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終戦を迎えて、二人のそれぞれの人生〜「二つのホームベース」(その3)

2021年08月11日 05時02分44秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 前回前々回では、入山正夫とキャピー原田の日系人2人の苦悩と躍動を、野球と友情という視点から紹介しました。
 今日は、終戦後の2人の人生について述べたいと思います。
 因みに、「日系人戦時収容所のベースボール」(写真)も同じ様に、野球という視点から描いた日系人収容所の物語ですが。以下で紹介するツールレイキ強制収容所と同じく、過酷な環境の中でも野球だけは盛んでした。
 日系人収容所感を一変させる書物としては、お勧めの一冊だと思います。


強制収容所での苦悩と奮闘

 1943年10月、入山正夫はヒラリバー収容所からツールレーキ強制収容所へと送りやられた。
 彼らを収容するバラックは千棟以上、周囲は高く頑丈な有刺鉄線で張り巡らされ、24時間体制で見張られ、刑務所そのものであった。3万2千エーカー(約4千坪)の広大な土地に、2万近い人が住む(病院・学校・娯楽施設・購買食堂施設・警察・納骨堂etcを含む)巨大な人工隔離都市の様相だった。
 勿論、ノーノー組には日本にいる家族への報復を恐れ、仕方なくNOと言った者や、残された家族の面倒を見る為にNOと言わざるを得ない者もいた。
 その上、ツールレーキが仮収容所の頃からのNO組であった”古株”連中との対立もしばし問題となる。彼らは仕事や役割で美味しい所を独占していたのだ。

 入山の仕事も、最初はキッチンのゴミ集めであった。しかし、彼らには野球があった。この強制収容所内での人気No.1の娯楽も野球だったのだ。
 彼らは知恵とお金を出し合い、用具を揃えた。ユニフォームは婦人部に縫ってもらった。
 彼ら彼女らの苦悩と奮闘ぶりにはいつも驚かされるが、それ以上なのが、彼らの野球のレベルである。
 ”当時の東都大学リーグか、それ以上ではなかったか”(白井昇)という声がある。
 というのも、二世にはアメリカの大学や高校で野球をやってる者が多かったし、日本の大学や甲子園で活躍した者もいた。
 まだ日本にはプロ野球がなく、大学野球や甲子園という学童野球全盛期の頃だったから、今で言えば実質プロのレベルにあったのは確かだろう。

 管理局の主人は野球が大好きで、ギャラを払いセミプロチームを招き、収容所チームと試合をさせた事があるが、13−1との大差で収容所が勝利した事もあった。
 ”こっちもアマだったが、既にセミプロの領域にあり、選手の多くは野球部に籍を置き、仕事そっちのけの者が多かった”
 収容所内には2つの野球場があり、そこで行われるリーグ戦はいつも熱心な観客が駆けつけ、多い時は8千人を超えた。 
 チーム数は14つの2リーグ制で、入山のチームは地元で固めた”ガダループ”だった。チームはいきなり優勝し、入江は4割を優に超える打率を残し、首位打者に輝いた。 


戦争の終わりと兄弟の運命

 米軍は零戦の事を”洗濯機”と呼んでいた。つまり、ポンコツである。その零戦に積まれてたのは爆弾ではなく焼夷弾であった。
 特攻機による米軍の損害は沈没48で小破310、日本機の喪失数は2891以上で戦死者も3729名以上。つまり、命中率18.6%。
 現在ハリウッドで写真スタジオを開いている原田の弟ジョーもまた、特異な戦争体験をしている。
 アメリカ生まれのジョーだが、すぐに母が亡くなり、1931年には父の方針で日本に戻った。1955年にサンタマリアに戻り、語学を勉強し、写真カレッジを卒業するのに10年掛かった。戦争中は和歌山の住友金属で働きながら勉強した。
 敗戦の年、15歳のジョー原田は日本軍に志願する。というのも田舎者が出世するには、軍人になるしか他に方法はなかったからだ。しかし、”アメリカ人”という事で試験に落ちる。 

 弟は、兄が米軍に志願してるとは思いもよらなかった。
 もし弟が日本軍に入ってたなら、兄弟で殺し合いをしてたかもしれない。運命は時として奇怪に出来ている。事実、弟2人が働いてた住友工場はアメリカの最大の攻撃目標であり、何度も爆撃に晒された。
 ”アメリカでは敵国語(日本語)を懸命に教えたけど、日本では英語は一切教えなかった。上層部の考えが全然違ってた”と、ジョーは戦時を振り返る。

 一方で入山正夫は、弟の稔が戦死してる事は知らなかった。それも、B29への体当たり特攻隊員である。それは、前述した強制収容所で正夫が首位打者に輝いた1944年の事であった。
 因みに、B29による攻撃は全部で23856機にも及ぶが、そのうち62機が撃墜された。勿論日本側にも多大な犠牲者が出たが、入山稔はその第一号となる。
 弟もまた兄と同じくスポーツ万能だった。中学在学中のまま少年飛行兵を志願した稔は、全身に数十発の砲弾を浴びて、18歳の若き肉体は天に散ったのだ。
 ”帰らじと かねて覚悟の若桜
 玉と散る身の いまぞ楽しき”

 と弟の遺書には残されている。 


無条件降伏

 ツールレーキでは、”祖国奉仕団”という過激派が勢いを増していた。彼らは米市民権を放棄すれば、日本から迎えの船が差向けられ、すぐに日本へ帰国できるのもの信じ込んでいた。
 戦情が不利になるに連れ、彼らの訓練は狂気じみたものになっていく。しかし、1945年8月、広島と長崎に原爆が落とされた事を知らされると、誰もが涙した。それでも彼らは、日本の降伏がデマだと信じて疑わなかった。
 他の収容所は同年10月と11月に閉鎖されたが、ツールレーキの強制収容所は翌年まで続いていた。

 8/19の降伏調印式には、日本占領軍最高司令官に任命されたマッカーサーが指揮した。
 日本上陸に際し、”丸腰で行くべきか否か”
 キャピー原田は日系二世の代表として、マッカーサーに”丸腰で行くべきだ”と進言した。 
 その原田は占領軍の一員として、司令部のある瓦礫と化した横浜に向かう。
 8/14のポツダム宣言の調印式にも、原田は参列した。9/8、東京日比谷にGHQ(連合軍司令部)が設置され、25日から29日にかけ、兵員4万2千人が上陸し、軍需物資は2万5千トンに及んだ。
 トラックやジープの兵士たちは、子供たちにチョコやガムを投げ入れた。勿論、これには吉田の助言があった。
 一方で、住友金属から実家に戻り漁師をしていた弟ジョーは、兄が米軍将校になってると聞いて、2度びっくりする。
 実際に兄と会ったのは、南海地震の後でジョーが結核(重症)を患ってた時だ。とても入院できる身分ではなかったが、兄と米軍の物資のお陰で助かった。

 入山正夫がツールレーキを出たのは、1946年2月の事で、野球と野球仲間とに別れを告げ、空漠たる思いでコロラド州へと向かった。
 既に兄・登が州南部のクラウリーで農園の仕事をしていた。ここでゼロからのびのびと仕事が出来るのが、弟の正夫には嬉しかった。
 今更地元に戻っても、全ての財産や物資はなくなり、農場は枯渇していた。しかし、強制収容の終わりは苦難の始まりでもあった。
 日系人の風当たりはさらに強くなり、自殺も絶えなかった。
 日系人への排斥感情は、アメリカ軍へ忠誠を尽くした442部隊の日系人兵士にも当然の如く向けられた。

 入江は大農園の中の日系人社会にいたので、大きな排斥を直接経験する事はなかったが、コロラドの気候の厳しさ、特に寒さと大雨は脅威だった。 
 しかしそんな不遇の地でも、入山を支えたのはやはり野球だった。正夫はショートで3番、兄はセンターで4番を打ち、州南部の日系人の大会で地区優勝し、デンバーの大会で優勝。正夫は首位打者とMVPに選ばれた。


野球外交

 原田は日本に帰国してからも勉強を続けた。カリフォルニア大学バークレー校の卒業証書を取得したのは先にも述べたが、日本語の勉強にと何と明治大学の夜間部に通い、ここでも卒業証書を手にした。
 マッカーサー元帥は、夜な夜な外出する原田を呼び止め、”一体、毎晩どこへ行ってるんだ?”と尋ねた事がある。
 ”明治大学で勉強をしてます”との原田の言葉に、元帥は感嘆の言葉を挙げた。

 ”美しい日本語は単に雄弁なだけでなく、素早くて的確、それ以上に説得力がある”事を原田は見抜いていた。
 近い将来、日米の橋渡しとしての職務が増える事は原田には明白だった。
 ”立派な英語は美しい日本語で伝える”必要があり、その逆も当然である。原田が日本語の勉強に熱が入ってたのは当然でもあった。

 キャピー原田は、W・F・マッカート少将の副官となっていた。彼は元は新聞記者で、ジャーナリストに憧れる原田と気があった。その上、野球が好きで堪らなかった。彼もノンプロでプレーしてた経験があり、そのレベルは並の上を行くものであった。
 後の日米友好を考える際、原田の野球外交がなかったら、ここまで日本の戦後復興がスムーズに進んだだろうか?
 因みに、キャピー原田と言えば、サンフランシスコ・シールズ軍やディマジオとモンローを日本に連れてきた事で有名だが、それはごく一部でしかない。
 マッカート少将と原田が組んだ戦後日本のスポーツ政策は多岐に及んだ。都市対抗野球を復活させ、戦後初の全国中等学校野球大会(甲子園大会)開催にも大きく貢献した。

 特に、純粋な日米親善の目的で計画されたサンフランシスコ・シールズ軍の来日(1949)は日本中を熱狂させ、多くの日本人が涙した。戦争がようやく終わったと感じた瞬間でもあった。
 ディマジオ兄弟を中心としたオールスターチームをキャピー吉田が来日させた1951年の前年に、マッカーサー元帥は朝鮮戦争を巡り、トルーマン大統領から罷免されていた。
 原田もこの時、軍服を脱ぐ決意をした。

 少し長くなったので、今回はここで終了です。次回(最終回)は、ついに回復された日系人の名誉と強制収容所における入山氏の思いを紹介したいと思います。



2 コメント

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塀の中のセミプロ野球 (tomas)
2021-08-11 07:04:44
ってとこですね
強制収容所の中に2つのグラウンドがあり
計14チームで2リーグ性のセミプロ野球がある。
それだけでも凄いのに
観客は満杯で待遇はセミプロ級で競技レベルはプロ並み。
もう1つのプロ野球がアメリカにあったんですか。
野球という視点で強制収容所を眺めると色んな事が浮かんできそうです。
色々と勉強になりました。
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tomasさん (象が転んだ)
2021-08-11 13:01:52
改めてこの頃の野球が国家や社会に与える影響がとても大きかった事を考えさせられます。
今の野球やその他のプロスポーツの立ち位置とは全く違いますね。まさにこの頃の野球こそが平和の象徴だったんです。
いくら戦争で憎しみ合っても野球になればそれらを一切忘れる。本当の意味でのスポーツの精神があったんですね。
コメントこちらこそ勉強になります。
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