”という印象が強い。それ故、”特攻”は71年が過ぎた今でも多くの人たちの心を打つ。
”そうした尊い犠牲の上に、今日の日本の平和がある”という感想をしばしば聞く。勿論、その回想には同意する。
しかし、新たな疑問も生じてくる。
”なぜ?誰が?未来有望な若者たちをポンコツ飛行機に乗せ、特攻に送り出したのか?戦果が上がらないと分かった時点で、何故?特攻をやめなかったのか?”
敗戦まで(諸説はあるが)、”特攻”での戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人。
一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は、正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31。撃沈の合計は47隻。
1隻沈める為に81人もの兵士が死ななければならなかった。しかも、戦果の殆どが米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。
この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、軍艦ではない為に防備が甘く、正規空母より戦力としては相当劣る。”特攻”が主目的とした正規空母が一隻も沈まなかったという事実を、我々は知る必要がある。
”撃沈は出来なくとも米兵に恐怖を与え、戦闘不能に陥らせた”といった指摘がしばしばある。しかし、そういう戦意の低下は数値化し難い。それは”特攻=必ず死ぬ”という命令を受けたか、受けるかもしれないと思い、日々を過ごす大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを、数値化できないとの同じ様に。
押し付けられた責任
”特攻隊を始めたのは一体誰だ?”
そういう問いに対して、大西瀧治郎海軍中将の名が一番最初に挙がる。事実、1944年10月、フィリピン戦線で”最初の特攻隊”を見送ったのは大西である。
”大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だ”という事になってはいる。
しかしそれは、大西の隊で始めたのだから大西がそれをヤラかした事には間違いないが、”決して大西が一人で発案し、それを全部強制したのではない”との声もある。
事実、特攻は大西一人の考えで始まったものではなかった。例えば、軍令部第二部長の黒島亀人。奇抜な言動から”仙人参謀”と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。
黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想&準備していた証拠がある。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たした役割を決して語らなかった。
大西は、敗戦が決定的となった1945年8月に自殺した。
しかし、若い特攻隊員を送り出した将軍の中には、”自分も後から続く”などと約束しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして、大西以外の特攻推進者たちは、”死人に口なし”とばかり、大西一人に責任を押しつけた。
巨大組織である海軍のメインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、雷撃や魚雷の専門家でもあった。勿論、大西もその一人だった。
そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった筈だ。
その大西がなぜ?航空特攻を推進したのだろうか?
最後に
少し長くなるので、今日はここ迄です。「特攻」という武勇伝は、色付けされ美化されて私達の心を打ってきました。お陰で、数多くの映画やドラマにもなった。
現代の日本にも、”特攻精神”という言葉は、日本人の大和魂を鼓舞する意味として、未だに社会の片隅に残ってはいるし、安っぽい映画にも使われている。
”下駄を履くまでわからない”とか”野球は2アウトから”とか”負けられない戦いが”とかいった幼稚な精神論も、そういう所から来てるのだろうか。
勿論、特攻が100%無駄だったというつもりもない。それに、諦めないという精神は大切ではある。
しかし、「特攻」の真相と実態を知れば知る程、悲しく虚しく馬鹿らしくもなる。
戦死するにしても、せめて最後くらいはポンコツでない最新鋭の戦闘機に乗せ、”国の為に”という国威発揚を図るべきじゃなかったのか?それが出来ないなら、即戦争をやめるべきだった。
勿論、我々、戦争の現場を知らない世代は何とでも言える。しかし、悲惨な過去を美しくではなく、正しく伝える事は私達にも出来るし、等身大に真っ当に伝えるべきだろう。
戦争に敗ける事が恥ずかしいのではなく、敗けを認めたくないが故に、美化して伝える事こそが大きな恥だと思う。
次回は、”特攻を辞められなかった軍上層部の驚きの理由”を述べて、最終回にしたいと思います。
後々がどうしようもない。
憲法で戦争を禁じても
いつかは同じような
十死零生の無策と無謀をしでかすでしょう。
アベ〜同様に困ったもんです。
安倍がやってる事も
十死零生の無策です。
歴史とはそういった不条理の上で成り立ってるんですかね。
特攻とインパールを同じ次元で語ることは出来ないが、残酷と無駄死という点では同じ。
今こそ日本人は真実を知らされるべきだ。
特攻を揶揄する国もいますが、そういうのを耳にする度に辛いですね。
貴重なコメントを有り難うです。