象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

オッペンハイマーの謝罪と涙が曝け出す、核抑止論の限界と矛盾

2024年06月23日 06時58分27秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 オッペンハイマーは私達が研究室に入るや、”ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい”と涙ながらに謝るばかりだった。

 そう語るのは、1964年に被爆者などが証言を行う為にアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんで、2015年に記録した映像が広島市のNPOに残されていた。
 タイヒラーさんは、この時の訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表で、オッペンハイマーと面会した際の様子について語ったとされる。
 以下、「オッペンハイマー “涙流し謝った” ・・・」より一部抜粋します。


オッペンハイマーの涙と謝罪

 原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、”涙を流して謝った”と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかった。
 専門家は”実際に被爆者と直に会って謝った事は驚きで、大きな意味がある”としている。
 オッペンハイマーは、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていたが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れる事はなかった。
 その4年後、今度は被爆者が研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙し、滂沱(ぼうだ)たる状態になり、”ごめんなさい”を3度繰り返し、謝るばかりだったという。

 面会については、被爆者で物理学者の庄野さんも後に、旧制高校の同窓会誌などで明らかにした様に、”オッペンハイマー博士は私に<広島・長崎の事は話したくないので勘弁してほしい>と語りかけた。背負っている重荷をひしひしと感じた”などと綴っている。
 一方、核兵器を巡る議論の歴史などを研究している米デュポール大学の宮本ゆき教授は”実際に被爆者に会って謝った事は驚きで、被爆者が直に聞いたというのは大きな意味があると評価したい”とした上で、”被爆者の願いはオッペンハイマーが言葉に責任を持ち、核兵器廃絶に向かう事だった、面会後もそうした動きはなく、私たちに残された課題と理解すべきだ”と指摘している。

 オッペンハイマーが開発した原爆は、1945年7月に行われた人類初の核実験”トリニティ”を経て、広島と長崎に原爆が投下された。
 当初アメリカでは戦争の終結を早めたとして脚光を浴びたが、その後、被爆地の惨状を知り苦悩を深めていく。60年に来日したが、被爆地を訪れる事はなく、67年に62歳で亡くなる。
 オッペンハイマーを巡っては、原爆開発の過程などを描いた映画がアカデミー賞で7部門を受賞し、大きな話題を呼んだが、日本でも今年の3月に公開された。

 今回の映像資料に証言を残したタイヒラー曜子(旧姓・浦田曜子)さんは通訳として被爆者の証言活動に同行し、広島市で証言した4年後の2019年に亡くなった。
 一方、オッペンハイマーと面会した庄野直美さんは、原爆投下のあと家族の安否を確認する為に広島市内に入り被爆した。理論物理学が専門で広島女学院大学の教授などを務めながら、長年に渡り原爆被害の研究や核兵器廃絶を目指す活動に取り組み、2012年に86歳で亡くなった。

 今回見つかった映像資料で、タイヒラーさんは、オッペンハイマーの印象などについて、次の様に話していた。
 ”私自身はまだその重要性を当時は認識していなかった。オッペンハイマーは核開発をした事自体、もの凄く後悔していた。被爆者に会った時に私は<同行してください>と言われて行った訳ですが、研究所の部屋に入ったその段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になり、そして<ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい>と謝るばかりだ。この会合の記録は多分ないと思ってたし、重要性というのも私自身分かっていなかった。
 その前に、トルーマン大統領のライブラリーに行った時、トルーマンは被害者らを前にして<これはアメリカが取った正当な行為だ>とあくまでも原爆を投下した事を正当化した。それにはそれなりの論理があるとは思うが、トルーマン大統領の言葉とオッペンハイマーの言葉の対比・・・これは私にとって重要な経験だった”

 
核廃絶の為に・・・

 今回の映像資料が残っていた広島市のNPOを創立したアメリカ人女性が、帰国後に設立したウィルミントン大学の平和資料センターには、1964年に被爆者たちが被爆証言を行う為にアメリカなどを訪問した「世界平和巡礼」に関連する複数の資料が残されていた。
 事実、訪問団のアメリカでのスケジュールを記した資料には”64年6月に庄野博士がオッペンハイマーとの非公表でのアポイントの為、プリンストンを訪れる”などと記されている。
 また、訪問団のコーディネーターが面会の約束の2か月前にオッペンハイマーに宛てて書いた手紙も残されていて、”庄野博士のアメリカ滞在中の1番の望みは、あなたと会って話す事だ”と記されている。
 事実、その手紙には”面会は公式でもそうでなくてもあなたの裁量次第だ”という記述がある他、”公式な議論の場が設定されようとされなかろうと、庄野博士は個人的にでもあなたと専門分野の仕事について話し合いたい筈だ”とも書かれ、庄野さんがオッペンハイマーとの面会を強く望んでいた様子が伺える。

 一方で、前述の宮本ゆき教授はアメリカの状況について、”アメリカには<核を持って武装しなければならない。核が私たちを守ってくれる>という核抑止論が根強くある他、当時は核の危機も高まっていたので、核兵器を開発した人が核兵器を否定する事は難しかったと思う”とも述べる。
 その上で宮本氏は”オッペンハイマーが核兵器廃絶に向けて動かなかったのであれば、それは私たちに残された課題だと理解するべき。私たちが行動する事で、オッペンハイマーの<ごめんなさい>という言葉との間を埋めていく必要がある”と指摘した。 
 以上、NHKNEWSWEBからでした。


核廃絶と核抑止論

 映画「オッペンハイマー」の出来は上々だったらしいが、オッペンハイマーの真実と本質は隠されたままだったのは言うまでもない。
 そういう意味では、オッペンハイマーという人間ドラマのテーマを抜きにすればだが、この映画も「タイタニック」(1999)にも引けを取らない凡作と言えなくもない。
 もっと言えば、原爆開発や原爆投下という人類史にとって深く暗く致命的な問題を無視した作品でもある。

 一方で、トルーマンは原爆投下を正当化し、オッペンハイマーは原爆開発を後悔した。
 その後、オッペンハイマーの後悔と涙ながらの謝罪は、その後の核廃絶に向かう事はなかったが、今となって見れば、トルーマンの正当化を覆すに十分に大きな第一歩とも言える。

 勿論、原爆投下は謝れば済むレベルの問題でもない。が、謝罪がなければ全ては始まらない。
 今回見つかった、オッペンハイマーの被爆者に直に見せた涙と謝罪という動かぬ証言が核廃絶の一刺しになり、核抑止論の致命的な矛盾を白日の下に晒けだす事は不可能じゃないだろう。
 アメリカ政府は、明らかに原爆投下の重罪の認識を自覚し、核抑止論の限界と矛盾をも十全に理解してる筈だ。

 元々、”核抑止”という概念は、核兵器の登場を契機に軍事戦略の中核をなす様になった。 第2次世界大戦直後の1946年にバーナード・ブロデイが「絶対兵器:原子力と世界秩序」という著書の中で、核抑止の考え方を人類で初めて提示し、核兵器が地球をも滅ぼす破壊力を持つ点に着目した。彼は核時代においては、核抑止の維持こそが国防政策の最大の課題であると論じたのだ。
 この本の中には、彼の核戦略理論の論文が2本収録されている。1945年にアメリカが広島長崎に爆弾を投下してから、僅か数週間で書き上げられ、多くの研究者に原爆の軍事的意義を考えさせたタイムリーな研究であったし、将来の世界情勢の展開を的確に予測した研究でもあった。
 オッペンハイマーが核廃絶に向かえなかったのも、こうした先を見越した核抑止理論が障壁になった事は容易に推測できる。


最後に〜核抑止論の限界と矛盾

 が同時にブロディは、核が世界中に拡散する危険性と驚異も指摘していた。米ソ間の核戦争のキューバ危機(1962)は、それを見事に物語っている。
 更に、彼は「ミサイル時代の戦略」(1959)で、核戦略の理論を更に前進させた。この理論では、核抑止を達成する為に必要な事は、攻める能力ではなく”守る能力”であると説く。
 一方で、核抑止が失敗する可能性は十分にある。これは核兵器を使用する時、第一撃を加える交戦国に対し、絶大な優位性が生じる為である。だが、第一撃の優位性を相手に奪われない様にすると、キューバ危機の様に最悪には核戦争で共倒れになる。
 つまり、”攻撃的な意図を示す事なく、防御と反撃の能力を向上させる事で、問題の解決を図る必要がある”というのがブロディの主張だ。同時に彼は、無制限に核兵器を使用する戦争ではなく、アメリカ軍の核戦略の方向性を抑止の為に再考する事を強く促したとも言える。

 しかし現実には、ブロディの主張とは裏腹に、核が拡散する方向に動いている。
 事実、プーチン政権によるロシア=ウクライナ戦争もネタニヤフによるイスラエル=ハマス戦争も、核保有国の一方的な侵略に過ぎない。
 彼ら二人に共通するのは、核の優位をチラつかせ、明らかな攻撃的意図を示し、絶対的優位性を誇示する。だが現実は、一方的にケンカを売られた相手が引き下がる筈もなく、共倒れになるのは時間の問題の様にも思える。
 つまり、核抑止論の限界と矛盾が今や白日の下に晒けだされたのである。

 以上の様に振り返ると、最高の戦争抑止力は”謝罪”とも言える。
 確かに、今になって、オッペンハイマーの涙と謝罪の証拠が公になったのも、偶然じゃない気もする。
 勿論、(確率は低いが)偶然が起点となり、正義の剣となる事もある。
 そういう意味では、オッペンハイマーの謝罪が正義の剣となり、核廃絶へ向かう事を只々願うばかりである。



6 コメント

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核抑止論とは言っても (腹打て)
2024-06-23 22:52:06
結局は
核を拡散する驚異が前提となるわけで
国を守る為の核という論理だけど、1962年のキューバ危機では核抑止が失敗するケースになりかけた。
つまり、ブロディのミサイル防衛の指摘から僅か3年後に、彼の核抑止論は破綻したのだ。
確かにキューバ危機は、ケネディの弱腰とフルシチョフの冷静な判断のお陰で偶然にも回避できたが、ミサイル防衛の限界を思い知らされた結果となる。

以降、ロシアも中国もイスラエルも、インドもイランもパキスタンも核を保有し、実質は核拡散の方向に向かっている。
これはアメリカが日本に原爆を透過したことで、核の驚異が世界中に拡散したことが起点となる。
世界中の軍事専門家がブロディの核抑止論を高く評価したことで、世界核戦争の驚異が現実のものになる。
悲しいけど、彼の理論は最初から無理があったと言わざるを得ない。 
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腹打てサン (象が転んだ)
2024-06-24 17:03:42
核抑止論って
どう考えても、核保有国が核兵器を使う為の口実としか思えませんね。
広島長崎への原爆投下も、戦争犯罪と解っていながら、敢えて落とした。言い逃れなんて出来ないのに、敢えて落としました。
オッペンハイマーは原爆投下に関して、トルーマン政権の裏事情と自身の良心との間の葛藤で、心を病んでました。
勿論、原爆開発中は一刻も早く原爆を開発してドイツに対し優位に立とうとの気持ちが強かった筈ですが、その目論見は大きく外れます。
ブロディの核抑止論も、所詮は原爆投下を正当化する為のハリボテ論に過ぎず、1964年のオッペンハイマーの涙の謝罪を生んだだけでした。
自ら開発した核兵器に絶望し、国家に裏切られた男の行く末は、そのまま超大国アメリカの未来を具現してるのかもしれません。
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庄野博士の偉業 (paulkuroneko)
2024-06-25 08:08:07
お早うございます。

オッペンハイマーの涙と謝罪にも驚きですが
それ以上に、物理学者でもある庄野博士の訪米も実にアッパレです。
同じ物理学者として、そして原爆を開発した者とその原爆投下の犠牲になった者との差異というものは、言葉では表現しにくいものがあったんでしょう。

”広島長崎の事は勘弁してほしい”というオッペンハイマーの気持ちも解りますし、”個人的にでも専門分野の仕事について話し合いたい”との庄野博士の気持ちも痛いほどに解ります。
でも今回こうした証言や記録が明らかになった事で、核抑止論の正当化が大きく揺らぎ、核廃絶に向けた大きな一歩だと思います。
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paulさん (象が転んだ)
2024-06-25 20:56:47
言われる通り
オッペンハイマーを事実上の謝罪に追い込んだのは、同じ物理学者の庄野博士の手腕と執念とも言えます。
逆の立場だったら、庄野博士が被爆したオッペンハイマーに謝っていたと思います。
歴史は韻を踏むといいますが、オッペンハイマーの苦悩も韻を踏んでたんですよね。
私も、今回の記録と証言が、核抑止論の愚かさと核廃絶に結びつくと信じてます。
更に、プーチンによる一方的なウクライナ侵攻やネタニヤフによるアラブ迫害も核廃絶に大きく向かう結果になると思います。

つまり、韻を踏む様にして、真綿を締め付ける様にして核廃絶が進む。
また、そういう結果になる事を願いたいです。
賛同のコメント有り難うです。
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ブロディとフーバーの違い (UNICORN)
2024-06-27 14:12:57
ブロディの抑止論とフーバーの和平論は非常に対照的ですが、前者は核攻撃から国家を守るためには先制攻撃ではなく、高度なミサイル防衛システムを説いてます。
つまり、敵国の核を撃ち落とす事で、核に依存する相手の攻撃意欲を削ぎ落とす事にある。
やられたらやり返すではなく”やられないようにやり返す”と言った方が適切かもしれません。
ウクライナの戦法はまさにこれですね。
でも結局、双方のせめぎあいはエスカレートし、核戦争に発展する可能性が高い。

他方でフーバーは、そうした核抑止論の限界や矛盾も含め、その先を見通していました。
そのフーバーも世界恐慌に対し有効な政策が打てなかったとして、国民の支持を大きく失い、ルーズベルトに大敗します。
ルーズベルトはフーバーとは正反対で、国内外にアメリカの強大さをアピールし、更にソ連と手を組んでまでも欧州の列強国を除外しました。つまり、弱い者イジメの典型です。
フーバーのやり方は一見地味ですが、先を見越す堅実なものでしたが、ルーズベルトは派手なだけで自国が受けるダメージも大きかった。
攻めのルーズベルトに、守りのフーバーって所ですが、堅実な守りよりも強力で攻撃的な防衛論を説いたのがブロディでした。

こうした、三者三様の思惑があるのは興味深い気もします。
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UNICORNさん (象が転んだ)
2024-06-27 18:07:26
思惑という視点で捉えれば、色々と考えさせられるものがありますね。
ただ、ルーズベルトはフーバーが言う程に狂ってたんでしょうか?
今、フーバー著「裏切られた自由」を読んで記事にしようかと思ってるんですが、原爆を投下する程までは狂ってはいなかった様にも思えます。
それにスターリンと手を組み、大英帝国を切り捨てたのも、戦後は米ソ冷戦の時代を予感しての事でしょうか。
つまり、2度の世界大戦で弱体化した欧州を手下に収め、ソ連に対抗する試算は既にあったと思います。

全ては第二次世界大戦に参戦する為に仕組まれた強引で卑怯な対日本外交だとは思いますが、アメリカにとって日本やドイツを敵にした所で、簡単に勝てる相手です。
故に、真珠湾攻撃やミッドウエイ海戦なんて痛くも痒くもなかった筈ですが、お陰でヨーロッパ戦争に参戦でき、英仏に莫大な借款を背負わせる事に成功します。
意外に早くドイツが降伏した為に、原爆開発は無用に終わりますが、ルーズベルトが生きてたら日本に落としてたか?は疑問があります。
でも、日本に落とされなかったとして、何処かに落とされたであろう事は確かでしょうか。
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