「村上春樹の小説を僕が嫌いな理由」というコラムがあった。
コリン•ジョイスという英国のジャーナリストが書いたものだが。ああ地球と裏側に僕と同じ”偏狭?”な考えを持つ人がいるもんだと感心した。
つまりジョイスさんは、村上春樹の長編モノがどうも嫌いみたいなのだ。
”ハルキスト”には十分に失礼だとは思うが。私は村上春樹氏の翻訳だけはどうも好きになれない。いや、むしろ嫌いである。
ノンフォクションやドキュメントは、流石に”世界の村上春樹”だけあり、傑作揃いだと思う。「遠い太鼓」や「やがて哀しき外国語」や「辺境•近境」は、読み終わって涙が出る程の大のお気に入りだ。「Sydney!」で書かれてるオリンピックに対する考え方も、ピタリと私にあう。
しかし、これが長編のフィクションとなると、やや頭を傾げたくなる。そして翻訳となると”NO”と叫びたくもなる。
事実、村上氏は長編を出す毎に肯定的評価から否定的評価に転じたという例は、しばし見受けられる。
というのも、彼の翻訳は原文を十分に噛み砕かないまま翻訳してる様に思えるからだ。故に、原作者の意図が村上氏の色に染まり過ぎて、原作の質感や色彩が十分にまで伝わってこない様に感じなくもない。
沢木耕太郎氏も後悔してたが、翻訳はその手のプロにやってもらった方が無難だと思う。事実、沢木氏の翻訳本「キャパ、その青春」もイマイチに思えた。
しかし、ノンフィクションの「キャパの十字架」や「キャパへの追走」となると、渾身のルポルタージュに変貌し、全身が痺れた様な臨場感に襲われる。
翻訳家としての村上春樹
”翻訳家”村上春樹についてよく語られるのが、小説家としての”色”の問題である。
例えばレイモンド・カーヴァーの翻訳にて、彼の作品の主人公の多くが白人労働者階級であるにも関わらず、村上訳ではあたかもミドルクラスの物語に様にも読め、”小説家”村上春樹の”色”が強く出すぎてるという批判がある。
翻訳とは究極の精読ともいえる作業だ。訳文には、訳者の批評眼(色)が浮き出るのも仕方のない事である。
判り易い例で言えば、男性の一人称を僕、私、俺のどれを選ぶか?漢字にするのかひらがなにするのか?によって人物の印象はガラリと変る。つまり、翻訳家村上春樹が小説家村上春樹に侵食され気味な傾向がある(”村上春樹の批評的翻訳”より)。
村上氏の翻訳として有名なのが、”ライ麦対決”だろう。
サリンジャーの傑作「The Catcher in the Rye」(1951)を翻訳した「ライ麦畑で捕まえて」(野崎孝訳、1964)と「キャッチャー・イン・ザライ」(村上春樹訳、2003)の比較論である。
私は村上訳しか手にする事が出来なかったので、野崎氏の本は読めなかったが、”村上氏の負け”だとすぐに直感した。
つまり、サリンジャーの傑作を上から色を塗り直し、単に今風に置き換えた様に見えた。
事実、「野崎訳vs村上訳、さて軍配はどちらに?」でも全く同じ事が書かれてある。
以下、一部抜粋です。
言っちゃえば、野崎訳の圧勝だね。
世間は多分、”野崎訳は古いしダサい。村上訳になってこの小説もアップデートされた”と思っている。
だけど私から見ると、もうその差は歴然と言っていいくらい、野崎訳の方が「ライ麦畑」を日本語で再現している。
村上訳は、あれはサリンジャーの小説じゃなく、サリンジャーの小説の真似をした村上さんの小説にしか見えない。村上節炸裂!って感じで、それが気になって読んでられない。
まず、目に見えて嫌なのは村上訳が妙に”アメリカ被れ”な所。
この手の英語被れってのは村上訳には沢山あって、”ジーザスクライスト”とかをそのまま訳してる。普通に”アントリーニ先生”と訳せばいいのに、”ミスタ・アントリーニ”と訳すとか。こういうのがすごく嫌。
つまり、野崎訳がどこまでも”普通”に訳すのに対し、村上訳はどこか余分な色がついてて、突出しちゃっている。それが気になり出すと凄く気になる。
その上、細かい日本語の使い方にも欠点がある。訳としては間違いじゃないけど、野崎訳に比べ、村上訳は”切れ”が悪い。それは全体を通して言える。
要するに村上訳だと、セリフの言葉遣いとそれを言ってるホールデンの姿とが合っていないと思える部分が多過ぎる。本当に細かい所だけど、こういうのが積み重なり、ホールデンのイメージが村上訳によって崩されてしまう。
一方で、野崎訳にはそういう所がない。野崎訳より前の橋本福夫訳にも不自然な所はなかった。この二人は学者だから、訳すとなったら黒子に徹する所がある。
以上、”教授の読書日記”からでした。
つまり、批評家ではなく世間によってスーパースターに持ち上げられた村上氏は、翻訳者という黒子の仕事の真意を理解できなかったんだろうか。
人気小説家というのは、翻訳家とは異なり、目立つ事を好むのだろうか。
村上春樹の小説を僕が嫌いな理由
村上春樹と言えば、世界で一番有名な日本の作家だとされる。勿論、日本でも彼を毛嫌いする人を探すのは苦労するだろうか。
以下、冒頭のコリン•ジョイスのコラムから抜粋です。
「話のできる猫」「未来を見通すカエル」「謎の羊」「消滅する象」「時間移動」「パラレルワールドの扉」「消える語り手」・・・。
これを読んで”もっと聞かせて〜”と思った人は、きっと村上春樹の小説のファンだろう。
逆に、僅かでも現実に起こりそうな事を書いた小説が好きな人なら、僕と同じく、あんなバカバカしくて不合理な話を、何百ページも読む気にはならない筈だと。
村上が世界的な現象であるのは確かである。
彼の本は大ヒットし、数十の言語に翻訳され、今や村上は僕がロンドンのバスやニューヨークの地下鉄の中で、その作品を読む人を目撃した事のある唯一の日本人作家だ。
大江健三郎や谷崎潤一郎を読んでいる人など一度だって見た事ないが、村上を読む人を見掛けた事は沢山ある。世界の多くの読者にとって、”村上こそ日本文学”なのだ。
日本が好きで、本が好きで、おまけに時々は走るし、神戸に住んだ事もある僕にすれば、村上は気に入ってもおかしくない作家だ。
実際、僕は彼を好きになろうとしたが、逆に嫌いになってしまった。
長すぎて中怠みする村上の作風?
多くの人と同じく、僕が初めて読んだ村上の小説は「ノルウェイの森」だった。結構メンチな物語だと思ったが、スタイルの面では優れた点が沢山あったし、まだ物語として形を成していた。
「羊をめぐる冒険」は、僕が大人になって初めて、自分で選んでおきながら途中で読むのをやめた本だ。「アンダーグラウンド」はノンフィクションの秀作だが、村上作品の中では彼のボイスが最も聞こえないと思った。
「神の子どもたちはみな踊る」のような短い作品には読み切ったものもあるが。「1Q84」の様に1000頁を超える作品は手に取っていない。
村上のファンにすれば、そんな僕には村上作品を語る資格がない。
つまり、”読んでもいないものを批判するのはおかしい”という訳だ。だが、あの旺盛な執筆量からすると、村上のファンでなければ作品を全て読もうとは思わない。
これも誰かが考えた策略ではないだろうが、”村上作品を批判する資格があるのは、彼の作品が好きな人だけ”なのだ。
(確かにピンポンですね。村上ファンというより、もう新興宗教の”信者”に近い空気がありますもん。そういう私も、次から次へと生み出される村上ワールドにはやはり辟易します)
不相応に高い村上の人気?
彼の考えを伝えるのに、あれだけの長さが本当に必要なのかと問いたくなる。大長編は非常に優れているか、非常に重要な作品でなくてはならず、さもないと自己満足に陥りかねない。
村上作品に長所がない訳ではない。逆に、あの執筆のスタミナには敬服する。むしろ僕が気になるのは、村上の人気が不相応に高いということだ。
この点への苛立ちは、日本でよりイギリスで強く感じる。日本のファンは他の日本人作家も読んでいるだろうが、外国のファンは日本人作家の中では圧倒的に村上を読んでいる。
僕としては村上だけでなく、「個人的な体験」(大江健三郎)や「坊っちゃん」(夏目漱石)、「細雪」(谷崎潤一郎)、「雪国」(川端康成)も読んでもらいたいと思う。できれば村上作品より先に。
村上はジョージ•オーウェルやフランツ•カフカなど、他の作家にさりげなく言及する。音楽家についても同じ事をよくやっている(ヤナーチェクやコルトレーンなど)。
贔屓目に見れば、偉大な作家たちへのオマージュ(賛辞)だが、シニカルに見れば自分が偉大な先人に近づいた事を暗に伝えようとしたり、彼らの名声を借りようとしたりする行為に思えるのだ。
そこで、村上の作品と彼が触れている作家の作品を比べてみる。
「1Q84」はオーウェルの「1984」の6倍も長いが、同じほど重要な作品だと誰が言えるだろうか。「審判」が書かれてから100年が過ぎても、”カフカ的な”という言葉は普通に使われてる。100年後に、”村上的な”が広く使われているとは思えない。
多くの人が村上作品を楽しんでいるなら、その人達にはいい事だろう。ただし僕が、村上ファンと話をするが、いつも彼らは村上を支持する説得力ある理由を言えない。
”特別な魅力がある”とか、”作品の空気が好きなんだ”と言うだけで、村上が何について書いているのか?なぜ村上が重要か?を理解できる様な事は語ってくれない。
あるファンが週刊誌に、村上を理解する”マスターキーはない”と書いていた。であれば、村上は文学の殿堂に入るには相応しくないだろう。
僕にとって村上は、”ポップな現象”の様に思える。”特徴ある商品が上手に売られている”様な感じだ。ただ、それは必ずしも悪い事ではない。
以上、NewsweekJapanより引用でした。
それでも村上春樹は凄い作家だ
結局、翻訳には手を出さず、度ある毎に歴史上の著名な作家の名声を暗に借りなければ、という条件付きで、やはり村上春樹は世界的な作家だと思う。
村上氏のミーハー的で、見栄っ張りな性格もあるだろう。因みに、村上氏はジュラルミンケースを持ち歩いてる所を誰かに見られ、顰蹙を買ったという武勇伝?がある。
確かに、村上氏の異常なまでの人気ぶりは、何かを勘ぐらない事もなくはない。しかし、それも彼の個性であり、村上の作風を支える基盤となってるのも事実。
つまり、村上春樹の真意が十二分に理解されない内に、”春樹ブランド”が定着してしまった。人気が実力を先行した形となったのだろうか。
でも決して悪い事ではない。
活字離れが進む出版業界においては、実力よりも人気が重要なのだ。今や卓越した筆致よりは、個性や作風や話題の方が重要だ。
そういう意味では、村上春樹氏は時代の潮流に愛された、偉大な作家なのだろう。
いや、そう思う事にしよう。
私は村上春樹ワールドに浸ったことはありますが、しかし小説とは言っても、いかに自分がモテるかというふうに物語っているところに違和感を覚えます。小説家が顔で書いているわけではないのは当たり前ですが、しかし、あのご面相でよくあんな小説が書けるなと呆れます。それと年配の女性でも村上春樹を好きっていう人はミーハー的要素があると思います。私も、一時
浸ったことがあるだけに、そのことが余計思われます。
毎年ノーベル賞候補に上がりながら受賞できないのは、それなりの理由があるんだと思います。
ただ、”作ってる感”が半端ないんですよ。村上氏の小説も私生活も。
出版社も”世界のムラカミ”を売るのに必死。本人も目一杯背伸びしてるみたいで少し哀れな気もします。それでも毎年、ノーベル賞候補に挙がるのは凄いことですが。
でもこの記事を書くのにはとても勇気がいるんですよね。ハルキストからすれば、”偏狭的”と酷評されますから。
ユーモラスな短編など、自分の背丈に見合った小説を書いてけば、世界のムラカミになる事はなくても充実した作家人生が送れたのにと少し残念に思いますが。
たぶん彼は多くの下訳者を使ってんじゃないのかな。
「ノルウェーの森」が若い女性にバカ当たりし、人気が先行したから、不況に陥ってた出版業者も印刷業者もここぞと村上春樹の人気に便乗したのだろうね。
二度手間で全てを修正するハメになるという理由から、一般的に翻訳のプロは下訳を使わないというね。でも彼の場合、修正することなく強引に自分の色を被せ、世に出したんだろう。そりゃ、酷評されるのは当然だけど。
それでもハルキストからすれば、春樹が翻訳本を出したって大騒ぎするし、余計に部数が売れる。
転んだ君が言うように、長編が詰まらないのもゴーストライターを沢山使ってるからだろうよ。特に長編は整合性が少しでもズレると間延びするから、バレバレなんだね。
特に著名な作家などはネームバリューで本を売る事が生命線だから、仕方ない事ではあるけれど。ノーベル賞候補に上がるというのも、そういったネームバリューを高める為の出版社の戦略のような気もするんだが。
それに彼は作られた感がありすぎなんですよ、全てにおいて。
元々ブサイクな顔を格好良く見せたがる悪い癖が小説にも露呈してると、ある女性が言ってました。
目の超えた小説ファンならすぐに見破れるレヴェルなんでしょうね。
でもこれは村上春樹に限った事ではないですから、一概に悪いとは言えませんが。多くの作品を出版してる著名な作家には共通する癖ですね。
生存戦略と言えばそれまでですが。
それにこのオッサン、著名な翻訳家と対談なんかしちゃって
そんなワザとらしい背伸び感も目に余るし最初から好きな作家ではないけど
ノーベル賞候補と噂されるだけでも出来過ぎなくらいだわ
ハリボテ論じゃないけど、次から次へと噴出する欠点をインスタントに埋め合わせる事で”世界のムラカミ”ワールドは出来上がったんでしょうか。
偉大な人物の欠点というのは大きなアドバンテージになる筈ですが、彼の場合は欠点がそのまま欠陥になってしまう。
人気小説家って複雑な人種ですよね。
大好きなんだけど
アメリカナイズドされた
目立ちたいとか偉くなりたいとかいうミーハーな部分が見え隠れする
誰だってそんな感覚はあるんだけど
作家ってのはそんなもんだろうか
黒子に徹する所は徹して
文体にメリハリをつけるのが
真の作家根性と思うんですが
転んだサンの回答を聞きたい
まず、村上氏のドキュメントはとてもマニアックで深度も十分で、私も大好きです。
ただ、長編フィクションと翻訳がダメダメなんです。ええカッコしいのミーハーな部分が目立ち、深く酔いたい読者には癪に触る。
それがファッショナブルで格好いいというのなら、何も言えませんが。でも活字離れが進む中、村上春樹の存在はとても大きいですね。
これも答えになってませんが・・・