先々週の事だが、とうとう私にも隣組の世話人の当番がやってきた。
勿論、やる気は500%ない。前々回の隣組総会の時も”隣組なんて義務でも法的論理的根拠もないのだから、脱会は自由だし、(極論を言えば)外灯代以外の隣組会費は払わんでもエエのではないか”と訴えた。
その3年後、順番からすると私に隣組の当番が回ってくる。当番の仕事とても、基本的には回覧板の配布と神仏事の集金だけである。
一方、通常の総会ではその他に、旧公民館維持費の集金役と水利当番、新集会所の当番とお稲荷祭り(初午祭)の準備役及び開催役が決められる。
前回の隣組の世話人から簡単な総会の案内が届き、更に(念を押す如く)隣組全体を仕切る元地主?から、敢えて大文字で書かれた当番予定表が届いた。つまり、”アンタが何吠えても、隣組からは逃げられんぞ”っていう脅しだろうか・・
隣組は死なず・・・
勿論、私はそれらを全て無視した。
総会へ乗り込んで、目一杯不満や矛盾を叩きつけてもよかったが、そこまでしなくても隣組は消滅すると踏んでいたからだ。つまり、”飛ぶ鳥跡を濁さず”である。
それに、私がたった1人で隣組の矛盾を曝け出し、当番を拒絶しても、私以外の全ての村人は全て反対するだろう。
”昔から続く行事だから身勝手は許されん”と、跳ね返される事も判りきっていた。
総会は日曜の9時からだったが、深夜までドストエフスキーの「死の家の記録」を読み耽ってたので、起きたのは9時を優に過ぎ、10時近くになっていた。
勿論、9時前に起きるつもりもなかったが、どうせ催促の電話が来るだろうと高を括っていたのだ。
案の定、10時過ぎに電話が鳴る。前回の世話人からで、総会の報告と世話役の引継ぎに関してとの事だった。電話をしてくるのは、隣組を仕切る(ツル禿の)元地主からだと踏んでたので想定外だったが、私には逆に都合が良かった。
総会は30分程で終わったらしく、何ら大きな問題や議題が上がる事もなく、隣組の役割も非常に簡略化されたものだったらしい。
”当番と言っても、基本的には回覧板の配布だけですから”と、簡単な役割表を渡された。
中身を確認すると、外灯代の集金がなくなり、隣組と旧公民館と初午祭(春と秋)の3つの当番役だけとなっていた。但し、外灯代に関しては業者に一任したのだろうか?そこら辺は不透明ではある。
(拍子抜けする程に)随分と簡略化されたものだったが、少し気になるのが神仏費である。勿論、集金する気は毛頭ないし、仮に、お寺の管理人が集金を強要しにきたとしても、”そんなにお布施が欲しけりゃ、1軒1軒物乞いして集めろ”と怒鳴りつけるつもりだ。
こうした(一時は2万円を超えた)隣組会費の中核に、神仏の行事が大きく関わってる事は最初から明白だった。故に、”最初に神仏費を潰せば隣組は崩落する”と読んでいたが、その通りになりつつある。
事実、田舎には娯楽が殆どないから、神仏や信仰は村民の唯一の心の拠り所でもあり、地方に行く程に冠婚葬祭で賑わうのもその為であろう。
全く、隣組の世話人が(私の様に)隣組から背を向けてる事自体おかしい話だが、こうでもしない限り、隣組が消滅する事はない。いや、そうでなくとも死滅する運命にはあるのだが・・
つまり、マッカーサーの言葉にある様に”老兵(隣組)は死なずただ消えゆくのみ”なのである。
この調子で、毎年の如く行われる商魂たくましいクリスマスイブもバレンタインもハロウインも、そしてお中元やお歳暮商戦も死滅してくれれば、我が田舎も静かで暮らし易くなるのだが・・・
補足〜寿命とネタが尽きたサンタクロース
クリスマスは、キリストの誕生を祝うお祭りで、聖書の中には”サンタクロース”のモデルとなる人物は存在しない。だが何故、サンタクロースという架空の爺さんが出来たのだろう?
”サンタクロースは北欧から”とのイメージが強いが、その起源は約1700年前で、トルコの南西部ミュラという都市で大主教を務めた”ニコラウス”という人物がモデルになったとされる。
ニコラウスが10代の頃、ある商人に3人の娘がいたが、貧困が故に娘たちを売り飛ばす必要に迫られていた。それを知ったニコラウスは、ある夜その家に行き、煙突から金貨を投げ入れた。その金貨は暖炉の近くに干してあった靴下に入り、その金貨のお陰で娘たちは身売りを回避でき、更に結婚の持参金も用意する事ができたと・・・
ニコラウスはその後、数多くの善行を重ね、子どもの”守護聖人”として崇拝され、オランダ語では”シンタクラース”と呼び、サンタクロースの語源となったらしい。
聖ニコラウスの命日の12月6日は祝日とされ、オランダやドイツなどでは前日の夜にシンタクラースが靴や靴下の中にお菓子やおもちゃを入れる。クリスマスイブにサンタがプレゼントをくれるのと同じである(「雑学の本」より抜粋)。
ホントかどうかは疑わしいが、聖ニコラウスが3人の娘の肉体を金貨で買った訳ではない事だけは確かだろう。
昨今の神父さんのポルノ児童を含む性犯罪には目を覆いたくもなるが、ずっと昔もこうしたスケベな聖職者、いや生殖者がいたのかもしれない。
但し、こうした太古から続く神様を祝う行事が、時代を重ねる毎にペテンに思えてくる。勿論、子供に夢を与えるのは、大人の大切な役目である。お年玉と同じで、やりすぎると偽善ぽくなり、度が過ぎると賄賂臭くもなる。
今年で500歳になるとの噂もあるサンタだが、クリスマスもサンタクロースも既に寿命が尽きてるのかもしれない。
因みに、”サンタ追跡サイト”というトナカイと共に空を駆けるサンタのソリの現在地をリアルタイムで表示するWebサイトがあるらしい。だが最近は追跡するだけではなく、架空の戦闘機でサンタを迎撃するサイトなども存在するとか・・・
何でもそうだが、既に寿命とネタの尽きたものを追いかけ回すと、ロクでもない事になる典型である。
まずは、一本とられました。
但し、ネタで言えば、”サンタ追跡サイト”というのも既に寿命が尽きてますよね。
こうして見ると、(サンタ同様に)人類が築き上げた文明というものも、果たしてどれだけの価値があるのか?
色々と考える様になってきました。
という事で、サンタも隣組も安らかに眠らせてあげましょう。
という本があるけど
国家の価値を文明に依存し
ひたすら文明を築こうとする現代人に警告を鳴らした本だが
ただ、縄文時代の人間を自然人にたとえ、文明ではなく自然との共存をはかる生き方には共感できそうな気もする。
判り易く言えば、文明はハイテクや利便性という点で現代人に大きく寄与してきたし、高度な文明なくして現代の国家の存続は考えられない。
人が多く集まる所には、様々なものが発見及び発明され、それらが発達し文明になったという説が識者や学者の間で定説になっているようだが、文明に依存しすぎる昨今の風潮も考え直すべき時期に来てるのだろう。
文明は必要か?と問われたら、必要だと答えるでしょうし
一方で、過ぎた文化は混乱を招くだけで必要ではないと答えるでしょうね。
これは昨今の冠婚葬祭に繋がる伝統や神仏等の古臭いしきたりと同じで、過ぎちゃうと不正や裏金にも結びつき、結局は腐敗し、死滅する運命にある筈ですが
老兵なら死なず消えゆくのみですが、不正や汚職はなくなる事はない。
故に、そうした構造をシンプルにする必要があるのですが、日本人は何でも全て一緒くたに引き継ぐ習性があるので、同じ様な不正が延々と繰り返されます。
これに関しては、別途記事を立てたいと思います。
いつもコメント参考になります。