ウィリアム・フォークナーの「8月の光」は、ずっと以前に読んだ記憶があるが、その内容は殆ど覚えてはいない。というのも、この作品には3人の主人公が登場するが、誰もが暗くて野暮ったく思えて、記憶に残るような存在には思えなかったのだ。
確かに、フォークナーの作品は(多くの作品を読んだ訳でもないが)、カントールの素朴な集合論みたいに玄人受けする傑作には違いないが、抽象的で小難しい所がある。(昨今の人気ドラマの様な)ワクドキする様な安っぽいスパイスが効いた展開は望めないが、読み進める内に濃度と奥行きの深い、何とも得体のしれない悲哀と孤独を背負ってしまう自分がいる。
それが不快かと言えば、必ずしもそうではない。その不快さはどこかで経験したような漠然としたものようにも思える。
フォークナーの魅力とは、そういった幻想的な悲哀を描き出す所にあるのかもしれない。
出産間近の身体で家を出て恋人を追いかけるリーナ、黒人の血が流れていると噂される寡黙な流れ者クリスマス、街の教会から追い出され孤独に生きる初老の牧師ハイタワーの三人を中心に話が進む。
特に、酒の密売を行うジョー・クリスマスは女性を殺害し、屋敷に火をつけ逃亡する。白人と黒人の混血である彼に降り注ぐ血脈の呪いとは・・・
以下、「血脈と運命という名の呪い」を一部参考にして、話を纏めたいと思います。
というのも、ここに紹介するコラムはフォークナーの本質を刳り出すという点で、作品以上の感動を覚えたからである。
血脈という名の呪い
「8月の光」は、自らの血脈とそれがもたらす運命とにどう向き合うか?というのがテーマである。
クリスマスは、血縁や地縁というものがかなり希薄な環境で生まれ育った。”血や地に縛られる”という事がどういう事なのか?頭では分かってても、実感する事はできなかった。
これは私にもピタリと当てはまる。
9歳の時に父を亡くした時点で、血縁が希薄になり、”自分という生き物は自分だけで存在してる”と思う様になった。
多分そんな環境でなくとも、若い頃は皆そう思って生きてるのではないだろうか。
そんな自分が、この作品が抱える本質を理解できなかったのは無理もない。
作品の舞台である1900年代前半のアメリカ南部ミシシッピ州は、黒人への差別感情が根強く残ってた地域でもある。
ここでいう”差別”とは、我らが思い浮かべるものとは全くの異質なもので、”穢れ”(汚れ=けがれ)の感覚に近い。故に、白人たちは伝染病を恐れる様に黒人たちに接し、虐待してきた。
今で言うアジアンヘイトも(白人たちから見れば)コロナウィルスという”汚れ”を持ち込んだ汚いアジア人に映るのかもしれない。
フォークナーの作品には、殺人やリンチや放火や強姦らの描写が多く登場する。しかしそこには残忍性や過酷で露骨な差別の描写は不思議と見当たらない。
あるのは唯一、目に見えない”呪い”である。
つまり、フォークナーの作品に共通するのは、先祖から代々引き継いだ”呪い”なのであろうか。
”覚えておくんだ。お前のお祖父さんとお兄さんがここで眠っている。
一人の白人の男に殺されたんじゃない・・・お前が生まれるずっと以前に、神の呪いの為に殺されたんだ。その人種は永遠の呪いを受け、罪を犯した白人に対する呪いとなる運命を定められた。
それは永遠に、父さんへの呪いであり、お前の母さんへの呪いであり、お前への呪いでもある。
黒人も白人もみんな呪われている。誰もそこから逃げられないんだ”
(祖父や兄を白人に殺された)バーデンが子供の頃に父親から聞かされたこの言葉は、フォークナーの”呪い”の本質でもある。
お陰で彼は、”人は自分の生まれた土地から教えられた様に行動する以外にない”事を理解する。
更にバーデンは、”父親がなぜ敵討ちをしなかったか”について、クリスマスに説明する。
”自分が生まれるずっと以前から自分が生まれた地で築かれてきたもの、そこで起こった様々なものが積み重なり、遠くの祖先から自分の祖父母へ、祖父母から両親へ、両親から自分へと受け継がれてきたものが自分を形作っている。
そういう血と歴史を継いだ人々が、その土地の土であり空気であり、その地そのものなのだ。その土地そのものになった人々が、またその長く続くその土地の歴史と血を次の世代に繋いでいく”
呪いから逃れる為に
ここまで書けば、「8月の光」がどんな作品かは大方理解できるであろうか。
もう一人の主人公で元牧師であるハイタワーは、人々から侮辱され徹底的に疎外される者になる事で、その輪の外に逃れる。
彼は自分の人生の全てを捨て、リンチにかけられる事で、遥か昔から延々と続く歴史と血脈の連環から逃れた。しかし、そんな彼も今や無気力な老人に過ぎない。
この作品には”人は決められた運命の連環の中に投げ込まれただけの存在に過ぎず、そしてまた他人の運命の連環を作る存在でもある”という輪廻転生的な概念が頻繁に出てくる。
ハイタワーは、自分が生まれる前に”祖父が死んだ時に自分も死んだ”と思っており、”今の自分はその残滓だ”と考えている。
この牧師の言葉は、私にもピタリ当てはまる。私も父が死んだ時点で、その残骸だと思ってるフシがある。実際、未だに父の喪失という呪いを背負ってる気がする。
多分私は、一生死ぬまでこの呪いを連環として背負い続けるのだろうか。フォークナーが生きてたら、聞いてみたくもなる。
一方で、クリスマスの祖父のドグは、クリスマスが生まれた瞬間から”黒い血が入っている”という刻印を押す。彼はクリスマスを捨てながら見張り、30年後にクリスマスを見つけると彼をリンチにかけるよう群衆を扇動する。
生まれた時から”黒い血が流れている”との刻印を押されたクリスマスは、狭い一本道の人生に放り込まれた。犯罪や暴力を使ってでもその輪から逃れようとしたが、逃れる事はできない。その輪は、彼自身の血の中に彼が生まれるずっと以前から流れてるものだからだ。
この作品の怖さは、長年血縁というもので書き込まれた連環がどれほど理不尽で恐ろしいものでも、それから逃れる事も捨て去る事もできないと思わせる点にある。何故なら、その書き込まれたものが”自分”だからだ。
つまり、”自分”とは、血脈により書き込まれた出口のない輪(連環)の中をグルグルと歩き回るだけの存在かもしれない。
それに気付かずに、”自分は自由である”と勝手に思ってるだけで、実は次の世代に呪いとして作用する筈の書き込まれた血脈という烙印を受け渡すだけの存在。
そうした漠然とした呪いの恐ろしさを、フォークナーは巧みに濃密に描く。
以上、はてなブログから一部紹介でした。
8月の南部の光
フォークナーは当初、「暗い家」という題名を考えてたらしい。彼の妻が”8月の南部の光”が持つ異様な性質について感想を述べた事がキッカケとされている。
事実彼は、”ミシシッピ州の8月は・・・暑さが落ち、大気に満ちる光は、古代ギリシアのオリンポス山あたりから差しこんでくる感じになる。この<古代そのものの光>は子を産む為に、世間体や宗教的倫理などを気にしない女リーナと結びつくかもしれない”と語っている。
つまり、当初はクリスマスの”暗く”閉じた運命を中心に描く筈だったが、”8月の光”を見た途端、リーナの天真爛漫で”開いた”運命を思いついたのかもしれない。
事実、「8月の光」は(身重の)リーナの言葉に始まり、リーナの言葉で終わる。
クリスマスは単なる血脈の犠牲者であり、”物”としてみなされ、実際に無力である。ハイタワーは(呪いから逃れたという点では)クリスマスとは対照的ではあるが、無力という点では同じだ。
しかし、リーナの天真爛漫さは、彼女の運命に躍動と創造を与え、クリスマスとは全ての面で対照をなす。
3人共に、孤独と喪失という点では共通してはいるが、唯一リーナの存在は、血脈の呪いを解き放つ象徴となってる様な気もする。
”暗い”物語には違いはないが、リーナみたいにノーテンキで生きてれば、案外、血脈の呪いなんて簡単に吹っ切れそうにも思えてくる。
確かに、伝統やしきたりという血脈がもたらす呪いは、古代ギリシアのオリンポス山あたりから差しこんでくる眩い程の”8月の光”が打ち消してくれそうな気がする。
もしフォークナーがそんな発想で、このタイトルに改めたのなら、彼は相当な隠れロマンチストでもある。
ニーナの能天気と認知症の老人はどこかでリンクするのかもしれません。
人が幸せになれないのは、認知症になっていないから?
親の顔、子供の顔も忘れて、ひたすら呆けていることが、人生の最終目標?
人の優劣など所詮その程度のものなのてしょう。
ビコさんも先日は、8月の光をたっぷり浴びてきたでしょうから、色んな憂鬱も何処かに吹っ飛んだんじゃないですか。
光を浴びると認知症防止になるとか聞いた事ありますが、私は誰もいない自然の中にいるのが大好きです。
何だか全ての呪縛から解き放たれたみたいで・・・
そういう意味では自然とは偉大ですね。
血脈とても、所詮は人間が作った幻想に過ぎない。呪いとて不安時に抱く妄想に過ぎない。
リーナの存在は、そういう事を思わせてくれますね。
それと、巨樹の件ですが
あそこまで大きくなると、成長は止まるだろうから、枯れないように管理するのは大変でしょうね。
確かに!
私はときどき旅に出ないと鬱になるのです。
特に効果的なのは自然触れ合ってくることですね。
自然は超越無限の存在でしょうか。
故に、人が生み出した文明や伝統なんて評価してるのは人間だけで、自然から見れば塵みたいなもんです。
ひょっとしたら、CO2による温暖化も自然から見れば誤差みたいなもんで、仮にそれで人類が消滅しても、これまた埃みたいなもんかもですね。
我々人間はもっと自然を敬い、接した方がいいのかもしれません。
しかし昨今は、悲哀や孤独などの感受性に鈍く、己や社会の有り様に諦めが色濃く、また読む体力、気力、眼も衰え、読書時間が減りました。
でも自由時間が増えたこともあり、気儘に手っ取り早く、ワクドキを求めて、ドラマや映画を楽しんでいます。
映画評論家の故淀川長治さんは、"全て人間については映画に教えてもらった" と、何かの本で読んだので、良しと、肯定的に捉えています。
今日観たドラマでは"運命"について、こんな台詞が
『運命の「命」は生まれ持ったものだから変えられないけど、「運」は運命をどう運転するかで変わる。だから2つが合わさった運命は変えることが出来る』と・・・
伝統やしきたりや地縁、血脈も、ノーテンキも運転次第でしょうか?
ワクドキのドラマも得がたいです。
以前ドラマ『ファーゴ』では、アマプラのご紹介有り難うございました。私は現在ケーブルテレビ(JCOM)とNetflixで映画ドラマを楽しんでいますが、いずれスパー!ドラマ、FOXHDあたりで視聴出来るのではないかと期待しています。その時は是非観たいと思っています。
もう一度読もうとは思いませんでした。
だから、コラムを参考に記事にしたんですが、こうした重たい系の作品は、この時期はブルーになりますもんね。
「ファーゴ」はシーズン1だけ盛り上がり、後は見る気が失せました(笑)。
「ファンタズム」でも書いたんですが、私も実はワクドキのそれもB級オカルト系が大好きで、シリーズ5作品を一気に見終えました。
ただ、最近のTVドラマはパターンがどれも同じで、掘り出し物を見つけるにとても苦労します。
コメント、とても参考になりました。
B級オカルトで思い出したんですが
記事にもした「ゾンビ・リミット」
これ絶対オススメです。
機会があったらぜひどうぞ
淀川さんなら5つ星ですよ(多分)。
フォークナーも重く暗い文章に
疲れてたのだろうか
奥さんの一声で
タイトルが変わるとは
村上春樹の出世作である
「ノルウェーの森」も
最初は「雨の中の庭」だったとか
しかしカミさんの鶴の一声で
彼の人生までもが変ってしまった
このタイトルはドビュッシーのピアノ曲の中の「雨の庭」に由来する
一方で「ノルウェーの森」は
ビートルズの曲をそのまま題にした
個人的にはだが
最初の「雨の中の庭」にしてた方が
村上の作家としての人生は
全く違ったものになってたであろう
そう思うと
「8月の光」とは
よく出来たタイトルだと思う
「ノルウェーの森」よりも「雨の中の庭」が全然良い。
でも、なぜ村上春樹はミーハーなタイトルを選んだんだろ?
それ以降、ミーハーな作家としては世界中に名を売ったけど、結局は本当の評価は得られなかったのかな。
そのまんま、「雨の庭」でも良かったと思う。
数学の世界でも直感で勝負すると、重大な失敗を犯す時があると言うから・・・
でも、村上本人が最終的には判断した結果だから、何とも言えませんね。
見事なポエム、有り難うです。