”歴史は繰り返さずに韻を踏む”と言われるが、ロシア=ウクライナ戦争は(私が予想した)クリミア戦争の再現ではなく、まさに2つの世界大戦時のヨーロッパ戦争の韻を踏んでいる。この戦争が終わったとしても、次には中国が台湾に攻め入り、日米(同盟)がそれに応じたら、まさに太平洋戦争の韻を踏む訳だ。
日本は戦争をしないと国民と世界に誓った平和憲法がある。が、歴史が韻を踏むのなら、ここでも憲法9条が韻を踏む事になる筈だ。
因みに、”韻を踏む”とは同じ言葉や同じ音・母音を持つ言葉を語尾などの同じ場所で繰り返す事とされる。つまり、韻を踏む事で同じ響きが繰り返さる。これを初めて歴史に当てはめたのが、作家のマーク・トウェインである。
どんな形で憲法9条が韻を踏むのかはわからないが、戦争回避になる事を、少なくともロシア=ウクライナ戦争の様な悲しい結末にならない事を願うばかりである。
一方で、”徹底抗戦”と言えば聞こえは良い。が、結果としてみれば、1万人を超えるウクライナの民間人の犠牲と(電力を含む)経済や生活に必要な主要インフラ施設群の破壊と、それに露ウ両軍で8万を超える民間兵の犠牲が増えただけである。
20世紀に入り、科学技術が格段に進歩し、更に民主主義が熟成したにも関わらず、今の現代人は、棍棒と石で戦った原始人の喧嘩よりもタチが悪い。
21世紀は”戦争と平和”の先を行くべき筈なのに、人類の意識と思考は、未だに戦争と平和の間に埋もれてたままだ。
人は何故、戦争と平和を永遠と繰り返そうとするのだろう。いや何故、戦争と平和が繰り返されると信じ込んでるのであろうか。
仮に、歴史が韻を踏まず、同じ様な事を繰り返すのみであると考えてるのなら、人類とは何と愚かな生き物であろう。
歴史は位数(局面)を変えながら進む
不幸な歴史を繰り返さない為には、肌で歴史を感じる必要がある。ネットや動画で歴史を知る事は誰でもできるが、歴史を身体で実感する事は出来るものではない。
そこで今日は、「英雄たちの選択」(NHKBS)の司会を務める歴史学者・磯田道史さんの物語を紹介します。
”例えば、1mの古墳を作るとして、これを2mに伸ばした場合は面積が4倍になるが、体積は8倍になる。だから、100mの全長の古墳を200mにすると、8倍の土の量が必要な訳です。この8倍の感覚を体で知るべきだと思ったんですよ、子どもながらに・・・
つまり、労働力が変わらなければ、1日掛かるものが8日間に延びる。これがどんだけ大変な事か?実際に2倍の大きさの古墳にするのに、あー大変だった!って分かったら、妙に得心がいった”
以下、「磯田道史〜歴史は韻を踏む!?」より一部抜粋です。
歴史に没頭し、ダンボールで鎧を作り、豊臣秀吉を演じたた磯田少年だが、母親に算数塾に行かせれるも、すぐ帰ってくる。計算ドリルを永遠とやらされるのがイヤだったのだ。
”答えが最初から決まってて、問題を入れたら答えがポンと出る様な自動販売機になるのがイヤだった”という。
高校生の時、歴史学者としての道を決定づけた。池田家につかえる武士だった磯田さんの御先祖だが、ある日、江戸時代に書かれた家系図や履歴書の記録などを祖母から手渡される。すると磯田氏は学校の勉強を一時中断し、磯田家に伝わる古文書の解読に没頭した。
”歴史は安全靴みたいなもので、歴史を知ってれば、災害が避けられたり、苦難が避けられたりする。つまり、螺旋状に近づくイメージで歴史は転換していく”と、磯野氏は韻を踏むと繰り返すの違いを説明する。つまり、(同じではなく)似た様な現象が起き、歴史は決して一直線には進まないのだ。
少しずつ位相を変えながら近づく訳だから、歴史を知れば、類似の事は過去に幾らも起きてるので予測がつきやすい。地震(地学)の現象も地球物理学的な現象も韻を踏む。ましてや、政局とか人間がやる事も韻を踏むが、全く同じ事は起きない。
因みに”位相”とは、繰り返される現象の一周期のうち、ある特定の局面の事であり、これが繰り返されるとイメージすれば理解しやすい。
そんな磯田氏が今、力を入れてる研究テーマの1つが”防災史”である。
”例えば、今回の能登地震は前より強めにで、数千年に1回という韻の踏み方で、直前の江戸時代頃までの能登地震などよりはずっと大きい形で来ました。逆を言うと、大層な地震の活動期が始まってるのでは?と考えられなくもない。ただ言える事は、災害は<必ず来る>という事です”
無償の道楽と自分だけの時間
こうした”韻を踏む”歴史の中で生きる私たちは今、何が必要なのだろうか?
”まず、価値観と教育の多様化が必要となる。ダイバーシティーの時代とか言われてるが、幸せ感が本当に多様化されてるのかな?って気もする。端的な例では、江戸時代の身分制(封建制)が崩壊し、(身分に代わり)いい学校に行き、いい処遇を得て、という社会を200年間僕らはやってきた。それは戦後も変わりなく、塾へ通い、いい中学・高校とかへ行き、給料のいい所に所属し、生活が安定したら幸せの軌道が出来る。しかし、このレールは今や殆ど崩壊しつつある。
それを皆がやった結果、昔は世界中をワクワクさせる商品が沢山日本から出たが、今は新しい製品とか出来ないし、経済成長も失速しつつある。一方、多様化した経済でサービスとかソフトとかGDPの大半を占め、AIの裏をかく必要が出てきた時代に、我ら人類は戸惑っている”
江戸の(無償の)道楽をこよなく愛する磯田氏は、江戸的な多様さや価値観の多様さが必要だと説く。
”道楽の精神は無償の遊戯性であり、明治時代が近代化できたのは江戸時代があったからで、あの時代は異様なまでに多様な知識人や職人がいた。彼らは無償で研究や仕事に没頭し、周りからも尊敬を受け、本人もそれを誇りにした。
明治以降の、力強かった日本ってのは、それが各分野に全部あった。つまり、江戸というゆりかごがあったんですね”
確かに、昭和から平成そして令和へと、受験勉強という我慢大会があり、我慢をひたすら重ねても、自由な発想は生まれないし、発想が価値を生む時代では、受験と我慢で鍛えた思考は殆ど通用しないし、役に立たない。
では、発想を豊かにするにはどうすればいいのか?
”まずは豊かな体験です。本人自体が面白いと思う事が大前提で、上手な道楽、みなの為にも自分の為にもなる道楽を追求する。これが非常に重要な所です。
ただ1つだけ言えるのは、学校に何時に行くとか、宿題をするとか、これはルーティンであり、決まり事ですが、<何かいつもと違う事をやってみる>時間とモノは、持っておいた方がいい。
要するに、人間の人生の質ってそこで決まる。会社の義務でも学校の義務でもない自分だけの時間、人生を豊かにする時間、つまりルーティンでない時間をつくる。そこに充実度を設ける事しか、今の日本に解決策はないと僕は思う”
以上、NHKNEWSWEBからでした。
エリートは脳から腐る?
歴史も人生も韻を踏む様に進む訳だが、特に人生においては、決まり事から離れ、自らの思考を開放させる事が如何に重要なのを教えられた気がする。
一方、数学という抽象的で小難しい学問は”項を踏む”様に、1段1段ずつ歩を進める必要がある。が、これも斬新なアイデアや発想があれば、19世紀の某天才数学者が成し得た様に、100歩を一跨ぎで登る事も不可能ではない。
但し、殆どの人類はそんな高度な数学脳は兼ね備えてはいないので、1つ1つ理解を進め、頂上を目指し登る他ない。
でも登山と同じで、1つ1つのステージをクリアする度に(今まで見えなかった)様々な数学の背景が垣間見え、喜びも増幅する。つまり、”数学を知る”とはそういう事だが、言い換えれば”数学と戯れる”とも言える。
”数学は全てに繋がる”というのが私のモットーだ。が故に、様々なアイデアを繋げて難題を解く事も可能になる。つまり、数学とは人が思う以上に難しいし、いろんな景色を見せてくれる学問でもある。
ただ、前述の様に受験という我慢大会だけでは、子供や青年の脳は腐れるだけで、社会や人の役に立つには程遠い。が、そんな腐った脳で大人になり、良い大学を出て、エリートコースを歩み、そして人の上に立つ。
が、例え腐らなくても、型にハマり過ぎた思考で政治の中枢に居座っても、アメリカの脅しに簡単に屈し、国のお金を貢ぐだけである。彼らの脳には自由と遊び心がないから、追い詰められるとそうしたアイデアや発想の盾がないから、余計に無策に陥る。
腹が腐った政治家のやる事はたかが知れてるし、脳の腐ったエリートが出来る事もたかが知れている。言い換えれば、政治家は腹から腐り、エリートは脳から腐る。
最後に
事実、私の大学の数学科の某教授は、黒板に関数式を写すだけの機械みたいな生き物で、そこにはアイデアや発想の欠片もなかった。私は心の中で”ワニに食われて死ね”と呟いたもんだが、多分、ワニだって機械の塊は食べたくはないだろう。
だが、受験を勝ち抜いたエリートに塾の先生が少なくないという悲しい現状を見れば、過熱する受験競争がエリートという名の”競争廃棄物”(と言ったら失礼だが)をこれからも数多く生み出すのは避けられない気もする。
特に、アイデアを生み出せないエリートらは、コストと時間が掛かるだけで世の為人の為になれるのだろうか。
結局、受験や競争社会が生み出してきたものが、地球にとっても人類にとっても悪害でしかないとしたら?言い換えれば、上様からのルーティーンを忠実にこなしても、思考は凡庸化し、時と金と労力を浪費するだけで得るものは何もない。
歴史学者の磯部氏が言いたかったのは、つまりそういう事なのだろう。
今の岸田総理を見てると、東大を目指して勉強した期限切れの腐った知識のみが、脳内に蓄積されてるだけの気がする。
エリートが政治家が尊敬された時代はとっくに過ぎ去っている。一方で、彼らを生かすにも処分するにも莫大な税金が掛かる。
時代は既に彼らを見下してるのであろう。
競争なんて
大人になってからやるべきうもので
心身ともに未成熟な子供にやらせるべきではない。
というのが私の持論です。
受験競争に勝ち残り、エリートの座に座ったとしても、腐った脳でそれからの人生をどう生きるのか?
人生とは延々と続く暇つぶしと言う人がいるが、満更外れてはいない。
エリートは税金を浪費するだけの無駄とも言える。つまり百害あって一理なし。
時代と人生は、私が思う以上に正直で冷酷なのでしょう。
ユダヤ教の聖典が旧約聖書でしたよね
そのヨシュア記にジェノサイドを窺わせる箇所が記されています
ユダヤの民の過酷で凄惨な辛苦を受け続けて来た過去の歴史が
自民族のサバイバルの為には他者の存在を完全否定しても
容認されるのだとする考え方に姿を変えさせてしまったのでしょうね
イスラエルが報復戦で熾烈なまでの頑なな態度でハマスと対峙する姿も
こうしたユダヤが何千年にも渡り被り続けて来た艱難辛苦の歴史が背景としてあり
それは韓国や中国の対日感情にも置き換えて見れば理解出来ぬものではないのでしょうか
自分に降り掛かる幾重もの災難に対峙した際、それをドウシタものかと思案し
その挙句に辿り着く算段を、フロイトは防衛反応の「合理化」として「解釈」しました
ユダヤなら自民族への過酷さは自民族だけが神ヤーベから選ばれし民として
試されている試練であり、そうした試練を経ぬ多民族とヘブライは違うのであり
自分達は別格の選民なのであると合理化し解釈した「選民思想」とか
五十五年体制下、野党から国会論戦で攻撃され続けゴジラの様に巨大化した糞自民党の
解釈改憲はその典型で賞カネ~
九条二項の戦力不保持と自衛隊の絶対的矛盾を
都合よく捉え方次第で克服し遣り過ごしが可能となるとする解釈改憲論は、
一笑に付して小馬鹿にするダケで済まされないものかも知れません
ワタシなんぞはこれ迄の自分史はこの合理化の集積で成り立っているのではと思うくらい
都合良く人生の辻褄合わせを繰り返し遣り過ごせて来られたと振り返っています
受験の為だけの数学がこのおバカなワタシの人生を狂わせたのであって
そんな糞みたいなクダラナイ時間の浪費紛いの数学しか教えられなかった
似非教師じゃなく、転象先生の様な「数学は全てに繋がる」だナンて
熱く語ってくれるホンマの∑ベスト数学教師に出会っていたら
多少なりとも🦅の人生も愛犬の💩の如く薀蓄ある色合いに変わっていたのかノ~と
自身の不努力や至らなさを棚上げし解釈人生論に逃避している次第ぞなモシ~
加熱するだけの受験競争なんて
百害あって一理なしですよね。
まさに、戦争も受験競争も地雷を踏む。
私はそうした人種を”競争廃棄物”と揶揄しましたが、そういう私自身も中途に受験に嵌ったが故に、人生の半分を無駄にした気がします。
仮に、受験競争に勝利したとしても、同じ様に人生の多くを無駄にしたと思います。
勿論、楽しければいいというもんでもないのですが、少なくとも好奇心を擽る様な事を小さい頃から見つけておく事は、人生においての必須条件になる。
磯田氏が言う様に、”人生には質”ってもんがあり、人間にも質というものが存在する。
それは競争や受験で勝ち抜いた位では得られない大切なものです。
そういう意味でも、受験制度を昔ながらの1期2期の敗者復活型の記述式に戻すべきだと思うのですが・・・
どうしても”受験に出るから覚えろ”ってなるんですよね。
ブログでは好き勝手な事書けますが、私も先生になってたら同じ事言うでしょうね(多分)。
教師とは言え、所詮は学習指導要綱に縛られた奴隷なんですよ。
勿論、理想の先生もいますが、頭や質が良いのは企業が引っ張るから、現場にいる大半の教師はドングリの背比べで、実際の知力や学力は生徒とあまり変わらない。
旧約聖書とジェノサイドの話、初めて知りました。こちらこそ勉強になります。
ユダヤ人迫害の歴史はブログでも何度か書いたんですが、バルザックは狡猾で狡賢いユダヤ人を嫌ってました。
勿論、迫害されるにはそれなりの理由がある筈ですが、大半は罪のない貧しい民でした。
今のイスラエル=ハマス戦争は、ユダヤ人でも一部の上層部の主導で行われてる事で、多くの一般大衆はウンザリでしょうか。
解釈改憲論ですが、自民党もふざけてますよね。アメリカに脅されて中国と戦争になれば、僅か5分で日本列島は丸焦げですよ。
岸田が2540億円で購入した400発の旧式トマホークなんて焼け石に水なのは明白で、”日本には平和憲法があるから対立はやめよう”と米中を説得せなアカンのに、アメリカに簡単に服従してしまう。
更に、アメリカは(日米同盟の解釈の違いで)自国がヤバくなったら逃げてもいいとの事らしいので、日本だけが損をする。
故に、ウクライナの様に丸焦げになった後で停戦に持ち込んでも遅すぎる。
日本はアメリカではなくインドやオーストラリアと手を組んで、何とか中国を宥めたいのだが、どうかならんものだろうか・・・
顔を傷だらけにして血み泥になった井上が見たい
それにしてもロペスのブンブン振り回すだけのボクシングには
全く質を感じ無いぞなモシ
ズ~ッと考えている事は「核シェルター」を国家総動員で建造すべきだという事
永世中立国スイスやオンカロで知られるフィンランドなどは
核シェルター先進国ですよネ~
イスラエルなんて核兵器は持ってるし核シェルターなんて当たり前だのクラッカー
冗談ヨシコの噺だナンて言ってたらホンマにヤラレチャウだけの噺で
エゴい先進国をよく観察しソレを真似しなきゃ生き残れないですよ
そりゃぁお花畑の世界が連綿と続く此の世だったらソンな核だのシェルターだの
膨大なカネの掛かる噺にはならないし噺もしたくはないのですが、
哀しいかな愛の国や世界はガンダーラでしか見い出し得ないのが現実です
エゴい国が自国では出来ない絵空事の様な憲法窮条を此の国に御都合主義で押し付け
自国だけは生き残れる様にと大量の核弾頭及び
地下深くには核シェルターを完備する米帝
実際問題、核は持てなくても核シェルターはその気になれば出来る筈です
その中で私の人格形成に最も影響力のあったと思える教師は
17年前に亡くなった母親でした
如何せん、学校で先生として認められる人と出会えなかったのが残念です
転象さんの様なオモシロくて幅広い「人生の全てに繋がる」数学を
教示してくれた先生に巡り合えた例がありません
「分数式は富士の山」とか「富士山麓にオオム鳴く」とかの語呂合わせ暗記は
念仏としてしか残っていないぞなモシ
教師をあまりよく言わない私ですが
結構、先生には恵まれてたんですよね。
小学3,4年生の担任が磯田道史さんの様に、日本の歴史にとても詳しく、1時間目が社会だと1日中日本の歴史でした(笑)。
今なら歴史博士になれたであろうレベルでしたが、当時は狭き門だったんですね。
お陰で社会は勉強しなくても、いい点とってました。オール3だった通信簿も贔屓にしてもらい、5が3つほど増えました。
中学になると、通信教育で免許をとった様な怪しいのが結構いましたね。それでも数学の先生には良くしてもらった記憶があります。
高校も九大卒の先生がいて、そこそこ数学を頑張る事が出来ました。
多分、肱雲さんは教師に恵まれなかったんですね。私も元々は文系が得意でしたが、高校で逆転しました。でも、大学で数学を専攻した事を今でも後悔してます。
肱雲さんは、お母さんが先生代わりという私からすれば、非常に羨ましい環境でもあったんですね。
今から思うと、歴史に興味を持ち、その道に進んでたら?とも思いますが、人生って何がプラスになるか?わからないですよね。
因みに、”富士山麓にオオム鳴く”はよく聞きますが、”分数式は富士の山”とは初耳ですね(笑)。
些細な事ですが
”肱雲さんはお母さんが先生代わりという、私からすれば非常に羨ましい環境でもあったんですね”
と、句読点の位置をズラした方が正しいですかね。
という諺がありますが
ロシアウクライナ戦争が示すように
”アメリカと交われば戦争になる”というのが現実的になりました。
これは今や、アジア諸国に共通する警告でもあり、スローガンでもあります。
イスラエルヘの援助が軍需産業と政治が一体となってるのは昔から言われてた事ですが
それこそが、アメリカやイスラエルが戦争を生み出しやすい土壌を支えてきました。
日本は400発のトマホークを導入し、ミサイル防衛計画に前のめりですが、それ以前にやるべき事はゴマンとある筈です。
勿論、国防というのも日本政府の大きな仕事の一つですが、それはアメリカ主導ではなく、日本独自のものであるべきです。
慢性的なアメリカ服従の国防は、無駄な税金を使い余計な戦争に巻き込まれるだけで、アメリカの正義を鵜呑みにしてたら、日本のような島国は幾つあっても足りません。
アメリカを含めた西側の民主主義と自由と正義が今や、音を立てて崩れ去ろうとしています。
日本がアメリカを選択した結果の最悪の事態を想定して行動すべき時代ですね。